カントは当面の議論のなかで、形式 [﹅2] の合目的性と純粋さ [﹅3] とを繫ぎあわせて考えている。純粋な [﹅3] 趣味判断とはなにかを考えておくことが、美は目的の表象を欠いた合目的性であるとする発想の根底にあるものを考察してゆくうえで有効な補助線となるだろう。「完全性」の概念が美の規定根拠としては斥けられたのちに、あらためて導入される定義に注目してみる。
美にはふたつの種類が存在する。つまり「自由な美」と「付随的な美」である。前者は「対象がなんであるべきか」についての概念を前提とせず、後者はそれを前提とし、かくしてまた当の概念にしたがう「対象の完全性」を前提としている(228)。たとえば男性の美、女性の美、あるいはまた馬の美、建物の美であるならば、それぞれが「なんであるべきか」を規定する「目的の概念」を前提としており、それゆえにこれらに帰属するのは付随的な美にすぎない(230)。それでは、自由な美の例としてカントが挙げるのはどのようなものであったのか。ちなみに、以下の引用で途中を省略した部分にかんしては、すでに本章・第一項の末尾で言及している。花は自由な自然美である。〔中略〕多くの鳥(オウム、ハチドリ、ゴクラクチョウ)、海の多数の貝類はそれだけで美であり、この美は、その目的にしたがって規定されている対象にはなんら(end31)帰属するところがなく、自由にそれだけで意にかなうものである。おなじように、ギリシア風の(à la grecque)線描や額縁や壁紙などに見られる唐草模様は、それだけではなにごとも意味することがなく、なにものも表象せず、かくて、なんらかの規定された概念のもとにあるようないかなる客観も表象するところがないにせよ、それでも自由な美なのである。くわえてまた音楽にあって(テーマを欠いた)幻想曲と名づけられているもの、そればかりか歌詞をともなわない音楽のぜんぶも、おなじ種類の美のうちに数えいれられうることだろう。(229)
自由な [﹅3] 美、つまりなにかの目的や、なんらかの概念に――それが「なんであるべきか」に――依存し、それに付随することなくそれだけで [﹅5] 美しいものを、しかもその対象の「たんなる形式」にしたがい判定するさいに、趣味判断は純粋なものとなる。すなわち目的なき合目的性をとらえていることとなるだろう。そこでは「構想力の自由」がなんの目的にも拘束されず、どのような概念にも束縛されることもなく、ひたすらみずからとたわむれているからだ(vgl. 229f.)
美しいものは無償 [﹅2] である。とりわけ自然は、多様な美しさのうちで「ぜいたくなまでにじぶんを濫費している」(243)。自然のこの意図なき贈与 [﹅2] にこそ、美がうまれる根源的な根拠がある。美が目的を欠いた合目的性であるのは、自然が惜しみなく美を与えるからなのである。
(熊野純彦『カント 美と倫理とのはざまで』(講談社、二〇一七年)、31~32; 「第1章 美とは目的なき合目的性である」)
- 一一時一九分に離床。もうすこし早寝して、余裕をもたなければ。きょうはきのうの雪が去って一転してよく晴れており、気温も比較的高そうだが、起き上がるとヒーターをつけて背伸びをしたり肩や首をまわしたりした。遅くなったので瞑想はおこなわず、ゴミ箱や急須湯呑みをもって部屋を出る。階段下の室にいる父親にあいさつし、上階へ。ジャージにきがえ。南窓からそとを見ると(……)さんの宅の裏など蔭になりやすく草や土のあるところはまだ白く染まっており、近間にはうっすらと白さをのこしている青い瓦屋根もみえるが、おおかたは溶けたようで道のうえにはなにもない。そもそも路上に積もるほどの降りでもなかった。トイレに行って放尿したり、洗面所でよくうがいをしたり。食事はきのうの汁物にほうとうを入れてといわれてあったので冷蔵庫をのぞくと、パックにはいった幅広の麺があった。ストーブのうえに乗っていた鍋を台所のコンロに持ってきて、かわいてベタベタくっついた麺を箸ではがしながらそれに投入。煮込むあいだ屈伸をしたり、脚を揉んだりする。ほか、炒飯もすこし取ってレンジであたため、食卓へ。新聞、米議会議事堂占拠事件から一年と。バイデンは演説する予定らしい。民主主義の価値をうったえつつドナルド・トランプの責任を追及する方針と。ドナルド・トランプの側は四日に、議事堂占拠が起こったのは「大統領選挙の不正」が主な理由だったという声明を発表、議会はそちらをこそ調査するべきであってじぶんの責任はないと主張している。