2022/1/10, Mon.

 たとえば、メロディーを聴くという経験を考えてみましょう。メロディーを聴いているときに、意識がいま現在のことしか知覚できないとしたら、たとえば、ドレミというメロディーを聴くことはできないのです。音が三つ、「ド」と「レ」と「ミ」と聴こえる、つまりメロディーとして聴こえるのは、ちょっと前に聴いた音、たとえば「ド」を意識において記憶しているということがあって、つぎに「レ」と「ミ」と聴くと、「ドレミ」というメロディーに聴こえるのです。また、意識は不意打ちされると対象を経験することができません。「何か起こるのではないか」と待ち構えている状態があって、初めて対象を経験の対象として捉えることができるのです。(end222)
 別の例ですが、直近の過去や直近の未来という時間意識を持っていないと、単語でも聴き取ることはできません。たとえば、「山」という言葉を聴くときに、/ya/だけ、あるいは/ma/だけを聴き取ることしかできないとすれば、それは/yama/とは聴こえない、それが「山」という言葉だと認知することができないわけです。つまりよく考えてみれば、意識はかなり複雑なことをやっているわけです。
 直前の時点の過ぎ去った/過去/を担当する部分(現象学用語で「第一次把持」といいます)、いま、すなわち/現在/の知覚、そして、まさに来たらんとしている直近の/未来/を担当する部分(「予持」といいます)、これらがセットになって、コンピュータに喩えればプライマリーなメモリーといいますか、「一時的記憶」に基づいて「時間意識」は動かされているというわけです。現在時において経験を構成するうえでも、このような一次的な時間意識の構成があって初めて経験は可能になると、現象学では考えるのです。
 (石田英敬現代思想の教科書 世界を考える知の地平15章』(ちくま学芸文庫、二〇一〇年)、222~223)



  • 作: 「あどけない俺は死神傾斜地で腐ったリンゴとさまよいながら」
  • 九時ごろにいちど覚めて、布団のしたで膝を立てたかっこうで呼吸もしていたのだが、なぜか起きられず二度寝してしまい、けっきょく離床は一一時。やや遅い。しかしきょうは水場に行ってきてから瞑想できた。瞑想というか深呼吸をしつづけるだけだが、両者にあまりちがいはないとおもうようになった。瞑想は純然たる非能動性にとどまることだと定義しているので、意識して息を吐きつづけるというのはいくらかの能動性をはらんでしまうのだが、逆にいえばそれだけなのだ。瞑想のとき、ただ座ってじっとしていればあとはなんでもよろしいという方針でいたのとおなじように、ただ座ってじっと呼吸していればあとはなんでもよろしい、ということになる。呼吸というファクターがひとつくわわっただけ。しかも、サマタ的に呼吸のみにひたすら集中するならべつとしても、じぶんのばあいはそれをめざしてはいないので、感覚的にあまり変わりはない。呼吸とはそれが目的なのではなく媒介であって、座っているあいだにかんじるべきものがあるとしたらそれは呼吸そのもの(だけ)ではなく、刻々と微細に変化していくからだの感覚や、そのまわりにひろがっている外界のさまざまな薄片的刺激である。だからそこで呼吸に没頭することはめざされておらず(それを目的とした瞑想法もある)、あくまで吐息をとおして全身的で拡散的な集中みたいな、ことばでいうと語義矛盾のような状態がつくりだされるわけで、それはかんぜんに非能動的な、なにもしない式の瞑想をやっているときとあまり変わりはない。
  • 一一時一〇分から二五分間。やればじっさい、からだはひじょうにまとまる。意識もはっきりして、気分もすこし晴れやかなようになる。上階に行き、父親にあいさつして、洗面所で髪を始末したあとハムエッグを焼いた。米に乗せる。もうひとつ、白菜の味噌汁ももって卓へ。新聞、地域面で東京都各地区のコロナウイルス新規感染者を見たが、空欄の地区が減って数字のならびが密になっている。トップはやはり世田谷で一〇九人増、ついで新宿が七一人だか、足立区が六六人だった。着々と増えており、こちらの住む西郊のほうにもひろがってきているので、(……)に出ようという気にもならない。社会面にはさくばんのニュースで見かけた渋谷区(代々木)の焼肉店立てこもりがつたえられていた。下手人は二八歳だか二九歳だか。六〇〇〇円ほどの食事(ひとりでそれだからけっこう食っている)をしたあと、店長に、爆発物を持っているみたいなメモを見せて客をそとに出させたと。生きる意味がわからず、死刑になりたかったという犯行動機を立てこもっているあいだに言っていたというきのうの情報は、人質にした店長にたいして吐露していたのかなとちょっと気になっていたのだが、やはりそうだったらしい。つかまるまえに焼き肉を食いたかったとも言っていたという。さいきんあった電車内の事件みたいにやろうとおもったとも言っていたらしいが、印象としては、そこまで凶悪ではなさそう。だれも殺してはいないし、ほかの客も避難させているし。とにかく生につかれきってしまったという人間の犯行で、その疲労や虚無感がまだ全般的な社会への憎悪には転じきっていなかった時点でどうにかなった、というような。
  • 三面はフランス大統領選の見通しについて。投票は四月。マクロンが二五パーセントくらいでトップ、ヴァレリー・ペクレスとマリーヌ・ル・ペンが一七パーセントでつづき、エリック・ゼムールが一二パーセントくらいでそのつぎ、という世論調査のデータが載せられてあった。いずれにしても右派のあらそいになるわけで、左翼はほぼ埋没している。左派でいちばんうえにいるのが「極左」といわれているジャン=リュック・メランションで、社会党のアンヌ・イダルゴは最下位である。決選投票に行けば極右もふくめて右派票がペクレスにあつまって、マクロンが負ける可能性もあると。左派票をあつめるのがマクロンにとって重要になるというが、左翼的なひとびともマクロンにはあまりいい印象をもっていないだろう。

