若い日本の女性のレジ係、
彼女はぼくがきらいだ
なぜだかはわからない
ぼくは存在するというほかには彼女に何もしていない
彼女は光にせまるような速度で
計算機を使って伝票の数字を足してゆくカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャ
彼女はぼくに対するその嫌悪を
足してゆく(リチャード・ブローティガン/福間健二訳『ブローティガン 東京日記』(平凡社ライブラリー、二〇一七年)、126; 「レジ係」 The Cashier; 東京 一九七六年六月十一日)
- 作: 「あすもまた来るものは来ず俺はただ逃亡線を引きなおすだけ」
- 「読みかえし」、127番。
私たちの間の共生は、こうしてさまざまな混乱や困惑をくり返しながら、徐々に制度化されて行った。それは、人間を憎みながら、なおこれと強引にかかわって行こうとする意志の定着化の過程である。(このような共生はほぼ三年にわたって継続した。三年後に、私は裁判を受けて、さらに悪い環境へ移された。) これらの過程を通じて、私たちは、もっとも近い者に最初の敵を発見するという発想を身につけた。たとえば、例の食事の分配を通じて、私たちをさいごまで支配したのは、(end18)人間に対する(自分自身を含めて)つよい不信感であって、ここでは、人間はすべて自分の生命に対する直接の脅威として立ちあらわれる。しかもこの不信感こそが、人間を共存させる強い紐帯である[﹅23]ことを、私たちはじつに長い期間を経てまなびとったのである。
強制収容所内での人間的憎悪のほとんどは、抑留者をこのような非人間的な状態へ拘禁しつづける収容所管理者へ直接向けられることなく(それはある期間、完全に潜伏し、潜在化する)、おなじ抑留者、それも身近にいる者に対しあらわに向けられるのが特徴である。それは、いわば一種の近親憎悪であり、無限に進行してとどまることを知らない自己嫌悪の裏がえしであり、さらには当然向けられるべき相手への、潜在化した憎悪の代償行為だといってよいであろう。
こうした認識を前提として成立する結束は、お互いがお互いの生命の直接の侵犯者であることを確認しあったうえでの連帯であり、ゆるすべからざるものを許したという、苦い悔恨の上に成立する連帯である。ここには、人間のあいだの安直な、直接の理解はない。なにもかもお互いにわかってしまっているそのうえで、かたい沈黙のうちに成立する連帯である。この連帯のなかでは、けっして相手に言ってはならぬ言葉がある。言わなくても相手は、こちら側の非難をはっきり知っている。それは同時に、相手の側からの非難であり、しかも互いに相殺されることなく持続する憎悪なのだ。そして、その憎悪すらも承認しあったうえでの連帯なのだ。この連帯は、考えられないほどの強固なかたちで、継続しうるかぎり継続する。
これがいわば、孤独というものの真のすがたである。孤独とは、けっして単独な状態ではない。孤独は、のがれがたく連帯のなかにはらまれている。そして、このような孤独にあえて立ち返る勇(end19)気をもたぬかぎり、いかなる連帯も出発しないのである。無傷な、よろこばしい連帯というものはこの世界には存在しない。
(石原吉郎『望郷と海』(筑摩書房、一九七二年)、18~20; 「ある〈共生〉の経験から」)
- 128番。
時間の感覚のこのような混乱は、徐々に囚人をばらばらにして行く。ここでは時間は結局、一人ずつ[﹅4]の時間でしかなくなるからである。人間はおそらく、最小限度時間で連帯しているものであろう。人間に、自分ひとりの時間しかなくなるとき、掛値なしの孤独が彼に始まる。私はこのことを、カラガンダの独房で、いやというほど味わった。このような環境で人間が最初に救いを求めるのは、自分自身の言葉、というよりも自分自身の〈声〉である。事実私自身、独房のなかの孤独と不安に耐えきれなくなったとき、おのずと声に出してしゃべりはじめていた。しかし、どのような饒舌をもってしても、ついにこの孤独を掩いえないと気づくとき、まず言葉が声をうしなう。言葉は説得の衝動にもだえながら、むなしく内側へとりのこされる。このときから、言葉と時間のあてどもない追いかけあいがはじまる。そしてついに、言葉は時間に追いぬかれる。そのときから私たちには、つんぼのような静寂のなかで、目と口をあけているだけのような生活がはじまるのである。
