2021/3/21, Sun.

 (たとえば)ラカン的な主題が、彼に東京の街について考えさせることはまったくないが、東京の街はラカン的主題について考えさせてくれる。いつもこのようなプロセスをたどる。彼が観念から始めて、つぎにひとつのイメージを作りあげることは、めったにない。官能的な対象から始めて、そのときの知的文化のなかで採取された〈抽象概念〉を自分の仕事のなかで見つける可能性に出会うこと(end141)を期待している。したがって哲学は、もはや個人的なイメージや観念的な虚構の貯蔵所にすぎなくなっている(彼は論理ではなく対象を借用するのだ)。マラルメは「観念の身ぶり」について語っていたが、彼のほうはというと、まず身ぶり(身体の表現)を、つぎに観念(文化や間テクスト性の表現)を見つけるのである。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、141~142; 「観念の身ぶり(Les gestes de l'idée)」)



  • 一一時一〇分に起床。今日は久しぶりに天気が明快でない、真っ白な空の日だった。雨も降ったようで、窓外の地面は濡れていたし、このときは止んでいたようだが昼過ぎからまた降りだして、書見のあいだは家が雨音につつまれていた。水場に行ってきてからいつものごとく瞑想。今日の瞑想は良かった。かなり無能動に近く、ほぼすべてをただ流れるがままにできたような印象。二〇分くらい座ったはず。
  • 上階へ行き、煮込み素麺とスンドゥブで食事。新聞は書評面。エリカ・フランクみたいな名前のひとの、『権威主義』という本が取り上げられていた。最近だと独裁とか軍事政権とか全体主義とかをまとめて「権威主義」とくくることが多いらしいのだが、このひとはその概念を四つに分類して、それぞれの特徴を分析しているらしい。ほか、中島隆博加藤徹のエッセイを紹介したり、なんとかいうバンドのドラマーのひとが小説を書いていると触れられていたり、カズオ・イシグロの最新作が二人の書評子によって同時に取り上げられていたり。食事を終えると皿を洗い、風呂へ。蓋の表面に染髪剤なのかなんなのか茶色の汚れがあったのでこする。裏側の縁のほうもべつの、毛が細いブラシでこすってぬるぬるした感触を除いておき、扉の下端を受ける枠の部分も汚れていたので洗っておいた。それから浴槽を掃除し、出るとちょうど父親が帰ってきたところだった。緑茶を用意して帰室。
  • Notionを用意。そしてウェブをちょっと見たあと、(……)さんのブログを読むことに。最新の三月一九日分から。松本卓也の本が絶賛されている。そこから引かれた下の説明はわかりやすい。ただ、「分離」という過程がなぜ「分離」と呼ばれるのか、その点をこちらはまだよくわかっていない。つまり、何が何と、あるいは何から「分離」されているのか、ということ。主体が主体として現実界から、ということなのか?

 詳しくみていこう。ひとは、疎外と分離という二つの契機を経てはじめて神経症者として構造化される。疎外とは、シニフィアンの構造(=大他者)の導入によって、人間が原初的な享楽を失い、この消失のなかで主体が姿が現すことを指す。その結果、ひとは原初的な享楽から遠ざけられ、快原理(=シニフィアンのシステム)に従属するようになる。すると、もともとあったと想定される原初的な享楽は、快原理にとって受け入れることができないほどの過剰な快、快原理の安定したシステムを撹乱する致死的な快であることになる(…)。
 しかし、疎外において導入された大他者は、一貫した大他者(A)ではなく、それ自身のうちにひとつの欠如を抱え込んだ非一貫的な大他者(/A)である。その大他者の欠如を埋めるために、ひとはかつて失った原初的な享楽を部分的に代理する対象aを抽出し、それを大他者に差し出す。この過程を分離と呼ぶが、この分離によって、ひとは大他者に内在する欠陥(/A)を認めながらも、その欠陥を対象aで覆い隠して見えないようにする(/A+a=A)二重の態度を両立させた汎フェティシズム的な態度(自我分裂)に到達する。こうして、対象aを媒介とすることによって、享楽から適切な距離を保つことを可能にするファンタスム(/S◇a)が形成されるのである。反対に、精神病では分離は成功しておらず、対象aが抽出されていない。それゆえ、精神病では享楽から適切な距離を保つためのバリア機能(◇)であるファンタスムが働かず、致死的な享楽に無媒介にさらされることになる(…)。