9日(現地時間)、ブルームバーグ通信、フォーブスなどによると、キプロス大学生命工学科のレオンディオス・コストリキス(LeondiosKostrikis)教授は「わが研究チームはデルタとオミクロン株が組み合わせられた『デルタクロン』事例25件を発見した」と明らかにした。また、「この結合変異はデルタ誘電体に、オミクロン株と類似した遺伝子の特徴を持っている」と説明した。

研究チームはデルタクロンの感染比率は入院していない感染者に比べて新型コロナによって入院した患者の間で比較的に高かったと伝えた。ただし、まだデルタクロンの感染力、ワクチン回避力、致命率など具体的な特性は明らかになっていない。

コストリキス教授も「今後デルタクロンがさらに伝染性が強いのか、またはデルタ株やオミクロン株に勝てるかを見守る予定」と話した。一方で「個人的な見解では、デルタクロンは伝染性の強いオミクロン株に代替されると考える」と見通した。デルタより感染力が2~3倍強いオミクロン株は全世界の所々でデルタを抜いて優勢株になっている。デルタとオミクロン株の結合変異もオミクロン株を凌駕できない可能性もあるという意味だ。

  • どうでもいいのだけれど、うえの記事は些末な細部ですこし読みづらいというか、あまりこなれていない文章だなというかんじがあった。たとえばうえの引用のいちばんさいしょで、まず「9日」を持ってきているのもその一例だ。「ブルームバーグ通信、フォーブスなどによると」をまずさきに持ってきて、文の中心情報である主述と時間の修飾関係を近接させたほうが読みやすいとおもうし、日本語の新聞はだいたいそうするとおもう。それで、これはたぶん外国語の記事を訳した文なのではないかとおもったところ、記事の引用元である中央日報というのは韓国の新聞社らしい。韓国語の元記事を訳したか、それか日本語ネイティヴではないひとが日本語で書いた記事なのかもしれない。
  • うえの記事を読んだのは五時過ぎ。三時まえに日記を書いたあとはカール・ゼーリヒ/ルカス・グローア、レト・ゾルク、ペーター・ウッツ編/新本史斉訳『ローベルト・ヴァルザーとの散策』(白水社、二〇二一年)をすこし読み、腹が減ったので上階へ。食パンを一枚焼いて食べることに。あいまに乾燥機をかたづけて洗い物。天気はくもり。一時か二時ぐらいには陽の色が見える時間もあったのだが、おおむね白く曇っており、台所からカウンターをみとおすとテーブルのうえにも窓の白さが撒かれた水のようにうつりこんでおり、空気はわりと寒々しい。オーブントースターの食パンにほそく切ったバターをいくらか乗せ、溶かすと、ヨーグルトといっしょに持ちかえって食事。ウェブをみつつ食べ、四時にいたったところで上階へ。食事の支度をすることにした。まず米をあたらしく磨ぐ。あまり材料がないが、味噌味の鍋の素があったので、これで汁物をこしらえればよかろうと。あとは冷凍にひき肉もあったがいっしょに炒めるのにいいようなものがないので、餃子を焼けばいいかとおもった。白菜の味噌汁がのこっていたのでそれは皿に取っておき、ニンジン・大根・白菜・タマネギを切る。そのさいちゅうに父親が帰宅。帽子をかぶったすがたで、車はあったから、歩きにでも行っていたのかもしれない。水をたくさんそそいだ鍋を沸かして野菜を入れたが、かなり多くなってしまい、煮ているあいだに吹きこぼれそうなくらいだった。その後、フライパンでほうれん草を茹でて切り分け、パックに入れておき、それから餃子も焼く。汁物には味醂や出汁や醤油を少量くわえておき、灰汁も取って、野菜がうまく煮えてきたところで鍋のもとを入れた。濃厚味噌味。ポーションひとつにつき水は一五〇ミリとか書いてあったから、あきらかに足りないとおもったが、色はけっこういい感じの褐色に染まった。