2021/4/30, Fri.

 自分の書いたものを読みかえしていると、それぞれの作品の構成そのもののなかに、〈成功した/失敗した〉という奇妙な分裂が見てとれるように思う。ときおり、幸福な表現すなわち幸せな海岸があって、それから沼地や岩滓もあるので、彼はそれらの分類整理をはじめたほどである。それにしても、始めから終わりまで成功している本はまったくないというのか。――いや、おそらく日本についての本はそうだろう。切れ目なくほとばしる、喜びにみちたエクリチュールの幸福が、ごく自然に、幸せな性欲に結びついたのだった。〈彼が書くもののなかで、それぞれが自分の性欲を擁護している〉のである。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、235; 「成功した/失敗した(Réussi/raté)」)



  • 一一時半の離床。前夜は三時四五分に就床したのに、そのわりにやや遅くなった。瞑想もサボる。コンピューターを点けておいて上階へ。母親は不在。父親は家の外で何かやっている気配があった。炊飯器を覗くと米もないし、前日の汁物の残りやサラダがあったのでそれを食べても良かったのだが、なんとなく面倒臭くてカップ麺にしようと横着し、先に風呂を洗う。漂白剤が出ており、そのそばでマットが扉に立てかけられてあった。もう乾いており、近づいたり触れたりしても漂白剤のにおいがしなかったので、たぶんもう流したあとだと思われたが、一応さらにシャワーをかけておく。そうして浴槽を擦り洗い、出ると「緑のたぬき」を用意して帰室。コンピューターを準備したりウェブを見たりしながら食べる。「英語」を読みはじめたのは一時過ぎだったはず。昨日の続きでSachal Vasandani『Hi-Fly』を流した。「英語」はいま645番まであるのだが、そこまで達し、最初にもどって30番まで読んだ。それからベッドに移って書見。ヴァルター・ベンヤミン/浅井健二郎編訳・久保哲司訳『ベンヤミン・コレクション 3 記憶への旅』(ちくま学芸文庫、一九九七年)。書簡アンソロジーである「ドイツの人びと」をすすめる。日本では文学や哲学好きのあいだでもまったく知られていないような名前が色々出てきて、本当にたくさんのひとがいるものだなあと思う。当たり前だが。書簡は面白い。ゲーテの書簡とかマジでいつかすべて読んでみたいのだが。たしか五〇巻分くらいあるという話だったと思うが。
  • 今日は四時から(……)と通話する予定だった。その前、三時過ぎくらいからまた立って、今度は「記憶」を音読。ムージルの「愛の完成」、また「静かなヴェロニカの誘惑」からの引用。四時直前まで読む。便所に行ってもどってくると、四時ぴったりに(……)からZOOMの情報を記したメールが届いたので、隣室に移動。ZOOMをひらいてIDとパスコードを入力し、通話をはじめる。通話のことはあとで。話したことは、『浮雲』について、Cloudworksについて、曲、ギター、コード進行、宗教について、人生もしくは実存について、(……)について、など。
  • もともと五時から用事があって一時間だけという話だったのだけれど、その用事は昨日にまわってなくなったということで、六時半頃まで話は続いた。終えるとコンピューターを自室にもどし、上階へ。母親はタブレットで、以前送られてきた(……)くんがエヘヘエヘヘと笑っている動画を見てにこにこしていた。夕食の支度をサボってしまったが、アイロン掛けはおこなう。そうして食事。モヤシや肉の炒め物に筑前煮めいた煮物、サラダなど。新聞の国際面を見るとミャンマーの報があり、国軍とカレン族武装組織が衝突して、国軍側に四〇人の死者が出たと。それで報復で空爆がなされたと言い、今後も戦いが苛烈化するおそれがある。少数民族勢力の多くはクーデターを起こした国軍に対立し、抗議デモに賛同しており、だから各地で国軍側と衝突が起こっている模様。
