2022/2/7, Mon.

 ところで、吉兆を告げる、畏れ慎しみ沈黙する、という意のエウ・フェーメオーには、吉兆に応えて歓呼するという意味もある。
 オレステイア三部作の第一部は「アガメムノーン」、トロイヤ遠征隊の総大将でありアルゴスの王であるアガメムノーンが国に凱旋するや王妃のクリュタイメーストラーの謀殺に遭って浴槽の中に果てるという、まさに悲劇であるが、その冒頭は近代風に言えばかなり喜劇的である。見張りの男が一人城の屋上に、犬のように、恐らく正面の縁に両肘を衝いて這いつくばるという、珍妙な幕開きになる。いや、幕というもののない野外劇なので、どう演じたものか。芝居の始まりの合図を待って、舞台の奥にある、役者が役変わり(end129)の衣装替えのために駆けこむ平屋 [スケーネー] の――ついでながら、天幕 [テント] も小屋も舞台も場面 [シーン] も、すべてスケーネーである――その屋根の上にそろそろと、苦しそうに腰など屈めて現われ、その姿勢を取って台詞に入ったか。
 まず愚痴になる。もはや一年、夜々この屋上にあげられて、眠りもやらず、トロイヤからの戦捷の信号の届くのを、いまかいまかと待っている。唄でも歌って睡気を払おうとすれば、ついこのお館の、よろしくない事情を歎きかかり、喉も詰まる。
 信号とは松明リレーのことで、敵の陥落の暁にはトロイヤの峯から峯へ送られ、多島 [エーゲ] 海を島から島へ渡り、ギリシャの本土にあがればまた峯から峯へ飛んで、たちまちアルゴスの城の正面の山上に至るという。王妃の考案した手はずらしいが、この人為 [テクネー] がすでに僭上 [ヒュブリス] と人には感じられているようだ。
 そこへしかし山上の松明が点り、振り回される。見張り番は跳ね起きて雀踊 [こおど] り叫ぶ。


 ――アガメムノーンの奥方、アルゴスの王妃に大声で告げ申す。お褥より急ぎ起きられい。松明の吉報に答えて家中一同に歓呼の声を挙げさせられい。イリオンが、イリオンの城が落ちました。火の伝令がこれこのとおり、しかと伝えております。このわしは、祝い(end130)の踊りの、まず音頭を取らせてもらいましょうか。


 この《吉報に答えて》が、エウ・フェーメオーの、文法で言うなら現在分詞である。吉報に答えての歓呼という続きになる。畏れ慎しむ沈黙が、吉報を迎え取って、歓呼の叫びに変わる。エウ・フェーメオーは一言のうちに、吉兆の啓示を前後にしての、畏れの沈黙と喜びの応答との、両面にわたる。しかしこの場面ではすでにアイロニーがおのずとそこにふくまれるようだ。見張りの男の喜悦の燥ぎの、調子がまもなく急にさがるのだ。


 ――御帰還の殿様のお手をこの手に親しく取りたいものだ。しかし余計なことは黙っていよう。でっかい牛が舌の上に乗ってしもうた。お城自身が、もしも声を得たなら、はっきりと告げることだろう。わしは、知っている者には話しもしようが、知らない者には、知らないよ。(end131)


 この《黙る》は、吉兆を待って畏れ慎しむ敬虔の沈黙ではなくて、単に口を閉ざすの意味のシーガオーである。何に口を閉ざすかと言えば、王妃の《不倫》と、アルゴスの、タンタロスの一族の、《因果》である。アガメムノーンの父はアトレウス王。そのアトレウス王の妻に弟のテュエステースが通じる。それを恨んだアトレウスはいったん追放したテュエステースを赦したと見せかけて国に呼び戻し、和解の宴席で、先にひそかに殺したテュエステースの幼い息子たちの肉を料理して、これを父親に喰わせる。そのテュエステースの遺児が、アガメムノーンのトロイヤ遠征中に王妃のクリュタイメーストラーに通じた、アイギストスである。その復讐の一念はまだ果たされていない。また王妃には、トロイヤ遠征隊の航海を妨げる嵐を鎮めるために王女のイフィゲネイアを生贄に取られた、母親の恨みがある。
 (古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)、129~132; 「13 吉き口」)