(53; 「沈黙と失語」)
- この引用のさいごの一文、「そのときから私たちには、つんぼのような静寂のなかで、目と口をあけているだけのような生活がはじまるのである」という文はすごい。「つんぼのような静寂」という言いかたの苛烈さ。「つんぼ」という語はいまや差別語なのでつかってはならないのだが、ここに書かれてあることの本質を表現し、伝達するためには、この「つんぼ」という語が必要だったとおもう。
- いま二時過ぎで、(……)さんのブログを読んでいるのだが(最新の一五日付のあと、一一日に遡行)、後者のうちの下の一段落におもわず笑ってしまった。
となりのとなりの席に幼い子連れの家族がいた。その子どもがちょうど誕生日だったらしく、簡単なかぶりものをした店員たちが誕生日おめでとう的なメッセージの点灯した電光掲示板みたいなものを持って踊りながらあらわれた。音楽が流れる。店員たちが手拍子をはじめる。参加しないわけにはいかねえ! と血が騒いだので、外国人の特権を利用し、その場でひとり「フオオオオオオオ!」と歓声をあげたり「おめでとー!」と日本語で叫んだり頭上で両手を打ち鳴らしたりした。店員や周囲の客はそんなこちらの反応を受けて苦笑。それにくわえて隣の席にいた(……)さんが死ぬほど恥ずかしそうにしているのがまた面白くてたまらず、ますます悪ノリを重ねまくった。最終的に(……)さんはむこうの席に移動した。終わったところで、わたしは「社交恐怖症」なんです! 先生みたいな恥ずかしいひとと一緒にいたくない! と力一杯いうので、ゲラゲラ笑った。周囲の人間が恥ずかしがるようなことをするのが大好きだ。
- kyohei sakaguchi/interview & text: mami hidaka「「とにかく素直に」坂口恭平が革命だと自負する生き方」(2021/7/28)(https://fashionpost.jp/portraits/201312(https://fashionpost.jp/portraits/201312))。
(……)躁鬱の人はルーティンをこなす毎日が合っているような気がしますね。多くの人は「週5日働け」と言われたら大体働けるわけですけど、でもそこから僕みたいにルーティンすらぶっ飛ばしてしまうともっと自由ですよ。僕は毎日10枚原稿を書くと決めて、本当に毎年3650枚は書いてきましたし、今は一日50枚くらい書いています。執筆業のほうも、それがルーティンであることが僕にとって一番重要なことなので、「本にする」という概念すら捨てて、使えるか使えないかは一切気にせずただ書くようにしているんです。こんな感じで、僕は本一冊分のテキストを一週間ほどで書いてしまいます。
──昨日書いた原稿と今日書いた原稿がつながるともかぎらないような。そういう怒涛の書き方だとものすごく担当編集との信頼関係が必要そうですね。
つながらないようで、いつかどこかでつながるんですよ。打ち合わせはね、「書籍をつくります」というスタート自体が社会性そのもののように感じられて嫌なので、一度もしないんです。編集さんの提案や意見を待たずに、こちらが最初から原稿3000枚用意しておきたい。数千枚の原稿をポシャることもありますけど、ポシャるという感覚もあまりなく、「今は違うけどいつかはきっと」ととらえているラッキーボーイです。今日も急に雨が止んで、すごく晴れましたしね。
