彼はつねづね、(家庭内の)「けんか」は暴力の純粋な経験であると思ってきたので、けんかの声を耳にすると、両親の口論におびえる子どものように、いつも〈恐怖〉を感じるほどである(いつも恥ずかしげもなく逃げ出してしまう)。けんかの場面がそれほど深刻な影響をあたえるのは、言語活動の癌とでもいうものを露骨に見せるからである。言葉は口を閉じさせるには無力であり、それこそがけんかの場面が示していることなのだ。なんど言い返しても、けんかの終結はありえない。殺人とい(end240)う結末しかないのだ。けんかはひたすらこの最終的な暴力に向かってゆくが、しかし実際にそうなることはけっしてない(すくなくとも「文明人」のあいだでは)。けんかとは本質的な暴力であり、ずっと続けられることを楽しんでいる暴力なのだ。空想科学のホメオスタットのように、恐ろしくて、滑稽なのである。
(石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、240~241; 「けんか(La scène)」)
- 一一時四〇分の起床となってしまった。昨晩は三時半に床に就いたのに、なぜかそれに応じてはやく起きられない。滞在は八時間強。上階へ行くと母親はまた天ぷらを揚げている。ジャージに着替えてちょっと屈伸したり、顔を洗ったりうがいをしたりして、食事。天ぷらをおかずに白米を食う。新聞はまた一面と国際面の「奔流デジタル」を読む。SNSやネットメディアが、社会の分断を過激化する方向に働いている、との話で、だから目新しいものではない。昨年の八月だったかに、米国はウィスコンシン州のケノーシャという町で黒人が警官に銃撃されて、それに対する抗議と衝突が起こったことがあったのだが、それもまずBlack Lives Matter運動の活動者がSNS上でデモを呼びかけ、怒りに燃えたひとびとが各地から集まってきて、一部が暴徒化して商店を破壊したり放火したりしたものだから、危機感をおぼえた市議が銃を取って町や家族を守ろうとこれもSNSで発言し、応じたひとびとが即席の自警団を組み、そして衝突が起こって一七歳の少年が抗議者のうち二人を殺害することになった、と。この少年というのはKyle Rittenhouseという名の人間で、Arwa Mahdawi, "Enough with militias. Let’s call them what they really are: domestic terrorists"(2020/10/10, Sat.)(https://www.theguardian.com/commentisfree/2020/oct/10/militias-domestic-terrorists-gretchen-whitmer(https://www.theguardian.com/commentisfree/2020/oct/10/militias-domestic-terrorists-gretchen-whitmer))でちょっとだけ触れられていたのを前に読んだ。〈It’s not just the White House that’s complicit, it’s the media. Kyle Rittenhouse, for example, the 17-year-old accused of killing two protesters in Wisconsin last month, was celebrated as a vigilante by rightwing outlets. “How shocked are we that 17-year-olds with rifles decided they had to maintain order when no one else would?” Tucker Carlson asked on Fox News. Far-right pundit Ann Coulter tweeted that she wanted the teenager “as my president”. The New York Post, meanwhile, published photos of Rittenhouse cleaning up graffiti; he was framed as a concerned citizen rather than a cold-blooded killer.〉とのこと。ケノーシャというのはけっこう小さめの町のようで、SNSがなければ、この田舎町が大規模な衝突の場になることはありえなかっただろう、との言が紹介されていた。あと、『ザ・ソーシャル・ジレンマ』とかいう、SNS運営会社の幹部などが内情を証言したみたいなドキュメンタリー映画があるらしく、そのなかで、SNSの力もあってこのままの社会が続いていったらどうなるか、という質問に対し、ある会社のひとは、civil war、内戦だ、とこたえているらしい。
