2021/12/15, Wed.

 志賀直哉藤枝静男、そして安岡章太郎という三人の作家の「作品」を読みおえたいま、なにがなされねばならないだろうか。読みおえた [﹅5] といっても、もちろんそれは、読むことがとりあえず中断されたというにすぎないし、またここに提示された読み方だけが、この三人の作家にふさわしい唯一のものだと主張するつもりは毛頭ない。「作品」は、あらゆる瞬間、まだ読まれつくされてはいない充実した言葉の群として読む意識を不断に刺激しつづけているし、また、いま、ここにある [﹅7] その言葉の群は、あらゆる解読の視線に向けて万遍のない微笑を投げかけているのだから、そのうちのどれかひとつを特権化し、それによって解読が完了したなどと口にする理由はどこにもみあたりはしまい。読むことの終りは、読むことそのものがそうであるように、たえずとりあえずのものでしかないのだ。とりあえず [﹅5] というのは、読むことを保証する正当な必然性などどこにも存在しないからである。
 では、読むことはおしなべて恣意的な独断にすぎぬと結論すべきだろうか。原理的には(end272)そう結論して何らさしつかえなかろうと思う。だが、現実にあっては、人は決して恣意的であることなどできないという点が問題なのだ。誰もが自分の志賀、自分の藤枝、自分の安岡を持って当然でありながら、結局のところはどの志賀も、どの藤枝も、どの安岡も似たりよったりの表情にしかおさまりえず、恣意的であるはずの独断がいささかも恣意性を誇示しえずにいるというのが現状である。それは、読むことが自由ないとなみではありえない世界に人が住まっているからだ。つまり、読むことの恣意性に言及するひとびとが、読むことの方法の確立を目論むひとびととかわらず、制度化された思考に操作された読み方しか実践してはおらず、しかもそのことにいたって無自覚なのである。
 恣意的な読み方と方法的な読み方とがともに捕われている不自由、それは、そのいずれもが、読むことを見えてはいないもの [﹅10] を露呈させる体験だと確信している点に認められる。いま、ここにあるものではなく、いま、ここにはないもの、たとえば心理とか、自意識とか、思想とか、社会とか、全体性とかいったものに到達することで読むことが完了するのだとするこの不自由、つまり思考の制度性。それがなんのためらいもなく無視するものは表面である。「作品」の表層に境を接して戯れあっている言葉の群、それを超えたより深い地層に、意味が、あるいは人間が、さらには社会が横たわっている。その深みにまで降りてゆくことが読むことだと彼らは考える。考える [﹅3] というよりむしろ考えさせられている [﹅9] というべきだろう。というのも、読むことが深さの体験だと確信すべき正当な理由は(end273)なにひとつ存在していないのに、一様にそう確信することの不自由を誰もいぶかしく思ったりはしないからである。
 不断の現在として、いま、ここにみえているものを読むこと。「作品」の表層に、というよりより正確には表層しか持ちえない「作品」の言葉の群と無媒介的に戯れてみること。それがこの『「私小説」を読む』を貫く姿勢であるといえばいえようが、そうした姿勢をとりあえず正当化しうるごく相対的な理由がかりにあるとするなら、それは、以上のような不自由を統禦している思考の制度に、多少ともさからってみたいという程度のものでしかないだろう。だが、それは、恣意的な選択であるというより、志賀を、藤枝を、安岡を何度も読みかえしているうちに、むしろ「作品」が読む意識を捕える不自由としてかたちづくられてきたもののように思う。いわゆる「私小説」の系譜につらなるとみられるこの三人の作家たちが、その内面に隠し持っているはずの厳密な「私」的体験の厚みにもかかわらず、具体的な「文章体験」の場において、言葉の群との表層的な戯れの豊かな拡がりを通過しつつ、その内的な体験の濃密さそのものを虚構化してゆくときの息づまるような緊迫感が、こうした読み方をおのずと導きだしてしまったのだ。そして、そのとき「作品」の表層で演じられる言葉の戯れが描きあげる運動は、豊かな単純さ、大胆な繊細さ、饒舌な寡黙さとでもいうべきものである。一瞬ごとに鮮やかな変貌をとげつつ、同じ一つの表情におさまりつづけるもののみが生きうる模倣と反復がそこに実践される。たと(end274)えば『暗夜行路』の冒頭の屋根が最後の大山として模倣的に反復され、藤枝的「作品」における巨木と河川と系譜とが分岐するものとしていたるところでたがいに模倣的に反復され、安岡的「作品」にあっての夏休みが、猶予の一時期としてさまざまに模倣的な反復をとげているように、そこでの言葉は、変容の儀式を通過することでかえって同じ一つの相貌におさまることになるのだ。変貌することではじめて実現されるこうした表情の一貫性というべきもの、それが、小説家の意識的な統禦によって可能となったとはとても想像しがたい。それは、意識と無意識とをともに超えた言葉そのものの運動であり、その運動に同調しえた志賀や藤枝や安岡を「私小説」作家であるか否かと問うことは、もはや意味を失っているだろう。彼らは、「作品」の表層で演じられる言葉の戯れが描きあげる運動と同調しえたかぎりにおいて、まぎれもなく「作家」と呼ぶべき存在だ。そして「作家」は、奥深い領域に隠された「私」など持ってはおらず、その存在をあらゆる視線に向けていっせいにおし拡げ、すべてをあますことなく人目に晒すことをうけいれた徹底して表層的な個体にほかならない。その表層的な個体がこれまた表層的な言葉の戯れと同調しつつ描きあげる運動を感じとること。『「私小説」を読む』で試みられたのはそのことにほかならない。そしていま、志賀の、藤枝の、そして安岡の小説が「私小説」と呼ぶにふさわしいものか否かを問うことは、意味を失っている。たしかな感触でまさぐりえた唯一のことがらは、それが「作品」にほかならぬという事実ばかりである。
