『テル・ケル』誌の友人たち。彼らの(知的エネルギーやエクリチュールの才能のほかに)独創性や〈真実〉は、彼らが、共通の、一般的で、非身体的な言葉づかいを、すなわち政治的な言語を受け入れていることから来ている。〈とはいえ、彼らのそれぞれが自分自身の身体でその言語を語っているのだが〉。――それなら、なぜ、あなたも同じようにしないのか。――まさしく、わたしがたぶん彼らとおなじ身体を持っていないからであろう。わたしの身体は〈一般性〉に、つまり言語のなかにある一般性の力に、慣れることができないのだ。――それこそ個人主義的な考えかたではないのか。キェルケゴール――有名な反ヘーゲル派――のようなキリスト教徒に見られるものではないのか。
身体とは、還元できない差異であり、そして同時に、あらゆる構造化の原理でもある(なぜなら構造化とは、構造の「唯一者」だからである。「絵画は言語活動か」を参照 [訳注311: バルトは、ジャン=ルイ・シェフェール『絵画の舞台装置』の書評において、「シェフェールは、有名な本のタイトルをもじって、自分の本を『唯一者とその構造』と題することもできただろう。そして、その構造とは、構造化そのものなのである」と述べている(「絵画は言語活動か」、『美術論集』、七三ページ)。なお「有名な本」とは、マックス・シュティルナー『唯一者とその所有』(一八四四)をさし、「唯一者」とは「このわたし」「自我」である。])。もし、わたしが〈わたし(end265)自身の身体によって〉政治をうまく語ることができたとしたら、(言述の)構造のなかでももっとも平凡なものを構造化していることであろう。反復によって、いくぶんかの「テクスト」を生みだしていることであろう。だが問題は、生きて欲動的で悦楽的なわたし自身の唯一の身体を戦闘的な平凡さのなかに隠しつつ、その平凡さから逃げようとするこの方法を、政治的装置が長いあいだ認めるかどうかということである。
(石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、265~266; 「「テル・ケル」(Tel Quel)」)
- 九時台にいちどめざめ。すごして、一〇時すぎで正式な覚醒。こめかみや喉をもみ、脹脛もすこし刺激して、一〇時半前に離床した。滞在は六時間強だからみじかめ。天気は曇りで空は白いが、淡い陽の感触がときにないではない。水場にいってきて、洗顔やうがいなどすませるともどって瞑想をした。ともかくもただじっとすわりつづけるということが大事だ。それいがいのなにかは不要。時間の質だの適した精神状態だのをもとめず、たんにじっとしているだけ。窓外ではウグイスがさかんに声をはなっている。
- 一〇時四二分から二〇分。上階へ。ジャージにきがえて屈伸して洗面所にいき、髪をとかす。あらためて鏡のなかの自分のあたまをみてみると、白い糸がけっこう諸所にまじっていて、老いのかんじをおぼえないでもない。べつに白髪がおおくて髪がのびると目につくのはまえからそうなのだが。食事は昨日の炒めものののこりや味噌汁など。米がなくなったのであとで磨いでおかなければならない。新聞をめくりながら食す。国際面にエルサレムの件。あまり目新しい情報はなかったとおもうが。パレスチナ側にせよイスラエル側にせよ指導者の求心力が低下しているからあらそいの激化に歯止めをかけられないでいる、という言があった。マフムード・アッバスは最近、議会選を直前で中止して批判をまねいているようだし、ネタニヤフのほうも汚職問題などで支持が低迷しており、組閣もできなかったし、強硬姿勢をとることで宗教右派の支持をつなぎとめたいのだろう、とのこと。ガザには空爆がおこなわれており、死傷者がでている。イスラエル側にもロケット弾によって死傷者がでている。ロケット弾やミサイルのたぐいは三〇〇発以上うちこまれたらしい。アラブ諸国はイスラエルと国交正常化したUAEもふくめてパレスチナ擁護を鮮明にしているようだが、欧米はハマスの攻撃のほうも非難している。イスラエルの軍だかの人間によれば、攻撃に期限はもうけないとのことで、だからパレスチナ側の出方によってはまだながくつづくことになる。
- 食器を洗って風呂も。居間のほうで母親が、あんなことやってないではたらきにいってほしいと、父親についてまたつぶやいているのがきこえた。風呂を洗うと帰室し、Notionを準備して、手帳に昨日のふりかえりをしるしてから今日のことをここまで記述。今日は労働で、三時にはでなければならず、帰宅後はWoolf会。
- この日からもう四日たって一六日の日曜日にいたっており、だいたいのことはわすれたのであとすこしだけ。一方では怠惰のために生を忘却の淵においやってしまうのがもったいなくもあるが、なるべくすべてを書くのだという強迫観念から解放されてなまけることができているのはよいことでもある。この日は出勤前に授業の予習(高校生の英語でやる長文などを職場からコピーしてもってきていたのでよんだのだが、これはほんとうは労務規定違反である)もできたし、わりと余裕をもったこころもちでいられたよう。往路はあるいたのだったとおもうが、とりたてておぼえていることはない。(……)