 このことを臨床的な水準でみてみよう。神経症では、享楽は局在化され、制御されている。例えば、神経症者は、幼児期の出来事を想起する代わりに身体の上に症状を表現し、その症状のなかに密かな楽しみや苦痛を織り込んでいる。このときに働くのが、ファンタスムである。ファンタスムは、神経症者を原初的な享楽から遠ざけると同時に、対象aの回路によって、その享楽のわずかな一部分を神経症者に獲得させることを可能にしている。
松本卓也『人はみな妄想する――ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』 p.59-60)

  • そののち、「主体は疎外によって意味の世界に参入することになる。しかしその意味の世界には根拠がない(「ひとつの欠如を抱えこんだ非一貫的な大他者」)。これもまた無意味である(主体と大他者はともにひとつの欠如=無意味を抱えこんでいる)」という(……)さんの註釈があるが、なるほど、「非一貫的な大他者」のうちにある「ひとつの欠如」というのが、この世界に最終的な根拠や意味がないということなのかと得心した。つまり、第一原理の座は不在であり空虚である。で、そこを埋めるために「抽出」される(というのがどこから抽出されるのか、こちらはいまいちわかっていないが)「対象a」は、言うなれば「ドグマ」ということになるのではないか。その仮構的な第一原理を媒介にし、そこを入り口として通過することによって主体はこの [﹅2] 世界の意味論的システムのなかに参入し、世界は理解可能なものとなる。したがって、次のように言われるだろう。

ひとが「かつて失った原初的な享楽を部分的に代理する対象a」を大他者に差し出すことで、大他者は(偽物の/みせかけの)の根拠/一貫性を得ることになる。無意味な世界にそのようにして意味が生まれる。ひとがそのひとに特異的な享楽——それはしかし無意味なものである——と象徴界に参入後も関係を有するための媒介としてある対象aを、この世界(大他者)に結びつけることで生じる物語が、ファンタスムである。わたしはこのような享楽を享楽したい。しかしそこに意味はない。世界はこのようにある。しかしそこに意味はない。そこでわたしはわたしの享楽の無意味と世界の無意味を重ね合わせる。わたしの享楽とかかわりのあるかたちで世界に意味を与え、そうすることでまたわたしの享楽もその世界のなかで意味を与えられる。無意味と無意味をかけあわせることで意味を捏造する。それがファンタスム=物語である。

  • ほか、佐々木中「私を海に投げてから」について。

(……)中盤でがらりと展開が切り替わる。匿名的な存在になるべく都市を逃れて南島に逃れてきた語り手が、投げ瓶通信を受けとったのをきっかけに、みずからの来歴を語りはじめる。だれでもない匿名的な存在として無人島めいた地で非人間らと交感して過ごす語り手が、投げ瓶通信を介して語りかけられることで語るものになる、見られることによって自分自身を見ることになる、つまり、匿名的であることができなくなってしまう、どうしても人間であらざるをえなくなってしまう——そこから文体ごと一転して自分語りがはじまる、この構成はすごくおもしろいと思った。語り手以外人間の出てこないこの表象空間は一種の「無人島」であり、ということはおそらくトゥルニエ-ドゥルーズの論を踏まえて書かれているのだろうが、そこで他者が投げ瓶通信という一種手垢のついた比喩に託されたかたちであらわれる。しかしこの比喩が不思議に古びてみえないのだ。誤配が誤配にとどまらず、それをきっかけに語り手もまた手紙を書いて送る側になる、そこに力点が置かれているからなのかもしれない(これについてはむろん、後藤明生の「小説を書いたのは小説を読んだからだ」という感染の論理としても、あるいはいわゆる応答と責任の倫理としても読むことができる)。

  • 一八日の分も読み、切りに。合間はずっとボールを踏んでいた。それからコンピューターをデスクにもどして、いったん音読。「記憶」記事。それほど長くは続けず、適当なところでベッドに移り、ムージル古井由吉訳『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』(岩波文庫、一九八七年)を読みはじめた。四時過ぎまで一時間くらい読んだはずだが、五ページくらいしかすすまず。目的の土地について駅から街へ橇に乗っているあいだ、のちほど姦通することになる男を前にして受け答えを交わしながら、クラウディネは「思わずも淫らな驚愕」をおぼえ、「彼女の肉体はかすかな、ほとんどへりくだった官能性に満たされ」ることになるのだが(42)、直接的に肉体に結びついた性情の言葉が出てくるのはここがはじめてである。それまでに、クラウディネにかんしてそういう感覚は書かれていない。