2021/9/25, Sat.

 〈近さ〉とは「融合」ではない(137/165)。物理的距離が消滅し、さらに一方の身体が他方の身体に侵入したとしても、他者が他なるものとして消滅するわけではない。〈近さ〉とは、かえって「同時性」と「共時性」を「断絶」する差異をふくむ(136/163)。他者にどれだけ接近したとしても、差異がなおそこにある。あるいは「接近すればするほど踏みこえられない隔たりがある」(223/260)。他者は〈近さ〉であるがゆえに遥かにへだたり、遠ざかっているがゆえに私を〈触発〉しつづける(「他者による触発」「他 - 触発」 hétéro-affection)(193/224)。差異である近さ [﹅7] が、かくて「強迫」となる(133/160, 136/163)。〈近さ〉とは差異があることであり、〈近さ〉にもかかわらず差異があるとは「無関心では - (end244)ありえないこと」(non-indifférence)なのである(133/160. ほかに、cf. 97/119, 114/139, 218/254, 227/264)。なぜか。なぜ無関心では - ありえない [﹅5] のだろうか。
 「無関心である」とは、差異のうちにとどまっている(in-différence)ことである。レヴィナスによれば、だが、ディアクロニーという断絶を超えて、なお「関係」がなりたっている(23/31)。どうしてだろうか。
 「主体性」は「関係であるとともに、その関係の項である」(rapport et terme de ce rapport)(137/165, cf. 136/164 [註165] )。他者との関係は [﹅3] 私にとって不可避であり [﹅6] 、私はすでに他者との関係を身体の内部にかかえこんでいる。他者は〈私〉のうちに食いこみ、私は他者を身のうちに懐胎している。しかも他者は、踏みこえられない隔たり、遥かな差異そのままに私のうちに食いこんでいる。つまり共通の現在 [﹅5] を欠いているほどに、私とへだたっている他者が、私の主体性のうちに孕まれている。絶対的な差異によってへだてられた他者と私のあいだに、なお関係がなりたってしまって [﹅4] いるのだ。――私は、他者の現在にけっして追いつくことがない。にもかかわらず、私は〈他者との関係〉につねに・すでに巻きこまれ、私は関係そのものをすでに [﹅3] 懐胎している [﹅4] 。差異がないわけではない、それどころか差異によって隔絶した項とのあいだに、にもかかわらず関係がなりたち、私はその関係そのものであるとともに、その関係の項となってしまっている。関係はとり返しがつかず [﹅8] 、他者との関係は済むことがない [﹅7] 。だからこそ、他者にたいして私は(end245)「無関心であることができない」。そのゆえに、他者はつねに強迫する。私は他者にとり憑かれて [﹅6] いる。
 もうすこし具体的に考えてみよう。〈近さ〉は《近さの経験》ではない。近さとは、それが意識されることで、あるいはそれを「主題化」することによってむしろ消失してしまうなにものかである(123/148)。近さは、現在の経験としてはけっして生きられないなにごとかである。経験の現在に居あわせる「意識」はかえって〈近さ〉を抹消してしまう(131 f./159)。〈近さ〉の「強迫」を意識が「引きうけることはできない」。意識が引きうけようとすれば、意識は「転覆」されてしまう。もしくは、〈近さ〉が転倒して〈隔たり〉となってしまうのだ(139/167)。
 〈近さ〉を引きうけようとする、あるいは〈近さ〉を意識しようとする経験とは、どのような経験でありうるだろうか。レヴィナスがここで、「触診であることに不意に気づいてしまう愛撫、あるいは冷淡な愛撫」(132/159)を挙げていることに注目しよう。触れているさなかに意識が立ちあってしまう愛撫は、愛撫ではない。それは触診 [﹅2] である。つまり「探究」であり「知」と化するものである(cf. 143 f. n.3/341)。触れることの現在をみずからに回収(se ressaisir)する、つまりじぶんが触れていることを察知しつづけ、われを忘れることのない冷淡な愛撫は愛撫ではない。意識が居あわせる、それはむしろ一箇の詭計 [﹅2] であろう。

 (註165): この表現は、たぶんヘーゲル精神現象学』自己意識章の定式――「自我は関係の内容であり、関係することそれ自身である」(Ich ist der Inhalt der Beziehung und das Beziehen selbst)――をふまえたものであろう。Vgl. G. W. F. Hegel, Werke Bd. 3, S. 139 f.

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、244~246; 第Ⅱ部、第三章「主体の綻び/反転する時間」)



