2021/9/8, Wed.

 真理とは「存在の露呈」である(前出)。いいかえれば、「真理」とは「存在がみずからに曝されていること」である(100/122)。これは考えてみれば奇妙なことがらではないだろうか。存在することはなぜ真理であることでもなければならないのか。つまり、存在はなぜ端的に [﹅3] 存在して、みずからのうちで憩らい、なにものによっても「発 - 見」(ent-decken)されないというありようにとどまらないのであろうか。
 問われていることがらは、存在と意味との捩じれた関係にかかわっているとおもわれる。端的に存在することは意味に先だつであろう。異形の世界、あるいは裸形の存在(がかりに考えられるとすれば、それ)は、いかなる意味も帯びていないことだろう。で(end186)あるとすれば、存在がおよそあらわれること、なんらかの [﹅5] 意味においてあらわれるということは、存在そのものにとっては一箇の余剰である。だが存在があらわれ、存在が問われうる [﹅5] のは、存在がなんらかの意味をもつ場面においてでしかありえない [註94] 。ここで、なんらかの [﹅5] 意味とは無意味という意味 [﹅2] であってもかわらない。裸形の存在には無意味すらありえないからである。無意味もまたこの剰余の内部でのみありうる。つまり存在が [﹅3] ともかくもあらわれ、意味において [﹅6] あらわれているということがらの内部でのみ、無意味であることも可能なのである [註95] 。とすれば、意味とは存在の余剰であり、奇妙なことにしかも必然的な剰余であることになる。
 だから、存在がみずからに曝されている、存在が露呈 [﹅2] としての真理であるとは、存在の「みずからとの独特な不一致」であり、自身からのずれ [﹅2] であるということである。とはいえ、存在が問われうるのはそこ [﹅2] においてでしかないというかぎりでは、不一致 [﹅3] は存在のみずからとの「ひとしさでもある」(aussi égalité)(100/122)。「存在があらわれること [﹅7] は存在のふるまいそれ自身にぞくしており、存在が現象することは本質的 [註96] なのである」(206/239)。
 存在があらわれるということ、存在が存在者として現象するということは、存在者がさしあたり〈なにものか〉として現出することである。存在者がおなじ [﹅3] なにものかとして [﹅3] 経験される、その同一性が当の存在者の意味 [﹅6] となる。レヴィナスは書いている。(end187)

 意識とよばれる、存在者との関係にあってわれわれは、存在者があらわれる射映の散乱をつらぬいてもろもろの存在者を同定する。自己の意識においてわれわれは、時間的な位相の多様性を超えてみずからを同一化する。主体的な生とは、意識という相のもとでは、存在者じしんがみずからを喪失しつつみずからを取りもどし、やがてあらわれて、主題としてみずからをさしだし、真理のうちでみずからを暴露することで、みずからを所有する [﹅9] ことなのである。〔中略〕この同一化はなんら恣意的なものではなく、ことばのうちにある図式の不可思議な操作によるものである。この図式によって、一箇のイデアリテが、アスペクトとイマージュの散乱、射映ないし位相の散乱に対応することができるのである。ある存在者を意識するとは、それゆえつねに、この存在者にとっては、一箇のイデアリテをかいし、〈語られたこと〉を起点として把握されることである(156 f./185 f.)

 「意識」とは「存在者との関係」である。意識 [﹅2] は「射映の散乱」を超えて、「存在者を同定する」。つまりおなじ [﹅3] ものとしてとらえる。それは「存在者じしん」が「真理のうちでみずからを暴露すること」である。その「同一化」は、「一箇のイデアリテ」をかいして、つまりことばの意味によって生起する。おなじ [﹅3] ものとして同一化 [﹅3] されることが(end188)存在者の意味である。存在者はかくて、さしあたりはなまえの、名詞の体系としての、ことばの織りもののなかで〈あるもの〉として経験される。すなわち「〈語られたこと〉(un Dit)を起点として把握される」。

 (註94): 斎藤慶典「倫理・政治・哲学――E・レヴィナス『存在するとは別の仕方で あるいは存在の彼方へ』をめぐって」(『思想』一九九〇年一二月号)一二〇頁以下が、ここに [ママ] レヴィナスにおける存在問題のありかを見ている。
 (註95): 裸形の [﹅3] 存在が無意味 [﹅3] ですらないのは、裸形における世界、いわば〈手つかずの〉世界には無駄なもの、剰余 [﹅2] が存在しないからである。以上の論点について、より詳しくは、第Ⅰ部・第四章参照。
 (註96): 原語はessentielである。本文中で触れたように、『存在するとはべつのしかたで』は、essenceという語を存在すること [﹅6] という意味で使用する。その結果、「本質的」という意味ではessentielという語は使わず、éidetiqueで代用する、とレヴィナスはいう(9/12)。この箇所のessentielはしかし、明白に「本質的」という意味であろう。後註124参照。

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、186~189; 第Ⅱ部、第二章「時間と存在/感受性の次元」)