たとえば過去の情事の時期を語る18では、「いずれ屈従にまでいたりつく強い情熱の行為を彼女はさまざま犯し、それに苦しめられた」ものの、「自分のおこないはどれも結局のところ自分の心には触れないのだ、ほんとうは自分となんのかかわりもないのだ、という意識を片時も失わなかった」というのだから、情事は現実感を欠いたことさら疎遠なものとしてなされ、その肉体性は焦点化されず、そこに性的な官能のにおいはない。また、クラウディネはときに「夫との究極の結婚」としての「不貞」(29)を思うことがあったが、「といっても、彼女がそのような、ほかの男たちを求めたことは一度としてなかった」(31)。それどころか、「男たちのことを思うと、彼女は苦痛を覚えた、吐気を感じた」(31)というのだから、クラウディネが今回姦通するにいたるのは、見たところ肉体的な欲情や性の快楽に誘われたためではないだろう。先の、42ページより以前にそれはあきらかに予感され、「ひとつの運命のように」(33)定まったものと感じられており、「淫らな」(42)性情の要素はあとからつけくわえられているにすぎない。
  • クラウディネが(夫を除いて)男性とかかわるときの基本的なあり方は、純粋受動性もしくは従属であるように見える。ただ、その自己放棄は両義的であり、ときには幸福に近いものとして、ときには苦しみとして感受されている。今日読んだなかだと、40ページで橇のなかにいる時点では、突然、「あまりに透明な」とも言うべき意識の明晰さに襲われたクラウディネには、「人間たちの姿が小山のようにいかつく無際限にふくれあが」るように見え、「彼女は客たちにたいしてほとんど屈従と恐怖を覚え」ている。直後に続けて、「それでもなお、この弱さこそひとつの不思議な能力にほかならないという気持を、かたときもすっかりは失わなかった」と補足されているので、彼女にとって「屈従」を招く「弱さ」は、一種の支えでもあるらしい。
  • その「弱さ」については34ページでも言及されている。例の、「何もかもひとつの運命のように感じ」(33)られるがごとき啓示を受けたあと、ひきつづき表の風景をながめながら沈思に入ったクラウディネは、「あらゆるものを成るがままにまかせる、あのもっとも繊細で究極の、弱さの力に支えられ、小児よりもかぼそくなり、一枚の色あせた絹よりもやさしくなった」。そして、「ゆるやかに萌してくる喜悦とともに、彼女はこの世界によそ者としてあるというもっとも深い幸福を」おぼえる。だからここでは、「あらゆるものを成るがままにまかせる」主体性の放棄としての「弱さ」は、「喜悦」と「幸福」に結びついている。
  • クラウディネの自己放棄性がはじめて語られるのは18ページにある過去への言及のなかだが、情事を重ねていた頃のクラウディネは、「いつも誰かしら男に完全に支配されて」おり、「ひとたび男に支配されるとなると、やがて自分を投げ棄てて、自分の意志というものをまったくもたなくなるまでに、男の言いなりになれたものだった」。ここではしかし、上の段でも触れたように、「いずれ屈従にまでいたりつく強い情熱の行為」によって彼女は「苦しめられ」、またそれは同時に自己乖離的な現実感の欠如をもたらすものでもある。
  • 21ページでは過去の回想がすでに終わってクラウディネは駅にいるが、周囲のひとびとに囲まれて圧迫を受けながら「是非もなく」歩いている彼女は、「脅え」のようなもの、「屈辱」のような気持ちを感じる。外見上は平静をよそおいながらも、「彼らよりも弱くて、わが身を護ることができない」彼女は、「彼らを恐れている」。見られるように、ここにも「弱さ」への言及がある。恐れをいだきながらひとのなかを行くクラウディネは、「あまり近くまで寄ってくる者があると、思わずからだを固く」(22)して緊張するのだが、しかし「そのとき、ひそかな恍惚感とともに、自分の幸福というものを感じるのだった」。そして、「さからうのをやめて、このかすかに乱れる不安に身をゆだねるとき、その幸福がどんなに美しくなりまさっていくか」を理解している。「不安」をおぼえながらも、それと同時に「恍惚」が生じ、「身をゆだねる」ことでその「幸福」がいっそう高まるだろうことを察知している。
  • 飛んで37では、汽車の旅の終盤で、乗り合わせた男を前にして「何かが現実となりはじめている」(36)ことを感知するクラウディネは、「もはや精神のはたらきをもたぬことを、もはや自分ではないことを、精神の無力と、屈辱と、受難とを愛した」とある。「精神のはたらきをもたぬ」とか「自分ではない」とかいう言葉でずいぶんはっきりと明言されている自己放棄が、ここでは「愛」の対象となっている。
