2021/5/19, Wed.

 たとえば、春につぼみが芽吹き、夏には葉のみどりが盛りを迎えて、秋とともに年老い、冬が訪れるうちに、みどりは死に絶えて、まためぐりくる新たな春に、いのちはふたたび甦る。植物ばかりではない。動物もまた生まれ、成長して、やがては死を迎える。すべては移ろい、変わってゆく。とどまるものはなにもない、かにみえる。
 とはいえ、誕生し、成長して、老いて死を迎えることの繰りかえしそのもの、動物や植物の成長や繁茂であれ、衰退や枯死であれ、そのようにことがらが反復してゆく、循環それ自身、ひいては、季節の移りかわりや太陽の経年変化、天体の運動それ自体は移ろうものではない。繰りかえしは繰りかえされ、反復は反復し、循環自身は、いつまでも循環する。今年のみのりの季節が過ぎ去っても、一年ののちに麦畑はまた一面に収穫の時節を迎える。母山羊が年老いて、もはや仔をはらむことがなく、乳を出すこともなくなったときには、そのむすめが新たないのちを宿すことだろう。成長と繁殖は繰りかえされる。自然の生成と変化をつらぬき、ひとの世の移ろいを無限に[﹅3]超えて繰りかえされ、反復し、あるいは循環する。
 植物や動物の誕生と成長、死滅に目を向けるなら、このような反復と循環はそれ自身、水の存在と深くかかわっているように思われる。植物は水によって育てられ、水を失うことで動物(end7)は老い、植物は死んでゆく。老いた人間の男女は、体内の水分を喪失することで、ひとまわりちいさくなり、荒廃した森の木々は、水気を亡くして枯死している。水は、たしかに、それら「いっさいの存在者の構成要素(ストイケイア)」である。――そればかりではない。水が、繰りかえし循環することが、おそらくは、反復と循環のいわば「範型」(パラデイグマ)である。
 ミレトスの港町は地中海に開けていた。来る日も来る日も、昼も夜も、海は波をつくり、波をよせる。ひとがつくり上げたものなど、まだほんのささやかであった時代にも、海は無限に[﹅3]波浪をあげて、際限もなく[﹅5]波頭をつくりつづける。一瞬一瞬の波のかたちは、海が生みだす、刹那の様相であると同時に、それが海そのものでもある。青い海はまた、白い雲をつくり上げ、雨となって陸地をうるおす。海は、ときにまた風とともに荒れくるい、高い波がひとのつくり出したものを呑みつくす。街並みをつくる白壁が崩れおち、街そのものが廃墟となったとしても、海は月から引かれ、陸に惹かれる。反復は、ちいさな反復を無限にうちにふくんで、それ自身として循環し、おわることがない。世の移ろいと、自然の生成変化は、すべて海のなかに写しだされているのである。「水」という一語のなかには、なにかそうした悠久の存在感覚がある。滅びてゆくものを超えて、滅びてはゆかないもの、死すべき者のかなたに在りつづけるものへの感覚がある。そこには、果てのないもの、無限なものへの視線がつらぬかれ、世界のとらえがたさに、思わず息を呑む感覚が脈うっている。
 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、7~8)



  • 一一時一五分の離床。そのまえにあたまを左右にごろごろやって、首をよくのばした。天気は雨。さほどおおきな降りではないようだが。おきあがって携帯をみると(……)さんから今日は不在なのでよろしくおねがいしますというメールがはいっていたので返信。そうして部屋を出て、階段下の父親にあいさつし、洗面所で洗顔やうがい。用を足して上へ。母親にあいさつしてジャージにきがえ、ちょっと体操というか背をのばしたりしてから洗面所で髪をとかすと食事へ。前日ののこりものに素麺の煮込み。新聞は入管法改正案が今国会での成立を断念されて廃案になるという件や、イスラエルパレスチナ情勢など。国際面でそれに関連して米国が指導力を発揮できていないという記事をよむ。バイデンはもともとネタニヤフとは明確に距離を置いていたらしく、パレスチナ情勢も優先順位はひくくてあまりコミットしてこなかったので影響力を発揮できない、というようなことが書いてあった。イランとの関係にも暗雲がたちこめる。つまりドナルド・トランプが離脱したイランとの核合意へ米国が復帰をするにあたっても、今回の件でイランのハマスへの支援があらためて焦点化されるので。野党共和党の議員はバイデンへの書簡でイランの支援をうけたパレスチナのテロリストたちがイスラエルの市民をねらってロケット弾攻撃をしかけている、と非難したらしいし。中東地域はイラン、イスラエルパレスチナ、それにアフガニスタンと米国にとっては重要なファクターがあって、そこが不安定化すれば中国への対抗を念頭にアジアを重視するというバイデン政権の方針も阻害されかねないとのこと。アフガニスタンはやばいんじゃないかという気がするのだが。この記事とおなじならびで安全保障理事会が中国主導でプレス声明を出そうとしたが米国が拒否してだせず、四回目の非公式会合がひらかれるとの報もあった。ユダヤ系とのつながりをかんがえてアメリカはどうしてもイスラエルを擁護しないといけないので。とうぜん中国は、一国の反対で安保理が一致した姿勢をうちだせず、機能できていない、という批判をするわけだ。
  • 食後、食器をあらって風呂場へ。浴槽ほかをこすってながし、でると下階。寝間着やジャージをとりかえたのできのうまで着ていたやつは上階洗面所にはこんでおき、もどるとコンピューターをつけて準備。今日のことをここまでしるした。一二時半をすぎている。今日は三時ごろには労働にむかう必要がある。授業の予習をしておかなければならない。水曜日なのでふだんは帰宅後Woolf会だが、きのう、今週来週と二週連続で休みになるということがきまったので、その点いつもよりかえったあとの余裕はある。