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1日に100人の自殺志願者の電話に出るとなると、自分もどこかで楽していかないと「なんで0円でこんな大変なことをやってるんだ」と我に返ってしまうかもしれない。中途半端に社会性を帯びた人間にはなりたくないので、とにかく素直でいることを心がけています。僕にとっては、美術も文章もただ素直でいつづけるための手段なんです。評価されることが目的ではないので、誰からなにを否定されようが一ミリも痛くない。実際に僕は自画自賛してるだけですから。「この素直さは半端ないぞ!」って自分で言ってるだけですからね(笑)。
- 一〇時まえにいちど覚めたが起きられず、一一時ごろになって再度覚醒。ちょっとぐずぐずしてから一一時一五分に離床した。水場に行ってくると臥位にもどる。きょうは書見をせずにコンピューターを持ちこんでウェブを見たり(……)さんのブログを読んだり。残念ながらこのところの快晴はとぎれ、きょうはひかりもあいまいな曇天であり、さいしょのうちはそれでも薄青さがのぞかないでもなかったが、午後にくだって雲の色がより増していった。正午にいたって上階へ。
- 両親はみかん狩りに行くとかで出かけている。洗面所でボサボサの髪を梳かし、食事へ。フライパンにウインナーがあったのでそれを皿に取ってレンジで加熱し、野菜スープはコンロで熱して米を椀に盛った。それぞれ卓にはこんで、新聞を読みながら食す。文化面と社会面にあった藤井聡太についての記事を読んだ。文化面のほうでは谷川浩司(鈴村和成がこんなような、似ている顔だった気がする)が藤井の特徴を解説しており、かつて谷川は勝負師/芸術家/研究者という三区分によって棋士のスタイルをかんがえたことがあるというが(大山康晴が勝負師タイプ、升田幸三が芸術家タイプで、このふたりが対局しているようすを横から写した六〇年代くらいの写真が載っていたが、それを見るに升田幸三というひとはモジャモジャした髪の毛で口のまわりにすこし髭を乗せた風貌で、たしかにちょっと芸術家っぽいというか、むかしの文豪とか美術家みたいな雰囲気に見えないでもなかった)、それに沿うならば藤井聡太は研究者的な側面がひとつあると。つまり真理追求型ということで、藤井聡太はじっさい、勝敗にこだわりすぎるとうまく行かなかったときにモチベーションが下がるのでそれをあまり重要視せず、対局や打ち手の内容こそを大切にかんがえている、という発言をたびたびしているらしい。その点、羽生善治にもつうじるところがあると。勝ち負けにあまり頓着せず盤上におけるおのれの真実をひたすら追い求めるという姿勢はたぐいまれなる平常心にもつながっているのだろうと谷川は述べており、じぶんの経験や羽生のようすも引き合いに出して、おおきなタイトルがかかった勝負というのは勝敗がかかる局面で動揺するもので、じぶんも勝ちが見えた手を打つところで手がふるえて苦しくなったし、羽生でさえらしくない打ち方をしていたが、藤井聡太はそのあたりでの気負いや動揺がまったく見られず、一〇代でそのような精神性やかんがえかたをはぐくんでいるのは驚異的だと評していた。谷川もいわゆる「ゾーン」にかんして触れていたが、社会面のほうでも藤井のきわだった集中力について言及されており、今回竜王戦をあらそったあいてである豊島将之というひとも、藤井はとにかく集中力がなみはずれていてそこに才能をかんじる、手をながくかんがえつづけているとつかれてしまうじぶんのような者は並の棋士にすぎないのだと痛感させられた、とかたっていた。藤井本人も、対局中にあいての表情とか仕草とかを見て気にすることはないと言っていて、マジで目の前にくりひろげられている盤面以外には目もくれていないようで、その点文芸批評でいうところのテクスト論者的な禁欲性とかある種の倫理性をおもわせるものだが、そういう発言を読みながら同時に麻雀漫画『哲也』のなかの挿話をおもいだした。