  • はやばやと飯を終えて、食器を洗い、茶を用意して帰室。「記憶」をまた読んだ。ディスクユニオンのサイトのMale Jazz Vocalのカテゴリを見ると、Mel Tormeの名前があったので、久しぶりに流すかと思って、Mel Torme『At The Crescendo』をAmazon Musicで流した。このライブ盤は昔持っていてけっこう流したのだが、いつか売ってしまった。それで音読し、そのあとふたたびベッドに転がって書見。音楽はTaylor Eigsti『Lucky To Be Me』につなげる。Eigstiのピアノはすばやくて、畳み掛ける感じがあって気持ちが良い。こまかいフレージングなどよく聞いていないが。あとコード表現も良くて、このアルバムも『Let It Come To You』も、あとKendrick Scott Oracleの『Conviction』も、どれもたしか最後の曲はソロピアノだったと思うのだけれど、そのどの独奏も良かったおぼえがある。あと、Christian McBrideがやはりすごくて、こいつマジでなんなんだろうな? という感じ。ソロのことだが。正確無比なところはとことん正確無比なのだけれど、かといって機械的でもなく、リズムの流れ方が多少揺れるところもあるのだけれど、それはむろん瑕疵ではなく、音楽の一部として完全に統一性を保持しており、リズム的に曖昧なゆらぎをはらみながらあきらかに内的に一貫した流れを持続している、というわけで、ジャズのすごい連中ってみんなそうなのだが、どうしたらああいう感じのことができるようになるのかちっともわからない。
  • 九時をまわったら散歩がてらコンビニに年金を払いに行くつもりだった。それで九時前に書見を中断し、便所で腹を軽くしてから今日のことをここまで記述。いま九時二二分。
  • 服を着替えて出発へ。白いシャツとブルーグレーみたいな色のズボンというシンプルな格好。クラッチバッグをたいへんひさしぶりに持つ。九時半ごろに出たはず。予想よりも夜気が冷たく、けっこう肌寒かったので、すぐにシャツの第一ボタンをしめた。それであとは歩いているうちにからだがあたたまってくるだろうとまかせることに。夜歩きはとても良い。やはり人間、なんらかのやり方でともかくもからだを動かす時間をとらなくてはならないのだ。小橋をわたって坂を上っていくと、それがちょっとカーブするあたりで左にひらいた下り坂の先にある家にひとの気配があり、同時に煙のにおいもあたりにただよっていたので、外でバーベキューでもやっていたのかなと思ったが不明。裏道を西にゆっくりとすすむ。夜なので色彩もあきらかならないが、と思って見上げると、そういえば星は見えるからわりと晴れてはいるようだが月がなく、しかし数日前でちょうど満月くらいではなかったかとおもうのだけれど出がまだなのかそれとももうすんだのか、いずれ月の暦をいつまで経っても理解しないからわからず、ともかく空は暗くて月光がないから地上の色もその分あまり立たないようで、電灯が近間の頭上にひろがればそれだけでその向こうの宙や天は見えなくなってしまうから、あたりから黒い闇が寄って空間がせまくなり、そのなかに追いこまれたようでもあるが、その暗させまさは悪くない。街道に出てさらに西へ。コンビニはそこそこひろめの駐車場をもうけているが停まっているのは端の二、三台のみ、店舗の脇にたたずんでいる人影があり、駐車場の彼方には川をはさんで対岸のとぼしい灯火たちが黒の領域と化した山を背後にぽつぽつ見える。入店し、ATMで金をおろし、レジで支払い。すむとなにも買わずにさっさと出て、道をもどる。散歩がてら遠回りしていくことに。それで街道を東へ直進。ちょうど昨年のいまごろも授業がオンラインになり、オンラインで授業をやりたくないこちらはながく休みをもらってしばしば夜歩きに出ていたが、そのとき見たのと同様に、(……)の敷地を画す垣根の、たしかあれはベニカナメモチというやつだったはずだが、その葉がことごとく、ひとつの漏れもなく真っ赤に染まりきっていた。