2021/4/8, Thu.

 「目まいと吐き気」の混ざったミシュレの偏頭痛とはかなり違って、わたしの偏頭痛は鈍いものである。頭が痛いことは(とてもひどかったことは一度もないが)、わたしにとっては、自分の身体を不透明で、頑固で、縮こまって、〈崩れ落ちた〉ものにする方法、すなわち結局は(またもや大テーマだが)〈中性的〉にする方法なのである。偏頭痛がないことや、身体が無意味に覚醒していること、体感が零度であることは、ようするに健康の〈おしばい〉であるとわたしは考えていた。自分の身体はヒステリー的な健康状態にあるのではないと確かめるために、ときどきは明快な身体の〈しるし〉を取り去らねばならないのだろう。勝ち誇った姿としてではなく、一種のすこし陰鬱な器官として、自分の身体を生きねばならないのだろう。すると偏頭痛は、(もはや神経症ではなく)心身の病ということになるであろう。その病によって、わたしは人を死に至らしめる病、すなわち象徴作用欠乏症に〈すこしだけ〉かかってしまうこと(偏頭痛はささいなことだから)を受け入れているのだろう。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、185; 「偏頭痛(Migraines)」)



  • 一二時半頃の離床になってしまった。やはり昨晩は長く通話したので。勤務もあったし、それなりに疲れていたのだろう。遅くなったので瞑想はサボって上階へ。上がると途端にカレーの香りが感知される。筍のカレーだと言う。トイレに行ったり顔を洗ったりうがいしたりしてから食事。新聞には、タイ・なんとか・ウーみたいな名前だった気がするが、ミャンマーの歴史家へのインタビュー。このひとは、アジア人ではじめて国連事務総長になったひとの孫らしい。ニューヨーク生まれでハーバード大を出て、二〇一一年からヤンゴン在住と。国軍はいままでずっと敵対勢力に対して残虐な対応をしてきて、だから第二次大戦以来ずっと言わば戦争状態にある世界で唯一の正規軍だと言う。戦ってきた相手としては、中国国民党軍、共産主義勢力、イスラーム勢力、少数民族勢力、と挙げられていた。今回が際立って暴力的だということではなく、昔から戦いのたびにそうだったと。今回抗議しているのは主に若い世代で、彼らは民主化以降の一定の自由を知っているから軍事独裁に戻ることはなんとしても避けたいと考えており、くわえて弾圧のなかで仲間が殺されたことにも憤っているので、軍部が体制に残るということをもはや許容せず、要求としては国軍を完全に排除した新たなる民主政、ということになるだろう。しかし軍は当然、いままでずっと大きな権限を握り行使してきており、それを手放すつもりはないだろうから、いきおい苛烈な抑えつけでもって権力を延命しようとする。コロナウイルスの前からミャンマーでは経済が混乱しはじめていて、コロナウイルス騒動によってそれがさらに甚だしくなり、いまは相当やばい状況に至っているらしく、そこに今次の騒ぎで、少数民族問題などもあるし、マジで場合によっては国家の崩壊が危惧される、というような話をしていた。
  • アジアで初の国連事務総長というのは、ウ・タント(U Thant)というひとで、その孫であるこの歴史家は、タン・ミン・ウー(Thant Myint-U)という名前だった。
  • 皿を三人分まとめて洗い、風呂も掃除して自室へ。茶を飲む。何をしようかと思い、英語でも読もうかと思いながら記事をメモしてあるNotionのページをひらくと、「素晴らしきものへの敬意 蓮實重彦――『ウィステリアと三人の女たち』川上未映子」(新潮社「波」二〇一八年五月号掲載)(https://www.bookbang.jp/review/article/551726(https://www.bookbang.jp/review/article/551726))が目にとまり、めずらしく日本語のウェブ記事を読む気になった。この蓮實重彦の評文は以前読んだことがあるのだが、なぜかまた読もうと思ってその後メモしておいたのだった。