2022/1/1, Sat.

  • 鼻の奥や目や歯のあたりが内側から圧迫されるような鈍痛で暗いうちからたびたび目が覚めた。これはたまに起こる現象で、急に寒くなったりしたとき、あるいは鼻のなかの毛をみじかく切ったりしたときになる。鼻の奥の粘膜が刺激されて一時的に炎症が起きているのではないかと見込んでいる。きのうは鼻水がやたら出てもいた。けっこうな苦痛でわずらわしいのだけれど、今回は一日のみでいちおう平常にもどったようで、起きるのは一二時とおそくなったがそのときには痛みは引いていたのでたすかった。時刻が遅いので瞑想はせずに上階へ。父親はソファ。母親は台所で食事の支度。明けまして、といちおう言っておく。年末にせよ新年にせよ、ちっともそういう感覚や雰囲気をかんじないが。ほんとうに、ふだんのふつうのいちにちと感覚上、なにもちがいがない。洗面所で顔を洗ったり髪を梳かしたり、なんどもうがいをしたりする。その後用足し。食事は父親が卓にはこんでくれた。野菜や肉がはいったあたたかいスープに素麺をつけて食うのと、ほかおせちの品がいくつか。かまぼこ、伊達巻き玉子、煮昆布、栗きんとんといったところ。母親はいい加減でごめんと言ったが、いいかげんでいっこうにかまわないし、おせちを食べたいという欲求もない。両親は酒を飲んでいたがじぶんはなんの飲み物も用意せず。テレビはねづっちやナイツの漫才。ナイツの塙が新年一日目からさっそく下ネタをかましていた。新聞には藤井聡太と車椅子テニスの国枝慎吾という選手の対談があったので読んだ。
  • 皿や風呂を洗い、さきほど食事のさいには飲まなかったコーラをなぜか飲むかという気になったので、それを持って帰室。コップにそそいで飲みながらNotionを用意したりLINEに賀正とおくったりウェブを見たり。それから「読みかえし」。やっぱりなんだかまいにちすこしずつでも音読をしたほうがいい気がするなとおもって、きょうはさいしょにおこなった。書抜きを読みかえす意味もあるし、また、声を出したほうがやはりあたまがしゃきっとするような気もする。とはいえしかし、ただ声を出せばいいかというとそうでもないようで、ひととはなしたり(それはそれで気分がもちあがることもあるが)歌をうたったりするのと、書かれた文字を視認しつつ口と喉をうごかして読んでいくのとでは、なにかがちがうようなかんじがある。興が乗って一時間ほど読み、243番から250番まで。それで二時半くらいになった。ベッドにころがって西谷修『不死のワンダーランド 戦争の世紀を超えて』(講談社学術文庫、一九九六年)を読みすすめる。「Ⅱ 死の不可能性、または公共化する死」はフレイザーを踏まえたバタイユの「有罪者」もしくは「至高者」についての解説からはじまるのだけれど、「森の王」についてのフレイザーの物語(ローマ神話ではネミの森というところに「森の王」たる祭司がいるのだが、かれは前任者の祭司を殺害することによってのみ祭司となることができ、先王を殺した瞬間からこんどはじしんがつぎの王となるべき後継者に殺されることをさだめられた存在として生きることになる)も、バタイユ(および西谷じしん)によるその解釈もおもしろかった。いかにもちょっとした短篇の枠組みになりそう。また、有名なことがらだが、ハイデガーによる現存在と死の関係についての考察、すなわち現存在はみずからの「不可能性の可能性」(じぶんがいつでも(みずからの意志と主体的自由によって)死ぬことができるということで、この「可能性」をたんにいつでも死にうる、きょうにでもあしたにでも死ぬかもしれない、という偶然的可能性の意味でとらえては通俗的な道徳訓のようになってしまうわけで、みずからの主体性によって死を引き受けるという「覚悟」の要素がハイデガーにあっては重要だと述べられていた)を直視し、それをさだかに認識しておのれの身に引き受けることで「本来的」な生に目覚めることができる、という言説についても簡潔な要約があったので、そこは書き抜くことにした。ハイデガーのかんがえはあきらかにかなりマッチョなものであり、ハイデガーナチスと親和してしまったのはひとつにはそういうところだろうとおもわれ、こういうマッチョイズムは一面ではいけ好かないのだけれど、ただ理路を追ってみればその脈絡のなかではいちいち納得の行くものではあって、まあたしかにそういうこともあるよなと、そういう道行きにはなるよなともおもわれる。とはいえ西谷修のこの本は、全体的にはおそらくそういうハイデガーの思考を踏まえてその乗り越えをめざしたものだと予測され、そのなかでレヴィナスハイデガーを批判しそれとはべつの方向をさぐった思考者として主要に参照されているようだ(第一章はだいたいのところハイデガーと対比したレヴィナスの論の解説というおもむきだった)。
