2021/8/26, Thu.

 〈無限〉である他者と私がなしうることとのあいだ、他者の〈顔〉と私の権能とのあいだには、したがって、ある「障害」があるはずである。とはいえ、現に殺人が日常の一齣でもあるという事実が「障害がほとんどなきにひとしいこと」をもさししめしている。だが、レヴィナスによれば、「人類史におけるまったくありふれたその事件〔=殺人〕は、例外的な可能性と対応している。というのも、その可能性は、ある存在者のまったき否定をめざすからである」(217/300)。「私が殺したいと意欲することができるのは、絶対的に独立な存在者のみなのである」(216/300)。問題は、かくして、絶対的に独立な存在者を、その絶対的独立性において抹消することが可能であるか、という点にかかっている。
 こたえはおのずとあきらかであろう。その意味における [﹅8] 殺人、〈絶対的に他なるもの〉の解消は、やはり端的に不可能なのだ。それは、絶対的に独立な存在者としての他者が、「〈私〉の権能を無限に過ぎ越して」いるからである。さらには、他者は「そのことによって〈私〉の権能に対立するのではなく、権能の力そのものを麻痺させている」(ibid.)からなのである。――いくたびも繰りかえすなら、しかし殺人はおこなわれうるし、現にたびたびおこなわれている。殺人は、憎悪のために、抵抗の排除のために、あるいはたんなる快楽のためにすら犯されている。さきにみたように、憎悪という感情はじつは一箇の不可能性を孕んでいるのであって、憎悪に発する殺人は、そのじつ憎悪する者にと(end119)っての敗北 [﹅2] である。憎悪の対象はいまや憎悪と苦しみから解放 [﹅2] されているからである。抵抗の排除が抵抗する他者の支配 [﹅2] をもくろみ、殺人による他者の所有 [﹅2] そのものが快楽の源泉であるならば、支配と所有は殺人において実現することなく挫折する。というのも「殺すことは、支配するのではなく無化することであり、包括を絶対的に放棄することである」からである(ibid.)。殺すことによる他者の所有 [﹅2] と支配 [﹅2] が、他者をその他性において、つまりその絶対的な独立性において支配し、所有することをめざすものであるとするならば [﹅6] 、その志向はあらかじめ座礁している。あるいは、その志向の実現そのものであるかにみえるものが志向の挫折をしるしづけている。殺害された他者はもはや他者 [﹅] ではなく、かくて所有され支配されたかにみえる他者はすでに他 [﹅] 者ではありえないからである。
 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、119~120; 第Ⅰ部 第四章「裸形の他者 ――〈肌〉の傷つきやすさと脆さについて――」)



  • 一一時四五分まで床にとどまってしまった。やはり覚醒を起床につなげることができない。蒸し暑い空気のなかで麻痺的に寝継いでようやく。水場に行ってから瞑想。一八分ほど。
  • 食事はカレー。新聞からは例によってアフガニスタンについて。タリバンアフガニスタン国民の出国禁止に転換したと。すでに数万人出国したらしく、医者とか技術者とか新政権の国づくりに役に立つ人材の流出を懸念したものと。それで空港までの道も封鎖するだかしてむかうひとを止めようとしているらしいが、こうなると各国の自国民や協力者退避もむずかしくなるはず。しかしバイデンはG7協議後の会見で月内までに任務を終えるとの見通しを変更せず再表明したようで、G7内でもドイツなどが計画見直しをもとめたようだがそれは利かなかったもようだ。
  • ほか、mRNAワクチンの機序について述べた解説面をとちゅうまで読んだ。
  • アイロンをかけるものが溜まっていたのできょうは下階にもどるまえにアイロン掛け。気温はかなり高く、エアコンがなければとても過ごせない。
  • 書見もせずにだらだらしたあとストレッチはしっかりこなす。そこそこ肉がやわらかく、伸びやすくなってきているような気もする。四時でおにぎりをひとつ食ったあと、「読みかえし」ノートを少々読み、二回目の瞑想。からだがかなりなめらかになって、充実した感触があったのだが、目をあけると一五分しか経っていなかったので、一五分でこんなになるかとおもった。時間感覚が密になっているのだろうか。
  • 往路は母親が図書館に本をかえしたいというので、車で送ってもらった。分館のまえでおろしてもらい、こちらが本や雑誌を持って返却へ。そこからあるいて職場に行くつもりだったので母親は帰った。母親が借りた本のなかには伊藤比呂美のなんとかいうエッセイ集みたいなものがあり、伊藤比呂美はもともと詩からはじまったひとだったはずだが、近年だとたぶんこういう、女性と老いなどを題材にしたエッセイで読まれているのだとおもう。たしか夫の介護かなんかを題材にした本もけっこう以前から出していたはず。母親が借りるくらいだから相当に一般に膾炙していると言っても良いとおもう。正直に言って、伊藤比呂美なんていうなまえを母親が借りている本のなかに見ると、びっくりしてしまうくらいだ。