二二巻あたりで上野 [ノガミ] のドサ健に負けた阿佐田哲也は新宿をはなれて放浪の旅に出て、西日本方面の各地でつわものたちとたたかいをかさねていくのだが、三〇巻あたりで最終的に鹿児島の知覧にいたって、元特攻兵で部下をさしおいて戦争を生き残ってしまったことに罪悪感を持っており米兵との麻雀に勝ってあいてを怒らせることで米兵の手によって殺されたいという願望をかかえた醍醐という男と命がけの対戦をすることになる。醍醐は米軍基地だか米国が接収した飛行場だかを舞台にえらんで、点棒が空になったらじぶんにむけられた機関銃が発射して死ぬという装置を用意し、たたかいの結果哲也がロンすれば勝つというところまで行って、いよいよ死ねるぞと胸をおどらせるのだが、哲也はじぶんがロンすれば目の前のあいては死ぬというおもいにとらわれて和了ることができない。その後、負けそうになった哲也は機関銃を一台じぶんのほうにも向けて、対等な条件をつくることで「これで博打になった」とじしんも命を賭けるのだけれど、そういうなかで見いだした解が、じぶんがドサ健に負けたのは上野と新宿のあらそいというような、卓上いがいのことにとらわれていたからだ、卓上で起こっている勝負から目をそらしたから負けたのだ、麻雀を打っているあいだ、卓上のことと卓外のことはなんの関係もなく、ただ卓上でいま起こっている勝負をのみ見据え続けなければならないのだという認識で、そういう勝負師としての倫理性にいたったことで彼はあいてを殺すことになるという恐怖を乗り越え、ロンと言って手をたおすことができたのだけれど(ちなみにだからといって醍醐は死ぬことにはならず、機関銃が発射される瞬間に哲也がその額にはなった雀牌によって彼はのけぞって銃撃をまぬがれ、それでも死のうと射線のまえに出るのだけれど、おりから降っていた桜島のシラスが銃に詰まって弾は出なくなる)、どうもそれといくらか似たような姿勢を生きているのが藤井聡太であるらしい。きのうの夕刊だかの編集小欄でも藤井について触れられており、そこでは、将棋をやるのが嫌だとかつかれたとか、駒に触れたくないとかおもったことはありません、という発言を引きつつ、論語の一節(あることを知っている者はそれを好きな者に如かず、あることを好きな者はそれを楽しむ者に如かず、という部分)と照らして、藤井聡太はまさにこれであるらしい、と述べられていた。好きこそものの上手なれ、を地でいった結果として究極的なレベルに到達した人間のようだが、いぜんに新聞で読んだところでは大谷翔平もそういうタイプらしい。藤井の発言としてはまた、将棋にまったくおなじ局面はただのひとつもなく、試合をするたびにその都度あらたな景色があらわれ、どう打てば良いのかわからない未知の瞬間に遭遇する、そこでじぶんなりに解をかんがえて打つのがたのしくおもしろい、これからもあたらしい景色を発見しつづけていきたい、みたいなことばも載せられてあって、完全に芸術家の言い分じゃないかとおもう。あと、子どものころに詰将棋をかんがえながらあるいていたために足もとが不注意になり、ドブに落ちて服をよごしたということが何度かあったようで、おまえはタレスか、というかんじ。
- 皿と風呂を洗って、茶を持って帰室。コンピューターを用意し、一時ごろから「読みかえし」。BGMはまたもOasis。三〇分ほどで切った。便所に行って糞を垂れるとともに上階に上がって洗濯物を取りこみ、たたむのはあととなまけて部屋にもどると、もうすこし音読をしたほうがいいとおもっていたのだがしかしなんだかやる気にならなかったので、ダンベルを持ちながら(……)さんのブログやウェブ記事を読んだ。なぜか文を読むのがやたらはやく、するするというかんじでどんどん読めた。(……)さんのブログは一五日と一一日と一〇日。またこの昼は心身がおちついていたというか、いまここのからだにおのずと意識がフォーカスしやすいようなかんじがあったのだが、それはたぶんきょうが休日だから、出かけなければならない、何時には勤務に行かなければならないというあたまが生じないからだとおもう。労働がある日はじぶんで意識していなくとも、やはり起きた瞬間からそういう焦りが心身のうちに混ざっているのだろう。
