西谷 とりわけ二〇〇一年の九・一一以降ですが、世界に「テロとの戦争」という図式が(end256)大きく戦略的に出されてきて、そこで盛んに語られるようになったのが、いわゆる「非対称的戦争」というものです。そこでいわれる「非対称性」というのは、基本的にはこれが国家対国家の戦争ではなく、「国家」対「非国家組織」との戦争であるということです。そしてこれが二一世紀の「新しい戦争」だともいわれています。
けれども、考えてみると、こういう形の戦争というのはじつは最近始まったことではなくて、二〇世紀の主権国家入り乱れての戦争の背後にというか、地下水脈のようにしてずっとあった戦争でもあるのです。最初は、ロシアで革命が起こりましたけれども、このときの「内戦」ですね。つまり革命自体が、国家の権力と、それに敵対する武装勢力との戦いだったわけです。この対抗関係がロシア革命以降、いろいろなところに広がってゆきます。あらゆる「革命運動」や、国家の権力に対する「抵抗運動」はそういう形を取るということです。
とくに第二次世界大戦後、アジアやアフリカで植民地が次々と独立しましたが、まさにその植民地独立戦争というのが、国家主権を持つ側、法秩序と軍隊を持つ宗主国と、その国家に支配されて自立の権利を認められない人たちとの「非対称的な戦い」だったということです。そういう系譜はずっとあるわけです。
それを理論化した人さえいて、これはナチズムへのコミットによって批判されるカール・シュミット(SCHMITT, Carl 1888-1985)ですけれども、シュミットの最後の重要な仕(end257)事というのは、『パルチザンの理論』(一九六三)という、そういう非対称的戦争をテーマにしたものでした。
メインの国家間戦争があって、副次的にいわば「鎮圧」の戦争があるということではなくて、「非対称戦争」の方が前面に現れてくるようになった理由は何かというと、これは明らかに冷戦構造の崩壊による世界のグローバル化、一般的には経済的な意味合いで言われてきたものですが、グローバル秩序の形成ということです。
一九九一年の湾岸戦争が、グローバル秩序における最初の内戦型の戦争として語られますが、湾岸戦争の場合はまだ形ははっきりしなかった。というのは、イラクとクウェートとの、主権をめぐる争いがそこに絡んでいましたから。けれどもその後、経済的なグローバル化の進行と共に、アメリカの軍事力の圧倒的優位が際立ってきて、それ以降はいろんなところで戦争が、グローバル秩序のひとつの治安問題のような形で、もはや「戦争」と括弧つきでしか言えないようなものとして、起こるようになってきています。
たとえば二〇〇一年のアフガニスタンへの攻撃も、二〇〇三年のイラク戦争の場合もそうですけれど、グローバル秩序を代表する力といいますか、端的に言ってアメリカが、その秩序に攪乱要因として存在するものを、あらかじめ「悪」と決めつけて攻撃する、そんな戦争が決まったパターンになっています。その場合、双方の軍事力と、破壊や犠牲の量も圧倒的に「非対称的」だということにも注意しておかねばなりません。
(石田英敬『現代思想の教科書 世界を考える知の地平15章』(ちくま学芸文庫、二〇一〇年)、256~258)
- 作: 「降り積もれ孤独な夜よ音もなく風は行き交い聖性はいま」
- 作: 「去るものはすべてまばゆく夏はいま陽炎さえも水鳴りに似て」
- 起床、正午過ぎと遅くなってしまった。それなので瞑想はせず。この日は休日だし、たいしたことがらはない。読み物は「読みかえし」に三島由紀夫『金閣寺』(新潮文庫、一九六〇年/改版二〇〇三年)。夜、入浴の前後で古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)の書抜きをかなりすすめた。二時間くらいやったのではないか。ほぼ「ドゥイノの悲歌」のまえくらいまで行ったはず。BGMにFISHMANSの『宇宙 日本 世田谷』をながしていたが、”バックビートにのっかって”がやはり最高だなとおもった。民謡クルセイダーズというバンドも知る。日本の民謡をラテンジャズにしてやっているバンド。ラテンの色調とトランペットの音というのはなぜかわからないがひじょうに合う気がして、慕わしい。また、Durand Jones & The Indicationsというグループの、”Cruisin’ To The Park”(https://www.youtube.com/watch?v=lPLhTzq-TpY(https://www.youtube.com/watch?v=lPLhTzq-TpY))もながした。メロウという概念の具現化そのもの。これはきのう、(……)くんに教えてもらったものだ。バンド名をそのままタイトルに冠したデビュー作もながしたが、冒頭のドラムからして、この音! とおもった。七〇年代のソウルをそのまま現代に持ってきたみたいな音楽性でよい。
- 四時から四〇分くらい瞑想。その後、アイロン掛けと食事の支度。両親は(……)ちゃんや(……)くんに贈るプレゼントを見繕いに行っていた。四時五五分になると窓外に散っている端切れ雲が茜や薔薇の色をふくみ、空はほとんど青味がうかがわれないほどの白さにさらさらつめたく醒めているが、陽が去りきって暮れが完結するまぎわ、雲の色によってかえってあかるくなったような一瞬のはさまる刻限だった。それから数分すれば室内も薄暗んで食卓灯をつけねばならず、さらに数分して五時一五分くらいになるとそれでも衣服の皺が見えないくらいに黄昏が深まるので、こんどは天井の明かりをつけてひかりを室内に行き渡らせねばならなかった。食事はきのう茹でた菜っ葉のあまりやわずかに残った大根や白菜を味噌汁にして、あとは餃子を焼き、キャベツをスライスしておいた。