  • こうして列挙的に引いてくると、クラウディネにとって主体放棄的な屈従の意味は、そのときどきによって、幸福・喜悦・愛の対象・支えであったり、恐怖・不安・苦しみ・現実感不在であったり、あるいはそれらの双方であったりするのがわかる。
  • きちんとテクストを調べず横着してめちゃくちゃ大雑把に言ってしまえば、この作品での不貞行為のたぐいは、ロラン・バルト精神分析理論を援用して言う「悦楽」(もしくは享楽)のようなものとしてあるのではないか。主には『テクストの快楽』で導入されている例の二分法だが、夫との現在の生活の幸福や愛は言ってみれば安定的な体系内の「快楽」、それを乱してそこから抜け出ようとするがゆえに苦しみをもともなった超越的な姦通への志向は「悦楽/享楽」、というわけで、クラウディネにとって自己放棄は後者へ向かう動きであるはずだから、それは両義的なのだ、ということ。これは精神分析理論をあまりにも適当に当てはめただけのものなので嫌なのだけれど、まあたぶんそういう構図はひとまずあるとは思う。ただそこで問題になるのはやはり、悦楽としての不貞、つまりある種の超越への到達が、なぜいまの夫との「究極の結婚」たる「愛の完成」になるのか、ということ。論理としては典型的に逆説的なのでわかりやすいのだけれど、彼岸に行っちゃったはずの状態が反転的に此岸にもどってきて、しかも限定的な一個体である夫へと回帰的に集束するっていうのはどういうこと? という感じ。
  • 34: 「あらゆるものを成るがままにまかせる、あのもっとも繊細で究極の、弱さの力に支えられ、小児よりもかぼそくなり、一枚の色あせた絹よりもやさしくなった」: 「一枚の色あせた絹よりもやさしく」
  • 37: 「ふたたびものを思いはじめたとき、クラウディネは四人の者たちと一台の小さな橇の中に押しこめられていた。前方から、寒気の中で濛々と息をはく馬たちの異臭と、先を行く橇のカンテラからこぼれて撒きちらされる灯の波が、流れこんできた」: 「先を行く橇のカンテラからこぼれて撒きちらされる灯の波」
  • 41: 「この意味もない動作さえ彼女はいかにも奇妙なものに感じて、突然、いま起りつつあるものの揺るぎなさを見た。いかに自明にひとつの出来事がもうひとつの出来事につらなり、愚かしくも落着きはらって、しかも単純で途方もない、堅固な暴力のように、そこに存在するかを」: 「愚かしくも落着きはらって」
  • 四時過ぎまでムージルを読んで、しばらく今日のことを記述。それから柔軟をちょっとすると五時を越えたので上へ。台所に入る。まず米を新たにザルに入れて用意し、洗い桶のなかで磨ぐ。セットしておくと、冷凍庫を覗く。鶏肉のかたまりがあったのでこれをタマネギとエノキダケとソテーしようと決め、肉はレンジで解凍し、合間にタマネギとキノコを切り分ける。鶏肉も小さく切断して、フライパンにオリーブオイルを垂らし、熱しながらバターも包丁でカットしてそこにくわえると一気にしゅわしゅわ激しい音を立てながら蒸発する。そのなかに鶏肉を放りこみ、おりおり蓋をかぶせながらしばらく焼き、頃合いでタマネギとキノコを追加した。そうして木べらでかき混ぜながらフライパンを振り振り加熱して、新しい焼き肉のタレを開封して味つけ。味醂も足した。しばらく強火で水気をはじかせて完成。それから、母親がジャガイモを茹でておいてくれと言うので、二つあった大きなやつの芽を大雑把に取って四つ切りにし、火にかけた鍋に入れておいた。それで下階に帰ろうと思い、実際一度もどったが、ゴミ箱と茶器を持ってまたすぐに引き返す。ゴミを台所のものと合流させようとするとゴミ箱に汚れた雑巾がかかっていたので、これ捨てるのと訊けば、ゆすいでから捨てるから洗面所に置いといてと言う。それでどうせだからゆすいでおくことにしたのだが、洗面台を見れば掃除のあとがけっこう残って汚れていて、拭いきれていない細部もあったのでついでに拭いておいた。