黙々と歩いて、「(……)」の前の自販機でキリンレモンを購入。本当はコーラが飲みたかったのだが、なぜかペットボトルのコーラはなくなってしまい、缶しかないので。さらに東へすすみ、裏に入って坂を下っていく。空はどうもやはり雲がないようで、青黒いように磨かれた銅板の質であり、そこに星がいくつか穿たれているもののしかしその星もあまり冴えず、雲がないわりにすっきりとせずに暗い夜だ。家のそばにつづく最後の坂に入りかけたあたりで、道にいるのも部屋にいるのもあんまり変わらないな、という感じが立って、ついで、まあ結局、こうして自分ひとりでゆっくり歩いていれば、人間というより、タンポポの綿毛が大気にただよっているのとおなじようなものだし、と思った。ひとりで歩いていると、まさしく諸縁を放下する、という感じがする。事物とか自然とかがすばらしいのは、それがこちらを完全にひとりに、ひとりどころかひとつにしてくれることだ。人間同士でいるとどうしたって、どれほど調和する相手であったとしてもそれは二人になってしまうし、どんな相手であれ相手が人間であるというだけで、当然だがやはり相対的に意味が重いから疲れてしまう。楽しいこと面白いことも色々あるし、面倒なことも嫌なこともむろんあるが、どういうかかわりが生まれるにせよ、人間とのかかわりのなかには、本源的に疲労がふくまれている。事物に対してそういう意味での疲労はない。あるいは完全にないわけではないにせよ、はるかに薄い。
  • 坂の出口にいたると樹々が途切れて空間がひらき、近所の家並みと川向こうの景色が望まれ、景色といったっていまは夜だから真っ黒に塗りつぶされた生地の上に対岸の明かりがいくらか、あいだに距離をひろくあけながら黄色く浮かぶそのなかに、あれは信号なのか車のライトなのか踏切りなのか赤い点灯がひとつあってとどいてくるのみの、夜景としては貧相というほかないその程度のものなのだけれど、川の流れの響きが夜気の静寂のなかごうごう昇ってくるのを感じながらそれをながめていると、それだけでなにかの感動が、叙情に近いが叙情にはなりきらないしずかな感動のようなものがきざして生じる。
  • 帰宅。部屋にもどって着替え、母親と入れ替わりにすぐに入浴。風呂のなかではわりと止まる。やはり瞑想的な、止まる時間をつくらないと駄目だなと思った。我々はつねに行動に支配されており、支配されすぎている。夜歩きは九時半から行って、帰ってきたのはたぶん一〇時二〇分くらいだったと思う。一時間に満たないくらいの間だったはず。そこから風呂に入って、一一時二〇分くらいには部屋にもどっていたか? 音楽を聞きながら書抜きをしようと思っていたのだけれど、水の気がやや残っている頭にヘッドフォンをつけるのに気が引けて、それでもうすこし乾くまで待とうと思ってベッド縁でウェブを見て、それから書抜き。書抜きは熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)に入っている。これも去年の三月に読んだ本なのだが。BGMはAmazonでSteinar Raknes『Chasing The Real Things』というのを流してみた。悪くはないが、すごく惹かれるわけでもない。基本、ウッドベースを弾きながらこのRaknesというひとが歌う趣向で、そこにコーラスとかブルースハープとかがくわわる。音楽性はブルージーだけれど、基本ベースがコードを担当していて、ほかにコード楽器もなかったような気がするし、ドラムなどもないからかなりものしずかな感じ。
  • 書抜き後は二八日の日記を書いたりだらだらしたりして、三時半に就床。あとこの日のこととしては、(……)との通話の内容を書いておかなければならない。