  • あと、ここでようやく携帯の回線切替をおこなった。やっとスマートフォンをつかうことになる。
  • 上階へ。居間の明かりをつけ、アイロン掛け。テレビはBSフジでやっている時代劇のドラマで、『三屋清左衛門残日録』というやつだ。いま検索したところではこれは藤沢周平原作のドラマシリーズで、このときやっていたのは第四作目の『三十年ぶりの再会』。そんなにわるくない雰囲気だった。筋はわかりやすく、おつとめを終えて隠居し、若い衆らのなかに混じって学問をまなんだり、あるいは剣術道場にかよったりしている三屋清左衛門(北大路欣也)が主役で、かれと子どものころの道場仲間らが四人で三〇年ぶりにつどって酒を酌み交わし、たのしい夜をすごしたものの、その数日後になかまのひとりが切腹した、というはなし。そのあたりまでしかみなかったが、その後、友人はなぜ自害することになったのか各方面をまわって調査し、過去の事情や真実をつきとめるという仕立てにとうぜんなっていたはず。店につどったなかまたちは伊武雅刀伊東四朗北大路欣也と(あとひとりはだれなのか知らない)貫禄のある面々ばかりで、帰り際に伊武雅刀がわざわざきちんと礼を言って今生の別れのようなようすをみせる点とか、切腹時の演出とか、いかにも典型的であからさまなぶぶんももちろんおりおりあったものの、それがあまり品のないものになってはいなかった気がする(切腹するときの伊武雅刀の蔭を付与された顔貌と表情はなかなかに鬼気迫っていた)。ひとつひとつの画のかんじや、音楽もふくめた全体的なながれのリズムもそんなにわるくないようにおもった。伊東四朗というひとは、ことばの出し方、台詞の吐き方に、ちょっと妙な、特有のリズムがあるなとおもった。
  • アイロン掛けを終えると台所で食事の支度。米を磨ぐ。母親が戸棚の米袋からザルにすくいとった米をうけとり、流水を落としながら素手でじゃりじゃりやるのだが、さすがにつめたくてしばらく磨いだあとはじんじんと痛み、宙空にさしだしてしびれが引くのを待っているあいだ、赤くなったその右手はふるえていた。六時半に炊けるようにセット。それから餃子を焼く。母親はスンドゥブを作成。素麺のつゆがはいっていた鍋に素を入れて切った野菜やキノコや肉を放りこむだけ。餃子を焼いているあいだ、その火加減もこちらが調整。母親はきのう(……)くんが来たことの礼で(……)家に電話をかけていた。また、餃子も焼けて鍋もできたあたりで来訪があり、(……)さんの嫁(つまり(……)さんの連れ合い)だったよう。このあいだも来たとおもったが。どういう用件だったのかわからないが、おおかた新年のあいさつだろう。隣家なのでいつもおばさんのようすを見てもらっているし、迷惑をかけたりすることもあるかもしれないとの配慮だろう。それでなにかの品を持ってきたのかもしれない。(……)さんは頑固であれこれいろいろと指図をして、この嫁さんはさからえないらしく、こうしたほうがいいんじゃないかということもぜんぜん言えないらしいという。
