2021/3/28, Sun.

 (……)愛の言葉をしつこく繰りかえして、弁証法的な解決を見つけようとする自分を想像してみる。すると、愛の呼びかけの言葉は、わたしがそれを繰りかえし言い、時をこえて日に日に言い続けても、言うたびに、新しい状態をふくむことになるだろうと思われる。アルゴー船の乗組員たちが、航海のあいだじゅう、船のあちこちの部品を変えながらも船名を変えることはなかったように、恋する主体はおなじ叫びをつうじて長い過程をなしとげようとする。本来の要求をすこしずつ弁証法的に発展させるが、しかし最初に口にしたときの興奮が色あせるわけではない。愛と言語の作業とはまさしく、おなじ文につねに新しい調子をあたえることだと考えられる。そうして、記号の形態は繰りかえされてもシニフィエはけっして繰りかえされることがないという驚くべき言語を作りだす。言語(と精神分析学)がわたしたちの情動すべてに刻みつける残酷な〈単純化〉にたいして、話者と恋する者がついに打ち勝つ、という言語を作りだすのである。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、167; 「言葉の作業(Le travail du mot)」)



  • 正午起床。曇天。コンピューターを点けておいて水場へ。顔を洗ったり用を足したりうがいをしたりする。今日は瞑想は省き、部屋のゴミ箱を持って上へ。両親に挨拶してゴミを始末し、屈伸したり背伸びしたりと少々体操。それからトイレに行ったり(用を足したのは下階ではなくてこのときだった)、洗面所でまたうがいをして喉の筋肉をほぐしたり。そうして食事。米と炒め物とネギを煮たような料理と汁物。テレビは『のど自慢』。三重県四日市市。新聞の一面には、ミャンマーで二七日に九一人が死亡と出ていた。二七日は国軍記念日というものらしく、首都ネピドーでは式典がおこなわれてミン・アウン・フライン国軍総司令官がクーデターを正当化した一方で、ヤンゴンマンダレーではデモ隊の弾圧がくりひろげられてその数の死者が出たと。これは二月一日以来、一日の死者数としてはおそらく群を抜いて最大で、当局はもうまったく取り繕うことなく積極的に抗議者を殺しにかかっていると見て良いだろう。ほか、中国に特派されている支局長か何かのひとのコラム。愛国と愛党の話で、習近平政権はもちろんこの一致をもとめ、それ以外のあり方を認めないわけだが、政権が香港での選挙立候補資格にかんして述べた例の文言の引用元である鄧小平は違ったと。鄧小平もたしかに、香港返還前だったかに、香港の統治は愛国者によってなされるのが望ましく、愛国者というのは祖国を愛し、香港が祖国の主権のもとにもどるのを誠心誠意支持する者、そして香港の繁栄を願い行動する者だ、みたいなことを言っていたようなのだが、この支局長が紹介するところではそのあとで、この条件を満たしていれば資本主義者であろうがなんとかであろうが「奴隷主義者」であろうが愛国者だ、愛国者が全員社会主義制度を支持する必要はない、と述べていたらしい。いまからは考えられない寛容ぶりだと筆者は漏らしていた。現在の中国で言われるところの「愛国」というのは、共産党政権の言うことに全面的に忠実に従うということ意外の意味ではない。
  • 食後、洗い場に溜まっていた食器を半分ほどだけ洗って、それから風呂洗い。出るとポットに湯が乏しかったので薬缶で水をそそいでおいて下へ。Notionを準備しウェブをちょっと見てから茶を用意してきて、昨日(……)がくれた菓子をつまんで一服しながらインターネットをうろつく。それから音読。「英語」記事を読みはじめたのがちょうど二時頃だった。328番から350番まで読み、いったん切りとして、今日のことをここまで記せば三時前。
  • この日のことはもう忘れた。書き物はそれなりにやった模様。二五日を仕上げている。あとはムージルを四〇ページ弱読みすすめているくらいか。そんなにがんばらず、怠けがちだったのではないか。