西谷 これを少し哲学とか思想のほうに近づけて見てみましょう。ヨーロッパにおける文明の展開というか、その原理を考えてみると、人間が自然を、もっと一般的に言うと、他者ということですが、人間とは違うもの、あるいは自分の周囲の環境といったもの、そのような自然を征服し、同化して自分のものにしていくという志向があります。そんなふうにして周囲を自分のものにすることによって、自己自身の領域を拡大していく、そのことを人間の本質の実現だというふうに考える考え方が、ヨーロッパには、とくに近代哲学の中にはありました。
それともっとも整合的に理論化したのがヘーゲルで、ヘーゲルは「世界史」を、人間が自己の本質を実現していくプロセスそのものだと考えたほとです。
人間は初めは微弱で、この世でほとんど何ものでもない、むしろ無だと言ってもいい。けれども、無であるからこそ他者を否定できる。「無化する」わけですね。他者を否定して、それによって自己を拡大し、その中に自らを実現していく。その実現のしかたは、たとえば自然を征服することです。そして征服した自然は人間のものになる。だから人間は自然を支配するものとして自らを実現すると、そういう形になるわけです。その自己実現の論理でもって、要するに、征服と同化のプロセスとして文明の展開をしていったのが人(end252)類の歩み、つまり「世界史」だというわけです。だとしたら、まさにその論理の行き着いた先が「世界戦争」だというふうにもみられるわけです。
ただ、世界戦争は破壊の戦争です。では、最終的な征服と同化がどうして破壊になってしまうかというと、人間が世界を完全に征服し尽くしたとしても、結局そこではこの征服の運動はとどまらずに、他者あるいは外部を否定し尽くしたときに、全体としてでき上がった自分自身をもまた否定してしまうという、そういう事態だったと考えることができます。そうすると、まさにヘーゲルの哲学に表現されるようなヨーロッパ型の文明の行き着いた先が世界戦争であって、この文明は、人間的世界を完成して自らを成就するのではなくて、その成就の運動そのものによって、作り上げた世界をも否定することで、最終的に自己の姿を露呈させてしまったといえるのではないかと思います。
(石田英敬『現代思想の教科書 世界を考える知の地平15章』(ちくま学芸文庫、二〇一〇年)、252~253)
- いま三時四三分。一四日の記事をしあげて投稿したところ。あいかわらずFISHMANSの『Oh! Mountain』をイヤフォンでながしてBGMにしていたのだけれど、それが終わったあと、Amazon Musicの自動ステーションとかいう機能で似たような音楽がながれることがあるのだが、それでつづけてながれたのがいかにもファンキーなやつで、これなんだろうと立ってChromebookを見に行くと、ズットズレテルズというなかなかよいなまえのバンドだった。それでそのアルバム『第一集』をあたまからながしつつWikipediaを見てみると、ハマ・オカモトがOKAMOTO’Sをやるまえの高校時代に組んでいたバンドらしい。卒業直後にこのアルバムをリリースしたらしいが、高校生でよくこんなファンクやるなというかんじ。OKAMOTO’Sもきちんと聞いたことはないが、どこかで聞きかじった記憶では、いいかんじのファンクだったおぼえがある。
- 作: 「明け色の氷河に宿る星の夢つぎの宇宙のはじまりの音」
- 作: 「去るものは去り来るものよ来いそしてあわいの刹那が生の証拠さ」
- 夜、(……)さんのブログを読んだ。一五日から一三日。(……)くんという学生と交流した一三日の記事がおもしろく、すばらしかった。これが生のリアリティというものだ。身の上話もふくむいろいろなはなしが長々と展開されたあと、喫茶店を出る段になって、「直前で写真を撮ろうと求められた。(……)くんとは違って写真映りなど特に気にしない、モーメンツに投稿するわけでもない、ただときどき見返してその日の出来事や気分を思い出すために撮るのだ」とあるのにはぐっと来た。
- この日もまた一一時起床。もうすこしはやく起きたい。きのうの疲れがのこっていたのか、瞑想も二〇分そこそこしか座れなかった。食事はケンタッキーのあまりなど。きょうもものを食べるあいだ大根おろしを二回くらいすって腹に取りこむ。新聞はきょうのものではなくきのうの朝刊を読んだ。というのはエンタメ欄に田中泯についての連載があったからで、今回が二回目。既存の流派をまなびつつもなにか物足りないもの、これではないなというかんじをおぼえていたというところまでが前回で、今回の記事は、独自の踊りをもとめて七四年から裸で踊るというこころみをはじめた、というところからだった。さいしょのうちは馬鹿にされたりもしたらしく、またほんにんも、恥ずかしくないわけがない、と回顧していたが、とにかく踊りの根源をもとめるがゆえの試行錯誤で、だんだんとみとめられて七八年にフランスで開催された日本文化の展覧会にまねかれ、踊りを披露する機会もえられた。