2022/2/4, Fri.

 ironique et fatal とある。読む者の心の音鍵を、明晰で不吉な手際で打つ言葉である。fatal という言葉を、ここで会ったが百年目、というような方角へ取ったら、どうか。百年目の出会いが一度限りの邂逅ではなくて、永劫のごとき反復であったとは、すぐれて ironique である。しかしこのアイロニーという観念が私などにとっては、存外、むずかしい。ロマン派の跡を踏んで、どうしてもセルフ・アイロニーの方へ取るので、本来の意味が見失われやすい。古代ギリシャ語で「知らぬふりをするオトボケ者」を意味する言葉エイローンから、転用されたものなのだそうだ。知らぬふりをして、知ったかぶりをつまずかせ、おのれの無知を悟らしめる、おのれを嗤うに至らしめる、という教育上の便法の意味に転用の当初は使われたらしい。十八世紀の事という。もしもボードレールのこの詩(end79)のアイロニーに、当初の筋が通っているとすれば、そのアイロニーには対者、発信者が存在することになる。七人の老人たちではない。老人たちは知るふりも知らぬふりもないのだ。
 (古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)、79~80; 「7 莫迦な」; ボードレール「七人の老人」について)



  • 七時台にいちど覚めて、腹を揉んだりしているうちにまどろみ、八時半すぎくらいに再度の覚醒をえた。足の裏を合わせた姿勢で深呼吸をするなどして筋をほぐし、九時二〇分に離床。きょうはレースのカーテンがかかった窓が白く、七時台に覚めたときにも空気がだいぶ冷たくて顔が寒かったが、その後一一時くらいから陽の色がはじまった。しかし正午すぎ現在、また曇っている。水場に行ってきてから瞑想。二五分間。やはり起きてすぐは脚が固いのでながく座りづらい。きょうは左足のさき、踝のあたりがもういっぽうの重みでややしびれるようになってきて、それで切った。
  • 上階へ。ジャージにきがえる。母親が、きのう自転車を引き取ってもらったけど、やっぱり直してもらって取っておこうかという意思を表明する。理由をきくと、春になったら乗りたい気がして、買い物とか行くのに、というが、ぜったい乗らないとおもうよ、とにべもなく断言した。いまはそういう気分になっているが、数か月後の母親にそういう気分が生じるかはあやしいし、春の陽気につられて自転車を駆り出したとしても、せいぜい一回から三回が関の山で、すぐにやっぱり面倒くさいな、車で行ったほうがいいな、とおもうことになるとおもう。ぜったい、やっぱりいらなかったな、あのとき捨てとけばよかったなっておもってるとおもうよ、と確信を述べ、乗ったとしても一か月に一回だとおもう、と予言した。それに、もう何年もつかっていなかったもので、全身土埃にまみれきってあちこち錆びており、サドルのカバーすらひび割れているような状態だったのだから、それをわざわざ直してもらってつかうより、乗りたければあたらしいものを買ったほうがいいとおもう、あれはもう捨ててしまって、春になって乗りたいなとおもったらまた買えばいいではないかと言ったのだが、母親は、新品よりは直してもらったほうが安いだろうし、それにあれブリジストンでしょ、とか、おじさんは処分するって言ってたけどもしかしたら直して売るかもしれない、それだったらもったいないっていうか、やっぱり使いたい気がする、などと言っていた。もうたぶん一〇年くらいまえに買った品だろうし、とくに高いものでもなくふつうのチャリなのだし、あれに乗っていたのはおおかたこちらで母親にこれといった思い出もないはずだし、あたらしい品を買ったほうがいいとおもうのだが、母親にはなぜか古い品のほうがやっぱり安心できるみたいな観念があるようだった。