- その後、ひさしぶりにギター。まあ悪くはないがあんまりパリッとはしない。なめらかにながれるといえばながれるし、弾いているうちにたどったことのない経路をとおる瞬間も何度かあったが、全体的にあまりととのってはいなかった。ほんとうは似非ブルースだけではなくジャカジャカガシガシやりたいのだけれど近所にたいするおもんぱかりがはたらいて踏み切れない。(……)に練習室があるらしいので、そこを借りるのが良いかもしれないが、いまのところそんなに真面目にやる気も起こらない。
- 三時半くらいからルイーズ・グリュック/野中美峰訳『野生のアイリス』(KADOKAWA、二〇二一年)を読みはじめた。縦ではなく横書きのデザインで、左ページに和文、右ページに英語原文が載せられている構成。英語は語彙や構造の面からすればそこまでむずかしくはない印象。訳は悪い点はなにもないが、ここは良いなというきわだった部分があるかというと、いまのところそれに出会えていない。とはいえまだぜんぜん序盤だ。ただ、原文も載っているからこの語やこの部分をこういうふうに訳しているのだなというのがわかるのだけれど、英語の意味の順序や区切りのリズムとけっこう変わっている箇所がおおかったり、ここの一節の意味はこうじゃないのか? とか、この語のニュアンスを盛りこまなくていいのか? という箇所があったりして、俺だったらこういうかんじで訳すのに、と素人の不遜な横槍があたまに浮かんでくる。語順や意味の順序にかんしては詩であれ散文であれ、翻訳をするかぎりしかたのない部分はおおいわけだし、単純になるべく原文の順番にあわせれば良いというものでもむろんないはずだ。英語と日本語だと節の主従が逆転することがままあるわけだけれど、そこを英語にあわせるとばあいによっては倒置技法の感がつよくなって本意でない強調が生まれる危険もある。この詩集の訳はそのあたりは、基本的に日本語としてのスタンダードな順序に変換しているような印象を持った。
- だらだらころがりながら読んで、四時半くらいから起きてきょうの日記を記述。両親は四時まえくらいに帰宅していた。キーボードを打っているうちに五時をまわったので、現在時に追いついていなかったが中断して上階へ。アイロン掛け。めちゃくちゃたくさん溜まっていた。じぶんの私服のシャツやワイシャツが多い。テレビのニュースをときおり見やりながらひとつひとつ処理していく。母親は台所で鶏肉と里芋を煮物にするなどしていた。ほか、メンチを買ってきたという。ニュースでおぼえているのは、荻窪で七九歳だかの無職男性がおなじアパートの一階下に住んでいた七〇歳くらいの女性を刺したという事件で、あいての部屋の戸口まで行って呼び出すといきなり刺したらしい。下手人はこの女性からいやがらせを受けていて鬱憤が溜まっていた、と供述しているらしいのだが、ほかの住人によると反対に女性のほうが長年いやがらせを受けていたという証言もあるようだ。福島駅でも刺傷事件があったらしく、これはきのうあたりにもどこかで言及を目にしたおぼえがある。京王線の事件があって九州新幹線のなかでもそれを真似たという放火未遂があり、さらに福島でもということで通り魔的な事件がつづいている、みたいな文脈だったはず。ほか、福岡は天神の商店街で軽自動車に衝突したあと爆走して逃げる車があったとか、コロナウイルスが下火になってきているが蔓延をとおして変化した業界もいくつか、みたいな話題とか。テレワークがおおくなったのでスーツの売上は一五パーセントくらい落ちたというが、そんななかで、脱ぎ着がしやすく着ていてもうごきやすい、伸縮性のあるスーツが売れていると。スーツというものは一万売れればかなりのヒットらしいが、それが発売以来五万くらい売れているらしい。