  • (……)との通話の序盤は、『浮雲』の話とCrowdworksの話だった。どちらが先だったかおぼえていないのだが。『浮雲』にかんしては、最近はなにを読んでいるのときかれたので、ベンヤミンなんていってもしかたがないしなとおもいつつ、まああいかわらずなんか小難しいやつを読んでるけど、と受けて、日本のものだと明治時代の小説を読んだといって内容を語ったのだった。言文一致をだいたい最初にやったものだといわれていて、言文一致っていうのは、明治ごろってまだ書き言葉は文語なんだよね、古文とか漢文みたいな文章で、じっさいに話してる言葉とはちがうわけだけど、それを話し言葉とおなじように書こうっていう話で、と説明。まあ、『浮雲』に載っていた桶谷秀昭の解説によれば、二葉亭四迷はべつに言文一致を野心をいだいてやったわけではなく、当時人気だった幸田露伴とかみたいにうまくてきらびやかな文章が書けなかったので、じぶんでもできる苦肉の策としてえらんだ、みたいなことが書いてあったとおもうが。それが十年か二十年くらいあとになって、国木田独歩とかをひきつけて先駆者として位置づけられるわけだから、わからないものだ。それでじっさい落語家が目の前でしゃべってるみたいな感じがあって、それは面白かったな、ただなんかストーリーが……なんかかわいそうっていうか、なんかなあ、みたいな感じだったね、ともらしておおきく苦笑をうかべ、文三の境遇や物語の展開を話した。めちゃくちゃ暴力的に要約すれば、役所をクビになって無職におちいったのを機に、両思いだとおもっていた女性と疎遠になって、彼女がチャラ男になびいていくのをとめられない、みたいな話なわけだ。それはたしかにかわいそうだね、そうするとけっこう共感できそうな感じ、と(……)は問うたが、それにこちらは首をかしげて、まあまったく共感しないではないけど、この主人公がまたはっきりしないやつでさ、実直で誠実なひととしてえがかれているんだけど、頭のなかでいろいろかんがえてはいるんだけど右か左かえらべなくて身動きがとれなくなっちゃうんだよね、だから全然行動力がなくて、おまえ、もうちょいなんか……やれよ! みたいな、といって笑う。そのあと、ほんとうに平凡な人間しかでてこないっていう感じだった、主人公が苦難にあいながらもがんばってのりこえるとか、成長するとか、そういうわかりやすい筋立てじゃないから、物語的にはそんなにおもしろくないというか、まあなんかなあみたいな感じだったけど、でもそういう意味でのリアリティはあったかもしれない、と述べた。
  • Crowdworksにかんしては、(……)がなにかのときに、水道の検針の仕事はいま全然募集してるみたいだから、といったのを機に(前に通話したときに、彼がやっているそれについて話をきき、そういう仕事もいいかもなともらしていたのだ)、ききたいことがあった、翻訳の仕事ってなにでやってんの、とたずねたのだ。Crowdworksというものの存在は知っていたし、たぶんそれではないかとおもってもいた。というか以前の通話でも、その名が出ていたかもしれない。Crowdworks自体もこちらはたしか昔に一度登録したことがあるような気もするのだが、それは気のせいかもしれない、登録までは行っていなかったかもしれない。(……)がやっているのは主に中国語を日本語に訳す案件だという。文書の種類としては、契約書やなにかの製品の説明書などが多い様子。あまりおもしろくはなさそうだが、そういった仕事でもやってなにかしら書き物で金をえなければ、いつまでたっても金をかせぐことができないだろう。ただ、割りはよくなさそうではある。容易に予想されることだが。時給に換算すると、五〇〇円とか六〇〇円くらいになっちゃうときもあるかな、というのが(……)の言だ。それにたぶん相当がんばらなければそこそこの金にすら達さないのではないか。だがまあ、そういうのも勉強にはなりそうだしな、とつぶやいておく。仕事を発注しているのはむろんだいたい企業だが、たまに個人での依頼もあるらしい。また、なかにはYouTubeの動画に字幕をつけてほしいみたいな仕事もあるとのこと。こちらから募集に応募することもできるし、あちらから依頼が来ることもあると。で、仕事が終わったあとの評価制度がもうけられているので、まじめに良い仕事をかさねていけば評判をたかめることもできると。やはりまじめに良い仕事をかさねていくことこそがこの世でもっとも重要な一事である。こちらは資格もなにもないわけだし、有効な手段になるのかわからないが、とりあえずそのうち登録して多少ためしてみてもよいだろう。