まあ、川上未映子の小説がすばらしい言葉のつらなりをふくんでいるということと、ヴァージニア・ウルフの影がそこに差しているということを述べているだけの短文なのだが。そのままついでに、瀬川昌久「随想 『伯爵夫人』の時代と私のかかわり」(新潮社「波」二〇一六年七月号掲載)(https://www.bookbang.jp/review/article/514487(https://www.bookbang.jp/review/article/514487))も読んだ。瀬川昌久三島由紀夫と同級生だったらしい。三島は一九二五年生まれだったはずだから、瀬川氏も同年とすればもう九五歳くらいだろう。数年前まではこのひとは、九〇歳を越えてからも連日のように新宿ピットインなどに通い詰めていま演奏されている現場のジャズを仔細に聞いていたらしく、それでもって若い世代からも大層尊敬されているようだった。それは実際すごい。批評家の鑑とも言うべき姿勢だろう。
  • 二時にいたると音読。BGMは、なんとなく『Chet Baker Sings』を久しぶりにかけた。合間、ちょっと歌う。「英語」を487から495まで。このあたりは引用文が長くなっているので、なかなか進まない。二時半過ぎくらいまでだったはず。そうしてベッドで書見。ウィリアム・フォークナー/藤平育子訳『アブサロム、アブサロム!(下)』(岩波文庫、二〇一二年)を読みすすめる。なんかわりとすらすら読めるようになってきた。文体に慣れたのか。サトペンの「構想 [デザイン] 」というものの実態が明言されず詳しく説明されないので、具体的な野望の内容があまりあきらかでない。だいたいのところは推測がつくが。また、サトペンがジュディスとチャールズ・ボンの結婚を禁止した理由についても完全につまびらかではない。曖昧に迂回されている。それをそろそろクエンティンが語るのではないか、というあたりだ。チャールズ・ボンが黒人の血を引いていたとかいうことではないか? という予想は容易につくが、それだとわかりやすすぎる気もする。いずれにしても、謎の解明などどうだって良いことだ。そういう、ミステリー的な、サスペンス的なダイナミズムには、こちらはそれほどの興味はない。
  • 二〇ページくらい読んだところで、音楽を聞くことに。デスクの前でヘッドフォンをつけ、iTunesを見て、何にしようかなと迷いつつ、Junko Onishi『Musical Moments』に決定。これは良い、充実したアルバムである。#2 "I Gotta Right To Sing The Blues"が良かったので、あとでLINEのグループに貼っておいた。ソロピアノで、そう長くもないし。#3 "Back In The Days"も良い。疾走している。基本的にはこまかいフレーズを息長くつらねていくわけだが、ここまで行くか、というところが何度かある。#6 "Musical Moments"はドラムのシンバルの装飾が良かった。このアルバムのベースは井上陽介で、ドラムはGene Jackson。
  • 四時過ぎまで。はやいがもう家事をやってしまうことに。上階へ行き、アイロン掛け。シャツやエプロンを次々に処理していく。外は曇り。雨もいくらか散ったときがあったようで、窓ガラスの上にはぐれものみたいな水滴がいくつかついている。アイロン掛けを済ませると料理。と言ってカレーもあるし、冷蔵庫を覗けば何やらカツのたぐいもあったし(あとで聞いたところでは、隣の(……)さんがくれたらしい)、汁物だけつくっておけば良かろうと、タマネギの味噌汁をこしらえることに。タマネギを切って鍋に入れ、煮る。待つあいだは洗面所でうがいをしたり、調理台もしくはコンロの前でストレッチをしたり。良さそうなところで味噌と味醂と醤油をくわえ、溶き卵をそそぎ、最後にネギをおろしておく。ちょうど完成したあたりで両親が帰ってきた。そもそも出かけていることを知らなかったのだが、墓などに行ってきたらしい。買い物袋をはこんで品物を冷蔵庫や戸棚に入れておき、あとは頼むと言って下階へ。ギターで遊んだ。まあまあ。遊ぶと六時過ぎ。自室にもどって今日のことをここまで記し、七時前にいたっている。食事へ行く。腹が空っぽだし。