見たかんじだとめちゃくちゃ伸びるかわりにちゃちそうというか、じぶんで着たいとはおもわない品だったが、テレワークで自宅にいるけれどあまりだらしない格好をして画面に映るわけにもいかない、かといってスーツまで着るのもなあ、みたいな状況にはたしかに役立ちそうだった。おなじようなもので、ぱっと見にはよくわからないがじつはシャツとスーツが一体になっており、かぶるようなかんじで即座に着れる、という品も発売したばかりですでに三〇着くらい売れているらしい。あと、だんだんとおせちの予約がはじまるシーズンになってきたが、大豆かなにかの代替肉をつかったおせちなんかが人気だというはなしもあり、代替肉のいいところとして、食べても罪悪感がなく、肉とおなじように満足できる、みたいな消費者の声が紹介されていたのだけれど、罪悪感ってなんやねん、とおもった。ずいぶん大仰な語をつかうな、と。言っていることはむろんわかって、じっさいの肉だとカロリーをたくさん摂ってしまうから多く食べると太ってしまうし健康にも良くない、というだけのことなのだが、肉を食べる程度のこと、ひいては太ることや健康にあまり良くない行動を取ることが、修辞的な水準とはいえ「罪」といわれてしまう世とはいったい? とおもったのだ。この比喩的な「罪」の意味をとおして、この社会に蔓延している痩せることへの欲望とか、ばあいによってはそれにたいする義務や強迫観念のようなものが垣間見えたような気がして違和感をおぼえたのだとおもう。
- アイロン掛けを終えると六時二〇分くらいだったとおもう。それから石油を補充するためにストーブのタンクを持ってそとへ。ジャージのうえにダウンジャケットを羽織った格好だったが、そとはとくに寒くなかった。風もない。勝手口のほうにまわって、暗いなか保管箱を開け、ポンプをタンクに挿しこんでスイッチを入れて、機械が勝手に燃料を汲みこんでくれるのを待つ。すでに夜に落ちている空は黒く、とはいえ下部では灰色っぽい地帯が東の果てで市街のマンションの明かりの下地となっているが、いずれにしても星も月もなにも浮かぶものは見えずに覆われており、近間に目を落とせばすぐそのへんの近所の空間も墨を注入されたように黒くなっている。ポンプが音を立てて満杯を知らせてくれると注ぎ口をタンクから取ってかたづけ、重くなったものを片手に提げて屋内へ。そのまま手を洗って食事にすることにした。米やメンチ、即席の味噌汁、大根の葉のソテーに煮物、セロリや春菊を混ぜた生サラダ。食べながら夕刊を読む。愛知県の大村秀章知事にたいするリコールで署名偽造があった事件で、高須克弥の秘書が書類送検されたと。高須はリコールの活動団体の会長。理事長だかなんだか実働責任者みたいなかんじだった田中なんとかいう人間が偽造を主導したようだが、そのひとが佐賀だったかの広告会社に偽造にかんする仕事を依頼したさい、高須会長の秘書もやっているから大丈夫、と言っていたらしい。高須は、偽造については承知していなかった、とうぜん捜査に全面的に協力するし、必要ならばわたし自身もよろこんで聴取を受ける、と表明。ほか、一面に、バイデンと習近平がオンライン会談したという報。まあたがいに一定程度友好を志向し演出しつつもいっぽうで牽制、みたいなかんじのようだ。米国でバイデン肝いりの一兆円(一一四兆ドル)規模のインフラ投資法案がようやく成立したという報もあった。
- 食事を終えて食器を洗うと下階へ帰り、きょうの日記を書きはじめた。その時点でたぶんまだ行って七時半くらいだったとおもうのだが、ここまで書いて現在時に追いつくとなぜか九時に達している。Oasisをヘッドフォンで聞いてBGMにしていたのだけれど、ヘッドフォンをつけていると耳がずっとつつまれ圧迫されているからやはりつかれるなというわけで、とちゅうでイヤフォンに変えた。ヘッドフォンのほうがひろがりがあってあきらかに音質がいいしイヤフォンなんて音空間がせまくてつまらんだろうというあなどりをいだいてここ数年はイヤフォンで音楽を聞くことがまったくなくなっていたのだけれど、じっさいやってみればこれでもべつに満足できる。