ぜったい乗らないとおもう、やっぱりいらなかったなってなってるとおもう、と断固たる確信をくりかえしつつも、でもそれを踏まえてもじぶんでそういう気持ちがあるんなら、頼んでみればいいじゃん、と言い、とりあえず二、三日待ってみて、それでも気持ちが変わらなければそうしたら、と落とした。母親はまた、おじさんがバイクの部品を売ってマージンを得るとか、自転車も処分せずに直して売るかもしれない、ということに何度か言及しており、無料でやるとは言ったけれどそれで(……)さんがいくばくか儲けをえるということがなにかうっすらと気にかかっているのではないかと見え、ずるいまでは行かないが、そういう方向性の感情や思念が、かたちにはならないレベルでかのじょの心中にひそんでいるのではないかという気がする。そこにくだらない俗物のみみっちさを嗅いでこちらはそこそこうんざりする。どうでもいいではないかと。なぜ他人が利益をえるうんぬんがそんなに気になるのかと。もっともこれはじぶんがそういう世俗的な穿鑿が嫌いなので、穿って見すぎているのかもしれないが。
  • ハムエッグを焼いて新聞を読みつつ食事。国際面をいろいろ。きょうから北京五輪らしいが、ウイグルや香港のひとびとは冷ややかにみていると。そりゃそうだろう。アメリカはアントニオ・グテーレス国連事務総長に、北京五輪の開会式に出席しないようにとはたらきかけていたらしいが、総長は中国の機嫌を損ねるわけにはいかない、と断ったという。ロシアは東地中海に艦隊を派遣していて、かれらじしんはシリアにむかうと言っているが、NATOはとうぜん黒海にはいるのではないかと警戒して追跡監視をおこなっている。ウクライナキエフではロシア軍が侵攻してくる可能性にそなえて住民らが銃撃の訓練をしたり、当局が避難所のマップを配布したりしているという。中露の結託と米欧との対立と、建設的な対話が成立せず平行線をくりかえしているようすに、どうしたって第二次世界大戦前夜をおもいおこさずにはいない。なんの因果か、ガス室はないとしても、中国はウイグルのひとびとを収容所におくりこんでもいる。
  • 食器を洗い、そとに出てヒーターやストーブの石油を補充。その後風呂洗い。出てくると母親が白菜のクリーム煮というかシチューのたぐいをつくりだしていたので、鍋を担当して野菜を炒めるところまでやった。火を通すうちに白菜たちが頑固さをうしなってしんなりとやわらかく鷹揚になっていき、ニンジンやコーンやハムも入れられていろどりがなかなかよいかんじになった。だいぶやわらかくなったところで水をそそいで離れ、白湯をついで帰室。Notionを用意すると「読みかえし」ノートを読む。一二時前まで。それからきのうの記事をみじかく足して完成し、きょうのこともここまで記述した。いまは一時直前である。きょうは三時の出発。
  • 「読みかえし」: 443 - 447
  • 都立高校の社会の過去問を確認。その後、携帯をスマートフォンに変えて電話番号も変わったし、auのIDの登録も変えておこうとサイトにアクセスしたが、どうもIDと電話番号の紐付けを変更することはできず、あたらしい番号であらためて登録しなおすことになるようだった。ただクレジットカードとも紐付いているので、そのばあいそこのむすびつきはどうなるのかというのも調べかけたが、いまはもう時間もあまりないしまたそのうちやればいいやと手帳にメモしておき、そうしてストレッチ。二時前にうえへ。洗濯物は天気があまり良くなかったからだろう、母親が入れていったようでもう室内にあったが、このときはまた陽が出ていたのでタオルがいくつも下がった集合ハンガーを、そとには出さないけれどひかりのはいるガラス戸のまえに吊るしておいた。そうして食事。きのうの混ぜご飯とナスおよびひき肉のあまり。さっと食べ、皿もかたづけ、下階へ行って歯磨きをした。二時一五分くらいから瞑想。三〇分程度座ったのだったか。それから”感謝(驚)”のながれるなかでスーツにきがえ、三時まで数分あまったので蠟山芳郎訳『ガンジー自伝』をほんのわずか読み、バッグとストール、コートを持って階をあがった。