  • 八時にアラームをかけていたが、その一〇分まえにおのずと目が覚めた。携帯を取ってもう解除しておき、深呼吸をしながらまだ休む。九時までだらだら。起き上がってコンピューターをつけ、LINEを確認。(……)くんが午前五時くらいに、寝れないのでもしかしたら起きられないかもしれませんと投稿していたので、無理せず休みにしてもとかえしておく。水場に行ってから瞑想。一〇時まで時間があまりないのでみじかめに切った。
  • 上階へ。ジャージにきがえる。きょうは快晴で、窓のそとはあかるく、まだ陽がたかまりきっていないからいっぽうで陰影も濃く、その青さとひかりのコントラストが透き通って洗われたような、清浄な風合いを空間にあたえている。近所の屋根はところどころ液体質の熱い白さを溜めて汀のようになっており、すぐそばの一軒は瓦屋根の襞が突出面をてらてら浮かべて、へんな比喩だが、長方形のおおきなネタでシャリがすっぽり覆われた握り寿司が整然とならんだようにも見えるし、ななめにそろっていっぽうを目がけて一散に飛びこんでいくとちゅうで停まったような白いかたまりのその群れは、涙の玉や勾玉に似た巨大な火花が無数に放射されたようでもある。
  • うがいなどして、食事。きのうのセブンイレブンのチキンを半分のこしておいたそれを米のうえに乗せ、あと芋煮。新聞、ざっとみてから国際面。フランス大統領選まであと二か月だが、やはり極右候補が勢力をもっていて、マリーヌ・ル・ペンとエリック・ゼムールの支持をあわせればマクロンを超える可能性もあると。マクロン側は今回も決選投票で勝つ見込みでいるらしいが、ことによるとあやういかもしれないと。構図はとくに変わってはいない。ヴァレリー・ペクレスが二位だったか三位だったかにつけているのも変わらず。
  • 皿を洗うとまだ一〇時まで一〇分あったので、風呂も洗ってしまうことに。窓をあけてちょっと窓外をみてから浴槽をこすった。出ると白湯を持って帰室。一〇時直前に(……)くんが起きられたと言ったが、休まなくてだいじょうぶかと送っておき、返信がないのでとりあえずログインするかと隣室にうつると、(……)さんがもういまZOOMにはいっていると言ったのでこちらも入室。通話中のことは後回し。さいしょはいったときには(……)さんのはなしがされていた。ほか、小学生以下のアホすぎる糞尿的馬鹿話で笑いまくるなど。今年いちばんというか、去年から見てもいちばん笑ったわ。そのまえにはまじめな政治のはなしもあった。
  • 一時半ごろ終え、自室にもどり、ベッドで脚をほぐしながら都立高校の過去問を確認した。最新、二〇二一年度の数学と理科。数学のほうはそこまでむずかしくはないというか、大問3以降のさいごの問いなどふつうにむずかしいのだけれど、まえにやった過去の年度とかV模擬とかよりはかんたんなのでは? とおもった。しかしこのレベルの問いをできるようになる生徒はうちの塾にはまずいない。理科は(……)だからたいしてすすまないだろうと判断し、大問1のみ。このあいだも見たが、再確認。
  • 二時一五分ごろ上階へ。洗濯物を入れる。父親は出かけるという。出ていたものをすべて室内に取りこむと、陽射しがまぶしいのでベランダでしばらく体操をした。屈伸や開脚しての上体ひねり。筋を伸ばしているあいだ、西空のまだ高くから太陽光が乱れも濁りもなくまっさらにふりそそぐ。たまに風が生じて駈けてきて、すると頬にきりっと冴えたつめたさがとおって清涼さわやかだが、日なたにいるからまだいいけれどこれを陰であびたらするどいだろうなというくらいのつめたい空気だった。なかにはいるとちょうど父親が出発するところだったので行ってらっしゃいとかけ、カレーのあまりでつくったドリアのたぐいをレンジで熱する。晴天のわりにタオルが乾ききっていなかったので、エアコンであたためようとおもって室の角のほうにかけ、そこにあるエアコンを駆動させたが、どうもなかなかうまくうごかないし、つけてもどうせたいして乾きはしないからとおもって断念した。ストーブでやればいいのだが、だれもいないのにわざわざ灯油を消費してタオルをあたためるのももったいない。食事を持って部屋に帰り、食して、それからきょうのことをここまで記述。もう四時だからやばい。
  • 出勤は電車を取った。道中はとくだんの記憶もないし省略。勤務のことももうあまりおぼえていないが(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • あとは通話時のこと。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)

しかし [ケリビナル・] シディクさんは、女性警官から男性警官がそうした行為について自慢げに話す様子を聞かされたと証言する。「(男性警官たちは)夜に酒を飲むと、どうやって女性たちをレイプし、拷問したかを互いに言い合うそうだ」。現在オランダに住むシディクさんは、CNNの取材に答えてそう説明した。

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米国からCNNの取材に応じた [トゥルスナイ・] ジヤウドゥンさんが語ったところによると、収容された監房には他に女性が20人ほどいた。そこでは食事も水もほとんど与えられず、トイレの使用は1日1回しか許されなかった。使用する時間も3~5分と決められており、「それ以上時間がかかると、電流の流れる警棒で感電させられた」(ジヤウドゥンさん)

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ある尋問の最中、複数の警官から殴る蹴るの暴行を受けて気を失った。また別の時には、2人の女性警官がまだ傷の残るジヤウドゥンさんを別の部屋へ連れていき、テーブルの上へ寝かせた。「彼女らは私の体の中に警棒を入れて、電流を流した。私は失神した」(ジヤウドゥンさん)

それから10日後、今度は男性警官の集団に監房から連れ出された。「隣の部屋で、別の女性が泣き叫んでいるのが聞こえた。5~6人くらいの男がその部屋に入っていくのが見えた。女性を拷問しているのだと思ったが、間もなく私は集団でレイプされた。それが終わってから、彼女も同じことをされたのだと分かった」。ジヤウドゥンさんは涙を流しながらそう振り返った。収容施設にいる間、こうした被害には何度も遭っていたという。

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ある時、収容施設で性的暴行を受けた [グリバハル・] ジェリロワさんは、相手の警官に面と向かってこう言った。「恥ずかしくないの? あなたにも母親や姉妹がいるでしょう。どうして私にこんなまねができるの?」。すると警官は電流棒でジェリロワさんを殴り、「お前は人間に見えない」と言い放ったという。

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昨年、ジヤウドゥンさんは治療のため米国に渡った。到着後すぐに医師らは手術によってジヤウドゥンさんの子宮を摘出した。診療記録をCNNが確認したところ、ジヤウドゥンさんには骨盤膿瘍(のうよう)、膣出血、結核の診断が下っていた。