  • 訪問のあいだにキャベツや大根やニンジンをスライスして簡易な生サラダをこしらえ、それで下階へ。携帯電話の設定。Googleのアカウントへのログインをもとめられて、あまり紐付けたくないなとおもうのだが、しかし紐付けないとGoogle Playなど利用できないとのことだったので、むかしつくったもうひとつのgmailアドレスを利用することに。いぜんはブログにアドレスを載せていたのだが、検索するとなんの結果も出てこなかったのでだいじょうぶだろうと。それでなんかいもこのアドレスとパスワードを入力しなければならず、めんどうくさい。また、たぶん我が家のWi-fiネットワークの貧弱さの問題なのだとおもうが(パソコンでもつないでいることも影響しているだろう)、おりおりの読み込みにけっこう時間がかかって、ログインしても接続がわるくてできませんでしたみたいなことになることも多く、そうするともういちど入力しなければならないので余計に面倒くさい。すぐに終わるだろうとおもってBel Jacobs, “Katharine Hamnett: the original fashion eco-warrior”(2020/1/15)(https://www.bbc.com/culture/article/20200113-katharine-hamnett-the-original-fashion-eco-warrior(https://www.bbc.com/culture/article/20200113-katharine-hamnett-the-original-fashion-eco-warrior))を片手間に読んでいたところがそういう事情でなかなかすすまず、読むほうも頻繁に中断しなければならなかった。さらに、アドレス帳をガラケーからauサーバーというものにうつしてあったので、それをスマートフォンに移行しようとおもったところが、auのサイトをみてみても復元のやりかたにうまくたどりつけない。けっきょく「データお預かりアプリ」なるものをGoogle Playから取得してそれでもどせるらしかったのでそのようにしたのだが、このアプリの読み込みもさきほどと同様でおそかったり失敗したりしてわずらわしく、くわえて、いぜんのガラケーの番号といまのスマートフォンの番号(つまりこちらの個人情報としてau側にデータ登録されているはずの番号)がなぜかちがっており、いまの番号でおのずとログインされたあとにデータ移行をこころみてもとうぜんながらうまく行かず、まえの番号であらためてログインしたりとまた手間がかかった。しかしなんとかアドレス帳を移行することに成功。ほかにうつしたいデータはない。アプリではほか、auメールを導入して、アドレスを設定しておいた。gmailで各方面と連絡をとる体制にしてもいいのだろうけれど、なんとなくキャリアのEメールをもちいておくかと。しかしその後のアドレスや番号変更の連絡はめんどうくさくてまだおこなっていない。連絡するべきあいてもすくないのだが。スマートフォンになったのでLINEなんかも導入するようもとめられるとおもうが、しょうじき入れたくはない。LINEはパソコンでいちいちログインしてひらくくらいの距離感がちょうどよく、スマートフォンでいつでも確認できるとなると鬱陶しい。まあ、通知を停止すればだいたいおなじことになるのかもしれないが。
  • 七時二〇分くらいで食事へ。新聞で日本や世界にまつわる状況についての新年の展望を識者が語るみたいなシリーズがはじまっており、さいしょのきょうは安倍晋三がこたえていたので読んだ。二〇二二年は台湾情勢が重要になるという点がひとつ。また、中国が軍事的に拡張しているなか(中国の防衛費はこの数十年で四〇倍くらいになったとかいわれていた)、領土をうばわれる危険がもっとも高いのは日本であり、軍事的緊張とか紛争というのはちからの均衡がくずれた国のあいだで、たがいの意思を読み誤ったりして起こるのだから、日本も防衛力を向上しととのえてバランスを取らなければならないという意見がひとつ、さらに、ミサイル防衛はもはや割に合わず、日本のいまの能力では変則的な軌道のミサイルや超音速兵器に対応することはできないし、最新の矛にたいして対処できる盾を用意できたころにはまたあらたな矛が誕生しているというペースで状況はすすんでいるので、抑止力がじゅうぶんにはたらかず、こちらがわから敵基地などを攻撃できる能力を保有したほうが割りに合って合理的だと。仮に日本が攻撃されて被害を受けたとして、報復は主にアメリカが担うことになるわけだが、米国からいっしょに戦いに行こうと誘われたとしても、政策判断上自衛隊は米軍について敵国を攻撃に行くことはできず、それでは日米同盟がそこなわれてしまう、という言い分だった。