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- 帰路も省略し、あとはWoolf会について。この日の担当は(……)さんで、Lilyが果樹園まできて梨の木のそばでRamsayとBankesのふたりの男性の印象の奔流にまきこまれて立ちつくしている段落の後半。参加者は(……)くん、(……)さん、(……)さん、(……)さん、(……)さん、(……)さん。(……)それをきくとマジで愛弟子だなというかんじでそう口にもしたのだが、そういう師弟関係はいいなあとおもった。おもったものの、自分がそういう師弟関係をじゃあつくりたいかというとぜんぜんそういう気持ちはなく、だれかの師匠になどなりたくないのはとうぜんのことだが、弟子として師匠をつくりたいともおもわない。いちおうこちらが師といえる人間がもしいるとしたら、それは(……)さんになってしまうわけだけれど、彼との関係は師弟関係などというものではまったくなく、単なる友人だとおもっているし、しいていうにしても先輩だろう。ただ(……)さんのブログがなければこちらがいまのような読み書きをしていなかったのはまちがいのないところで、読み書きをやっていたとしてもこういう毎日生を記録するタイプのそれではなくてべつのかたちになっていただろうこともほぼ確定的で、そういう意味で恩人であり、同時に、いまのじぶんをいまのじぶんたらしめたという意味で、一種の父にもなってしまうのだろうし、(……)さん本人もいぜんブログに書いていたけれど、(……)さんに一種憧れをもってちかづいてきて仲良くなったはいいがその後はなれていった人間、つまり転位 - 幻滅 - 反感の道をたどって父殺し的に離反していった人間は過去にけっこういたので、こちらにせよ(……)さんにせよきっとそうなるだろうと当初はみこんでいたというのだが、なぜかこちらの場合はそういうふうになっておらず、わりとよい距離感や関係のあり方を保てている気がする。なぜそうなのかわからんが。
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- その後の雑談は映画のはなしなど。こちらはだいたい聞いているのみで、合間、(……)くんがイギリス詩にかえてWoolfのエッセイをよむのはどうかとPDFファイルをしめしたのだけれど、そのなかにWoolfの伝記の情報とか参考文献が載っていたので、Amazonにアクセスしてこの伝記たちはKindleにあるのかなと検索したりしていた。著名な二、三冊はあったとおもうが。それでついでに、まえまえから目をつけていたVirginia WoolfのThe Complete Collectionというのをもう購入してしまうことに。これ(https://www.amazon.co.jp/Virginia-Woolf-Complete-Collection-English-ebook/dp/B01HTRS0JY/(https://www.amazon.co.jp/Virginia-Woolf-Complete-Collection-English-ebook/dp/B01HTRS0JY/))。五〇円。これマジでたぶん全部はいっていて、全六巻分の書簡もあるし、五巻分の日記もある。Complete Collectionみたいな電子書籍はほかにもいくつもあって、なかには無料のものもあったとおもうのだが、ただものによっては目次から各部へのリンクがなくて、該当箇所をみるのにひたすらめくっていかなければならずクソ面倒臭いみたいなものもあるようで、その点この版はちゃんとリンクされているので問題ない。ただ正直、Kindleでものを読む気がちっともおこらないのだが。映画は、(……)さんや(……)さんがこちらのぜんぜんしらない監督らのはなしなどしていたのと、(……)くんが『メッセージ』がすきだということで、その監督であるドゥニ・ヴィルヌーヴは(……)くん好みだとおもうとすすめられていたことなど。『メッセージ』というのはテッド・チャンの『あなたの人生の物語』が原作だったはずで、この作品はハヤカワ文庫ででているのをこちらもなぜかずっとむかしに買って積んである。同作はいろいろ言語学などの知見をもりこみながらも中心的なテーマやメッセージとして「愛」をあつかい物語としてドラマティックなものになっているらしく、その点(……)くんはぐっときたということで、そこから、また名前がおなじなのもつながりとして彼はドニ・ド・ルージュモンという作家の名をだし、このひとは恋愛についての本を書いており、まあ要は恋愛という文化とか恋愛感情とかは近代西欧にいたってうみだされたもので一種のフィクションだ、みたいな内容らしいのだが、(……)くんはむかし恋人との関係になやんでいたときに(……)にすすめられてそれを読んだらしい。ところでこちらがドニ・ド・ルージュモンという名前をきいたとき、それってフランスの詩人じゃなかったか? と記憶を刺激されたのだけれどこのひとはスイスの思想家もしくは批評家で、それできづいたのだがこちらがおもっていたのはレミ・ド・グールモンで、それをおもいだした瞬間に、こいつら名前のアクセントというか音律まったくおなじじゃんとおもってひとりでかなり笑ってしまったのだけれど、それに笑っていたのはこちらだけである。
- この日はいつもとくらべると比較的はやく、一時四〇分くらいでこちらは退出した。全体で終わるものだとおもって(……)くんがそのときZOOM通話自体を閉じてしまったようだったのだが、たぶんそのあと何人か再集結してまた暁ちかき夜の深みまではいりこみ、吸血鬼のともがらと化していたのだとおもう。