2022/2/15, Tue.

 あらゆる天使は恐ろしい。それであるのにわたしは、哀しいかな、御身たちを、人の命を奪いかねぬ霊鳥たちよ、その恐ろしさを知りながら、誉め歌った。天使のうちでも最も輝かしきラファエルが簡素な戸口に、旅人の姿にすこし身をやつして、もはや恐るべき姿ではなしに、若者が若者をしげしげと眺めやるふうに立った、あのトビアスの昔は何処へ往ったのか。今ではもしもかの首天使が、これこそ危険な天使が、星々の彼方からわずかに一歩でもこちらへ向って降ったとしたら、迎えて高鳴る心臓がわれとわが身を打ち砕くことになるだろう。御身たちは誰なのか。

 黎明に生まれ合わせ、御身たち、天地創造の恵みをありあまるほどに享けた寵児たち、万物の尾根、曙光に染まる稜線。花ひらく神性より飛ぶ花粉、光を自在に伝える継ぎ手、廊であり階であり玉座であり、生きとし生けるものから成る部屋部屋であり、歓喜から成る楯であり、恍惚の嵐の渦であり、そしていきなり、一個に立ち戻って、鏡。流れ出たおのれの美をおのれの顔の内へまた吸い納める。(end170)

 ひきかえこのわれわれは、物に感じたところから、蒸散させる。ああ、われわれは自身を息と吐き、そして納め戻さない。焚火から焚火へ、匂いを加えながらかすかになっていく。誰かが言ってはくれるだろう。いえ、あなたはわたしの血の内に入ってます、この部屋も、また来る春も、あなたの匂いに満ちてます、と。それがしかし何になる。そう言う人もわれわれを留められず、われわれはその人の内から、その周囲から、消えていく。そして美しかったあの人たち、誰があの人たちを繫ぎ止めるというのか。絶えず顔に表情が浮かんでは去る。朝の草の露のように、われわれのものはわれわれのもとから発っていく。顔の火照りのやがて冷めるのにもひとしい。ああ、微笑んだ。この笑みは何処へ往ってしまうのか。ああ、眉をあげる。あらたに暖く立っては逃げて行く心の波。哀しいかな、しかしこれが、われわれなのだ。宇宙は、われわれがその中へ融けこんで、われわれの味がするだろうか。天使たちはほんとうに自身のものだけを、自身から流れ出たものだけを納めるのか、それとも時には、間違いのように、われわれの存在のなにがしかがそこに加えられるのか。われわれは天使の面立ちの中へ、妊婦の顔に漠とした面影の潜む程度には、紛れこむのか。天使たちは自身の中へ渦巻いて還るその烈しさのあまり、それを気に留めていない。どうして留めることがあろうか。

 (古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)、170~171; 「17 ドゥイノ・エレギー訳文 2」)