タオルをたたんだのはこのときではなく食事後である。このときは靴下や肌着を整理し、乾きがかんぜんでないものはヒーターのまえの床に置いておいた。用を足したり手を洗ったりカーテンを閉めたりしてから出発へ。玄関を出ると家のまえにバイクに乗った新聞屋が停まっていて、電話をしていた。ポストに寄ると、そのひとが入れたものだろう新聞に、父親宛てのなにかの小包を取り、いちど鍵を閉めてしまった玄関の扉をまたあけてなかに置いておく。出なおすと新聞屋の電話は終わっていたので、どうも、ご苦労さまですとあいさつをかけ、道に出た。このときにはまた曇って空には白い絨緞のような雲があさく波打ちながらひろがっており、陽の色はなくて大気はさむざむしく、雨が落ちてきてもおかしくなさそうな色合い雰囲気だった。坂道の入り口から右手のしたにみえる細道沿いではきょうも家の新築がすすめられており、それを見下ろしつつ、また川のながれがかしらを白く盛り上げているのもながめながら通り過ぎるうち、なにかはげしくものを焼いているような、あるいは巨大な風か水を放出させているようなSのひびきがはじまって、新築の敷地に遠目にはカーリングのストーンに似たようななんらかの機械が置かれてあったので、それが駆動したものかとおもわれる。地面のうえに置いて下面から風か水を放出させ、あたりを洗ったり掃除したりするものかとおもったが、知れない。
  • 街道の南側ではきょうも歩道工事が進行しており、おとといはながい穴だったところにモルタルというのかねずみ色のあれがもうながしこまれていて、人足がひとり縁のブロックをはさんで鏝でその表面を均していた。風が正面から来るのだが、眼鏡をかけているとその空気のぶつかりが余計に目にひりつくようで、まぶたのあいだを細めつつひっきりなしにまばたきしなければならなくて、それで目がつかれているなとおもい、裏路地をあるきながら眼鏡を一時はずして手に持ち、もう片手で眼窩をいくらか押した。あるいているあいだ、小学生を何人か見かける。ふたりで連れ立って雑談しながら帰路をあるく女児がいた。もうふたり、民家のあいだで塀にかこまれた駐車場の端にしゃがみこんでいる女児もおり、ひとりがランドセルをごそごそやって、なにか本らしきもの(絵本とか、イラストブック的なものだったような気がする)をとりだしていた。あたらしく買ったものを友だちに見せるような雰囲気。すすんで行って白猫の家のまえにかかると戸口のところに行儀よくたたずんでいたので立ち止まってみれば、こちらを見てすぐさまうごきだし、ミャアミャアちいさく声をもらしながらちかづいてきた。可愛らしい。ひとが止まるとだれでもそういうふうに寄っていく性分なのだろう。かれかかのじょか確認したことはないのだが、この猫はいつもかならずさいしょの邂逅時のみ鳴き声を発して、そのあとに鳴くことはない。出勤前でそんなに余裕はなかったので、しゃがんでちょっと撫でてやったのみできょうは別れた。
  • 職場。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 帰路や帰宅後は省略。この日のうちにこの日の記事をたしょう書き進めることができて、それはまあよかった。書抜きもした。
  • ガンジーは自伝中で、「わたしの生涯に、深刻な印象を残したのみならず、わたしをとりこにした人に、現代では三人がある。生ける交わりをしたレイチャンド・バイ、『神の国は汝自身のうちにあり』のトルストイ、そして『この最後の者に』のラスキンである」(110)と言っているのだが、ここでラスキンが出てくるのが意外である。ジョン・ラスキンプルーストの関連で美術評論家としてのイメージがつよいが、社会主義者で労働者支援とかもしていたはずなので、そちらの方面でガンジーとひびくところがあったのかもしれない。