 (蓮實重彦『「私小説」を読む』(講談社文芸文庫、二〇一四年/中央公論社、一九八五年)、272~275; 「おわりに」全篇)



  • 三時半すぎに外出。おくれて母親が出てくるのを待つあいだ、沢の脇に立ってみおろす。ほそくてあさい濠のような水路には落ち葉がたくさんはいってなかば敷きつめられたようになっているが、水にひたって腐葉土の色になったそれらのあいまにところどころ水流が確保されていて、水面がおりなすあるかなしかのおうとつを絶えずふるわせてこまかな紋を永続させている。南にむきなおれば空は雲なしのまっさらな淡青で、川のあたりの木々やそのむこうの風景はまだ西陽のだいだいいろをかけられておだやかにあたたまっていた。
  • 外出は、ひとつには(……)の結婚式にさいして祝儀をふりこむため。ついでに、いままでめちゃくちゃ先延ばしにしていた年金の口座振替手続きと、携帯電話の機種変更申し込みも書類を書いて投函してしまおうということで、出るまえに記入した。マジでほんとうに事務書類を書くということがめんどうくさすぎてここまでのばしのばしにしてしまった。携帯はいまつかっている3Gガラケーのサービスが来年の二月で終了するということで、すこしまえから変えろ変えろとauのほうから通知がぞくぞくととどいていながらめんどうくさくて放置していたのだが、ここでようやく手続きすることに。申込書を記入しておくりかえしてくれればあたらしい機種を家に送るというダイレクトメールがしばらくまえにとどいていたのでそれをもちいた。ほんとうは電話するなり店に行くなりすれば機種料金も手続き料もかんぜんにただになるようだし、選択肢もいくらか増えるようだったのだけれど、スマートフォンなどしょうじきなんでもいいしとにかくめんどうくさいので、郵送にたよった。郵送をもちいるばあいは選択できるスマートフォンはGalaxyのなんとかいうモデルひとつだけで、変更プランもスマホスタートプランというのに自動的に設定されていたが、スマートフォンでそんなにネットを見るつもりもないし、なんでもよろしい。外出の動機のもうひとつはワイシャツを買うことで、あしたの葬儀のためのワイシャツはいちまいあるのでいいのだけれど、結婚式にはそれはちょっと古いというか、まあたらしいやつを着ていったほうがやはりいいのではないかというわけで、買ってくることにしたのだ。それで母親も買い物に行くというので同乗させてもらった。街道を行くと車のまわりやすぐ近間の建物はもう陰につつまれているものの、道にはときおり家並みの切れ目から漂白的なオレンジ色がさしこまれており、またもっとさきのほうにはまだ陽の手がとどいていて、ある地点をさかいにして家々やビルの側面にあかるい幕がななめにかけられ、正面奥にひらいている空は薄水色に澄んでいた。やたらねむかった。なぜか疲労感があったので車内では目を閉じて心身を回復させるようつとめ、「(……)」につくと億劫さに背伸びをしてあくびをもらしながら降りる。さっさとはいっていき、フロアをすすんでワイシャツの区画をみていると男性店員がやってきて、母親が白いシャツをとこたえて、さらにDMの葉書をさしだして、いぜん買ったサイズをしらべてもらうことに。べつにふつうにMでいいだろうとおもっていたところ、履歴にあるのはやはりMだというので、土曜日に結婚式があるので白いやつを買っておこうとおもいまして、と説明し、それを二枚と、あと一枚、と要望を述べた。三枚で五〇〇〇円だとあったので、どうせならもう一枚ふだんの勤務に着る用のシャツも買っておこうとおもったのだ。白いものは店員がすぐに用意してくれて、のこりの一枚をてきとうに見分し、いままでピンクっぽい色のやつとか着たことないしそれにしてみるかとえらんで、そうして会計。消費税をふくめると五〇〇〇円をこえるのだが、DMのサービスでいちまい半額にし、かつ母親がたまっているポイントをぜんぶつかってくれということで数百円引かれて、五〇〇〇円札で支払いはすんだ。さっさと車へもどる。母親は、レジカウンターの奥にいた店員について、あのひとなんどか来て知ってるのに知らんぷりして出てこなかったね、やっぱりちかくにきていつもありがとうございますとか言わなくちゃ、などと言っていたが、どうでもよろしいというか、そんなサービスをもとめるのは過大だとおもう。そもそもあちらはそんなにおぼえていないのではないかという気がするし、おぼえていたとしてもそこまでのなじみをかんじてもいないだろう。
  • わすれていたが、ワイシャツを買うまえに(……)の郵便局に寄って書類ふたつを投函し、ATMで(……)に結婚式の祝儀をふりこんでおいた。三万円。(……)のときは友人だしきまえよく五万くれてやろうと奮発したのだったが、今回はなぜかそういう気にならなかった。(……)よりも(……)にはしたしみをかんじていないのだろうか。べつにそういうわけでもないとおもうし、祝儀の金額の多寡に友情のおおきさが反映されているわけではない。(……)
  • その後、買い物のために(……)に行ったのだが、なぜかマジでめちゃくちゃつかれていたので道中は目を閉じていたし、スーパーもはいらずに車内でずっと休んでいた。その甲斐あってわりと回復したので、帰宅するとアイロン掛けをしたり、多少料理をしたり。夕食はスーパーで買った寿司。夜には一一日の日記をすすめたが、ほかにはたいしてなにもやっていない。あしたがはやいので二時半くらいに就床した。