  • (……)は最近曲をひとつつくったといってギターをとりだしてきたので、それをきかせてもらった。素朴な感じだったが、思いのほかに悪くない。よくあるJ-POP的な感じとはちがっていてよいと評しておく。あまりあからさまにA・B・サビと構成をくっきりさせて物語的にもりあげていくという感じではなかったので。一応そういう構成にわかれてはいるわけだが。これを歌った音源に自作の絵もつけて動画に仕立てたというのでそれも見せてもらうと、鉛筆画なのだが、普通に絵がうまいなとおもわれたし、その数もかなり多かったので、これだけ描くのはたいへんだっただろうとねぎらう。記憶が刺激されて、たしか高校時代も絵を描いていたんではないかとおもったのでそうきいてみると、たしかに描いていたがそんなにやってはいなかった、それに(……)とか絵のうまいひとがいたしね、とのこと。(……)というのは(……)という名前の、バスケ部だったわりとイケイケな方面の男子で、彼は絵がやたらうまく、というのは自宅で母親が絵画教室をひらいていて、それで彼自身もおさないころからよく絵を描いてきたという事情だったとおもうのだが、数年前に会ったときの状況から変わっていなければ、いまは広告代理店的なよくわからん会社でデザインの仕事かなにかしているはずだ。高校二年生のときに我がクラスは合唱祭で"Soon Ah Will Be Done"という黒人霊歌をやったのだが、そのときに(……)が描いた、黒人がギターをかかえてつまびいているような感じの絵がやたらうまかった。(……)の家にはたしか一度だけ行ったことがある。なぜ行ったのかおぼえていないが。たぶん卒業後、大学時代のことで、同窓会的なあつまりに顔を出したときに、帰りにおくってもらうついでになぜか寄った、みたいな感じだったような気がする。彼の宅のアトリエというか、絵画教室がおこなわれているところを見た記憶もある。あまり詳細におぼえてはいないが。おそらく(……)も一緒にいたとおもう。(……)もバスケ部の一員だったやつだ。(……)は高校一年のときからなのか知らないが(……)さんとずっとつきあっていて、(……)さんはよく我々のクラスにやってきて(……)と仲睦まじく交流していたダンス部の女子であり、こちらは卒業式のあとに第二体育館みたいなところで卒業祭みたいな小規模のもよおしがひらかれた際にバンドでVan Halenの"Jump"をやったのだけれど、それがダンス部とコラボするという企画で女子ダンス部のひとびとが演奏の途中からあらわれてまわりで踊るという趣向になっており、それでわずかばかりのかかわりを(……)さんとえて以来なぜかすこしだけ仲良くなった。なぜなのかよくわからないのだが、こちらは高校時代、女子の一部から好意まではいかない幾ばくかの信頼感みたいなものをえていたようで、(……)さんもそのようなものをおそらく多少はこちらにたいしていだいていたようで、卒業後に何度か顔を合わせる機会があり、一度はデートでもないが二人でカラオケにいったことがある。なぜいくことになったのかわからないが。(……)さんはやたら歌がうまいひとで、このときもなにかしらのR&Bをやたらうまくうたっていたおぼえがある。こちらがなにをうたったのかはおぼえていない。(……)あとおぼえているのは、なにかの機会に数人であつまったときに、たしかそこには(……)さんもいたとおもうのだが、あともしかしたら(……)もいたかもしれないが、(……)さんが、他人と一緒に布団にはいって寝るのが好きじゃないみたいなことを口にしてこちらが同意したという一場面で、というかじっさいにはこちらが先にそういって(……)さんが同意をかえしてきたのだったかもしれない。