滞仏中に、尊敬する批評家だったというロジェ・カイヨワの自宅にでむいて踊りをみてもらったという。かれの最晩年だったが(Wikipediaで確認すればカイヨワはまさに一九七八年の終わりちかくに亡くなっている)すごく集中して見てもらえて、そういうエネルギーはしぜんとこちらにも伝わってきてわかる、と語っていた。二〇分ほど踊ると、なまえのつけられない体験をした、あなたはその名をつけられない踊りをつづけていってほしい、といわれたという。その後八五年から山梨の農村にうつりすんで耕作生活をはじめ、いまもそこに住みつづけているが、これもやはり踊りの根源を虐げられた民の生活にさぐりたいという気持ちからだったといい、要するに日本の芸能とは(たぶん能楽とか猿楽とかのことを言っているのだろう)農民が生み出したものだったのではないのか、という探究心があったらしい。
- 田中泯の記事のとなりには岩波ホール閉館についての記事。閉館の報はこちらも先日目にしており、映画をみつけない人間だが、コアでおもしろそうな映画ばかりやっているところだという認識だったので、行かないうちに閉まってしまうとはと残念におもっていた。とはいえ、今年の七月まではやっているらしいからまだ行くことはできる。記事にはふたりの人間がコメントを寄せており、ひとりは小栗康平という映画監督、もうひとりは国際政治学者の藤原帰一だった。小栗康平は、たんなる劇場の閉館ではなく人間が死んだのとおなじくらいの衝撃で、無念でならないといい、デビュー作を上映してくれる映画館をさがして総支配人の高野悦子とはなしたときに感銘を受けたというエピソードがはさまれたあと、劇場はただの空間ではなく、映画も商品ではない、作り手と観客がどのように出会うべきなのかということをずっとかんがえつづけてきたホールで、ある意味で、五〇年間その志を変えずにやってきたがゆえに死ななければならないのかもしれないと言っていた。さらに、岩波ホール閉館は個別のできごとではなく時代の移り変わりをうつしてもいるとのかんがえのようで、ここ数年で映画の受け止められかたが変わったとかんじているからだ、と地の文がはさまったあと、括弧つきで、うわべばかりの作品がつぎつぎとつくられ、観客はネットの評価に左右されて、それを止める映画批評もない、かんがえてみれば岩波ホールがここまでもったのは奇跡でしたね、と語られていた。たしかにそう言われてみるとそうなのかもなあという気もする。映画をぜんぜんみないしじっさいに行ったことがないからわからないが、たとえばジョージア(グルジア)映画特集なんてやっているような施設がこの時代にいままで生き残れていたことがそもそもすごい、という気はする。ところで記事中、いままで放映された主な作品という年表があり、そのなかに『八月の鯨』という作品があって写真も載っていたのだけれど、じぶんはなぜかこの映画のDVDをもっている。もっていながらいままでみてもいないし、監督についても俳優についても内容についてもまったく知らないのだが、なぜもっているかというと、読み書きをはじめてまだ初期のころに映画ってもんもたしょうは通じたいなあとおもい、ブックオフでよさげなやつをいくつか買ったことがあったのだ。そのなかの一作がこれで、とうじのじぶんの嗅覚もなかなかではないかとおもったが、ほかにはトリュフォーのなんとかいうやつや、『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』や、小津安二郎の『麦秋』とかが『東京物語』がはいっているボックスを買った(あるいは『東京物語』は個別だったかもしれない)。とうじはたぶんトリュフォーはなまえも知らない段階で、ブエナビスタと小津はかろうじて名を知っていたとおもう。ブックオフは意外とそういう映画のDVDがあったりもして、ヴェルナー・ヘルツォークの吸血鬼映画三作セットみたいなやつをみかけた記憶もある。しかし買ったなかでいままでにみたのは小津の上記二作だけだ。
- きょうはやはりからだに疲れがのこっていたのか、二時くらいまでだらだらしてしまった。その後、「読みかえし」を読み、一四日の記事を完成。一五日の記事にもかかって、四時になると上階に行ってアイロン掛け。衣服を処理しているうちに四時半を過ぎて四〇分にいたったが、そこで見た窓のそとがこの時間にしてはあかるいなとおもわれ、日が伸びたことが実感された。裸になった枝の烟りのおおい山にしろ川沿いの樹々の黄緑にしろ屋根のならびにせよどれも色は弱いけれど、大気はまだ青味の領分に踏み入っておらず、空は端に純白のつやをわずかのこしながらまっさらな淡青に澄んでいる。それから食事の支度。まず米を磨いだ。素手で磨ぐので落ちる流水にさらされる右手がしびれ、とちゅうで手をあげて宙に浮かべたままうごかさずジンジンするのを耐えてからまた磨がなければならなかった。つぎに菜っ葉をゆでる。ほか、ハムのかたまりがすこし残っていたのでそれを炒めればよかろうというわけで、白菜の半端な少量のあまりや豆苗、タマネギとともにソテーすることに。おのおの切ってフライパンへ。ハーブっぽいかんじにしたほうがうまいかなとなんとなくおもったので、いろいろなハーブやらスパイスやらが混ざっているらしい調味料と塩胡椒で味付けした。あとはキャベツなどをスライスして生サラダ。