一二月の世論調査でも、共和党支持者の半数ほどが大統領選で不正があり、それが選挙結果に影響をあたえたと回答。民主党支持者でも五パーセントがそう回答しているというのもよくわからんが。ほか、カザフスタンで燃料価格引き上げに抗議するデモがひろがっているのにたいし、政府は軍を投入して強硬な鎮圧に出て、当局は数十人を殺害したと発表。二〇〇〇人いじょうが逮捕拘束されているらしい。カザフスタンはながくなんとかいう大統領が統治しており、数年前に現職のひとに替わったらしいが、強権統治は変わらず、大統領は、大統領府に攻撃をしかけてきたのはテロリストだみたいなことを言って弾圧にはしった。ロシアが主導する軍事同盟も介入しており、兵員を派遣するようで、政府機関の警備などを主な任務としているが、弾圧にくわわる可能性もある。
- あまりきちんと読まなかったが、なんとかいうメディアに立憲民主党が資金提供(一五〇〇万円)していたのが発覚したという報もあった。津田大介など、出演者が何人かいっしょになって、そういうことは知らされていなかった、報道の中立性の観点からおおいに問題がある、と声明を出したもよう。食事を終えると食器を洗い、風呂も洗って、白湯をいっぱいコップにそそいで帰室。Notionを用意するときのうの記事をブログに投稿し、きょうのことをここまで記して一時。
- そういえば地域面で毎日東京都内のコロナウイルス新規感染者データをみているが、あきらかにだんだん増えつつある。すこしまえから世田谷区がなぜかおおくて、ほかがまだほとんどなかったり一桁にとどまっていた時点から毎日一〇いじょうを更新していたのだが、きのうもトップで三〇人をかぞえており、ほかの各区のおおくも一〇や一五を越えていて、全体的に拡大している。(……)ここからおそらくさらに増えてくるだろう。直近一週間だか一〇日間だかで東京都の一日あたり新規感染者数は一〇倍になったらしい。
- 作: 「覚めぎわのあなたが鼓動である朝に俺はひとつの吐息と化して」
- 作: 「見ることははじまりなのだ君と僕あるかなしかに割りきれぬものの」
- 作: 「夕星に撃たれ輪廻をおもいだす姉は水面 [みなも] になれただろうか」
- 一時半ごろまで「読みかえし」。リルケの詩にはいった。その後ストレッチ。ひさしぶりにけっこうじっくりやってからだがかるくなる。きちんとやれば水のようになる。読みかえしの段階からOasis『Familiar To Millions』を部屋にながしていたのだが、”Stand By Me”があらためてよかった。このポップさ、さわやかさはすごいなとおもった。曲だけでなく音源やパフォーマンスとしてもいいというか、べつにたいしたことをやってはいないけれど、スタジオ盤だとやはりこういう質感にはならないのではないかという気がする。
- 二時でうえへ。父親は椅子についてスマートフォンを見るなど。きょうしごとあるのかときかれたので肯定。ベランダの洗濯物をとりこむ。陽射しがとてもまぶしく、ガラス戸のまえに立ってあけた瞬間から視覚を塗りつぶされて目をほとんど閉じずにはいられない。吊るされているものをなかに入れたあと日なたのなかに出てちょっと屈伸や開脚などおこなった。屈伸をしていると、目のまえの床にちいさな蝿が一匹いるのが目にとまり、季節はずれだが暖気にさそわれて湧いたものらしく、しかし死んでいるのかとみているうちに顔のしたで糸くずの切れ端のような足をこまかくうごかしはじめたので生きていることがわかった。床のうえには陽に抜かれてちいさなすがたのさらにちいさな影もうつっており、足や翅のほうの微動にあわせて影もふるえる。屈伸から身を起こして左右の開脚にうつったところで、こちらのからだのうごきに押されたのか、飛び立ったようで一瞬ですがたが消えた。午後二時の太陽は西空にまだおおきく、冬至をすぎてこずえまでの距離もだんだんとながくなっており、身にふれるぬくみにはなかなか厚みがあって風がおどっても寒さをおぼえない。