当時は他人と同衾した経験も性交渉をもった経験もなかったしいまもないのだけれど、当時はあまりセックスをしたいという欲望も感じていなかったので、ひとと一緒にひとつの布団で寝るのはたぶん自分には無理じゃないか、ぜんぜんおちつかなくて心地よく寝られないとおもう、みたいなことを言ったのだったような気がする。いずれにしても(……)さんとこちらのかんがえが一致したことを記憶しているのだが、たぶんそのおなじ席で彼女は、当時は(……)とわかれていたのかあるいはまだつきあいがつづいていながらも恋情もしくは愛情がさめていたのかわからないが、たしか彼についてなんとか文句か愚痴をこぼしていたおぼえがあって、(……)さんがそれをきいていたわけだけれど、なぜかその場に同席していたこちらがだまって傍観者になっていると、二人のどちらかが、女性同士のいやな話をきかせてしまって、みたいなことを言ってとりなしたおぼえがある。さらに、どうでもよい連想なのだけれど、何年か前の四月にやはり高校時代の同窓会的なあつまりで花見に行こうとなったときがあり、当日はあいにく天気がわるくて急遽カラオケボックスのひろい一室に入ったのだけれど、そのとき参加していた男性はなぜかこちらだけで、あとからたしか(……)が来てそれで二人になったのだったとおもうが、女性はけっこうたくさんいてこちらはいつものことで言葉すくなにだいたい聞き役にまわっていたのだけれど、そこで(……)が元彼だったかそのとき好きだったひとだったかの話をして、たしか女子高生にとられたみたいなことだったとおもうのだけれど、そういう話をしているときにも(……)さんか(……)さんだか誰だかが女性同士のときにしか出ない嫌な部分を見せてしまっているね、みたいなことを口にして、こちらはそれに対していや大丈夫、おもしろいよ、だったか、それか勉強になりますとかなんとかかえしたおぼえがある。
  • この日の(……)の話にもどると、こちらもなにか弾いてくれともとめられたのでアコギを出してAブルースをみじかく適当にやり、そのあとコード進行の話など。(……)は曲をつくるといつも定番の、決まりきった進行になってしまうともらした。だいたい4→5→3→6もしくは1とかになるらしく、これはまさしく定番中の定番だ。こちらはサブドミナントマイナーをおしえた。先ほどの曲をきいたときにも、マイナーの色合いがどうもすくないから、どこかでちょっとはさんだほうが刺激があるのではないかとおもっていたこともあって。あとBメロだとたいてい2度のコードからはじめたりするね、Bメロはちょっと雰囲気を変えたいことが多いだろうから、というと、(……)はいままではCのキーでいうとAm、すなわち6度のコードを使うことが多かったらしい。まあでも結局、枠はある程度かたまってるから、あとはそのなかでどうやるかでしょ、どういう装飾を入れるかとか、それこそブルースもスリーコードだけでもできちゃうわけだし、とこちらは言い、ポピュラー音楽のいままでの歴史のなかで名曲っていわれたり、ヒットしたりした曲を調べてみれば、だいたいコード進行はおなじだろうからね、とも言っておく。まあもちろん進行を、つまりは物語的な展開を試行する挑戦もあって良いわけだし、それはそれで大切だが。ほか、余計ながらアドバイスとして、コードもスケールもリズムもまったくかんがえずに、本当に指のおもむくまま適当に弾くみたいなのもけっこうおもしろいよ、なんか音楽にたいする感覚がやしなわれるような気がする、といって例の似非フリーみたいなやつを適当に実践し、こういうふうに指を動かすとこういう響きになるんだな、っていう感覚がつくような気がする、といっておいた。