じぶんは現行の憲法九条をなにがなんでもぜったいに死守するべきだとはおもっていないし、自衛隊の地位規定だってどうにかする必要はあるはずだとおもうが、しかし「米軍について敵国を攻撃に行くことはできず」というのがむしろそもそも日本国憲法の本義だったはずで、米国とのあいだでも、すくなくとも建前上はそういうことではなしがついていたのではなかったのか。ところでウクライナ情勢にまつわっては、バイデンが米国単体でウクライナのために戦い、兵力を派遣するつもりはないみたいなことをさいきん表明したらしいのだけれど、安倍晋三はそれは失策だったと批判しており、米国がなにをするかわからないという可能性をロシアにかんじさせておかなければならなかった、と言っていた。
  • テレビはロサンゼルスはビバリーヒルズをまわって、ここが元誰の家、ここがジョニー・デップが住んでいた家、とかいって紹介する映像をながしていた。ビバリーヒルズでは下位の家でも二億とか三億くらいするらしく、セレブリティの連中が住むような上層になると二〇億とか三〇億になるという。じぶんだったら三億あればそれで死ぬまで生きていける自信があるぞ。マイケル・ジャクソンはここにあった家を月に一〇〇〇万円くらいの家賃で借りていたらしい。
  • 食事は丼の米に餃子を乗せたり、ほかスンドゥブとかサラダとか菜っ葉とかだったのだが、なぜか意外とすぐにお腹がいっぱいになったというか、これいじょう食べたくないなというかんじが起こり、スンドゥブはあまり口をつけずにのこしてあとでまた食べることにした。空腹だったところに餃子や米を一気に入れたので血糖値なんかが急におおきく変化してちょっと苦しくなったのかもしれない。皿を洗い、蕎麦茶をつくって帰室。八時をまわったくらいだったはず。音読をしたおかげできょうは読むことに気分が向いていたので、Fiona Macdonald, “The story of a painting that fought fascism”(2017/2/6)(https://www.bbc.com/culture/article/20170206-the-artists-who-fought-fascism(https://www.bbc.com/culture/article/20170206-the-artists-who-fought-fascism))を読み、(……)さんのブログも二日分読み、西谷修『不死のワンダーランド 戦争の世紀を超えて』(講談社学術文庫、一九九六年)も読みすすめた。第Ⅱ章のほぼ終わりまで。ハイデガーはおのれの死を見据えて、いつでも死ぬことができるという可能性を引き受けることによって現存在は頽落した日常性から脱却して本来的生を獲得することができるとかんがえたわけで、したがってかれにとっては、死を、無名で非人称の「ひとが死ぬ」というとらえかたから、「私が死ぬ」というとらえかたに転換することこそが任務だった。すなわちハイデガーにとっては、死こそが私の固有性を証すものだったのだが、ブランショはまったく反対で、かれは、ひとはけっして私じしんの固有の死を死ぬことなどできはしない、私が死ぬとき私の死はだれのものでもない非人称的な「ひと」の死に変質せざるをえず、したがって、固有の死による私の本来性の回復などということは幻想だとかんがえた。くわえて、ハイデガーが非本来的で頽落したものだと弾劾した「日常性」をブランショはむしろ肯定し、その非人称的な空間のひらかれのなかで、けっして「われわれ」となることがなく「私」とすら言うことのできない無名の「ひと」たちが織りなすコミュニケーションによる共同性を志向したと。ひじょうにおおざっぱに要約すればそういう論のみちすじになるのだが、このハイデガーと(レヴィナスもからめた)ブランショの対比はわかりやすいし、「死」や「日常性」にたいする価値づけの転換のながれは刺激的でおもしろかった。ひとはだれもヒロイズム(英雄性・主人公性、またよりひろくは物語性)から無縁であることはできないわけで、ハイデガー的なマッチョイズムもまあかっこういいなとはおもうのだけれど、じぶんの性分としてはやはりブランショ的な非人称的匿名性のほうにより共感するかんじはある。