  • そうして帰室。ムージル「愛の完成」について上に記したうちの、クラウディネの自己放棄の両義性を示した部分を書いた。ページを繰っていちいち文言を引いている途中、携帯にメールが届いたのを視界の端に察知し、何かと見れば(……)くんだった。こちらが通院している精神科を教えてくれないかと出し抜けに頼みがあったので、どうしたんだろう、大丈夫かなと思いながら即座に返信しておく。食後に部屋にもどったときに返信が来ていたと思うが、新居に移ってひとりになったせいか、不安で不安でどうしようもないような状態になってしまい、いったん実家にもどってきたのだと言う。ふたたびその場ですぐに返信を綴り、孤独を感じると人間やはり心身が弱るものだ、それにいよいよ社会に出ようというところで環境や生のとらえ方が変わるから、不安をおぼえるのはある意味で当然でもある、みずからの状態をよく見聞きしてとにかく無理はしないように、ストレッチをすると良いと思う、肉がほぐれて血の巡りが良くなりからだが調えば精神もおのずと落ち着く、これは本当のことだ、というようなことを送った。また、話し相手がほしかったらいつでも声をかけてくれとも言っておいたが、その後の返信では、もしかしたらお声かけするかもしれません、とあった。だいぶ弱っているような雰囲気だった。
  • (……)さんにせよ(……)くんにせよ(……)くんにせよ、こちらが一定以上親しくなった人間って、だいたい精神の調子を崩していないか? こちら自身は言うまでもなく。
  • 七時前に夕食へ。ソテーを丼の米に乗せて食う。美味。かたわら新聞に目を向ける。国連のミャンマー支援担当官みたいなひとがオンラインで記者会見したとのことで、それによれば、二月一日のクーデター以降、二一〇人ほどが治安当局によって殺害され、二四〇〇人ほどが拘束されたと言う。拘束されたひとのなかには、性的な暴力を受けたケースもあるらしい。クソだ。ほか、書評面をまたちょっと見た。昼間に読んだのを記し忘れていたが、入り口にはソルジェニーツィンの『イワン・デニーソヴィチの一日』の紹介があって、新潮文庫木村浩というひとの訳だったから、これはちょうどこちらが持っているやつだ。紹介者の名は初見だったし忘れてしまったが、いわく、収容所で強制労働させられる囚人の一日を描いたものだけれど、パンでスープを最後まで吸い取って食べる描写など生き生きしているし、囚人たちは労務にも夢中になって没頭しているし、妙な幸福感のようなものがあって、こういう状況でも人間は人間らしい生のニュアンスをおりに感じることができるということ、そしてそれが生存の支えとなるということが如実にわかる、みたいな説明で、え、そんな風に読める作品なの? と思った。上の要約はけっこう変換してしまっているので原文とニュアンスが違うと思うが、実際この作品を読んだことはないけれど、生の幸福を(断片的にはともかく一般的要素として)この小説のなかに見るのは無理筋じゃないか? と思うような紹介だったのだ。
  • 食器を洗って片づけると緑茶をついで帰室。音読をした。「記憶」を引き続き。英文記事からの引用がひたすら続くので、全部英語。言葉を声に出して読むというのはやはり良い。なにかわからないが、すっきりする感じがある。一日二時間くらいはできれば読みたい。ストレッチをちょっとはさみながら九時前まで読み続けて、入浴へ。
  • 風呂のなかでは静止。浮かんでくる思念をそのまま、あるがままに放置しておく、ということがヴィパッサナーもしくはマインドフルネスにしても坐禅にしてもよく言われるけれど、それがだんだんうまくなってきたような感じ。思念やら何やらは絶えず生起しつづけるわけだが、それを拾い上げず、そちらのほうにわざわざ行ってやらず、ただ通過させる、というあり方がわかってきた気がする。油断すると考えに巻きこまれるわけである。たとえば、ムージルの小説の気になっている部分について考えたり、部屋にもどったら何をしようか検討したりしているわけである。考えるなら考えるでべつに良いのだけれど、たとえば後者のような思惑にかんしてはいましても無駄というか、実際部屋に帰ったときの自分の心身にしたがえば良いだろ、という感じ。小説やら関心の主題やらについての思考も、おのずから浮かぶことが浮かぶ範囲にまかせ、そのなかに入って探ったり展開させたりをしないようになってきた。仏教が言う「二念を継がない」というのは、まさにこういうことではないか? 思念というのは大方は、過去にかんすることか未来にかんすることである。瞑想的精神の静止がうまくなると、意識野のなかにそれらの観念的断片が、ときには言語のかたちをそなえて、ときには言語未満の茫漠とただよう意味素体として、泡のように生じては流れていくのが見えるようになる。過去は過ぎ去ったものであり、未来はいまだ来たらぬものである。中央に鎮座する現在という土台的領分のあちこちを、その二種の泡沫が、蛍がともすひそやかな光のようにしてあらわれては去っていくのがわかる。現在という領地こそが地盤であって過去と未来はその土地の大気を装飾するかすかな羽虫たちのように思われるのだが、その現在も絶えずまた過ぎ去っているはずである。だが、そこでこの現在が瞬間ごとに過去に送りこまれて時間が過ぎているというよりは、ひとつの堅固な現在というものがそのままそこに座を据えながら変成しつづけている、というようなイメージのほうが感覚に近い。