2022/1/23, Sun.

 まず、日清戦争のさなかに、日本の国語学者たちが非常に憂慮するのは、軍事力では日本は清国に打ち勝っているのに、われわれの活字印刷された出版物の中では、圧倒的に中国の漢字が制覇していて、平仮名はとても少ないではないかと。つまり、数万の中国人に日本人が支配されているに等しい状態だということを憂慮するという、当たり前といえば当たり前なのですが、そのような奇妙な「言語ナショナリズム」が出てくるわけです。(end292)
 つまり、日本の様々な出版印刷物の中に漢字がなぜ多いのかと考えてみると、これは明治初期に欧米列強から入ってきた様々な概念を日本語に翻訳する場合に、大和言葉では翻訳できない。となると、漢字二字熟語をたくさん創造するわけです。新たに作ってしまうわけです。そしてそれが、少し難しいことを考える場合には必要不可欠な概念になっていって、書物のページを開くと漢字だらけという、そのような近代の日本語も、やはり人工的に作られたものなわけです。
 同時に、話し言葉の日本語というのも、一番中心的には、軍隊で上官の命令を末端まで通すためには、日本の軍隊というのは、海軍が薩摩が、それから陸軍は長州が中心でしたが、じっさいに徴兵されてくるのは、たとえば東北とか、そのような諸地域から兵士は徴兵されてくるわけです。江戸時代までは外部の者がひとつの藩に入ってこないように、それぞれのお国言葉というのはものすごく特徴を出していたわけです。しかし、それだったら通じない。となると、全国民が統一して話すような「標準語」を作らなければならない。するとやはり、話し言葉自体も、明治の近代「国民国家」が形成されるプロセスの中で、新たに人工的に生み出されてきたものなわけです。そのような人工言語を通して、あたかも同じ言語を話すという幻想が作られた中で、それまでは長州人だったり薩摩人だったりしたものが、「日本人」というきわめて抽象的な、人工的な括りの中に収められていく。
 ですから、すべては戦争を通した、人工的な、ある意味で言えば、捏造されたひとつの(end293)幻想の中で生み出されてきた観念が、「日本語」であり、「日本」であり、「日本人」だろうというように思います。
 (石田英敬現代思想の教科書 世界を考える知の地平15章』(ちくま学芸文庫、二〇一〇年)、292~294; 小森陽一



  • 九時台に覚めた。それいぜんにもたしかいちど。布団のしたで呼吸しながら起き上がる活力を待ち、一〇時半ごろ起床。きょうの天気は曇りで、寝床で布団をかぶっていても、そのなかにまで冷気がすこし忍びこんできた。水場に行って顔を洗っても水が冷たいのであまりしっかり洗えないし、口をゆすぐのも同様。用を足してもどってくるときょうも静座して深呼吸をするが、同時に音楽をきくことにした。Bill Evans Trioの六一年のライブをひきつづきすすめる。ディスク2のさいごの”Milestones”からはじめてディスク3へ。”Detour Ahead (take 2)”, “Gloria’s Step (take 3)”, “Waltz For Debby (take 2)”, “All of You (take 3)”まで。ディスク3は夜の部の演奏なのだけれど、全体的にLaFaroの威勢がいいような印象を受ける。ふつうに弾いていてもちからのこもった、アグレッシヴな感じがあるというか。録音の感覚ももしかしたらディスク1, 2と違うのかもしれない。”Gloria’s Step”はテーマの冒頭からしてとち狂ったような三連符での上下運動をくりかえしているし、その後も水を得た魚。この曲はLaFaroの作曲で、硬質なつめたさの、ECMをおもわせるかんじの雪白的な端麗さなのだけれど、Evansがさいしょのメロディをきれいにしずかにかなでだしたその直後にいきなりLaFaroがぐわんぐわんやっていて、いや作曲者としておまえはそれでいいのかと、おまえはどういうつもりでこれをつくったんだと、この曲の色調から期待されるプレイではぜったいにないだろう、とつっこみをいれたくなる。曲そのものはまちがいなく、しめやかな方向の、端正にととのったありかたを要求しているとおもうのだけれど、LaFaroはみずからそれを積極的にかき乱し、野蛮さと粗暴さでぶち壊しに行っているようにきこえる。”Waltz For Debby”ではやはりピアノとベースの分離感というか、おのおのの独立感をつよくかんじた。Bill Evansのフレーズがはまるべきところにいちいちはまりきっていてすごいのだけれど、かれの冷静沈着さがとにかく異常で、LaFaroがあんなふうにやっているのにじぶんのペースをまったく乱さずにたもてるってどういうことなの? とおもう。