- はいるとタオルや肌着をたたみ、トイレに行ったり洗面所にはこんだりしておき、それからアイロン掛け。あまり猶予がなかったが、じぶんのワイシャツはきょうの分あしたの分をかけておかなければならなかった。その他父親のシャツなどいくつかで、すべてはできず。窓外の空はかんぜんに雲なしのやわらかな水色をくまなくのばされて市街のマンションへしみいるように地を抱き、南の山にはもう緑がすくなく裸木のものらしい薄褐色がひろくけむって、近間の樹々の緑も褪せ色、空間の色調がすべて淡いおちつきにつつまれている。アイロン掛けには水を入れたスプレーボトルをつかっているが、目のまえの炬燵テーブルのうえ、アイロン台のむこうがわに置いたそれに陽射しがかかって、抽象的なかたちに加工されたあかるみが周囲の天板上にちいさくひろがるとともに、ボトルの角と水の底ちかくの二箇所に真白いひかりの点がたまり、水面は衣服の皺を伸ばすこちらのうごきの波及で絶えずふるふるゆらいでいる。短歌をてきとうにかんがえながら作業し、終えると父親のシャツは階段のとちゅうにはこんで吊るしておき、食事。炒飯のあまり。電子レンジであたためて卓へ。すぐに食べ終え、皿を洗うと米も玄関の戸棚からザルにとってきてあたらしく磨いだ。
- 三時ごろだったはず。白湯をもって下階へ。すこしでも日記を書いておこうとまず短歌を記録し、きょうのことをすすめた。アイロン掛けのとちゅうまでつづって三時二〇分ごろになったので、そろそろ支度をしなければやばいと中断し、上階にあがってトイレへ。腹を押したり揉んだりして腸のうごきをうながしながら糞を垂れる。出ると靴下をもってもどり、歯磨きをしたのがここだったかおもいだせない。これよりもまえにしていたかもしれないが、どちらでもいい。もどってくるとあと一〇分ほどしかなかったので余裕がないなとおもいながらきがえをして、バッグやコートを持って出発へ。父親に行ってくるとかけて階段をのぼるとマフラーを巻き、コートも羽織って玄関へ行った。眼鏡ももうかけてしまい、マスクをつけてそとへ。
- 三時半すぎでもだんだんとあかるくなってきてひかりの色がまえよりものこっている気がした。南の山はぼんやりとしたオレンジ色をかけられてやすらいでおり、陽のあたらないややひっこんだ斜面(何年もまえに一挙に伐採されてほかより色もかたちもさびしい一面だが)には雪の白さがあるかなしかまだらになってとどまっていた。道沿いの家にもあたまちかくから西陽をかけられたものもあり、すすめば正面奥に見えてくる木立ちはあかるみにはいりこまれていて、てまえの濃緑のなかに微風にふるえてちらちらのぞく綺羅の粒子がうかがえる。太陽は道にたいして右手に浮かんで坂脇のこずえにかくされているが、その液状光を押しとどめられるものでなく、すぐひだりでは小公園の桜の木が苔むした浅緑に黄橙をかさねこまれて輪郭線を強調するように幹のそとがわに混色の帯を一本貼られていたり、みじかく剪定された木に申しわけ程度にのこった葉っぱがさきを濡らしていたりして、そのつやめきがひかりのみによるものなのか雪のなごりで露が去りきっていないのか、見分けがつかない。
- 風がときおり林にふくまれて鳴りを生む日だった。坂道に折れてもすこし鳴っていたが、それが去ると木立ちの底を行く沢の少々泡っぽいような水音が浮かんできた。出口前のカーブでまた樹々が鳴り、低いうめきのような、内臓のうごくような音がまた聞こえ、先日は風に押された竹がすれあった音だろうと書いたものの、すれあうまで行かず、幹がしなったときのひびきだなとおもいなおした。ふれあえばいくらか硬い音も生まれるはずだ。駅に行ってホーム先にあるき、電車に乗って座す。瞑目のうちに待って移動。降りてホームを行くと階段付近で電車がとぎれて見える線路のむこうの小学校も校庭や建物にまだ日なたがおおくかけられて、体育館も側壁をつつまれたそのうえに裸木の影を乗せており、石段の最上、校舎の脇にはおおきなイチョウが二本裸になっているそれらはいちばんしたから生えた枝のみちょっとひろげて湾曲させつつも、すべての分枝が縦にまっすぐ屹立して、天を刺さんとこころざす立ちすがただった。
- 勤務。(……)
- (……)
- (……)
- 八時一五分ごろ退勤。きのうおとといとおなじで、もうすこしだけはやく出たいのだがどうもこのくらいになってしまう。駅にはいって発車まぎわの電車へ。席について瞑目のうちに休み、降りると帰路。夜気はつめたく染みこむようで、雪が降ったきのうよりも寒いのではないかとおもった。放射冷却というやつか? しかしあるいているうちに腹がすこしあたたまってくるようなかんじがあり、坂をおりてしたの道では風もなかったので比較的ゆっくりあるいた。おりおりに寒さが身に寄ってはくるのだが、だからといってことさらに急ぐのではなく、いまそこにあるその寒さを身にうけとめてさだかにかんじるのがやはり自由の端緒というものだろうと。帰って玄関の鍵をあけるとき、逆にまわしてしまい、すると手ごたえがないからもう開いているのかとおもったのだがそうではない、という一段があった。それではいりながら、なぜきょう逆にまわしてしまったのか? とじぶんじしんで訝った。扉の鍵をあけるなんていちいち意識してやっているものでもなし、からだにうごきが染みついているたぐいの動作なのに、と。寒さにやられたのだろうか。