ただ、味見をしてみると甘みがつよく、塩気が足りない気がしたので塩をすこしだけ振っておく。それでもあまりパリッとしない味だったがまあよいと落として、餃子を焼くあいだに最弱の火でさらにじっくり煮込んだ。終えるとちょうど五時。あいまにカーテンを閉め、タオルなどをハンガーから取って石油ファンヒーターのまえに置き、ヒーターをつけておいた。そろそろ母親が帰ってくるはずなのでそのままにして下階へ。それからうえの記事と、「「生物ってなぜ死ぬの?」東京大学・小林武彦教授に聞く 生物学からみる「死」と進化」(2022/1/7)(https://www.nhk.jp/p/ohayou/ts/QLP4RZ8ZY3/blog/bl/pzvl7wDPqn/bp/p9zmDDLzrP/(https://www.nhk.jp/p/ohayou/ts/QLP4RZ8ZY3/blog/bl/pzvl7wDPqn/bp/p9zmDDLzrP/))というやつも読んだ。
  • 『ローベルト・ヴァルザーとの散策』を読みすすめる。本篇読了。六時半過ぎで食事へ。餃子を丼の米に乗せ、じぶんでつくった汁物をよそったり、ほうれん草も小皿に取ったり。ほか、母親が帰ってきてからこしらえた簡易なサラダと、オーブントースターで焼いた油揚げ(ネギとチーズが乗っている)。食事。なんとなく、うすうすそうなるのではとおもっていたのだけれど、とちゅうでちょっと苦しくなった。気持ち悪いまでは行かないのだが、からだが食べ物をそれいじょう入れようとしないというか、それまでに入ってきたものの処理と消化だけで手一杯で、負担がおおきい、みたいな。それで餃子丼と汁物をのこし、ラップをかけて冷蔵庫に入れておいて、のちほどまた食べることに。おもうに、こういう状態になるのはたぶんゴルフボールを踏みまくっていたためで、このあいだなったときもそうだった。ボールを踏んで足裏をほぐすと血流がよくなり、とくに腹から下半身にかけてのあたりが促進されるようなのだけれど、空腹状態でもかまわずやっていたから、それでそのあとに食べ物を入れると胃が急にうごきすぎて苦しくなるのではないかと。食事のまえはあまりボールを踏まないほうがいいかもしれない。やりまくるんだったら寝るまえとかがいいのではないか。食器をかたづけもどってくると本のつづきを読んで全篇読了。おもしろかった。といってそんなにすごい本とはかんじず、ヴァルザーじしんの小説作品や小品を読んだほうがおもしろいといえばそうなのだろうけれど、読んだあとにはなにか満足感があった。
  • 九時半くらいから一〇時二〇分くらいまで、音楽をききながら瞑想。というか、深呼吸しつつ音楽をきいていたというか。どちらでもいいが、ヘッドフォンをつけてひさしぶりにBill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』をながした。冒頭の”Gloria’s Step (take 1; interrupted)”の最序盤から、ひだりがわのScott LaFaroの音に、やっぱり意味のわからないうごきかたしてるな、とおもった。ふつうこんなふうにうごかないでしょ、と。Scott LaFaroがこういうことをやりはじめたとうじ、はじめてきいた人間とかほかのベーシストとかは、ぶったまげたんじゃないかという気がする。こいついったい、なにやってんの? とおもったんじゃないかと。六一年ならいちおうもうフリーもはじまってはいるから、ほかにも似たようなかんじのひとはいたのかもしれないが。ただやっぱり、すくなくともピアノトリオというフォーマットのなかでのこういうやり口というのはそれいぜんにはなかったのだろうし、それまでの伝統からして拒否反応をおぼえたり、馬鹿げたことをやっていると批判したり、これでは破綻していると判断したりしたひとがとうじいたとしても、不思議ではないとかんじる。