LaFaroをほぼ完全に無視しているように、Evansにはかれのプレイがきこえていないかのようにきこえる。ピアノがEvansでなければLaFaroはたぶんあそこまでできなかっただろうし、このトリオはこういうかたちでは成り立たなかっただろうな、とおもう。Bill Evansの徹底的なおちつきこそがLaFaroを解放してかれにおどることをゆるし、ピアノの周辺にはげしくうごめかせているのであって、LaFaroがあそこまでやってもまだEvansには追いついていないとすら言えるかもしれない。”All of You (take 3)”はひさしぶりにきいたがマジですごかった。ここでのEvansには神がかり的なものをおぼえた。ソロの後半で暈つきの厚いブロックコードに移行するのだけれど(それじたいはEvansのいつものながれである)、そのコードが打たれたときにその鮮烈さにびっくりして、ちょっと感涙してしまった。ベースソロももしかしたら三つあるテイク中のベストかもしれない。フレーズのながれかたや、こまかなメロディの立ち方や、おのおのの箇所でなにをやりたいのかというのがはっきりしていない部分がない。はじめから終わりまでながれがととのい、統一されている。Evansは序盤のとちゅうから黙って、LaFaroとMotianだけの、なんというか色調がうすく骨っぽいような時間がしばらくつづくのだけれど、もどってきたバッキングのさいしょのつけかたが絶妙で、複音を二セットにしてテロンテロンとカードをめくっていくような単位がシンコペーション的なリズムで段階的に上昇していくかたちだが、ここはもちろんいままでなんどもきいてきたのに、こんなふうにつけられるの? と今回脱帽した。
  • 「読みかえし」: 371 - 377
  • この日は休日だったのでたいしたこともなし。読みものは「読みかえし」、三島由紀夫金閣寺』、新聞、(……)さんのブログ、(……)さんのブログ。書抜きもした。『金閣寺』は五〇ページすぎくらいまで。いまのところたいしておもしろいこともないが、ただ細部で、それも大したものではないけれどちょっといいな、気楽に書き抜いとこうとおもう箇所は多くあり、そのあたりはさすがということなのか。そういえばきのうの夜に(……)さんのブログをのぞいたときにいちど目にしてさすがに笑ったのだけれど、二〇日の木曜に(……)と通話したさいはなした『茶の本』中の一挿話にかんして、「この「(……)さん」がこちらのことだとすれば、おい! (……)くん! 正気に返れ! このエピソードを最初にブログで披露したのはほかでもないおめーや! おれは(……)くんの記事経由でこのエピソードを知ってそれをいつやったか孫引きしただけやっつーの! おたがいの日記に長く付き合いすぎてもはや双頭の大蛇みたいな主体のキメラ化を果たしてしもたんけ? この際やし(……)さんも巻き込んで三ツ首キングギドラにワープ進化しとくか?」とあった。しかしあの挿話を記述した箇所の「(……)さん」は(……)さんのことではなく、名古屋大学で哲学をやっていまはオレゴン大学にいる(……)さんのことだったのだ。これが検閲の罠である。したがってこちらの記憶力はとてもたしかである。どれくらいたしかかというと、スリランカの首都名(スリジャヤワルダナプラコッテ)をそらで書けるくらいだ(たぶん中学生くらいのときにおぼえた)。だが、(……)さんがあの挿話をどこかで孫引きしていたことはおぼえていない。
  • 家事はいつもどおり米を磨いだり、きのう茹でたほうれん草がなにも処理されないままパックで放置されていたのでそれを汁物にしたり、アイロン掛けをしたり。そういえば昨晩のことでおもいだしたことがひとつあるが、夕食は麻婆豆腐で、それがべらぼうに辛いしろものだった。帰ったときに母親が、まちがえてすごく辛いやつを買っちゃってほんとうに辛い、と言っていたが(白いパッケージの品だという)、じっさいに食ってみるとマジで辛く、舌や口内がジンジンするのを感じつつ、また汗が額などからにじみでてくるのを感じつつ、ひいひいいいながら食べた。辛さ痺れる、みたいな謳い文句の品らしかったが、たしかに食後は唇がひりひりしてちょっと痛くなったくらいだ。じぶんは湖南省四川省では生きていけない自信がある。あきらかに胃腸に悪いとしかおもえないのだけれど、果たしてこの麻婆豆腐のせいなのか、この翌二三日には胃液がわずかばかりあがってきているような酸味が喉のほうにけっこうつづいたくらいだ。二四日現在はなくなっているが。