- それで室にもどり、日記をすすめたあと六時過ぎではやばやと食事へ。煮込み素麺ののこりがあったのでそれもいただく。新聞からはきのう、大学入試共通テストの朝に東大の門のまえで起こった刺傷事件の報を読んだ。きのうの昼の時点で両親もなんとか言っていたし、職場でも話題にあがったが、朝もはやく八時半から起こったらしく、下手人は名古屋から夜行バスでその早朝に上京した一七歳の私立高校生で、東大の医学部をめざしていたが成績があがらず絶望し、ひとを殺してじぶんも死のうとおもった、と供述しているらしい。ひとを刺すまえに、東京メトロ南北線の東大前駅(現場から七〇メートルほど)に木片を四つしかけて火もつけてきたらしく、こちらもたしょうのボヤ騒ぎになったようだが、門前ではまず七二歳の、通りがかりだったか職員だったか、ともかく居合わせた男性を背後から刺し、このひとは命に別状はないものの重症、それからそこにいた受験生の男女(ともに千葉県内在住ではあるが、お互い都内の別々の私立高校の生徒)にそれぞれ切りかかって怪我を負わせたと。それから大学の職員の目のまえでじぶんは生きている価値がないというようなことを叫び、腹にむかって包丁を立てるそぶりを見せたが(切腹しようとおもっていた、と供述にあったという)、職員が落ち着くようにと声をかけると刃物を投げ出し、壁にもたれるようにしてぐったりと座りこんだ、との情報だった。
- その後、一五日をしあげるなど。ストレッチをひさびさにかなりちゃんとやったが、やればやはりからだはすごくほぐれる。胃がもうほぼ平常なので息をつよく吐いて深呼吸しても大丈夫らしく、よく伸ばすことができた。合蹠がやはりすごい。
- ほか、Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』をきいた。ディスク2の”Waltz For Debby (take 1)”から、ディスクの終わりの”Milestones”まで。Waltz For Debby, Alice In Wonderland (take 2), I Loves You Porgy, My Romance (take 2), Milestones。Waltz For Debbyは曲もきれいなメロディでとっつきやすいし、このライブのなかではかなりわかりやすいほうの演奏だとおもうが、これもすばらしい。EvansがあがったりさがったりするのをLaFaroがおくれて追いかけるような場面が二回あった。ピアノのフレーズが収めに行くタイミング、呼吸の切れ目みたいなものをうまくつかんでいるのだけれど、そのあたりもうお手の物なのだろう。ベースソロは冒頭からちょっともごもごするような詰め方ではじまり、おりに旋律的に伸びはするけれど全体にそういう音程の取りづらい速めの弾き方もおおい。Alice In WonderlandではEvansの音がやはりすごいと感動した。ときに加速して転がりのぼっていくときのなめらかさとあざやかさはほかにないものだ。まさに鮮烈なきらめきというかんじ。Motianはブラシでシズルシンバルを鳴らしまくっていて、これもあらためてかんがえると変というか、シズルってそんなにつねに鳴らしちゃっていいの? うるさくないの? という疑問はおぼえる。刻みにつかうものなのか? と。しゃらしゃらと持続する響きが絶えず湧き出てピアノやベースのほうまで浸食するかのように空間を埋めているのだが、それはそれで不思議な浮遊感とか気体感を生んでいるのかもしれない。ベースソロになると一転してしずかな刻みになり、テイク1とちょっとやりかたが違うような気もしたが、ベースについていえばAlice In WonderlandのLaFaroのソロはどちらも闊達で、テイク2ではとちゅうMotianとあわせていわば見得を切るような瞬間もあるし(高音部まであがっていって頂上にたどりつくところでMotianが刻みをやめてブレイクが生まれる)、締め方も速弾きでリズミカルに一気にくだっていて、うまく構成されてよくながれるソロという印象。I Loves You Porgyあたりまでは意識がはっきりしていたのだが、そのあとちょっと眠気が混ざってきて、My Romanceからは焦点がそれて音があまりはいってこず、記憶にのこらなかった。
- 翌日は午前から通話なので二時くらいには寝るべきだったのだが、けっきょく三時に。