――彼は言った、見る者の眼力、認識する者の判別、霊によって知る者の光、速く歩み(end12)進む者の道、《それまで》の永遠と《それから》の永遠とその中間にあるすべて、それらは時に属する。何によってすればそのことを悟るに至るのか、と人がたずねた。フセインは答えた。純一の心を持つ者は、眼を投げ棄てよ、そうすれば、観えるだろう、と。
(古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)、13; 「1 ふたつの処刑詩」; フセイン・アル・ハラージ)
- 九時二五分に覚醒。なかなかはやめ。カーテンをあけるとまだひかりが顔にふりかかってくる位置に太陽があり、そのまわりはすっきりと青がたたえられているだけでなにもない晴天だった。とはいえひかりの肌触りは弱く、じりじりする刺激的な熱さはまだまだとおい。また、午後三時前現在だと雲がいくらか混ざって半端な天気になっている。
- 布団のしたでしばらく深呼吸したり腹を揉んだり脚を伸ばしたりして、一〇時ちょうどに離床した。水場に行ってきてから瞑想。一〇時五分ごろから座り、だいぶながく座った感はあったが、目をひらけば五三分になっていた。だから四八分程度。過去最長である。起き抜けなので、たしょう揉んでからやったとはいえどうしても脚が疲れていたが、ほぐしてからやれば一時間も余裕だとおもう。ただ座ってじっとうごかず何もしないでいるだけなので、なんの困難もない。瞑想とか坐禅とかいうほどのことではなく、ほんとうに、「ただ座ってじっとうごかず何もしないでいるだけ」。これいがいにない。
- 起きたばかりだとからだがほぐれるのに時間がかかるし、時間をかけてもほぐれきらないが、日中活動して血がめぐったあとに静止すると、鼻で呼吸をしているそのながれかたがだいぶなめらかになってきて、その感触だけでけっこう気持ち良い、というかんじになる。鼻でしずかに、ちいさな呼吸をしているだけでも、吸って吐くというのはかなりおおきな範囲の筋肉につうじていて、もしかしたら全身、とおく足のさきまでつながっているのかもしれない。筋肉がほぐれてくるとともに、呼吸をしぜんにまかせていても、それが軽く、幅広くなってくるのがわかる。
- 上階へ。ジャージにきがえる。洗面所で髪をさっととかし、うがい。食事は焼きそば。米がなくなったからである。きのうの白菜と焼き豚の炒めものもあまっていたのでいただく。新聞一面に、共通テストのカンニング事件で一九歳の女子大生がみずから出頭したという報があった。大阪在住の大学生で、東京の有名私大にうつることをめざしていたとか。寝屋川市の会場で試験をうけて、実家のある香川に帰っていたところ、母親と祖母に付き添われて丸亀市の警察に出頭したと。魔が差した、と言っていた。袖にスマートフォンを隠して動画を撮影し、それを静止画にして送ったという。たしかにきのうの新聞に出た写真にうつっていた右腕はコートらしきチェックの服につつまれていた。しかし試験中にどうやって加工処理をしたり、多くの文字を打ってメッセージを送信することができたのか、そのあたりを警察は調べると。カンニングの片棒をかつがされた二一歳の東大生は、結果的に不正に加担することになってしまい申し訳ない、あやしいと気づくべきだった、犯人には、まじめに勉強している五〇万人の受験生に悪いことをしたとおもってほしい、とコメントしていたが、この言になんかなあ、というかんじをおぼえた。コメントをもとめられた受験生も、ほかのひとの努力を無にするような不正はゆるせない、合格できたはずのひとが不合格になっていたかもしれない、と言ったり、不正をして大学にはいっても幸福なことにはならないとおもう、けっきょくついていけなくなったりするとおもう、などと言っており、たしょうの寛容さがかんじられる後者はともかく、じっさいに試験にいどんだ受験生がふざけんなよ、ズルすんなよ、と憤るのは、人生もかかっているわけだし、もちろん理解できる。さいしょの東大生の言についても正しいことを言っているとはおもうし、こういうおおきな公式の試験におけるカンニングはとうぜん不公正な行為だから、「悪いこと」でもあるだろう。なのだけれど、それは、「まじめに勉強している五〇万人の受験生に」たいして、ということなのか? というのが釈然としなかった。そういう違和感のみで、それいじょう明晰なかんがえが出てこず、そういういいぶんがまちがっているとも言えないのだが。ただなにか釈然としない感覚があった。
- 皿を洗って風呂も。洗濯機に水を汲み込むポンプの先端、こまかな穴が網目状のようにならんでいるところに汚物でできたキャビアみたいな黒っぽい汚れが付着しているのがすこしまえから気になっていたので、ここでこすっておいた。白湯を持って帰室。FISHMANSをながして「読みかえし」。ムージルの『生前の遺稿』とか「熱狂家たち」とかからの引用。するどく切れまくった鮮烈なアフォリズムの連続。