  • 二曲目の”Alice In Wonderland (take 1)”では、対話的な感覚をかんじた。五九年から六一年のBill Evans Trioにまつわっては、「インタープレイ」ということばをともないつつ、それまでのピアノトリオにはないレベルで「対話」がくりひろげられている、みたいなことがほぼかならずいわれる。しかしいままでじぶんがきくところ、あまり「対話」という感覚はおぼえてこなかった。「対話」というと、たがいがたがいのほうを見て、あいてのでかたをうかがいつつ適切なかたちでじぶんの音を返し、調和的なやりとりを積極的に生み出す、というさまがイメージされるのだけれど、Bill Evans Trioの三人は双方のようすをうかがってなどいないし、そのあいだに意図的なやりとりなども生じておらず、三人が三人、バラバラにじぶんの方向をむいてひたすらじぶんの演奏をしているのが、なぜか偶然一致してしまっている、というのがじぶんがいままで主におぼえてきたこのトリオのありかたにたいする主観的な印象だった(もちろんそれはそこに発された音からこちらがイメージしたものなので、じっさいにそこで起こっていたであろう現実を正確にとらえてはおらず、三人もふつうにおたがいの音をきいてようすをうかがったり、それに合わせたり突っこんでいったり、ということはときに意識的におこなっていたはずだ)。しかし今回、”Alice In Wonderland (take 1)”のピアノソロぶぶんをきいたかんじでは、たしかにこれは対話的といってもいいような、流動的な絡み合いかたをしているな、とおもった。Motianはいったん措くとして、主にEvansとLaFaroの接し方なのだけれど、けっこうわかりやすく対位的というか、いっぽうが沈んだところにいっぽうが浮かび上がったり、たがいにかすめながらすれ違ったりする、みたいな動きかたが見られたとおもう。しかしやはり、意図的というかんじや、瞬間的にであれそれを狙って、という気配はうすく、たがいの弾き方をしていればこの曲ではもうしぜんにそうなってしまう、というような、きわめて高度な領域でそれが成立している印象。三拍子の、いわゆるワルツ形式であることも手伝ってか、二者がたがいに手を取ったり離れたりしながら自由に踊りあっているという、ひじょうに陳腐なイメージすらおもい浮かべてしまった。音楽は言語を介さないコミュニケーションであるとか、奏者と奏者の対話であるという比喩(とはいえ、演奏者はじっさいにそれを体感しているだろう)とか、高度に調和した演奏をダンスとして描き出すような演出とかは、ひろく流通しているもので、かなりありがちなものではあるのだけれど、しかしいくらか安易な想像力でそういうふうに描き出されるような事態が、ここではたしかに現実に起こっているな、とかんじた。それにしても、Bill Evansのピアノは洗練されている。音をやや詰めるときのつらなりのなめらかさ、一音一音のおおきさが一定ではっきりと聞き取れるその粒立ちには、ほれぼれしてしまう。たいしてLaFaroは、あきらかに野蛮人である。これもかなり陳腐なまとめかただが、このふたりをほとんど対極的な洗練と野蛮の平等なむすびつきとして語ることは、おそらくできないわけではない。ただ、そうしたばあい、Motianがいったいなんなのか? というのがいつもわからない。Motianがこのトリオにおいてどういう役割を果たしているのか、というのがいつまで経ってもつかめないのだ。おおきな役割を果たしていないわけではない。それどころか、ドラムがPaul Motianでなかったらこうはならなかっただろうという曲や場面は確実にあるのだが、かれのはたらきを整理することばがみつからない。気まぐれ、といちおう言えなくもない。洗練 - 野蛮 - 気まぐれ、の三位一体と。ただ、この六一年段階ではその性質はそこまでつよくはないし、Motianじしんのありかたもそれにとどまるものでもない。