  • 「読みかえし」: 475 - 479
  • 部屋にもってきていた日曜日の新聞の、「あすへの考」欄を読んだ。鶴原徹也による、Larry Diamondという政治学者へのインタビュー。「シカゴ大学のロバート・ペイプ教授の昨夏の世論調査によると、「ジョー・バイデン大統領は正統性がない」「トランプ氏を大統領に就かせるための暴力行使は容認できる」という2項目とも肯定した成人は8%いました。米国には約2億6000万の成人がいるので約2100万人に相当します。このうち300万人に軍歴があり、100万人は民兵組織か極右組織の成員と推計されています」とのこと。ほか、「米国の核心的利益を三つ列挙します。第一は欧州との結束を維持し、ロシアの対欧介入を阻止すること。この文脈でウクライナ支援は必須です。第二はイスラエルの安全保障の確保。第三は自由で開かれたインド太平洋地域の実現。米日、米韓同盟はその土台です。クアッドの構築は地域安保体制の拡充と重層化を意味します」。
  • 起床は正午をまわって遅くなってしまった。瞑想も省く。上階へ行き、燃えるゴミを始末してジャージに着替え。母親は炬燵にはいっており、ストーブのうえのフライパンにカレーができあがっていた。洗面所で髪を梳かしたあと、それを台所のコンロにうつし、味噌汁とともに加熱。それぞれよそって卓へ。新聞をみながら食べた。ニュースは一面に米露の電話会談で緊張緩和にはつながらなかったとの報。きのうすでにつたえられていたが。バイデンはロシアにたいする安全保障のかんがえかたをつたえたが、プーチンはロシアの懸念の本質的なところにこたえていないと不満をくりかえした。NATOの東方不拡大の確約を欧米側がことわったことにかんして、ちかく正式な回答を表明するとのこと。マクロンもこのところ仲介にうごいていてプーチンとも再度はなしたようだが、やはり色よい返事はえられなかったと。二面にはウクライナ国境付近に展開しているロシア軍がより国境近くに移動しつつあるという観測情報もあり、本格的な侵攻の準備にはいっているのでは、と書かれてあった。
  • 食後皿を洗い、風呂場にうつって浴槽をこすり、シャワーで泡をながそうとしたところで水が出なかった。水道の取っ手をまわしてみても手応えがまるでなく、さいしょはわずかに漏れていたけれどじきにそれもなくなった。こわれたものだとおもって取っ手を左右にいじってみたり押してみたりしたが駄目なので、風呂場を出て、水道がこわれたと母親につたえつつ、洗面所の水道をつかってバケツに水を汲んでながそうとしたところが、洗面所の水道も反応がなかったので、それで断水していると気づいた。母親がじきに、そういえばなんか知らせが来てたとおもいだし、居間のかたすみに埋もれていたものを引っ張り出してきたので見てみると、きょうの一時からはじまって五時までつづくとあったので、けっこうながいなとすこし困った。トイレに行けないのが面倒くさい。母親は、しょうがないからしたあとに薬缶の水でながせばいいと言ってじっさいそうしていたが、小便ならそれでよくても大便だとながれないだろうし、こちらは起床して飯を食ってしばらくすると便意をおぼえる習慣である。それで最寄り駅に行こうと決めた。お知らせのチラシには(……)から先と範囲があって、(……)駅は(……)なので範囲外である。風呂を洗うまえにすでにつくってしまっていた緑茶をもって帰室し、コンピューターを用意しつつそれをちびちびやったが、茶には利尿作用があって下腹部がうごめきはじめるのを感じたので、はやめに行っておいたほうがいいと判断し、二杯目をぜんぜん飲みきっていないそのとちゅうで出かけることにした。帰ってくるまでのあいだにぬるくなってしまうだろうがしかたがない。それで上階に行き、最寄り駅のトイレに行くというと母親はゲラゲラ笑っていたが、みじかい散歩にもなるのでじぶんとしてはわるくない機会である。ジャージにダウンジャケット、それなのに靴はどちらかといえば綺麗め寄りの茶色のものなのでへんな格好だが、かまわず出た。靴ももう何年も履いているやつなので新調したい。
  • 空には雲が混ざっていて半端な天気ではあるものの陽射しはながれており空気はゆるくて穏和にかるい。道を行っているとカラスが一羽飛び立って、宙を横に、鷹揚にはばたきながれていくそのくちばしになにかくわえているのが見て取られた。首をまげてさきを追うと、カラスは我が家の屋根に着地していた。さらにすすめばまた道脇から、こんどは二羽の黒々としたすがたが飛び立って、こちらはさきの一羽よりもいくぶんすばやく、鳴き声も立てながら活発にくだっていった。うえの道に出るために林のなかをまっすぐとおる細い坂道に折れると、さきほど去ったものの一羽がもどってきたようにもおもえたが、またカラスが一匹、木の間にはいりこんできて枝に乗り、べつの枝にこまかく飛び移っていた。樹冠のしたをのぼっていっておもてに出ると北側にわたり、西をむけば正面から降ってくる薄光のなかを、やや目をほそめながらいそがず行く。空は雲混ざりで青さはかなり希釈されつつ淡い下地としてのこっているが、西の果てに固着してけむりのようになっているらしい雲のすがたはひとみを痛みなくひっかいて視界をかすませる縦方向のひかりの介入によってあまりよくみえなかった。
  • (……)に到着。トイレにひとはいなかった。断水の範囲からははずれているのだが、いちおう手洗いの水が出るか手をかざして確認し、また個室にはいってからも水がながれるかいちどボタンを押してチェックした。問題ないのでジャージとパンツをおろして冷たい便器に座り、クソを垂れる。クソをするのにわざわざ駅まで来ないと行けないというのも面倒なはなしだが、立ち小便は林のほうでできるにしても、野グソは経験があまりないし(というかいちどもないかもしれない。一回か二回あってもおかしくはない気がするが、あるとしてもいずれ子どものころである。立ち小便の記憶はたしょうあるけれど、野グソをしたおぼえはおもいあたらない)、やりづらい。うまいやりかたを知らないし、寒い。寒いというか露出した股間がスースーするのは駅のトイレもおなじだが。こんな時間からそとをあるいて、おもてをながれる車の音がひっきりなしにつたわってくる野外のトイレでクソを垂れるというのもふだんないことで、習慣からはずれているのでちょっと新鮮さがあった。