- 「読みかえし」: 392 - 413
- その後、きのうの日記を進行。To The Lighthouseの訳について、訳文をつくっているときの思考をいちいちこまかく記述してみた。ほんとうはそんなことやらなくともよいのだけれど、これはこれでなにか興があるかもしれない。しあがったのは二時で、ブログに投稿し、検閲漏れがないかざっと確認したのち、上階へ。洗濯物を取りこんだ。天気は雲混じりになってきており陽射しはおとろえ気味。それでもタオルはわりと乾いていたのでたたんでしまい、編笠みたいなザルのうえに輪切りにされた大根が干されてあったのはまだそのままに。出勤前に足を揉んだりストレッチをしたりしておきたいが、さきに食事を取ってあとでそうするかとかんがえ(ものを食ってしばらくは臥位になることができない)、焼きそばと味噌汁を加熱。部屋に持ち帰って食べ、それからここまできょうのことを記せば三時一五分になった。とにかく記述が楽で、すらすらとなめらかに書ける。
- 作: 「いわれなき自分を不幸に見てるからおまえの嘘には愛嬌がない」
- そういえば、食事のさいに母親が、まったく、一時間もかけて新聞読んでんだもん、と父親について文句をもらしていた。いつまでもだらだらだらだら食べて、一〇時までには洗い物もぜんぶやっちゃいたいのに、と。
- 上階に行って食器をかたづけたあと、もうはやばやと歯磨きを済ませてしまった。それから食事の支度。おかずにしやすいようなものがないが、汁物をつくって野菜をスライスしておけばまあよかろうと。アジのひらきがあったが、魚はあまりはやく焼いてもなんだし、父親か帰宅後の母親にまかせることに。米はどちらがやったのか知らないが、あたらしいものがすでにセットされてあった。タマネギとゴボウの味噌汁をつくることにした。それでタマネギを切り、鍋に入れ、ゴボウもみじかめのあまりがあったのでそれをとちゅうまで輪切りにして椀の水にさらした。煮ているあいだに桶を洗って大根やニンジンをスライス。少量のこしておいたタマネギも加え、ゴボウも鍋に投入するとしばらく沸騰させ、野菜をザルにあげて乾燥器のなかに置いておき、しばらくしてからボールにうつしてラップをかけて冷蔵庫へ。洗い物もさっさと済ませ、汁物に味噌も溶かす。完成するとベランダのそば、ソファのうしろに行って洗濯物をかたづける。時刻は四時すぎ、空は雲が溶けこんだやわらかな淡青で、西でも太陽がすこし邪魔されているらしく、窓のそとに見える近所の家々や大気のいろあいは、褪せたまではいかなくともさめざめとした白さであり、ただ暗くはなくてどことはなししとやかさを帯び、退屈と冷淡におちいることからすくわれているのは、東のかなたで緑のあいだにひらいた市街がかろうじてほのあかるさをかけられているからだろう。
- 下階にもどり、ベッドに転がって三島由紀夫『金閣寺』を読みつつ下半身をほぐす。四時四五分くらいから瞑想。やはり出勤前に心身をまとめておきたい。五時までの一五分しかできないが、一〇分だろうが五分だろうがたしかに停まることができればやすらぎはある。そうして身支度してうえへ。靴下を履き、手を洗い、居間のカーテンを閉めて出発。もう暮れ方だが、寒さを感じなかった。道のさきのほうでなにかの音が鳴っていた。(……)さんの宅のシャッターが閉まる音だろうかとおもっていると、夫人が家の横にあらわれて戸口につづく階段をのぼるのが見え、あちらもこちらに気づいていたようだが、急がず、こちらがそのあたりに行くころにはかのじょは玄関のなかにはいってしまっていた。音はシャッター音ではなく、まだつづいていた。林のほうからきこえるので、木を斬っているのだろうかと(……)さんの家の裏の斜面をみあげるが、それらしいすがたもない。空には輪郭線がぐずぐずとほつれた青暗い影のような雲が染みついている。十字路の左方、下り坂からは犬を連れた高年がひとりのぼってきて、犬がしばしば道端に立ち止まってひっかかったように動かなくなるのにやや苦労しているふうだった。男性のかっこうは地味なもので、犬のほうは足がほそく、やや貧相に見えるくらいのほそさで、いちぶ茶色におおわれたからだも毛並みはあまりよくなさそうだった。道のさき、西空の下端にはほんのわずか暖色が見受けられないでもないが、白くくすんだ空とだんだんと暗んできつつある空気のなか、むしろ濁ったような、余計な混ざりもののように見える。