14年にわたる太平天国の内戦は1864年に終わった。戦場となった地域とくに江南三省(江蘇、安徽、浙江)の被害は大きく、江蘇だけで死者は2000万人を超えた。読書人たちは流亡の苦しみに遭い、死んだ男女を「忠義」を尽くした者や「烈女」として顕彰した。死者の記憶は儒教を中心とする伝統文化の再興という形をとって伝えられた。

清朝は南京占領後も太平天国の生き残りに対する捜索と弾圧を続けた。捻軍などの反乱勢力と合流して抵抗を続けた者はやがて敗北した。楊輔清は上海からマカオへ脱出し、10年間潜伏した後に捕らえられた。また逃亡先の香港で李世賢の軍を支援しようとして捕まった者、苦力(クーリー)となってキューバへ移住した者のエピソードもある。

太平天国に献策したことが発覚して清朝の追及を受けた王韜 [おうとう] は、逃亡先の香港でキリスト教儒教の接点を追い求めた。南京を訪問して太平天国の近代化改革を提案した容閎 [ようこう] は、曽国藩の招きを受けて李鴻章と兵器工場の設立に尽力した。

太平天国に共鳴したイギリス人のリンドレーは、帰国後に太平天国に関する著書を出版した。彼はイギリスが太平天国に対して取った態度はどうかと問いかけ、「私はイギリス人であることが恥ずかしくて顔が赤らむ」と述べている。そして植民地を擁した帝国の多くが没落した歴史を振り返り、今こそイギリスは「非侵略(Non-aggression)」の政策を取るべきだと訴えた。

日本の伊藤博文も晩年、イギリス人の記者に対して「あなたたちイギリス人が、中国との交渉で犯した一番の誤りは、清朝を助けて太平天国を鎮圧したことだ」と語ったという。

洪秀全が創設した上帝教は、太平天国の滅亡と共に中国社会からその姿を消した。それは一つの宗教が信徒の内面的な実践に充分な時間を割かずに政治運動化した結果だった。また読書人の太平天国に対する反感はキリスト教への拒否反応となって残り、反キリスト教事件がくり返し発生した。

20世紀に入ると、香港の中国人キリスト教社会から「第二の洪秀全」を自任する孫文が登場し、太平天国を反満革命として評価する動きが始まる。ただし辛亥革命によって太平天国の評価が一気に変わった訳ではなく、1930年代になっても江南では太平天国に対する否定的評価が残った。

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洪秀全は「神はただ一つであり、偶像崇拝は誤りだ」というキリスト教のメッセージから、中国の歴代皇帝は上帝ヤハウエを冒涜する偶像崇拝者であり、清朝を打倒して「いにしえの中国」を回復すべきだという主張を導き出した。

そして太平天国は上帝の庇護のもと、これを信仰する「中国人」の大家族を創り出そうと試みた。また彼らは公有制の実現をうたい、人々は「天父の飯を食う」ことで生活の保障と死後の救済が与えられると説いた。

だが太平天国は、満洲人や漢人清朝官僚、兵士とその家族を「妖魔」と見なして排撃した。彼らは太平天国の言う「中国人」の範疇には入らなかったのである。

太平天国の「われわれ」意識はヨーロッパとの出会いのなかで発見されたものであったが、同時に客家など辺境の下層移民がもっていた「自分たちこそは正統なる漢人の末裔である」という屈折した自己認識に裏打ちされていた。また彼らが「大同」世界の実現のために実行した政策は強圧的なもので、江南の都市など他地域に住む人々の習慣や考え方に対する包容力を欠いていた。

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さて太平天国は皇帝の称号を否定し、洪秀全と彼を支える5人の王からなる共同統治体制をしいた。軍師として政治・軍事の権限を任された楊秀清と、主として宗教的な権威として君臨した洪秀全のあいだには一種の分業体制が生まれた。

それは秦の統一以前の封建制度を模範とした太平天国復古主義が生んだ結果であり、皇帝による専制支配が続いた中国に変化をもたらす可能性をもっていた。占領地の経営のために実施した郷官制度も中央集権的な統治の弊害を改め、新興の地域リーダーに地方行政への参加を促す分権的な側面をもっていた。