- 手を洗って帰室し、コートを着たままヒーターをつけ、ベッドに腰掛けてからだや手をあたためたのだが、そうすると特有のこころがおちつくかんじ、なごむかんじがあって、狩猟採集時代の穴居人などが焚き火にあたって暖をとり生をつないでいるさまがイメージされて、オレンジ色に染め上げられたヒーターの芯が銀色をした背後の板面にその色を反射させながら熱をはなっているのをみながら、人間が火を獲得していらい、そのそばで身をあぶりあたためながらこのようにしずまるというのは本能のようなものとして受け継がれているのかもしれない、とありがちなことをおもった。部屋のうちはじつにしずかでなんの物音もなく、ただそとで(……)さんが吹いているらしく祭り囃子の笛の音が背後の窓からうすくつたわってくるばかりだった。マルグリット・ユルスナールの『黒の過程』のことをおもいだした。主人公はたしかゼノンというなまえだったはずで、錬金術師であり、この作品は一五〇〇年代だったかのヨーロッパを舞台にした長編小説なのだけれど、そのゼノンがスウェーデンだか北欧に一時行って宮廷にめしかかえられるみたいな一幕があり、そのなかに火にあたる描写がふくまれていて、たしかそこでゼノンは火にあたるとともに酒を飲んでからだをあたためていたとおもうのだけれど、いま目のまえにしているこのおなじ火がエールに熱をこめてからだをあたためるよすがにもなれば、ときに天空を駆け荒れ狂う暴威にもなりうるという事実にゼノンは不可思議をおぼえてうたれるのだった、みたいな一文があったはず。これがそんなにたいした描写の場面ではなかったのだけれど、なんとなくよくて印象にのこっているのだった。
- 降りるときに白湯をもってきてもいたのだった。ヒーターにあたりながらそれを飲み、からだがあたたまると服をジャージとダウンジャケットにきがえて、きょうのことを記述。一〇時すぎで夕食へ。麻婆豆腐や天麩羅など。夕刊を読みつつ食す。米議会議事堂占拠から一年を期にバイデンが演説してドナルド・トランプを批判したと。選挙結果をみとめず、不正があったというおおきな嘘をついたが、これは米史上はじめての暴挙だと。また占拠が起こっていたあいだも警官たちがおそわれているのをしりながら長時間ただ座してなんの対応もとらずにおり、責任を果たさなかったと。カザフスタンのデモ鎮圧の続報も。最大都市いがいにも鎮圧のうごきはひろがり、二三〇〇人だかが拘束されている。ロシアが主導する軍事同盟が平和維持部隊みたいな名目で人員をおくるというのはうえにも書いたが、ロシアじたいは、クリミア併合のときにもはたらいた精鋭部隊を投入しているらしい。
- 緑茶を用意し、食器を洗って(食器乾燥機から出されたが戸棚のうえに置かれたままだったものたちをなかに入れたり、乾燥機にのこっていたものたちもおなじように戸棚に入れたり各所に置いたりする)帰室するとまたきょうのことを記述。そうしながら茶を飲むわけだが、一杯目を飲んでいるあいだに胃のあたりに圧迫をおぼえた。明確に胃液があがってくるというほどではないが、うごめきをかんじ、応じて背中にもわだかまりが発生して(胃がわるくなると背中が痛むという事実がいぜんから経験的に観察される)、痛いというほどのことはないがこれはあまりよくないなとおもった。やはり天麩羅とか麻婆豆腐とか脂っぽいものを食べて直後に茶をくわえたので、胃液がおおく出たりしているのだろうか。それでちょっと間を置いたほうがいいなとおもい、内臓のかんじをさぐりながらゆっくり飲んだ。そうしながらここまで記して一一時半まえ。あしたは朝から労働なので六時には起きるつもり。早寝をしなければならない。
- 作: 「白々と時代を照らす雪の朝冥王星から呪文がとどく」
- 作: 「冬空の果てで冬空より淡く見果てぬ月の声をきかせて」
- 作: 「堂々と殺されてみろどうせまた石ころ以下の不徳の生さ」
- 入浴。換気扇をつけているとやはりなんだかよくわからない、ほとんど虫の音を幻聴させるような音響がかさなりあいのなかにきこえる。はやく寝るところが出てくると本を読んだりしてまた二時まえまで起きてしまった。消灯前にBill Evans Trioの『Portrait In Jazz』をききつつストレッチ。からだをほぐしあたためてから一時四九分に就寝。就眠は比較的ちかかったもよう。