- 坂道に折れると音がちかづき、おおきな掃除機を稼働させているような響きだったので、葉を吸ってでもいるのかとおもっていたところ、反対で空気を放出して葉を飛ばしているのだった。そういう機械を身につけてオレンジっぽいような帽子をかぶった人間がひとり、足もと前方の落ち葉を吹き飛ばしながらぶらぶらゆっくりとあるいている風情で、葉っぱはおもしろいように舞い上がって扇形の線をえがきつつ、だんだんと群れの数を増やしていくが、けっきょくはガードレールのむこうに追いやられる。追い抜かすときにあいてのほうに顔をむけて会釈をかわしたが、もしかしたら小橋のむこうに住んでいる外国人のひとだったかもしれない。そうだとしてなぜ葉っぱ掃除をしているのかわからないが。自主的にやっているのだろうか。
- 最寄り駅のホーム先に立てばきょうは風が横から寄せて、しかしはやさはゆるいし寒いというほどの摩擦もない。あたりはもうだいぶ明度を落としてたそがれがちかくひろがりつつあり、むかいの細道に右からあらわれる車のライトも左のとおくまで一挙に大気を抜けてはなれた反映をつくる。正面先の丘は樹々の襞がまだ見受けられないでもないがほぼ黒影で、その足もとに立つ二軒の家もふくめてなにも動きは生まれずしずまっており、かたほうの戸口に清水でできたような白い明かりがひとつ丸くかたまっているのが目にとまる。ふと目をうえにふれば丘の上空はおもいのほかに青い、雲の欠けた北空だった。
- 電車に乗り、座席について瞑目。待つ。降りて階段へ。ホームからそとを見やれば小学校の裏山に接する空は青く、その青さがそのままじわじわとながれおちて大気中にも混ざったような夕闇の色に地上は染まっていた。通路を行って改札を抜け、職場へ。西に雲がおおく染みのように浮かんでいるが、東側はすっきりとひかりをうしなった水色にひらいていた。
- 勤務。(……)
- (……)
- (……)
- (……)
- (……)
- それで退勤は九時前になった。駅に入り、電車に乗って着席。目をつぶって待つ。降りるとゆったりとした足取りで軽く行く。ゆっくりあるくことがなによりも重要である。階段通路では煙草を吸ってときおり咳きこみつつ煙をはきだしながら手すりをつかんでゆっくりのぼりおりしている老人に出くわした。たまに見る。こちらも負けず足が遅いのでなかなか抜かせないが、とちゅうでほぼとなりに来たとき、さきに行けということなのか老人はひととき停まったので、そのあいだにまえに出た。木の間の坂を下りていく。したのほうまで来て沢音が聞こえるようになると、その沢が底にある斜面のほうからガサガサ葉っぱをわける音がきこえたので、なにか動物がいるなとちょっと停まった。あそこにいるようだな、というくらいに近くなったのだが、すがたは見分けられず。たまに猫がうろついていることがあるのでそれか。もしくは狸とかそのあたりのやつではないか。
- 帰宅すると手を洗い、うがいもしておき、部屋に帰って服をきがえ、ベッドでしばらく休身。その後、Orquestra Afrosinfonica『Orín, a Língua dos Anjos』をBGMに静止。朗々とした五曲目からはじめて、たしか八曲目まで。二〇分くらいだったはず。そうして夕食へ。父親がケンタッキーフライドチキンを買ってきていた。魚も焼かれてあったがそれは食べず、鶏肉を取る。その他じぶんでつくったもの。新聞を読みつつ食べる。母親は風呂。なにか歌をうたっているのがちょっときこえてきた。ストレスがあるのだろう。父親は韓国ドラマを見ている。こちらがあがってきたときにはすでに洗い物がすんでいたが、食膳のなくなった炬燵について酒を飲みながらテレビでも見ているし、その後タブレットでもたぶんおなじ番組のつづきを見ていた。マジでずっとドラマ見てるなとおもう。こちらは食事が終わると乾燥器をいちいち片づけ、またフライパンのアジを皿に取って冷蔵庫に入れておき、汚れたフライパンのほうは水をそそいで火にかける。スライスした野菜とか味噌汁の鍋を入れるさいに冷蔵庫のスペースが足りなかったので、卵を開封して右手の卵用スペースに移しておき、パックは潰し丸めてセロテープで止めて捨て、沸騰したフライパンから湯を捨ててペーパーで掃除。このときペーパーが切れたのだが、それを取り替えておくのを忘れたのにいま気づいた。食器を洗ったあとは流しの排水溝のケースに溜まった生ゴミを袋に入れ、ケースにのこったこまかいやつも素手でかきだして入れ、袋は口をねじって閉じてバケツに封じ、それからケンタッキーのボックスを、上部を曲げて高さを減らして野菜室におさめておいた。そうして蕎麦茶を持って帰室。一服すると入浴へ。湯のなかが暑かった。たいして停まる気にもならず。髪を洗ったあと排水溝カバーをこすってきれいにしておき、出ると帰って、ちょっと日記を書いた。しかし疲れてベッドに避難。英文記事を読みながら、回復したら日記を書こうとおもっていたところがそううまくは行かず、いつか眠っており、きれぎれに覚めながら気づけば五時になっていた。そのまま就寝。