それにしてもこのイヤフォンは二〇〇〇円もしなかったやつなのに、むかしにくらべるとずいぶん音が良くなったなあという印象。OasisのつぎはなんとなくThe Clash『London Calling』をながし、The Clashもいままできちんと聞いたことがないのだが、Talking Headsと似たにおいをかんじた。しかしこのあたりの、七〇年代にパンクといわれた連中の、レゲエを入れたりなんだりみたいな独特の雰囲気はなんなのか? The Policeとか。The Policeはパンクではなく、あくまでパンク風なのかもしれないし、パンクでもいろいろあるのだろうが。
- その後、一三日の記事にかかってきのうのつづきで職場の状況についての観察や分析をながながとしるしていたのだが、The Clashが終わったのでつぎはなにをながそうかなとdiskunionのジャズの新入荷ページをおとずれ、いちばんさいしょに出ていたMichael Feinberg『Hard Times』というやつをAmazonでながしてみた。このひとはベーシストらしく、参加しているメンツで知っているなまえはRandy Brecker(一曲のみのゲスト)とピアノのOrrin EvansとドラムのJeff 'Tain' Wattsのみ。あとはまったく知らないが、たぶんさいきんの界隈ではけっこう知られているのだとおもう。さいしょの曲をすこし耳にするだけでも(ちょっとGlasper的、というほどでもないが、キーボードのテクスチャーが主となったメロウ&クールなサウンドで、Glasperを連想したのはたぶん、『Black Radio 2』の"Trust"(この曲だとおもうのだが)にほんのすこしだけ似ているようなメロディとか質感があったからだとおもう)、やっぱジャズっていいな、気持ちいいなとおもった。ただ、たぶんカナル型イヤフォンの性質上ということではないかとおもうのだけれど、Orrin Evansのピアノの音がやや詰まったような感触に聞こえて、ジャズを聞くならほんとうはやはりヘッドフォンのほうがいいのだろうなともおもった。
- 作: 「声高に愛を伝えよこの今日は生まれ変わって書かれつづける」
- その後はさほどのこともなし。忘却した。ウェブ記事は、「田中康夫と浅田彰の憂国呆談 season2 | 126: 横浜市長選挙から、軍事施設の跡地の活用、米軍が完全撤退したアフガニスタンまで。」(2021/10/11)(https://sotokoto-online.jp/social/10752(https://sotokoto-online.jp/social/10752))、「「野党共闘の必要性は変わらず」参院選に向け、地域ごとの柔軟な戦略を 法政大の山口二郎教授に聞く」(2021/11/11)(https://www.tokyo-np.co.jp/article/142054(https://www.tokyo-np.co.jp/article/142054))、「なぜ野党共闘は敗北したのか? 31選挙区は1万票差以内で競り負け」(2021/11/1)(https://www.tokyo-np.co.jp/article/140365(https://www.tokyo-np.co.jp/article/140365))、Hephzibah Anderson, "The world's most misunderstood novel"(2021/2/10)(https://www.bbc.com/culture/article/20210209-the-worlds-most-misunderstood-novel(https://www.bbc.com/culture/article/20210209-the-worlds-most-misunderstood-novel))を読んでいる。