  • 出発までの時間はわりとなまけたはず。「英語」の音読だけはやった。出発は三時一五分。雨はやんでいたので傘をもたず、徒歩をとる。往路のことをぜんぜんおもいだせない。路面がまだぬれていたので、街道では横をいきすぎる車のタイヤの擦過音がけっこう増幅されていたはず。というかちがった、傘はもったのだった。やんではいたがいちおう片手にもちながらあるいたのだった。けっきょく降ることはなかったのだが。そのほかの記憶や印象がちっともよみがえってこない。ぼけっとしながらだらだらあるいていたようす。そしてそれでよい。
  • いやちがう、雨はまだ降っていたのだ。記憶のふたしかさにおどろいてしまうが、行きはふつうに差していたのをおもいだした。手にさげてなどいなかった。それで裏通りの途中、頭上の傘にうちつける雨粒の音が身のまわりの至近をシールドのようにしてかこむのと、そのむこうで林のほうからなにかしらの音を聞いたのをおもいだした。なにかしらの音がなんだったのかはおもいだせないが。鳥の声だったか、葉擦れだったか、それとも線路のむこうの家のあたりでこどもがあそぶような声だったか。風はなかった気がするが。
  • 職場につくと裏口からはいって準備し、勤務。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • そういうわけで九時四〇分だかそのくらいに退勤し、ふたたび徒歩でかえる。帰路は雨がやんでいた。裏道にはいるとすぐマスクを顎のほうにずらして、雨上がりのしめった空気を吸いながらあるく。空は雲。ただほそい月がときどき正面すなわち西にほのみえる時間もあった。この日は白猫とひさしぶりに遭遇。みちをあるいていると当該の家で、かすかな鳴き声をひとつたてながら道にでてこちらのほうにちかづいてきたので、しゃがんでむかえる。この猫はなぜか出くわすときのいちどしか鳴かず、それもかなりちいさな声で、そのあと接しているあいだに鳴き声をはっすることはまずない。たぶんいままでいちどもなかったはず。ちかづいてきてくれたのだけれどだからといってストレートにこちらに接してくるわけでなく、しゃがむこちらの横をすぎて道の先をみつめるのがいつものこと。いぜんはころがって腹をみせたり、こちらの膝のうえに乗ってきたりもしたのだが。ただそれは何年もまえのことで、しかも場所もちょっとだけずれるので、あの白猫がこの白猫と同一だったのかがわからない。たぶんおなじ猫だったとおもうのだが。このときもしゃがんでいるこちらのまわりを左右にあるいてすぎ、すぎるときに脚やら手やらにからだや顔をこすりつけていくばかりで、こちらもからだにふれてなでてやるのだが、とうぜん毛がたくさんスーツに付着して、かえってからみてみるとスラックスの下のほうはかなり白くなっていたが、まだそれはとっていない。いちどこちらの脚のあいだにまではいりこんできたことがあったので、ジャケットのあわせのところにもすこしだけ毛がついていた。まったくもってかわいらしくいたいけな生き物だ。しばらくそうしてたわむれていたが、じきにたちあがっていこうとすると、猫もついてくる。ゆっくりあるいているとあとからついてきたり、すばやくあるいてこちらをぬかしたりして、家の塀の角のあたりとか段があるところとかにさしかかるとその都度からだをそこにこすりつけている。今日は飼われている家からかなりはなれたところまでついてきたが、じきにこちらがふりむいてもよってこなくなったので、わかれた。
  • 最後の坂をくだって家のそばまでくると視界がひらけ、空はとうぜんくもっているのだけれど、しかしそれが一面のくもりではないというか、靄がかった白濁の領域と沈んだ黒のうねりとが織りあわされたようになっており、空のみならず山影は山影で靄の浸蝕をうけてやはり白黒の交接体となっているから天から地の先まですべてそうで、それをみるに空間の果てがぜんぶ巨大な冬のガラスになったような、この星がまるごと人工的な建物のうちにある世界だったことが判明したかのようなかんじで、右手で林の上端をほんのすこしこえたところに月の明かりがあらわれて射しひろがったのだけれど、それもしょせんは雲の褥にたゆたうだけの茫洋としたあかるみにすぎず、ガラスをきりさくほどの強さはもたないし、そもそもすぐにかくれてしまった。
  • 帰宅して部屋にもどり、猫の毛が多数付着したスーツをぬいで休息。一時間ほどベッドで休み、一一時四〇分くらいになって食事にいったはず。夕刊で愛知県知事リコール運動で大量の署名偽造が発覚した件についてよんだが、この事件の情報は今日(二〇日)の記事にもうかいたのでそちらにゆずる。あとは風呂にせよその後にせよとくだんの印象はない。とくになにも活動せずにサボってしまった。勤務のある日、帰宅後の時間をどのようにつかうかがやはり大事になってくる。往復ともにあるけば一時間以上はあるいているわけで、そうするとからだも相応につかれるし。あとそうだ、風呂をでるともう一時だったのだが、母親がソファで死んでいたので、洗濯機から洗濯物をとってこちらが干した。母親は飯のときからすでにひどくねむそうにしており、寝ちゃうかなといいながらソファにころがってすぐに寝息をたてていたのだが、こちらが干しているあいだは明晰でなさそうな意識でありがとうとかすみませんねえ、とかもごもご言っていた。洗濯物は彼女の職場の服とか、ジーンズとか、非常に薄手のジャンパー的なやつなど。