2021/8/25, Wed.

 「自由にとっての最高の試練は、死ではなく苦しみである。憎悪がこのことをよく知っている」(266/369)。そう説いたあとにレヴィナスは、つづけてつぎのように書いている。(end114)

 憎悪は、把持不能なものを把持しようとする。そこで他者が純粋な受動性として実存するような苦しみをかいして、憎悪は高圧的な態度で侮辱しようとする。だが、憎悪は、際だって能動的な存在のうちにこそ、その受動性を欲するのであり、その存在こそが受動性をあかしだてなければならない。憎悪はつねに他者の死を欲望しているのではないが、それでも憎悪はすくなくとも、その死を最高の苦しみとして課することによってのみ、他者の死を欲望している。憎悪するものは苦しみの原因であろうとするが、その苦しみについて憎悪されるものが証人とならなければならない。苦しめることは、他を客体の地位に還元することではなく、その反対に他者を最大限、主体性のうちに維持することである。苦しみのなかで主体がみずからの物化について知っていなければならず、しかしそのためにはまさに主体が主体でありつづけなければならない。憎悪するものは、このふたつを欲するのである(266 f./369 f.)。

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、114~115; 第Ⅰ部 第四章「裸形の他者 ――〈肌〉の傷つきやすさと脆さについて――」)



  • 一一時起床。寝床から見る窓のゴーヤの葉の合間に覗く空は白いが、ひかりのつやめきも少々ふくまれているようだった。水場に行ってきてからきょうも瞑想をおこなった。一一時八分から三二分まで。よろしい。外ではラジオだか動画だかわからないが音声がずっとながれていて、音の距離感からしてたぶん(……)さんがながしているか、しかしそれにしては子どもらの声がまったくないので、あるいは外で作業をしているだろう(……)さんがながしているのかもしれないが、声がやや高めの男性がアメリカがどうのG7がどうのとかたっているたぐいの番組で、確証も自信もないのだがあれはなんとなく町山智浩ではないかという気がする。なぜそうおもったのかわからないが。しかし、いま町山智浩の動画をちょっとだけ見てみたところ、声のかんじがちがうような気がした。
  • 食事はナスと豚肉の炒め物をおかずに米。新聞、三面にG7でアフガニスタンの件を協議と。オンラインでの緊急会合がきのうの夜にひらかれたらしい。タリバン政権を承認せず国際社会で一致してアフガニスタンにおける民主主義的価値の維持を図るということや、場合によってはタリバン政権樹立後の経済制裁の可能性などについてはなしあわれたもよう。自国民を退避させるのに八月末まででは間に合わないとして、米軍の撤収期限を延長するよう仏独あたりから声が出ており、G7内でも結束に乱れが見られると。ドイツが米国およびタリバンと交渉しているようだ。日本もきのうおとといあたりから自衛隊機を派遣して自国民や大使館などの現地職員の退避にあたっているものの、自衛隊が行けるのはカブールの国際空港までで、そこまでは自力で来てもらうしかないと。しかし現場ではタリバンの連中が空港にむかう人間を妨害することもあるようだ。カブールの空港からはC130という種類の機で(二機派遣されている)近隣国まで移送し、そこからチャーター機で日本へ、というながれらしく、現地職員にかんしても当人が希望すれば日本への一時的な滞在をみとめる方針と。
  • あと自民党総裁選にかんして二階幹事長が派閥として菅首相再選を明言と。昨秋の総裁選のさいに菅を支持したほかの主要四派閥はしかし、指導部は首相支持の意向ながら若手に反菅の機運がいくらかあるために派閥全体としての支持表明はまだ出していないと。細田派(最大派閥で九六人だか)なんかには、派として菅支持を決定したら派閥を抜ける、と言っている若手もいるらしい。昨秋のときには岸田派と石破派のみが菅支持ではなかったようだが、そのうち岸田文雄は総裁選への出馬に意欲をしめしているという。二六日にも最終決定と。石破茂は先日、こういうコロナウイルスの状況下で総裁選へ出馬するというのは違和感をおぼえる、と言って不出馬を表明していたはず。
  • 風呂を洗うと陽射しが出てきていたので、タオルをベランダに出した。
  • やはりなぜか鼻水がほんのすこしだけ湧くが、からだの感覚はまとまっていて平常である。熱も36.8。
  • 夕刊には、Charlie Wattsの訃報があった。八〇歳。八〇歳までRolling Stonesをやったのだからすごい。
  • 「読みかえし」ノートをいくらか読み、だらだらしたり高校生の英語の予習をしたり。四時にいたっておにぎりをひとつ食った。それからきのうのことをすこしばかり記述。四時四五分から五時まで瞑想。
  • 出勤路へ。セミの声はまだだいぶのこっており、公営住宅脇の公園前をとおるときはそこの桜の木からジージーいう音が迫ってきたし、十字路周りの木立もざわざわした音響で埋められている。坂下ではまだ、涼しくもないけれど空気のうごきもあってさほど暑くないようにおもわれたのだが、坂をのぼればどうかなとおもいながら踏んでいくと、じっさいのぼりきるころには汗がべたついていた。坂のなかでは平ら道よりも空気がうごいて風らしくなり、とちゅうから涼しさが出てきたがそれは汗が湧いたからだろう。空は雲にまみれていてすきまにかぼそく覗く水色も希釈されているものの、坂を抜ければ太陽は駅のむこうの北西にあらわれていて、雲海に溶けひろがっているので陽射しはさほど甘くはないが、そのなかをホームに移動すると汗が盛り、先のほうで止まって立ち尽くしてからハンカチで首や額や頬や胸を拭かざるをえなかった。服の内では胸のほうは肌着が貼りついているのがわかり、背では汗の玉がいくつも皮膚をころがっていく。涼気が身に触れて抜けていくけれど、その涼しさはやはり大気のものというよりも汗の量の証左であろう。ハンカチを何度か顔のまわりにあてなければならない。正面先の丘からはセミの唱和がわきたち、スズメがどこからともなく、いろいろな方向からつぎつぎに渡ってきて線路のむこうの梅の木につどい、宙をすべっていく彼らの影が足もとの淡い日なたのなかにただの振動としてのみ映りこむ。
  • いま二時半過ぎ。すでにしあげてあった一九日を投稿し、二〇日に書抜きを足してそれも投稿、きょうのことも加筆。やはり瞑想をやると良い。からだがまとまって楽になるから、比較的だらだらしようという気が起こらなくなり、やりたいことにとりくみやすい。
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 夕刊からは(朝刊だったかもしれないが)、福島原発の汚染水をトンネルみたいな地下通路を掘って沖合一キロあたりで海に放出の方針、という記事を読んだことしかおぼえていない。