  • ブックポストに入れておいてひきかえす。図書館の敷地から西に見える(……)の入り口には、たぶんサルスベリだとおもうのだけれど、濃い紅色の花をゆたかにまとった木があった。踏切りでとまる。遮断棒の左端につくとそこからさらに左はフェンスのむこうに線路脇の敷地がひろがっていて、駅とかホームの周囲とかその先の丘とかが見えるのだけれど、ここには以前建物があったのではなかったか、とおもった。こんなに見通しが良くなかった気がするのだ。気のせいかもしれないが。この位置に来たのもずいぶんとひさしぶりのことなので。
  • 職場へ。(……)
  • (……)
  • (……)
  • 帰路は晴れていて月がよく見えたようだ。
  • 74: 「まず第一に、たとえばロースは『装飾と犯罪』を著して、装飾性がウィーンにもたらした退廃性に抗しつつ機能主義的な簡潔さをかかげようとし [註27] 、ムジールもカカーニエン〔オーストリア・ハンガリー帝国〕を観察しながら、その病理をえぐるようなアイロニーをはぐくんでいったが [註28] 、こうした反抗の動きと呼応するように、ウィトゲンシュタインの内にも「腐敗した文化」のもつ「人目を惑わすような」魅力や、「ジャーナリスティックな」派手はでしさ、あるいはそれに似た類いの「駄弁」にたいするなかばジャンセニスト的な「嫌悪感」がある [註29] 。「純粋さ [註30] 」と「潔癖さ」とが、現代史への参加のスタイルとなり、文化にたいするひとつの哲学的な政治学になっているのだ」; (註27): Traverses, n° 7, 1976, p. 15-20〔今村仁司監修『化粧』リブロポート〕に訳載されたAdolf Loosのテクストを参照せよ。; (註28): Robert Musil, l'Homme sans qualités, trad. P. Jaccottet, coll. Folio, 1978, t. 1, p. 21.; (註29): 「検証する」ということばは、ある思考様式にたいするかれのアレルギーを特徴的にあらわしている。たとえば次を見よ。L. Wittgenstein, Leçons et conversations, trad., Gallimard, 1971, p. 154-155, p. 63-64; およびJ. Bouveresse, 《Les derniers jours de l'humanité》, in Critique, n° 339-340 特集《Vienne, début d'un siècle》, août-sept. 1975, p. 753-805.; (註30): Cf. la préface des Remarques philosophiques, trad., Gallimard, 1975, p. 11.
  • 75: 「エキスパートのディスクールとはちがって、ウィトゲンシュタインは自分の知を売りわたし、その知の名において語る権利を手に入れようなどとはしないのだ。知の要請を内にもちつづけてはいても、知によって資格を得ようとはしないのである」
  • 76~77: 「このような状況は、民族学者や歴史家のおかれた状況とも似ているが、ウィトゲンシュタインのそれは、はるかにラディカルである。というのも、こうして(旅人や古文書学者のように)自分のところを離れて [﹅10] 異人 [エトランジェ] であることを余儀なくされるありかたを、ウィトゲンシュタインは、分析というもののありかたのメタファーと考えているからだ。分析は、みずからがその内部にとらわれている言語そのもののなかにあって異者 [﹅8] であらざるをえない。かれは語っている、「われわれは、哲学するときには[すなわち、ただそれだけが「哲学的」である場所、あの世界という散文のなかで仕事をするときには]、文明人の表現のしかたを聞いて、それに誤った解釈をくだす野蛮人か、未開人のようなものである」、等々、と [註33] 。もはやそれは、野蛮人のなかにあって教養があるとみなされる職業人のとるポジションではなく、自分のところにいながら [﹅11] 異人であるようなポジションであり、わかっているとか、よくわかっているとか言うありふれた表現ひとつを前にして、その複雑さに途方にくれてしまうような、日常文化のただなかにおかれた「野蛮人」ともいうべきポジションである。そうして、ひとはこの言語の「外にでる」こともできなければ、どこかほかにそれを解釈できるような別の場所がみつかるわけでもなく、したがって誤った解釈もなければ正しい解釈もなく、ただ偽りの解釈しかないのだから、要するに出口はない [﹅5] のだから、残された(end76)ことはただひとつ、外部がないまま内部にいながら異人 [﹅16] であること、そして、日常言語のなかで「その限界に突きあたること」しかない――」; (註33): L. Wittgenstein, Philosophical Investigations, Blackwell paperback, Oxford, 1976, § 194, p. 79.
  • 81: 「たとえ事実は少しも変わらないとしても、この事実 [﹅2] を掟 [﹅] としてうけいれることはできない。従属からのがれることもできず、しかたなく事実に従いながらも、このような信念は、あたかも自然なこと、あたりまえのことのように押しつけられる体制の法令 [﹅2] にたいして、もはやごめんだという限度をつきつけ、その宿命性に倫理的な [﹅4] 抗議をつきつける」