- 国際面のほうはQアノンにはまったけれどその後そこから抜け出したひとの例が出ていた。このひとはたしかオハイオ州の四〇歳の男性とあったと思うが、もともと政治に強い関心を持っていたわけではなく、ただFacebookで出てきたQアノン動画をちょっと見てみたところからのめりこんでいったと。最初はクレイジーだと思ったが、次第にこれが真実だと確信するようになった、と言っていた。それで友人とかにも熱弁するようになったのだが、当然敬遠され、友人は離れていき、妻とも離婚することになったと。「目が覚めた」のはある種コロナウイルス騒動のおかげで、Qアノン勢力はコロナウイルスは何の問題もなく、マスクをつける必要もないと主張していたらしいのだが、それに触れてなにかおかしいなと感じるようになったと。そして決定的だったのはドナルド・トランプが大統領選で負けたときの振舞い方だったという。現職の大統領が選挙不正がおこなわれたとか、勝利が盗まれたとか、「負け惜しみ」をいうのを見て、完全に「目が覚めた」とのことだった。イプソスとかいう名前の調査会社によると、米国では四割ほどがQアノンの「ディープ・ステート」説を信じているという。信じているというか、「ディープ・ステート」は存在すると思うかという質問に、同意するとこたえたひとの割合が全体では四〇パーセントほどになったと。共和党支持層では七割。民主党支持層でも一四パーセントいたはず。無党派は半分くらいだったか。「ディープ・ステート」というのはQアノンがその存在を主張している「闇の政府」らしく、『STAR WARS』かよ、という感じだが、要するに一部のエリート層が結託して国を裏からあやつり、自分たちの既得権益をまもるためにドナルド・トランプをおとしめている、というような発想らしく、これに同意する人間が回答者の四割をも占めているとなるとどうしても米国はもう終わったな、とつぶやきたくもなってしまうが、発想としては要するにマニ教的善悪二元論の世俗化されたかたちということになるのではないか。諸悪の根源が、みずからや社会がおちいっているさまざまな苦境や問題を最終的に支配している人間や勢力がどこかにあるに違いないというわけで、宗教がもっと優勢だった時代はそれが邪神というか悪の神だったわけだろうが、いまはもうみんなそのような超越的な観念的存在を思考・志向しないので、それが現世領域に措定されなければならず、だから見えないけれどどこかで国を支配している悪の親玉がいる、ということになるわけだろう。残念ながら世界はそんなに都合よく単純にはできていない。こういうかたちでの善悪二元論は、それを信じる者にとっては非常に楽である。なぜなら、問題をすべてその諸悪の根源に帰してしまえば良く、また、具体的な個々人を判断するときにも、「真実」に気づいているこちら側なのか、それとも「ディープ・ステート」側なのか、というひとつの判断軸を参照するだけで済んでしまうからだ。だから、「ディープ・ステート」なるものは、Qアノンを信奉するひとびとの、そういうものがあってほしいという、願望でもあるのだろう。それがあれば、楽だから。この世の複雑怪奇さに直面せずにすむし、自分たちを言わば「光の戦士」として英雄化もできるから。
- 食事を終えて皿洗いと風呂洗いをすませ、カルピスをつくって帰室。Notionを準備して今日のことをここまで書くと、いまは一時。今日は暑い。天気はあからさまに良いわけではなく、空は雲が多く覆って、明白な陽射しが射すわけでもないのだが、窓は開けているし、ジャージの上も脱いで黒の肌着姿になっている。
- この日は昨日にあたるのだが、今日、五月二日はひさしぶりに街に出てひとと会い、体験した情報がおおかったためかこのついたちのことはもうけっこうわすれてしまっており、家にとどまっていてあまり変哲がなければ一日経っただけでわりとわすれてしまうのだが、ヴァルター・ベンヤミン/浅井健二郎編訳・久保哲司訳『ベンヤミン・コレクション 3 記憶への旅』(ちくま学芸文庫、一九九七年)は三〇ページ強読んだ。書簡アンソロジーである「ドイツの人びと」をすすめており、そう、ヘーゲルが死んだときのことをつたえた手紙があって、それはなかなかおもしろかった。ヘーゲルにまなびたくてベルリン大学に行ったなんとかいう神学方面のひとが、ヘーゲルの講義をすこしのあいだ受けて一度面会したのみでもう彼が死んでしまった、ということなのだが、ヘーゲルは当時流行していたコレラにかかって死んだらしい。一八三一年。ゲーテが死んだのは一八三二年である。いままでまったくかんがえたことがなかったのだが、このふたりは同時代人なのだ。じっさい交流もあったようで、べつの、たしかツェルターの手紙で、ゲーテとヘーゲルがツェルターもまじえて三人で会合をもった、という註もついていたはずだし。ヘーゲルがこの神学生に接したときの様子とか、その葬儀のときになんとかいうヘボ詩人がまったくふさわしくない下手くそな詩を読んだとか、もちろんヘーゲルの死にたいする周囲の反応とか、そういったことがつたえられている。それを読むかぎりどうも、ヘーゲルはマジで当時のドイツ思想界であきらかにもっとも重要な人物として文句なく位置づけられていたらしい。ただすくなくともこの神学生と面会したときの模様には偉ぶったところがなさそうで、ひとの好い老教授、という風情だったようだ。
- 夕食には幅広のうどんを茹でた。こちらはそれを煮込んで食う。あと天麩羅ののこりなどがあったのでそれで食事。アイロン掛けもした。夕食時に新聞記事をなにか読んだとおもうのだが、おもいだせない。あれだ、韓国にある脱北者団体が北朝鮮に向かってビラを風船につけて大量に飛ばした、という報道があった。ビラにはむろん金正恩を批判する内容が記されており、ビラと同時に冊子類を一〇〇冊だったかと、あともう一種類なんだったかわすれたがなにかしらのものが飛ばされたらしい。で、文在寅政権は、金与正が以前脱北者たちのビラ撒布に抗議してやめさせろともとめてきたのにおうじて(たしかそのときにまた、南北連絡事務所みたいな施設を爆破したということではなかったか)、ビラ配布禁止法みたいなものを成立させていたらしく、今回のこの件はあきらかにそれに違反するとおもうのだけれど、禁止法を根拠にして文在寅政権がこの団体に処罰をくわえたりすると、北寄りで弱腰だという批判が国内から高まるだろう、ということだった。あと当然、日本の右派とかも俄然いきおいづくだろうし、米国としても韓国があまり北朝鮮に接近するとおおいにこまるだろう。