  • Evans Trioのこの音源をきいていて感じるのは、めちゃくちゃいそがしい音楽だということだ。音楽そのものがせわしないものであるというよりは(それもときにあるが)、きいているこちらの耳がとてもいそがしくなるということで、そこで起こっていることが豊かにありすぎて、それに追いつけない、というかんじ。そういう意味でじぶんにとってこのライブ音源は、聞き終わることのできない音楽である。とりわけやはりLaFaroだが、運動感がすごい。かれだけを注意してきいていても、追いつけないような動き方をしている。それにMotianとEvansもくわわるのだからなおさらである。こんなにも複雑に躍動している音楽はほかにまずないとおもう。”All of You”がむかしから好きなわけだけれど、今回take 1をまたきいて、とにかくすごいな、やばいなとおもった。なにがすごいのか言語化できないが、とにかくすごい。ピアノソロのとちゅうと終盤でなみだの感覚をちょっともよおしたくらいだ。ここでは”Alice In Wonderland (take 1)”のそれとはかなり違ったありかたが成り立っているようにおもう。対話、などというものではない。うえに記した、「三人が三人、バラバラにじぶんの方向をむいてひたすらじぶんの演奏をしているのが、なぜか偶然一致してしまっている」というイメージをもっとも得るのが”All of You”である。バラバラに、とまでいうのは言い過ぎかもしれないが、そうだとしても、すくなくともたがいの顔は見ておらず、おなじひとつの方向をむいている、というイメージが正当であるようにかんじられる。サン=テグジュペリはそれを愛と呼んだ。
  • “All of You”とおなじくテンポのはやくて勢いの良い演奏は、ディスク1ではあとさいごの”Solar”がある。これもすごかった。テーマからつづくさいしょのぶぶんはいちおうピアノソロという位置づけだとおもうのだが、その前半ではむしろLaFaroが主役のようにきこえ、Evansは、バッキングまではいかないがひかえめに音をつけている。その後、LaFaroがやや低音に引くとともに、Evansが本格的に音をつらねだしてピアノソロ然としてくるのだが、そこからベースソロまでのLaFaroのバッキングはすごく、ほんとうに、ワンコーラスごとに違ったうごき、違ったアプローチをつぎつぎとくりだしている。よくこんなに出てくるな、どれだけ引き出しあるんだ、とおもった。Motianとのデュオになるベースソロもすごい。ある種の執拗さみたいなものをかんじさせる。ほかの曲でもそれはあって、たとえば”All of You”のソロの終わりちかくには瞬間的な連打があったのだけれど、それをきいたとき、なんでこの音楽がたんなるきれいで洒落たBGMとして消費されてしまうのか理解できない、LaFaroのこの音をきいただけでも、そんなことができないのはあきらかではないか、とおもった。
  • そんなに長く聞くつもりはなかったのだけれど、けっきょくディスク1のさいごまで聞いてしまった。たぶん五〇分くらいだったとおもう。その後、風呂。短歌をもてあそぶ。出てくるとしたにメモり、121 - 130の記事をnoteに投稿。
  • 作:

 流星の故郷を訪 [と] うた夜以来再創世の予言に夢中

 白銀の雨のすきまのひとひらで天使は踊れ愛を讃えて

 ゆびさきに花びらが降るこの千年恋人たちの夜はかわらず

 万象と肌の溶け合う極夜では炎もなまえもおなじ意味だよ

 嘘つきにまさる美徳のひとはなし想像力が罪となる世で

 ひめやかな大停電の翌朝はならず者らに聖性を見よ

 川水とこずえのあいだを時がゆき光ばかりが恋をとどめて

 犬猫もうさぎも鳥も虫どもも畜生は好きだ自尊がなくて

  • 一時まえ。さきほどのこした飯を夜食として食いながら、(……)さんのブログを読んでいる。一年前の記事から、清水高志とかK DUB SHINEの件にまつわって、一辺倒に叩く批判ではなく「説得」の必要性やその作法について述べた箇所が引かれている。それを読んだ当時もおもったが、ある程度真正な意味で他人を変えようとおもったら、ある種そのひとに「取り入る」ようなやりかたが不可欠なのではないかと。そしてそれはとうぜん、そのひとに「取り込まれる」危険と密に接しあった場所であるわけだけれど、ほんとうに意味のあるしかたで他者を変えられる契機があるとしたら、そういうやりかたしかありえないのではないか、と。わからん、めちゃくちゃ叩かれまくって目が覚める、みたいなこともあるのかもしれないが。ただ、ネット上では匿名多数のそういう叩きがより集まりひじょうにおおきなちからとなって個人におそいかかり、そのひとの承認を根こそぎ奪い取ってそれまでの生や精神を破壊してしまったり、望ましくないところや取り返しのつかないようなところへ追いやってしまったりする、という例はいままでにいくらでも目撃されているだろう。批判こそが最重要であり敵対者を叩いて事足れりとするひとびとは、そもそもあいてを「説得」したり変化させたりしようとはたぶんかんがえていないのだとおもう(じっさい、「説得」したり「変化」させることを目指すことは、時間的にも労力としてもひじょうにコストがかかることだし、集団を対象としてそれをおこなうことはほとんど不可能だとおもわれ、しかも個人をあいてにしたとしても成功が保証されていないどころか、みずからのたちばを危うくする可能性すらあるから、ほとんどだれも積極的にそういう振る舞いを取ろうとしないとしても不思議ではない。端的に言って、とにかくあいてを批判しているほうがたぶん楽なのだ)。たんに、敵対者をやりこめて、対立するたちばのひとびとがこの社会で活動しにくいようにしたり、その勢いを削いだり、かれらの思想を拡散させたりするのを防ぎたいというだけなのではないか。それが戦略的に必要だったり重要だったりすることもあろうし、そもそもあいてを「変化」させる必要などないのではないか、ヘゲモニー闘争で勝利すればいいだけだ、という意見もありうる(「批判こそが最重要であり敵対者を叩いて事足れりとするひとびと」はそういうかんがえだろう)。ただ、いまはおそらく世界のいたるところで、そのような「分断」が支配的になり、対立者とのかかわりかたがほとんどそれしかないような状況になっているのだとおもう。アメリカ合衆国がそのもっともおおきな例であり、象徴のようなものだろう。
  • この日はあと書抜きもすすめ、まためちゃくちゃひさしぶりのことだが一年前の日記を読みかえした。散歩をしており、そこで見聞きしたものをたくさん描写している。がんばっている感はつたわってくるが、だからといっていまに引くほどの文はない。もちろん、それでもよいのだ。あと、二時四五分に就寝していてすげえなとおもった。