感覚など、哲学的には愚者の選択肢なのだろうが、こちらは哲学者ではない。ともあれ、時間とは生成のことなのではないか、存在するのは現在だけなのではないか、といういつもながらの発想がそこにおいて再生産されるわけである。ベルクソンはそういった発想を「純粋持続」などという言葉であらわしたのだと思うが、「持続」という語がこちらのイメージや感覚に相応しているかというと、あまりそうでもない。持続していると言われればたしかにそうなのだろうが、さほどしっくりくる感じではない。(……)くんは以前、純粋持続的な世界を考えると、それは固定になってしまうんじゃないか、動きのまったくない凍りついた時間に行き着くんじゃないか、というようなことを言っていたが、それもあまりピンとこない。
  • 風呂に入っているあいだ、救急車が通った。通ったと言っても家の前ではなく、おそらく上の街道だろう。窓外の遠く、林と闇をはるかに越えた先からサイレンの音がかぼそくはじまり、花にとまった蝶が翅を緩慢にひらいては閉じるときのあの穏やかなリズムで音程を往復しながら近くなり、響きをちょっとゆがませながらまたすぐに去っていった。
  • あと、髭を剃った。風呂を出ると尿意がやたら嵩んでいたのでトイレで放尿。そうして部屋にもどると、LINEに上がっていた「(……)」の音源を聞き、手短な感想を投稿しておいた。
  • そうして一〇時半前くらいから熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)の書抜きをはじめて、BGMとして(……)くんに以前データをもらったS.L.A.C.K.『MY SPACE』を流した。わりと好みなタイプのサウンドではある。#5 "Deep Kiss"がはじまった途端に聞き覚えのある音を感知したのだが、これはMarlena Shaw, "Feel Like Makin' Love"のサンプリングだ。night crusin', night crusin'と言っているから、FISHMANSも参照されている。
  • 熊野純彦の新書の今日書きぬいた部分には、「存在するものは、なにか或るものを分有すること(participare)ができるけれども、存在そのものはなにものも分有することはできない」というボエティウスの一節があって、「分有すること」にあてられているparticipareはあきらかにparticipateの語源だろう。それで、そうか、参加するというのは、その場だか地位だか資格だかなにかしらそういったものを分有する、部分的に所有するというところから来たんだなと思った。
  • また、「存在者の存在(esse)はここでなお、在ること(existentia)と、在りよう(essentia)の両義性をもち、証明は、その両義性と、id quod estが有するふたつの意味に依存している」という文章もあった。ここでも、「在りよう(essentia)」の語が着目され、そうかessence、すなわち事物の本質というのは、そのものがどのような在り方で在るか、その在りよう、という意味なのだ、と思った。
  • 三箇所抜いたところで一一時半。良い調子である。一日三箇所くらいずつ書き写せれば、だんだん片づいていくだろう。今日はムージルも一箇所写したし、重畳。基本的に、そのとき読んでいる本で書き抜きたいところがあったらすぐ写してしまうような習慣にしたい。昔はずっとそうだったのだ。書き抜き中はずっと立位でやっていて、やはり打鍵は立った姿勢でやったほうがからだに良いが、ただこれだと上体がこごらないかわりに膝のあたりがだんだん疲れてくる。脚関節の持久力を高める良い方法は何かないのか? このあいだ藤田一照の『現代坐禅講義』を読んで知ったことによると、気功のほうの鍛錬として站樁 [たんとう] というものがあるらしく、要するにただひたすらずっと立っているだけの修行らしいのだが、その実践者はどのようにしているのだろう。なんか二時間とか立つらしいし、藤田一照が対談していた気功のひとは、だんだん慣れてくると立ったまま寝る技が身につき、倒れる寸前で目を覚ますことができるようになる、などと語っていた。
  • 書抜きを終えたあとここまで記述すると、零時四〇分にかかるところ。書きぶりはなかなか軽くて良い。それに結局ずっと立ったままで打鍵している。膝もなんとかなっている。BGMにSade『Lovers Live』を久しぶりで聞いたらやたら良かったので、冒頭の"Cherish The Day"と"Somebody Already Broke My Heart"のYouTube音源を(……)くんがつくったLINEのグループに貼っておいた。
