(……)人が「対象(object)」を認知するのは「記号(sign)」を通してであるが、その「記号」はそれを解釈するもうひとつ別の記号作用の項としての「解釈項(interpretant)」を通してしか意味を持たない。対象と記号、そして、記号の解釈(記号の別の記号による解釈)のプロセス――これを「解釈作用(interpretance)」と言います――があって初めて対象の意味経験は成立するというわけです。つまり人間の精神が記号を使って事物を理解するという従来の立場に対して、人間の精神が行っていることは記号による記号の解釈のプロセスであって、そこにはもうひとつの記号から別の記号へという記号の解釈の連鎖がつねに介在しているというわけです。
こうした記号解釈のプロセスがあって初めて対象についての意味の経験は成立するとパースは考えています。少し具体的なことを考えましょう。
たとえば、春の菜の花畑で紋白蝶が飛んでいるのをある人が(end67)目にしたとしましょう。この場合、飛び交っている紋白蝶がパースの図式における「対象」です。「モンシロチョウだ!」とその人は叫ぶことも――心の中で呟くことも――できますし、たんにだまって自分の頭の中にある「モンシロチョウ」のイメージを思い浮かべて目の前を飛び交っている蝶と結びつけることもできます。名前あるいはイメージとしての記号「モンシロチョウ」がここでいう「記号」プロパーとしての「表意体」です。しかし、紋白蝶の意味経験は、「モンシロチョウ」という記号がどのような解釈項を持ち、どのような解釈作用のなかで受け止められていくかによって異なります。
たとえば都会から行楽にやってきた家族が飛び交っている紋白蝶を見て「春らしいのどかな風景だな」と眺めるとしましょう。その場合には、紋白蝶と菜の花の風景はどこかで見た春の風景として〈頭の中にある春のイメージ図式〉を「解釈項」として解釈されます。記号「モンシロチョウ」は、そのような「解釈項」を通して、「対象」である目前で飛び交っている紋白蝶に意味を与えることになります。ところがその菜の花畑のちょうど隣でキャベツを栽培している農家の人が紋白蝶が飛び交う光景を見たとしたらどうでしょう。記号「モンシロチョウ」の解釈項は、その場合、「害虫の図式」であり、「今年はずいぶん害虫である紋白蝶が発生してしまっているな」→「早く駆除しなくてはいけないな」というような解釈の連鎖を生むことになるでしょう。
このように「対象」は「記号」によって意味を付与されるのですが、「記号」の意味は(end68)それを解釈する体系(=解釈項)と不可分に結びついており、「解釈作用」を通して「対象」に意味を与えるのです。「対象→表意体(記号)→解釈項」というこうした記号プロセスの理解は、対象の知覚から、言葉やイメージによるカテゴリー化、そしてイメージ・スキーマによる解釈へという、現代の認知科学が行う説明原理と非常に近いことがわかります。
「記号はあるものつまり対象の代わりをする」が、「記号はだれかに話しかける、つまりその人の心の中に、等値な記号、あるいはさらに発展した記号を作り出す」とパースが言うとき、述べられているのはこのような解釈作用のことです。じっさいすべての記号の意味はその記号がどのような別の記号との解釈関係に入るかによって決まるのですが、解釈項として連想にのぼる別の記号もまたもうひとつ別の記号との連想関係によってしか意味を持たない。そして、さらにそれ以後も同様です。対象を知覚する人間は、自分の心の中に「等値な記号、あるいはさらに発展した記号」を次々と作り出していく。ひとつの記号は、それを解釈する記号を作り出し、その解釈する記号もさらにそれを解釈する記号を作り出していき、そのプロセスは無限の連鎖をかたちづくっていく。このプロセスが「無限のセミオーシス(semiosis 記号過程)」です。
(石田英敬『現代思想の教科書 世界を考える知の地平15章』(ちくま学芸文庫、二〇一〇年)、67~69)