  • 作: 「血の色とさだめの空をうしなって夜風をはしる俺は盗賊」
  • また正午の起床になってしまう。二度寝の魔にとらわれた。きょうの天気は曇りで、空は全面かたちのないあいまいさにおおわれており、きのうまでより水っぽくて暗い。瞑想はサボった。ゴミ箱や急須湯呑みを持ってうえにいき、顔を洗ったりうがいをしたりトイレで小便を捨てたりしたのち、ハムエッグを焼いて食事。母親は一時から美容院で髪を切るとかでそろそろ出かけるという。新聞、二面に、コンゴ民主共和国でワクチン接種がぜんぜんすすんでいない、という記事があった。国際面にもそのつづきがあって読んだところ、マラリアなどとくらべて危機感がうすく、国民のあいだに政府への信頼もなく、また権威と信憑性を担保できるような有力なメディアもないなかで、SNS上では例によってデマとか都合の良い臆見とかがでまわって、みなワクチンを受けようとしないと。一〇〇〇万人規模の人口がある首都キンシャサでも病院に接種に来るひとはほぼいないらしく、医院のまえで看護師らがかたむいたような姿勢で手持ち無沙汰に座りながら来るひとをひたすら待っている、という写真が載せられていた。そんな状況で、四月にはCOVAXをつうじて配布された一七〇万回分のワクチンのうち、一三〇万回分を返却することになっていたらしい。アフリカは全体的に接種がすすんでおらず、国民のなかに信用や積極性が薄く、期限が来たワクチンを焼却処分することになってしまった国もあるようだ。
  • ほか、ドイツ下院選。二六日に投開票。社会民主党SPD)、与党キリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)、緑の党、という順の支持率。社会民主党の数字はわすれたが、たぶん二七パーセントとかそのくらいだろう。与党が二二パーセント、緑の党が一七パーセントだったはず。社民党が優勢ではあるけれど、連立交渉によってはCDU・CSU緑の党や左派などと組んで政権を担う可能性もあると。首相候補としてはやはり社民党のシュルツ党首(メルケル政権で財務相)が人気のようで、CDUのアルミン・ラシェット党首は七月の洪水のさい、現地視察に行きながら談笑していたという件が批判を呼んでいるらしい。
  • 食器と風呂を洗って帰室。きのうの記事をしあげて投稿。すると一時半すぎ。したの(……)さんだか(……)さんだかあるいは両方だかわからないが、(……)さんの宅の裏手あたりにちいさいテントみたいなものを立てて、そとで親子でバーベキューまでは行かないだろうが飯を食うなどしているようす。昨晩からたぶんやっていたのだとおもうが。竹内まりや『LOVE SONGS』をながして鬱陶しいかたさに伸びていた手の爪を切ったあと、「読みかえし」ノートを読みかえした。熊野純彦レヴィナス』からの書抜き。読み返しながらダンベルを持って腕をあたためる。さいきんは毎度ダンベルを持てているのでよろしい。
  • (……)
  • ここまでしるしてちょうど三時。
  • いま五時過ぎ。(……)さんのブログを九月一一日分から最新まで読んだ。九月一九日、「サマー・オブ・ソウル」。アミール・"クエストラブ"・トンプソン「サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)」、ならびにSly & The Family Stoneについて。

人種性別混合、服装も髪型もばらばらでむちゃくちゃ、ソウル歌手の伝統をことごとく無視したその風貌、佇まいが、もはや演奏のはじまる前から、異様と言って良いほどの「政治性」を強烈に発散させているのだった。ロック(と、あえて呼ぶが)ミュージックの、もっとも先鋭的で過激で、誰の手にもおえない最悪に厄介な状態とは、まさにこれだと思った。彼らが放つ雰囲気は、聴衆をたじろがせ、一瞬うろたえさせるに充分なものだ。威圧感とか迫力とかではなく、むしろその反対の力として。言葉本来の意味で、彼らの姿は「意味不明」で「わけがわからない」。単純な抵抗のイメージではなく、やわな感情移入もまるで受け入れない、彼らにまともな演奏を期待するなんて間違っていると思わせる。超満員の、ほぼ全員が黒人の観客の前で、ステージに立つドラマーが白人というだけで「冗談だろ?」と言いたげな視線が殺到する。「無理だろ、出来るわけないだろ」と。にもかかわらず、「Sing a Simple Song」の演奏が始まるや否や、空間すべてが彼らの音楽に変わる。何が「革命」かと言って、このときほどその言葉が似つかわしい瞬間もないだろう。

  • いま二六時ちかく。きのうの夜に風呂にはいっているあいだになぜかAngraのことをとつぜんおもいだし、それにともなってHelloween『The Dark Ride』のこともおもいだして、これを入手した地元のCD屋とかRon Carterの公演とか関連事項の記憶がもろもろよみがえってきたのだけれど、それでAmazon MusicHelloween『The Dark Ride』をながしてみた。クソなつかしい。じぶんはこういういわゆるメタルの方面にはほぼながれなかったタイプで、基本的に八〇年代前半のハードロックまでで止まった人間なのだが(といって八〇年代前半のOzzy OsbourneとかJudas Priestとか、Iron MadenみたいないわゆるNWOBHMの連中もヘヴィメタルと呼ばれるし、Whitesnakeですらそう呼ばれていたとおもうが、じぶんの感覚ではあのあたりまではまだなかばハードロックの範疇で、いわゆる「メタル」というとこちらとしてはジャーマンとかメロスピとかのツーバス疾走系とそれ以降の音楽がそうなのだ)、だからAngraHelloweenもRhapsodyもMegadethMetallicaもほぼ聞かなかったのだけれど、Helloweenではこのアルバムだけ持っていた(ちなみに高校三年時の文化祭ではバンドのほかのメンバーの要望でHelloweenの"Eagle Fly Free"をやった)。これはハードロックのたぐいを聞きはじめてけっこう初期のころに入手したおぼえがあり、買ったのは「(……)」といっていまはなき地元のCD屋で、ここの店主のおじさんにはハードロックを知った中学生当時からジャズに手を出しはじめた大学時まで世話になっていろいろはなしたものだが、その店が一時期売れ残った古い商品を半額にして販売する区画をもうけていたことがあって、Helloween『The Dark Ride』はたしかそのなかから買ったものだったとおもう。そんなにはまったわけではないが、いまタイトルを見て、何曲かはみじかいフレーズがおもいだせるくらいにはくりかえし聞いたようだ。たぶんじぶんがはじめて触れたいわゆるメタルがこれだったとおもう。"All Over The Nation"のいかにもなあかるさと(俗に「クサい」とか「クサメタル」とかいわれる種類の)メロディアスさはなかなかつきぬけている。#7 "Salvation"なんていうのもいま聞いて、ああこんな曲あったな、とおもいだしたが、見事にアンセム調の曲になっており、まったくもって大仰な連中だが、ファンならこれをライブでみんなで歌って陶酔しながらもりあがれるだろう。むかしのロボットアニメとかにつかわれていそうな、アニソン的な色調だ。
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