  • そうして夜食を取りに上階へ。母親がまだ起きており、眼鏡姿でテーブルに就いて何やらこまごまとしたことをやっている。こちらは温めた豆腐とインスタントの味噌汁を用意。三ツ矢サイダーとともに盆を使って持ち帰ると、ベッド縁でボールを踏みながら食した。食器を片づけてくると、そのままTo The Lighthouseに触れる気になった。今日は無声音で読み上げながら訳文を確認したのだが、これは良い。黙読ではなくて、音読しながらつくっていったほうがあきらかに良い。声のリズムが助けになる。性懲りもなく冒頭から改稿しているのだけれど、けっこうすすんだ。以下のうち上が改稿前、下が改稿後。改稿前をコピーしておいたのは一段落だけで、そのあとの部分は忘れたまま変えてしまった。

 たったこれだけの言葉が、息子にとってははかりしれない喜びをもたらすことになったのだ。まるで、遠足に行けるということはもう間違いなく決まり、幾星霜もと思われるほど楽しみに待ち焦がれていた魅惑の世界が、あと一夜の闇と一日の航海とをくぐり抜けたその先で、手に触れられるのを待っているかのようだった。彼は六歳にしてすでに、ある気持ちを別の気持ちと切り離しておくことができずに、未来のことを見通してはそこに生まれる喜びや悲しみの影を現にいま手もとに収まっているものにまで投げかけずにはいられない、あの偉大なる一族に属していたのだが、その種の人びとにとっては(2/17, Wed.)幼年期のもっともはやいうちから、すこしでも感覚が変転すればただそれだけで、陰影や光輝を宿した瞬間が結晶化して刺しとめられてしまうものなので、床に座りこんで「陸海軍百貨店 [Army and Navy Stores]」のイラスト入りカタログから絵を切り取って遊んでいたジェイムズ・ラムジーも、母親の言葉を耳にしたとき手にしていた冷蔵庫の絵に、まるで天にも昇るかのような無上の喜びを恵み与えたのだった。その絵は、歓喜の縁飾りを授けられたわけである。手押し車や芝刈り機、ポプラの樹々の葉擦れの響きや雨を待つ葉の白っぽい色、それにまたミヤマガラスの鳴き声や、窓をこつこつ叩くエニシダのノック、ドレスが漏らす衣擦れの音――こういったすべてのものたちが彼の心のなかでは鮮やかに彩られ、はっきりと識別されていたので、それはもはや自分だけのひそやかな暗号を、秘密の言語を持っているようなものだった。[しかしまた彼の姿には、純一 [じゅんいつ] で、妥協をまったく許さぬ厳格さがそなわってもいた。その額は高く秀で、荒々しさを帯びた青い目は申し分のないほどに率直、かつ純粋で、人間の持つ弱さを目にするとかすかに眉をひそめてみせるくらいだったので、母親であるラムジー夫人は、鋏をきちんと操って冷蔵庫の絵をきれいに切り抜いている息子の様子を見まもりながら、白貂をあしらった真紅の法服で法廷に座る彼の姿や、国政の危機に際して過酷で重大な事業を指揮する] とはいえ、その秀でた額と激しさを帯びた青い目には妥協をまったく許さぬ厳格さがうかがわれ、人間の弱さを目にすればちょっと眉をひそめてみせるほどに申し分のない率直さと純粋さがこめられてもいたので、鋏をきちんと丁寧に操って冷蔵庫の絵を切り抜いている息子の様子を見まもりながら、母親は思わず、白貂をあしらった真紅の法服をまとって法廷に座ったり、国家的危機のさなかで容赦なく重大な計画を指揮したりする彼の姿を想像してしまうのだった。

     *

 「ええ、もちろん、もし明日、お天気だったらね」 ラムジー夫人はそう言って、「だけど、ヒバリさんとおなじくらい早起きしなくちゃだめよ」と付け加えた。
 たったこれだけの言葉が、息子にとっては、はかりしれない喜びをもたらすことになったのだ。まるで、遠足に行けるということはもう間違いなく決まり、幾星霜もと思われるほど楽しみに待ち焦がれていた魅惑の世界が、あと一夜の闇と一日の航海とをくぐり抜けたその先で、手に触れられるのを待っているかのようだった。彼は六歳にしてすでに、ある気持ちを別の気持ちと切り離しておくことができずに、未来のことを見通してはそこに生まれる喜びや悲しみの影を現にいま手もとに収まっているものにまで投げかけずにはいられない、あの偉大なる一族に属していたのだが、その種の人びとにとっては、幼年期のもっともはやいうちから、感覚をつかさどる歯車のどんなわずかな動きであっても、陰影や光輝を宿した瞬間を結晶化して刺しとめる力を持ってしまうものなので、床に座りこんで「陸海軍百貨店」のイラスト入りカタログから絵を切り取って遊んでいたジェイムズ・ラムジーも、母親がそう言ったときちょうど手にしていた冷蔵庫の絵に、まるで天にも昇るかのような無上の喜びを恵み与えたのだった。