- あともうひとつ、中国がジブチに空母施設を建造したという記事を読んだのもこの夜だったはず。ジブチというのはアフリカの東側、アデン湾に面したところにあってエチオピアとソマリアに接している地理的領域としてはめちゃくちゃ小さな国らしいのだが、中国はそこに進出して、いまのところ唯一の海外基地をつくっており、それが空母も寄港できるようなかたちにバージョンアップされた、ということだった。たしか米軍のアフリカ方面司令官みたいなひとがそういう報告をしたということではなかったか? ちがったか? 中国のシーレーンとしてはもちろん東南アジアを通ってインド洋を越え、アデン湾から紅海に入って地中海へ抜ける、というものがあるようで、ジブチをおさえれば中国としてはインド洋周辺におおきな軍事力を展開する足がかりになるわけで、ということは中東に関与する能力が強化されるのかもしれないし、たぶん例の一帯一路という計画にもおおいにかかわってくるのではないか。
- あとこの日は音読もわりとやった。わりと、というほどでもないか。「英語」は31番から70番で、「記憶」は三項目だけだし。「記憶」のほうはやたらながいのがふくまれていてあまりすすまなかったのだが。なんの本からの引用だったかおもいだせないのだが。とおもっていま見たら、ムージルだった。まだムージルは終わっていなかったのだ。なぜかもう通過したつもりでいたのだが。
- 風呂のなかでは湯に浸かって瞑想じみて止まっていたのだが、汗か髪のなかに溜まっていた湯の断片か、ともかく額にしずくの感触が一点ともったときがあって、その刺激とともに一角獣すなわちユニコーンのイメージが湧き、つまり額を点じられたことでそこから生えている角のイメージが連想されたのだろうが、そこからなぜか頭がちょっと詩的な感じになって、まもなく「一角獣はどれもおしなべて月をつらぬくことを夢見ている」という一行のフレーズが思いつかれた。その後もなんとなく詩の一部みたいなフレーズがいくつか浮かんだので、それを下にメモしておくとともに、「詩: メモ」というノートをつくってそこにも写しておいた。
一角獣はどれもおしなべて月をつらぬくことを夢見ている
鯨は月の光にはぐくまれ、死ぬときは太陽に背を向けない
厳粛さを知らぬものどもが夜になるたび涙をながす
空に進出した機械仕掛けの魚は墜落を知らず
蛇の抜け殻でできたバスは地上
共通するのは鱗があるということだけわたしの目とわたしの目のあいだ
眉間の突端に風がかすかにすずしく触れるとき
AではじまりZで終わるあの地獄は
べつの言語ではOからはじまりMで終わるのだから
はじまりとおわりなどいつだって恣意的なもので
- 入浴後の夜はたしかなぜかほぼだらだらしてしまい、書抜きと日記の読み返しができなかったのがこの日の反省点である。やりたいことはいくらでもあるが、とりわけその二つが念頭にあがる。日記記述自体はこの日はそこそこやって、午後一時にこの日のことを書いたあと、そのまま前日のことを、(……)との通話の内容をのぞいて書いたのだったとおもうし、そののちも二八日と二九日を完成させている。活動のうちのはやい時点で日記にとりくめたのはよい。あとそうだ、この日の起床時は瞑想をサボったのだが、午後四時くらいだったか座った時間があって、そのときはめずらしく音楽を流したまま座ったのだけれど、BGMはThelonious Monk『Thelonious Alone In San Francisco』で、Monkの独奏ってマジですばらしいなとあらためておもった。このアルバムだとどれも好いのだけれど二曲目の"Ruby, My Dear"がなんといっても絶品で、Monkのソロピアノ、とりわけそのなかのバラードというのは、形容でいうと芳醇というほかなく、非常に香り高いもので、内部にうまみが凝縮されまくっている食べ物か飲み物みたいな感じなのだけれど、また以前は「滋味」という言葉をもちいたこともあったが、そのように味覚の比喩で語るのがもっとも適合するのがMonkだという感覚がある。Monkはジャズピアノの歴史上最高の独奏者のひとりだとこちらは確信しているのだが。それはおおげさにすぎるかもしれないが。Monkっていうと曲としても独特のスタイルがあって、Monkがつくった曲というのはリズムにせよコードにせよメロディのながれにせよ、これMonkだなという感じがおおくの場合明確にあって、それはジャズに興味をもってきけばだいたいだれでもわかるとおもうのだけれど、そこでMonkはユーモラスというか奇矯というか、ある種道化的かもしれない、しかし同時におそらくは非常に知的でもある、野生の知とでもいうような側面を、作曲としてもそうだし演奏としてもあらわにしていることがおおいとおもうのだが、その一方でバラードをやると、甘ったるさにはいたらない絶妙な甘やかさでもって、文句のつけようがなくひたすらに美しくストレートにやるというのが最高に胸を打つ。