  • 正午まえの起床になってしまった。いつもどおり。もうすこしはやく起きたかったのだが。二回ほど、目覚めてはいたのだけれど、あいかわらずすぐにからだを起こすことができない。天気は曇りもしくは雨。きょうも遅めになったので瞑想はサボる。上階へ行き、炒飯とうどんで食事。新聞、一面には自民党総裁選の情報。一面ではなくて二面だったか。石破茂は出馬を見送って河野太郎を支援する方向にながれているようだが、河野太郎はそれにたいして複雑なおもいだろうと。というのは、河野太郎麻生派に属しているところ、石破は麻生政権のときに麻生おろしに加担したし、また安倍政権のときにもたびたび批判をくりひろげていたから、石破からの支援を受け入れればこのふたりの不興を買うと。とくに安倍は最大派閥の細田派(九六人とか)にはたらきかけて高市早苗の支援にうごいているから、石破をとりこんだことで敵対視されて狙われるとまずい、と。とはいえ、知名度のあるふたりなので組めば国民からの支持もえられるだろうし、衆院選も勝ちやすいのではという声や思惑もあって、むずかしい対応をせまられていると。高市早苗は安倍によって推薦人二〇人のめどがついたようで、正式に出馬表明をする見込み。政策や政治信条的には党内でも最右派というかんじのようで、記事に載っていた思想とか著書の内容を見るに、要するに安倍の弟子というか、安倍のかんがえや政治路線をそのまま追随するというかんじのようだ。新著のタイトルも、「美しく、~~な日本」みたいな文言で、安倍の新書のタイトルにすこしことばを足した趣向のものだし、内容としても、「ニュー・アベノミクス」なるものをとなえているらしい。本人も、安倍政権がやりのこした大きな課題を達成したい、とか述べたらしい。
  • ミャンマーでは民主派が結成した「国民統一政府」(NUG)が国軍との戦闘開始を宣言して、傘下の国民防衛軍(といって民兵というか武装市民の組織だが)には戦闘を、少数民族武装勢力には連帯を、一般国民には支援をそれぞれもとめたという。副大統領にあたるひとがFacebookに演説動画をアップしたらしい。このタイミングで宣言に出たというのは、一四日から国連総会がはじまるので、そこで国際社会の支援を得られるようにあらためてじぶんたちが置かれた情況をアピールするという意味合いもあるもよう。国軍のクーデター以後も職をつづけているもともとの国連大使が承認されるか、それとも国軍が任命した人間のほうが承認されるかというのがひとつの焦点で、チョー・モー・トゥンというこの民主派の大使は職を解かれたらたぶんマジで国軍に殺されるのだとおもう。すでに先日、大使館員だったかスタッフのなかに暗殺を企図した人間がしのびこんでいた、という件もあったし。民主派がうえのように宣言をして、いまのところ北部シャン族の武装組織とマンダレーの学生組合は呼応して連帯を表明したらしく、また一部都市では警察や国軍の拠点への襲撃も起こっているとかいうが、しかし一般国民がどこまでそれに応じて乗るかというのは不透明で、戦闘力でいったらふつうに国軍のほうがうえのはずである。
  • アフガニスタンタリバンが東部パンジシール州から抵抗者をかたづけたと発表し、全土掌握を宣言。夕刊には閣僚三三人の顔ぶれを発表したと載っていた。首相には旧政権で外相などつとめていたひとがついたらしい。もともとは政治部門トップのバラダルが首相につくとみこまれていたようだが、戦闘部門のほうから異議が出たらしく、政治方面にも軍のほうにも顔がきく人間になったと。それでバラダルは副首相。ハッカニ・ネットワークのハッカニが内相になったというが、この人物はFBIが指名手配している人間らしい。最高指導者のアクンザダは内閣にははいらず、おそらく旧政権と同様最高評議会で実権をにぎるだろうと。女性の入閣はなし。アクンザダは、ここ二〇年の戦争でおおくの聖戦士を殺されてきたわれわれがなぜ譲歩しなければならないのか、と述べて欧米の要求に反発したらしい。
  • カブールでは数百人規模の反タリバンのデモが起こったという。タリバンの実権掌握以降、最大の規模。女性は大学へ通うことと授業への出席がいちおうゆるされているらしいが、原則男性とはべつの教室で授業を受けることとされ、どうしても部屋が足りないばあいのみ、仕切りで区切るかたちで同室での受講がみとめられるという。カーテンで男性の列と女性の列が分かたれている写真が載せられてあった。服装はむろん、髪や肌を露出しないもの。いぜんはふつうに男女同室で混ざって授業を受けており、服装もカジュアルなものが多かったという。
  • アフガニスタンからの難民への対応に中東各国は難儀しているところだろうが、中東情勢が荒れているここ一〇年くらいで、各国は国境沿いに壁の建設をすすめているらしい。トルコはイラン側に壁をもうけ、シリア側にも計画しており、いっぽうでシリアやリビアなどに軍事力を派遣してプレゼンスをつよめている。その他エジプトなりサウジアラビアなり、だいたいどこの国も壁建設はおこなっているようで、もともとアラビア世界は(スンニ派シーア派の対立はあるにしても)イスラームなどを共通要素として、国境の行き来は比較的ゆるかったらしいのだが、米国の介入によって難民やテロの波及に対応せざるをえなくなった結果、そういうことになったらしい。
  • 出勤まではいつもどおり書見したりストレッチしたり。
  • いまやもう九月一六日木曜日にいたっており、記述が面倒臭いので、この日手帳に取ってあったメモをそのまま写してお茶を濁す
  • 15:40出発。傘持つ。ぱらぱら。山、煙がわいている。青白いような。サルスベリの落花。かわいて色あせている。掃除されず。路面と一体化して。
  • (……)さんの裏の斜面で草刈り。何人か人足が入って、本人もいたよう。見ていると車がすぎていく。(……)さん。車庫で降りたところをあいさつ。
  • 坂、脚は軽くてよく動くが、息は苦しい。マスクをしていると。
  • 勤務。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)