だが太平天国の分権統治には大きな矛盾があった。洪秀全に与えられた「真主」という称号は天上、地上の双方に君臨する救世主を意味し、中国のみならず外国に対しても臣従を求める唯一の君主だった。そこには権限を明確に区別し、分散させるという発想が欠けていた。

また洪秀全の臣下で「弟」だったはずの楊秀清は、シャーマンとして天父下凡を行うと洪秀全の「父」として絶対的な権限をふるった。彼の恣意的な権力行使に対する不満が高まると、楊秀清は「万歳」の称号を要求して洪秀全の宗教的な権威を侵犯した。

逆上した洪秀全は楊秀清の殺害を命じて天京事変が発生し、石達開の離脱によって建国当初の5人の王はすべていなくなった。その後諸王による統治は復活したが、洪秀全は独占した権力を手放さず、かえって中央政府の求心力の低下と諸王の自立傾向を生んだ。

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そして何よりも問題だったのは、様々な王位や官職がもつ権限が曖昧で、複数の権威や組織のあいだで常に激しい競争原理が働いていたことだった。

その最たるものは「万歳」の称号と救世主の権威をめぐる洪秀全と楊秀清の争いであり、他の王たちも庇護を求める人々の声に応えるために競合した。公有制が充分に機能せず、中央政府の求心力が低下するほど、諸王の地方における勢力拡大は進み、中央以上の富と兵力を蓄積する者も現れた。そして洪秀全とその側近によるコントロールのきかない諸王に対する不信と抑圧は、政権そのものの崩壊を招いたのである。

その結果、後世の人々は太平天国が失敗した原因を内部分裂に求めた。そして「中国は常に強大な権力によって統一されていなければならない。少しでも権力を分散させれば破滅をもたらす」という、中国の歴史においてくり返し唱えられてきた教訓を読み取ろうとした。

実際には清末に李鴻章をはじめとする地方長官の権限が拡大し、20世紀に入ると省を単位とした連邦政府構想である「聯省自治」論が模索された。だがいっぽうでそれを「軍閥割拠」あるいは外国勢力と結託する「分裂主義」と批判する傾向も強まった。そして蒋介石の国民党であれ、中国共産党であれ、強大な権力を握って異論を許さない「党国体制」が生まれていくことになる。

二宮  ガラン写本の言葉は、いまとはかなり違うのですか。

西尾  違います。実はガランも誤訳しているぐらい(笑)。アラビア語は現代でも口語と文語が基礎語彙から違う言語です。アラビアンナイトはもともと語り部が語っていたものなので、典雅でなく、辞書にない口語が交じっている。そこに方言が交じれば太刀打ちできない。ラテン語の研究者によると、キケロなど古い時代のラテン語は、辞書や注釈書が揃っているから訳せる。一方、中世のヨーロッパは、共通語がラテン語で、別の地域の言葉が交じりあってラテン語化し、判別できない言葉がたくさんある。古典より読むのがずっと難しいのだと。アラビアンナイトの言葉もこれに近い。
 アントワーヌ・ガランは東洋学者で、語学に堪能だったため、外交使節団として東欧地域にたびたび派遣され、足掛け二〇年暮らして直に言葉を学びました。フランスに戻った一七〇一年、アラビアンナイトの十五世紀の古写本三巻本を手に入れて、翻訳を始めます。アラブ世界でも忘れられていたアラビアンナイトが、ガランの再発見により、日の目を見ることになったのです。

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西尾 ガラン写本に収められているのは二八二夜の途中までです。ガランはほかに写本があるはずだと信じていましたし、それに影響を受けて、後世の書き手たちが物語を探し、どんどん収載していったという経緯があります。ほかの版との重なりを比べてみると、原本はこの二百数十夜ほどの物語だったのではないかと考えられるのですが。
 アラビアンナイトとは、アラブ世界とヨーロッパ、二つの文明を往復しながら、様々な訳者や写本探しに奔走した人々の間で、変幻自在に出来上がってきたものです。アラブ文学ではなく世界文学、というより、もはや、文化現象だといえます。
 これまでに出版されているアラビア語版のアラビアンナイトには、主なものにカルカッタ第一版(一八一四~一八)、ブレスラウ版(一八二四~四三)、ブーラーク版(一八三五)、カルカッタ第二版(一八三九~四二)の四種類があります。中でもカルカッタ第二版は決定版といわれ、その後ヨーロッパで訳される多くの翻訳本の底本となりました。中世の様々な語彙を内包している点でも重要なテキストです。でもそれは決してオーセンティックなものとはいえないんです。