その絵は、歓喜の縁飾りを授けられたわけである。手押し車や芝刈り機、ポプラの樹々の葉擦れの響きや雨を待つ葉の白っぽい色、それにまたミヤマガラスの鳴き声や、窓をこつこつと叩くエニシダのノック、ドレスが漏らす衣擦れの音――こういったすべてのものたちが彼の心のなかでは鮮やかに彩られ、はっきりと識別されていたので、それはもはや自分だけのひそやかな暗号を、秘密の言語を持っているようなものだった。しかしまた彼の姿には、純一 [じゅんいつ] で、妥協をまったく許さぬ厳格さがそなわってもいた。その額は高く秀で、荒々しさを帯びた青い目は申し分のないほどに率直、かつ純粋で、人間の持つ弱さを目にするとかすかに眉をひそめてみせるくらいだったので、母親であるラムジー夫人は、鋏をきちんと操って冷蔵庫の絵を切り抜いている息子の様子を見まもりながら、白貂をあしらった真紅の法服で法廷に座る彼の姿や、国政の危機に際して過酷で重大な事業を指揮するその勇姿を、思わず想像してしまうのだった。
 「だがな」と、そのときちょうど通りかかった父親が、客間の窓の前で足を止めて言った。「晴れにはならんだろうよ」
 斧でも火かき棒でも、とにかく父親の胸に穴をぶちあけて彼を殺せるような何らかの凶器が手もとにあったなら、ジェイムズはその場ですぐにそれを掴み取ったことだろう。ただそこにいるというだけでラムジー氏の存在は、それほどまでに激しい感情の揺れ動きを子どもたちの心中にかき立てるのだった。ナイフのように痩せているどころか、その刃の鋭さを思わせるくらい細身の彼はいまもまた、いかにも皮肉っぽくにやつきながら立ち止まっていたのだが、それは単に息子の幻想を打ち砕き、また、どこを取っても彼自身より一万倍もすばらしい(とジェイムズが思っている)夫人を馬鹿にして楽しむためだけではなく、自分の判断力の正確さに対するひそかなうぬぼれに耽るためでもあったのだ。(……)

  • 大きなところで言うと、まずwheel of sensation。もとのほうでは、「すこしでも感覚が変転すればただそれだけで」と「変転」に濁しているけれど、このwheel、すなわち車輪の比喩イメージをもっと直接的に反映させたかったのだ。調べるうちに、この表現はたぶんwheel of fortuneがもとになっているなとわかった。運命の女神があやつる紡ぎ車だというので、最初のうちは糸を紡ぐように感覚を紡ぎ出す車輪、という方向性で考えていたのだけれど、うまく行かなかった。それでさらに調べてみると、女神Fortunaがあやつる車輪は、糸車のイメージに限定されず普通に水車的な車輪でありうるようだったので、紡ぎ車は捨ててただの輪として考え出し、車輪と同等のものとして「歯車」がいけるんじゃないか? と思いついた。「運命の歯車」という表現もわりと一般的にあるように思われたし、「感覚の車輪」よりも「感覚の歯車」のほうが、なぜかはまる気がしたのでこれを採用。結果、「その種の人びとにとっては、幼年期のもっともはやいうちから、感覚をつかさどる歯車のどんなわずかな動きであっても、陰影や光輝を宿した瞬間を結晶化して刺しとめる力を持ってしまうものなので」とまとまった。wheel of sensation以降も、has the power to crystallise and transfix the momentのかたちに忠実に沿った文に変えている。
  • あと、「斧でも火かき棒でも」の段落もそこそこ変えた。とりわけ、standing, as now, lean as a knife, narrow as the blade of oneといってラムジー氏の姿を描写しているところ。前は、「ナイフのように痩せており、その刃にも似て鋭い細身の彼は」としていたが、普通に行くとなんか意味がかぶって冗長だし、narrow as the blade of oneは単なる並列ではなく、lean as a knifeをさらに強化するような印象なのではないかと考えて、「ナイフのように痩せているどころか、その刃の鋭さを思わせるくらい細身の彼は」と意訳した。
  • 訳しているあいだはやはりだいたいずっとボールを踏んでいたが、そのくらいの気楽さで取り組めるのが一番良い。あまり集中しようとして構えると文と思考が流れなくなる。
  • その後ベッドに移ってムージルをまたすこしだけ読み、眠くなってきたので四時二三分に就床した。