2021/4/7, Wed.

 わたしは、たんなる〈頭痛〉という意味で〈偏頭痛〉と言うくせがある(おそらくその言葉が美しいからだろう)。言葉は不適切ではあるが(なぜなら痛いのは頭の片側だけでないからだ)、社会的には適切な言葉である。ブルジョワ女性や文人の伝説的な特性である偏頭痛は、階級をしめすことがらなのだ。偏頭痛もちの労働者や小商店主を見たことがあるだろうか。社会的区分がわたしの身体を通過している。わたしの身体そのものが社会的なのである。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、184; 「偏頭痛(Migraines)」)



  • 一〇時頃に一応の覚醒。しかしすぐには起きられない。だんだん意識を浮上させていき、こめかみや腰など揉んで、一一時三分に離床した。水場へ。「アレグラFX」を服用。そろそろ飲まなくても大丈夫な気もするが。今日は晴れており、けっこう空気はあかるい。うがいもよくしておいてもどり、瞑想。一一時一五分から三七分まで。半分くらい眠っているような感覚というか、あくまでも覚めてはいるのだが意識を保ったまま動作停止しているような感じだった。ウグイスの音が外に聞こえる。
  • 上階へ。食事は昨日の天麩羅やうどん。新聞、市川房枝の評伝について読む。ミネルヴァ書房から出たらしい。市川房枝は一八九〇年くらいの生まれで一九八一年死去らしく、そんな最近まで生きていたのかと思った。最近と言ってもこちらが生まれるより前だが。戦後はずっと参議院議員をやっていたという。戦時中に戦争協力したという面が取り上げられることが多いらしいのだが(全国言論報国会みたいな組織の理事を務めていたらしく、公職追放もされている)、大政翼賛にかんしても一貫して主婦などの権利向上を唱え、翼賛運動が暴力や抑圧につながってはならないと厳しく要求していたと言い、開戦の責任も継戦のそれもないし、そういう面を評価するべきではないかというのが、村井といったか村野だったか、評伝の著者である教授の考えらしい。戦後は運動も資金も支持者が負担するという「理想選挙」とかいうものを提唱したり、非武装中立を主張したりしていたらしい。
  • 皿洗い。カウンターと居間を通した先、南窓のガラスの向こうで、須崎さんの宅の気のはやい鯉のぼりたちが、からだをあかるませながら風に浮かんでやわらかく流れている。風呂洗い。茶を用意して帰室。LINEで(……)くんが、スラックの新譜が良かったと紹介していた。一服しながらウェブを瞥見し、昨日の記事をさっと仕上げ、今日のことも記述。今日は三時には出る必要がある。帰ったあとはWoolf会。
  • 一時から「英語」を音読。三五分くらいだったか。もうすこしやりたい気もしたが、排便に行ったのを機に切る。もどってくると寝床でウィリアム・フォークナー/藤平育子訳『アブサロム、アブサロム!(下)』(岩波文庫、二〇一二年)。書抜き箇所がけっこう見つかる。二時四〇分か五〇分くらいで切って上階へ。小さな豆腐とサラダの残りで食事。そのあと米を磨ごうとしたのだが、戸棚の米の袋のところに計量カップが見当たらない。いつもは袋のなかに一緒に入っているのだが。戸棚周辺や台所のほうもけっこう探したが見つからないので、あきらめる。それで本当は徒歩で行けるはずが時間を使ってしまったために、徒歩で行っても電車で行っても変わらないどころか徒歩で行くと電車よりも遅い到着になるくらいの時間になってしまったので、しかたなく電車を取ることに。音読で喉が痛かったので洗面所でうがいをしておいた。下階に下りると歯磨きしながら母親に、計量カップが見当たらなかったとメールをおくっておき、スーツに着替えて身支度をととのえる。Woolf会に出席の連絡を入れておき、ここまでさっと加筆。
  • (……)
  • あとはWoolf会のことくらいしかおぼえていないが、これももう時間が経って面倒になってしまったので、だいたい割愛しよう。この日扱ったのはLilyとBankesが果樹園にたどりつき、LilyがMr Ramsayの仕事に関連してきれいに磨かれたキッチンテーブルを思い浮かべているところで、そのなかに、years of muscular integrityによってテーブルのvirtueがあらわになっている、みたいな言い方があり、muscular integrityってなんやねん、というのが大いに話題になった。こちらとしても、これはどういうことなんだろうと意味がよくわからずにいたのだ。岩波文庫は、長年力をこめて磨き抜かれたために風合いが際立って、みたいな訳になっていたはずで、一応そう考えればわかるはわかるのだけれど、それにしてもmuscular integrityなどというやたら抽象的な言い方になっているものだから、普通に読んでいると戸惑う。この二語には具体的な動作のニュアンスがなんら含まれていないので。a scrubbed kitchen tableと言われていることを考え合わせると、岩波文庫の解釈が妥当なのだとは思うが。そうすると、integrityはテーブルを磨く主体のたゆまぬ一貫性ということになる。あるいは、integrityは完全性とか、無傷、無欠性みたいな意味合いもあるようなので、この語をテーブルそのものの性質としてとらえることもできるのではないか。つまり、長年磨かれながら使用されてきたけれど、男性的に力強く歳月に耐え、根本的にはその完全性を失わぬまましかし風格はあらわに帯びたテーブル、というようなこと。
  • そのほか、宇多田ヒカルについての雑談など長く展開されて、けっこう面白いゴシップネタみたいな話もあったのだけれど、これも省略。また三時過ぎまで通話を続けてしまった。切り際に(……)くんが、寂しがりやだからなかなか切れず、つい長く続けてしまうみたいなことを言い、すると(……)さんがそれを受けて、でもこの会のひと、けっこうみんな寂しがりやな気がするけど、と漏らし、(……)くんはそれには懐疑的でこちらなどそうは見えないと言ったのだが、(……)さんが見るにはこちらも意外と寂しがりやに思えると言う。それでどうですかと当人たるこちらに問いが飛んできたのだけれど、いや、どうなんですかね、よくわからん、とこたえておいた。実のところ、寂しいという感情をおぼえた瞬間がここ数年一度もないのだが、他人からそう言われるということは多少そういう風にも見えるのかなと思って、はっきりと否定しなかったのだ。(……)さんがこちらのことをそう見たのは、なんだかんだでいつも夜の深くまで長く残っているからではないか。実際、じゃあ僕はそろそろ、と事も無げに言い出してぱっと去るということがなかなかできず、また話を聞いていればけっこう面白いのでついついだらだらととどまってしまうのだが、それは同時に、人間の関係は結局共有した時間の長さがわりと物を言うと思っているところがあって、どうせなら親しくやりたいものだから、自分からはやばやと退去することはあまりせず、周りの流れに付き合って時間を共有しておこう、という心があるからでもある。