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二宮   アラビアンナイトには、翻訳者の違うレイン版、ペイン版、バートン版、マルドリュス版が知られているそうですね。ガラン版との差異やそれぞれの特徴も教えていただけますか。

西尾   これらはいわゆる「超訳」です(笑)。比較するのに「ガランは子ども部屋に、レインは図書館に、ペインは書斎に、バートンはどぶに」と形容されています。原本のエロティックなシーンを改変したガラン、生真面目にまとめたレイン、資料的価値が高いけれど難解なペイン、エロティックな場面を強調したバートンという違いです。
 僕は、マルドリュス版を評価しています。それはガランの仕事を最も受け継いでいるのが、マルドリュスだと思うからです。彼は様々な版を編集し、文学的な薫り高いアラビアンナイトを紡ぎ出しました。どこからもってきたか分からない物語も含まれているので、アラブ研究者にはまがい物のように考える人もいますが、アラビアンナイトを、人類が生み出した文学現象だと考えるならば、ガラン版が原点にあり、その後継者はマルドリュスです。カルカッタ第二版は、世界の文学にガラン版やマルドリュス版以上の影響は与えていません。

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西尾 そして実は、多くの人がアラビアンナイトといってイメージする、「アラジン」「アリババ」「シンドバット」は、ガラン写本に入っていないんです。「シンドバット」はガランが別で見つけた物語ですが、アラビアンナイトの一部だと思い込んでいたようです。

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西尾  物語の中に語り手がいて、数々の物語を語っていくという形式は、やがて文字で書く小説にも取り込まれていったのではないかと考えられています。近代小説では背景や周囲との会話などで、人物の内面を描いていきますが、登場人物に物語を語らせることで人物の内面を描く、それがある時期の小説の手法だったということです。イギリスの小説でも、巡礼者がひとり一人、自分の人となりを語るスタイルを生みだしました。

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西尾  人間はその場にAとBがあれば、必ずストーリー性を見出していく生き物なのだと思います。僕はストーリーテラーではないので、人間の中にどういう動機づけの力があるのかに関心がある。動機づけるときに作用するのは、人類にとって普遍的なものなのか、文化によって規定されているのか。それを考えるとっかかりが、民話学でいえばモチーフからの分析でした。先程の「ヴェニスの商人」でいうと、自分の肉一ポンドを与える、というモチーフを、時代や地域で並べて分析していくと、出てくる文化圏と出てこない文化圏がある。出てこない文化圏には、別の補完的なモチーフがあるわけです。 
 ではモチーフとはどこから生まれて来るのか。本書での結論は、自然との繫がりや社会環境など、広い意味での環境要素と、人間の身体的な属性、それから人間の頭の中にある言語。三つが作用して、地域性や文化性を作っているのではないかと。そうであれば、シェイクスピアのモチーフを、我々が根本的に理解するのは不可能です。

二宮  その当時、その文化圏にいた人だけが分かる話になってしまうということですね。

西尾  それが人文科学として考えていった結論なのですが、それでは極端ないい方をすると、文化が違えば理解し合えない、ということになる。それではあんまりなので、それを越える何かがあるのではないだろうかと。言葉の力なのか、人類共通にもつ普遍的な何かが別にあるのか。もしかしたら、言葉をめぐる認知科学的探究の中に、そうした人類共通の何かが見つかるかもしれない。ただ話は戻るけど、人文科学に、絶対的で科学的な説明言語はない。厄介ですね(笑)。というわけで、とにかく人間が言語で何をしているのかを、広い目で見ていこうと思っています。