  • 終盤は宗教関連の話。(……)は「(……)」に属していて布教活動に精を出しており、それをみずからの生きがいとさだめているのだが、日々のメインはそれじゃん、あとほかになにかやってる? とこちらがきいたところ、まあたまにこうやってギター弾いたり、曲つくったり、とかえり、自分はまあ、聖書のなかに人生のこたえっていうか、人間にとっての一番大切なことのこたえがあるって確信しちゃったから、だからそのおしえをひろめるっていうのは一生、死ぬまでやっていくとおもう、というような言があったたしかそののち、不思議におもう? という問いがあったので、いやべつに、俺も似たようなもんだろうし、とこたえながらも、神への宗教的熱情と一緒にしちゃまずいかなと、つまり相手が自分の熱意や使命感を低く見くびられたと感じるかなという配慮が立ったので、いやまあおなじなのかわからんけど、と笑みで濁しておいたが、(……)はおそらく布教活動のなかで宗教にたいする反感とか無理解とかをいろいろ経験してきたのだろうとおもわれ、だからこのときの話もゆっくりとした口ぶりで、すなわち、こういうことを話して大丈夫かなと探りながら、ややおそるおそる語るような調子だった。とりわけ日本だと宗教というものはすぐさまカルトにむすびつけられて胡散臭がられたり敬遠されたりする気味が強いだろうから。まあじっさいにそういう側面もいくらかはあるのだろうが。その後いくらか話したあとに、(……)さんとこういう話ができるとはおもってなかった、高校のときにちょっとはなしたときに、たしか宗教は嫌いだみたいなことを言ってた記憶があったから、とあったので、まあ俺は伝統的なというか、それこそ神を信仰するみたいなタイプじゃないけど、べつにいまは嫌いってことはないよ、高校のときはたぶんよく知らなかったんでしょ、単純に、とこたえた。こちらがおぼえているのは(……)の(……)の上にあったサイゼリアでミラノ風ドリアかなにか食いながらそのあたりの事柄について話したことで、たしかにそのときはちょっと議論めいた感じになったおぼえがある。というのも(……)が進化論をみとめないと言って、進化論も最終的には証拠がないというか、本当なのかどうかうたがわしい、神が生物を創造したというほうが信じられる、みたいなことを話したので、それに多少反論した記憶がある。当時のこちらは進化論を常識として普通に受け入れていたし、いまもべつにそうで、よく知らないものの特にその科学的世界観をうたがう動向は自分のなかにないのだが、こうしておもいかえすと当時の(……)の言い分は、アメリカ社会でおそらくいまもそこそこの勢力を占めているだろう聖書絶対主義の宗教者と大方おなじだったのだろう。いまもそうなのかどうかは知らないが、上で記したように聖書というテクストの価値を信じ高らかに称揚しているわけなので、たぶんいまもそうなのではないか。どちらでも良いが、(……)がこの日の通話でいっていた、こちらが宗教が嫌い、ということを表明したという情報は、いまおもいかえすと、十字軍とかを例にあげて宗教の力によって多数の人間が死に、殺されてきた、だから嫌いだ、というようなことをもしかしたら言ったのかもしれない。あまり明確にその記憶がないのだが、いかにも中途半端にものを知ってひねくれた小賢しい高校生が口にしそうなことではあるし、当時の自分がそういうことを言っていてもおかしくはない。宗教といういとなみのそういう残虐さはむろん一面の真実ではあるのだが、この日こちらが言ったのは、宗教っていうものは俺の理解だと、人間を謙虚にさせるものだとおもうのね、つまり宗教ってどれも、人間を超えたものを志向するわけじゃん、自分よりも大きなもの、自分を超えた領域があるっていうことをおしえる、そうすると人間なんてまったくちっぽけなものだということになるし、万能感がなくなって謙虚になるとおもうんだよね、たぶんどの宗教もそうだとおもう、で、神、っていうといかにも宗教、っていう感じになるけど、べつに自分よりも大きなものがあるっていうのは神でなくてもいいわけで、まあそれがたとえば俺だったら文学、とか、それか芸術とか学問とか、まあなんでもいいんだけど、なにかそういうものがあると人間は謙虚になるんじゃない、というようなことで、これは精神分析的にかんがえるとひとは超越によって去勢される、ということだろう。