  • 排泄をすませると来た道をもどる。出すものを出したので心身がおちついており、歩調もしぜんゆるくなって、休日に陽のしたをぶらぶらゆっくりあるくというのがやはりこの世でさいだいの贅沢だなあとおもった。自由とはそれだ。休みの日は、ほんとうはやはりあるくべきなのだ。勤務のある平日にあるいてもそこまでおもしろくはない。やはりきょういちにちは労働にでむかなくてもいいという精神の解放とともにだらだらあるくのがいちばんこころよい。そのここちよさをあじわいながら自宅までもどった。
  • 室にもどるとぬるくなった茶を飲みつつひとのブログを読み、その後「読みかえし」。起きるのが遅かったのでそれで二時半くらいになってしまう。その後部屋に持ってきていた新聞を読んだり、ウェブをちょっと見たり。その後、松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)を読んでいると、母親が来て蛍光灯を替えようというので、スツール椅子を押さえていてもらいつつそのうえにのぼって、自室の電灯をとりかえた。スツール椅子は押さえていてもけっこう不安定なのでなかなかたいへんだった。それからとなりの兄の部屋や両親の部屋もみたが、まだけっこう点くのでかんぜんに切れてからでいいんじゃないかということになり、自室にもどった。それからここまできょうの記事を記述。五時前。
  • 上階へ。アイロン掛け。さいちゅう、タオルや肌着をハンガーからはずしてファンヒーターのまえに置いておいた。しかしヒーターのタンクを確認してみればもうかるくて石油がとぼしいようだったので、シャツを処理しているとちゅうでそちらを優先し、いちど消して、となりのストーブのものといっしょにタンクをもってそとへ。薄水色の東の空に、もうだいぶおおきく満月にちかい月が捺されていた。勝手口のほうにのぼれば、南の低みではほんのかすかに紫を帯びた靄が生じてくゆっている。犬の散歩でとおるひとをながめたり、背伸びをしたりしながらタンクふたつに石油を補充し、室内にもちかえってもどすとアイロンのつづき。とちゅうで断水のために風呂場を洗ったきりでながしていなかったことをおもいだし、また中断してそちらをかたづけた。そのころにはもう母親は台所にはいって食事の支度をおこなっていた。シャツやエプロンやズボンの処理が終わると、かのじょが買ってきたパンなどを車のなかに置きわすれていたということを言っていたので、鍵を持ってサンダル履きで玄関を抜け、それを回収。そうしてワイシャツを持って下階へ。五時四三分から瞑想をした。起床がおそくなって瞑想をしていなかったわけだが、そうするとやはり心身がみだれておちつきがとぼしく、さまざまな部分で生が鬱陶しくなる。六時二〇分まで座った。窓外で中学校のものなのかチャイムが鳴ったのがきこえたので、たぶん六時二〇分かなと予想して目をあけるとそうだった。からだはかなりなめらかになった。道元坐禅を「安楽の法」と言った意味がよくわかる。座ってただじっとしていればそれだけでからだがまとまりととのってくるわけで、これほど楽なことはない。まあ、ほんとうにちゃんとした修行としてやるのだったらそんなかんたんなことではないのだろうが。
  • 夕食へ。カレーや豆苗と鶏肉を炒めたものとサラダ。夕刊をみる。一面に、ロシア侵攻のおそれを受けて米国が在ウクライナ大使館を首都キエフから西部のリビウにうつしたと。情報をうばわれないように、機器や資料もいちぶ廃棄したもようだという。ロシア側は、セルゲイ・ラブロフ外相がプーチンとやりとりする映像を中継して公開。プーチンが、米欧はわれわれを際限のない交渉の網にひきいれようとしているだけではないのか、などといらだちをあらわにしたのに対し、ラブロフが米欧側と合意するチャンスはつねにあると進言し、協議の継続に了承を得た、というような内容らしい。もうひとつ、「世界史アップデート」を食後に部屋に持ってきて読んだ。第一次大戦開始の経緯について。日本では二次大戦にくらべてあまり注目されず、戦争開始の経緯を知らないひとも多いとあったがこちらもまさしくそうで、サラエボ事件があったことは知っていてもその意味合いは理解していなかった。一九世紀のヨーロッパでは列強がたがいに関係をもちながらバランスを取る体制がつづいていたのだが、ドイツが急激に工業化して領土拡張的な姿勢を見せはじめることでそれが崩れだす。またバルカン半島の国々はそれぞれ列強とむすびついていて不安定で、同地は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれていた。そこにオーストリアが一九〇〇何年だったかわすれたが一九〇六年かそのくらいにボスニア・ヘルツェゴビナを併合し、しかし同地はセルビア人の割合がおおく、あるいは文化的なむすびつきがつよく、隣国セルビア編入をねらっていたところだったのでこの両国の関係が悪化する。そして一九一四年の六月(のたしか二八日だったとおもうが)にボスニアの首都サラエボをおとずれたオーストリア皇太子夫妻が、セルビア人の民族主義者青年に暗殺されることになり、これがサラエボ事件である。このあたりなんでオーストリアセルビアなの? ということをちっとも理解していなかったのだが、ここでようやく経緯を知った。オーストリアはドイツに許可を得てセルビアに宣戦布告。するとロシアはセルビア側に立ってドイツに布告。そして列強もおのおのくわわって大戦争に、というながれ。日本は一九〇一年だったか二年だったかに日英同盟をむすんでいるので、それを根拠に英国側、つまり連合国の側で参戦し、中国を舞台にドイツと戦い(膠州湾だったか?)、戦後はドイツがもっていた租借地や利権や南洋の島々をひきつぐかたちで手に入れていたはず。一次大戦中には女性が動員されたり軍の慰問に行ったりして、それが女性の社会進出の契機となり、大戦後には各国で女性の参政権が導入された、という歴史もあるらしい。
  • 食後は白湯を持って帰り、一二日の日記を書いた。完成。さらにきょうのこともここまで書き足して八時一七分。八時くらいに父親が山梨から帰ってきた。