2022/2/14, Mon.

 たしかに、この世にもはや住まわぬとは、不可思議なことだ。ようやく身についたかつかぬかの習慣を、もはや行なわぬとは。薔薇や何やら、もっぱら約束を語る物たちに、人間の未来にかかわる意味をもはや付与しないとは。かぎりなくおそれる両手で束ねてようやく何者かであった、その何者ではもはやなくて、名前をすら壊れた玩具のように棄て去るとは。不可思議なことだ、願いを先へと継がぬとは。不可思議なことだ、互いに関連しあっていた事どもがあのようにてんでに解かれて空中へ飛び散るのをただ見送るとは。死んであるということは労多きものであり、死者自身が徐々に一片の永遠性を感じ取るまでにも、およそさまざま追って埋め合わせなくてはならぬ事どもに満ちている。しかし生者たちはすべて、あまりにも截然と分けるという誤りを犯す。聞くところでは天使たちは、生者たちの間を往くのか、死者たちの間を往くのか、しばしば弁えぬとか。永遠の大流はあらゆる年々を、生死の両域を貫いてひきさらい、その響きは年々を両域ひとしく圧倒する。(end166)
 結局のところ、若くして奪い去られた者たちは、われわれをもとめはしない。死者はこの世の事どもから穏やかに離れていく。赤児が母親の乳房から育つにつれて安らかに離れていくように。しかしこれほどに深い秘密をもとめるわれわれは、哀悼の心からこれほどしばしば喜ばしき進展の起こるのを見るわれわれは、われわれこそ、あの死者たちなしに済むだろうか。あの往古の伝説はむなしいだろうか。昔、リノスを悼む悲歎の最中 [さなか] に、思い切った最初の音楽が、暗澹とした硬直を破って溢れ出たという。ほとんど神々にもひとしかった青年がいきなり、殺されて永遠に去ったその跡の、恐愕にこわばった室の中で初めて、空虚がやがて振れ動いて、現在われわれの心をも魅了し慰め助ける楽の調べと化したという。
 (古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)、166~167; 「16 ドゥイノ・エレギー訳文 1」)



  • めざめて携帯をみると一〇時一二分。さくばんから予報どおり雪が降り出していたが、夜に玄関の小窓からそとをのぞいたときには車のうえにうっすらと白さが敷かれていながらも宙をながれるものは水っぽいすがただったし、起きたときにもすでに降りは止んでいて、積もるまでは行かなかったようだ。たぶんそうだろうとおもっていた。カーテンのむこうの曇天に、太陽の痕すらうかがえたくらいだ。布団のしたで呼吸をつづけてからだをやわらげ、一一時前に離床した。水場に行ってきて瞑想。二五分ほど。
  • 上階へ行き、仏間の箪笥から取ったジャージにきがえて食事。前夜の炒めものやスープののこり。きょうは新聞が休みらしい。なのでテレビのニュースやバラエティをながめながら食べた。食事を終えて皿を洗ったあたりでは窓外にすこし陽がもれていて、南の空は真っ白だし西でもおそらく水色はみえていないだろうが、ベランダに出るガラス戸のまえには日なたが生まれ、曇天の淡白な宙にも別種の白さのひかりが混ざって、色はないながらかすんだようになっていた。母親の分もあわせて食器を始末し、風呂を洗うと白湯を持って帰室。Notionを準備してウェブをちょっとみてから「読みかえし」を読んだ。ゴルフボールを踏みつつぶつぶつかるく音読。その後ひきつづきひとのブログを読むなどしてから、ここまで記すと二時をまわったところ。日記は一二日ときのうの分があって、とくにきのうの記事はまだなにも書いていないのだが、きょうはどうも面倒くさい。とりかかる気が起こらない。
  • 「読みかえし」: 470 - 474