(……)は興味深く感じたような様子を見せながらいくらか熱をにじませつつそれに同意し、そう、宗教ってたしかに、テロとかやっちゃうひともいるけど、やっぱりひとをただしくみちびくもので、そうでなきゃいけないとおもう、というようなことをかえしたのでこちらは、テロリズムはまあ経済的な要因とかも大いにあるだろうからあまり一概には言えないけど、ただテロに走るひとはさ、あれは謙虚になれなかったってことなんじゃない、つまり神と自分を接続しちゃうわけだよ、で、自分こそが神の意志を体現しているってなるわけだよね、それは一種の思い上がりで、だって自分や人間を完璧に超えた存在を、自分ひとりが代表するなんておかしいじゃん、そんなことはできるわけがないでしょ? そこで同一化が起こっちゃうんだよね、みたいなかんがえを述べた。(……)はこれにたいしても同意をかえした。宗教というものが一方ではおそらく人間を去勢して有限性のなかの中庸やつつましさをおしえるものでありながら、他方では超越との同一化によってまさしく神的万能感をあたえて極端に走らせる危険があるというのは、不思議なようでもあり、またなやましい事柄でもあるのだが、問題はどうしたってやはり主体形成の観点になるわけで、結局は超越に吸収されるのではなく、超越の前にとどまりながら永続的に超越に対峙しつづけることに耐えられる主体をつくらなければならない、ということになるのだろうか? カフカの『掟の門前』をおもいださせるような言い分だが、やはりおのれが個であることを個としてみとめてそれに耐えることのできる主体、というか。ひとまずはそういう方向になるのでは? どうやったらそういうあり方を涵養できるのかは全然わからんが。それにはどうしたってニヒリズムの契機を一度通過することが必要とおもえるのだが。つまり超越を知るということは自分の矮小さを知るということで、それはすなわち去勢されるということだが、おのれの無価値を実感しながらしかしそれを単純にみとめて、そこを前提として立ってあらたな価値秩序を構成していく、という。たぶんだいたいそういうルートをたどるだろう。そこでおのれの無価値をそれとしてみとめられるかどうか、というのが分かれ目になるのではないか。そこでそれに耐えられないものは超越にすがってそちらに吸収してもらうわけだろう。ただ一方でニヒリズムというと、ニーチェの有名な定式句によれば、超越がもはやない、という状況でもあったはずで、そういう場合どうなるのかわからんが。しかしむしろ科学優勢の現代社会においては、そういう頼れるもののない遊動的な人間性のほうが多数なのだろうか? だからそこで不安をおぼえて、エーリッヒ・フロム的にいえば自由の無拘束性に耐えられないのかもしれないし、したがってなにかしらの超越を見つけるとそれに心酔して一気にそちらに殺到し、同一化を目指す、ということなのだろうか。オウム真理教とか、そういうことだった、というかんがえがわりと一般的というか、すくなくとも村上春樹が『アンダーグラウンド』のあとがき的文章で考察していた内容を考慮するとそういう話になるとおもうが。たしかなのは、構造主義だのポストモダニズムだのがかまびすしく語られ、AIだのポストヒューマンだのがうんぬんされる西洋暦二十一世紀ではあるけれど、主体論と承認論はまだまったく終わってなどいないし、今後も当分のあいだは終わりようがないだろうということだ。
  • だいぶ話がそれたが、そういった宗教および実存の話題を語り、それでだいたい話は尽きた。あとどこかのタイミングで昨日(……)と電話した、といったところ、おどろきめいた反応があり、そこで(……)の呼び方が「(……)さん」になっていたのだが、この件は今日すなわち五月二日、(……)と会った際に笑い話として彼にも話しておいた。そのことはおぼえていたら五月二日の記事にのちほど記す。