2022/2/18, Fri.

 見るがよい、われわれが愛するのは、花たちのように、わずか一年の内の限りのことではないのだ。われわれが愛する時、思いも寄らぬ深い年々の漿液が腕 [かいな] にまで昇る。おお、娘よ、心に留めるがよい。われわれがおのれの内に愛したものは、一人の者ではなく、未来へ向かう者でもなく、無数に入り混じって沸き返る過去なのだ。一個の子供ではなく、崩れた山々の残骸のようにわれわれの地の底に横たう、父祖たちを愛した。往古の母たちの、涸れた河床を愛した。時には暗澹たる、時には晴朗なる宿命のもとにひろがる、音もない風景の全体を愛した。これが、娘よ、お前よりも先に来たものなのだ。

 しかもそのお前自身が、わかっているだろうか、お前こそが、お前を愛した者の内に、往古を底から誘い出したのだ。どんな感情が、過ぎ去った者たちの内から、うごめき昇って来たことか。幾世の女たちがお前を恨んだことか。どのような陰惨な男たちを、お前は青年の血管の中に目覚めさせたことか。死んだ子供たちが、お前の腹を求めた。願わくば、ひそやかに、ひそやかに、優しいいとなみを、信頼の置ける日常の仕事を、彼の前で行なうがよい。庭の傍らまで彼を導いてやるがよい。夜々の嵐にまさる重しを彼にあたえろ、彼の手綱を控えろ……。

 (古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)、180; 「18 ドゥイノ・エレギー訳文 3」)



  • 九時ごろにいちど覚めたはず。まどろみつつからだをととのえていき、一〇時前には意識がさだかにかたまった。晴れの日。深呼吸をして諸所のすじをやわらげ、一〇時半まえに離床した。水場に出向いてきてからベッドにもどり、太ももや脛の側面などをちょっと揉んでから瞑想した。さいしょはしばらく息を吐くことをつづけ、からだが良い具合になったら静止。きょうは二五分ほど。まあまあの感触。
  • 上階へ。両親とも不在。ジャージにきがえて食事を取る。米をさくばん炊いておいたので、ハムエッグを焼き、丼に盛った白米のうえに乗せた。鍋から取っておいた味噌汁ののこりも。新聞は国際面をみると、ウクライナ周りの情報がひきつづき載っている。きのうのテレビのニュースでもつたえられていたが、ロシアは一部部隊が国境をはなれて駐屯地へもどると発表したものの、米国の観測だとむしろ七〇〇〇人ほど増えており、一六日に到着した人員もそのなかにふくまれているので、ある米政府高官は、ロシアは口では撤退や緊張緩和といいながら、じっさいにはその裏で侵攻への準備を着々と整えている、と批判しているし、ブリンケンだかも、ロシアは言行が一致していないと述べている。もうひとつ、ドイツのショルツ首相との会談後の共同記者会見で、プーチンがとつぜん、ウクライナ東部でいま起こっているのは(ウクライナ政府軍による)ジェノサイドだと発言した、という件がつたえられていた。ショルツはその場では反応しなかったが、のちほど、ジェノサイドというのは真実ではなく、間違っている、と不快感をしめした。政府軍と対立している東部親露派が大量虐殺されていると主張して、それを侵攻の口実にするのではないかという懸念が語られている。親露派組織は政府軍から迫撃砲で攻撃されたと言っているようだし、また、プーチンの発言と歩調を合わせるようにして、ロシア政府のなんとかいう委員会が現地の状況について調査をはじめた、ともあった。「ジェノサイド」ということばをつかうとは、きわめておだやかではない。ロシアは昨年一二月にも、ショイグだったかラブロフだったかの発言として、米国がウクライナ東部で化学兵器による攻撃を計画している、と非難したらしい。
  • いつもどおり食器を洗い、そのまま風呂も洗った。白湯を一杯ついで帰室。コンピューターやNotionを用意し、(……)さんにきのうのことをメールして報告しておくと、「読みかえし」。みじかく、正午を回ったくらいまでで終える。その後「胎児のポーズ」で血をめぐらせたあと、白湯をもう一杯ついできて、飲みながらここまで記述。一二時四〇分。一三日以降の記事をあいかわらずたいしてすすめられていないのだが、きのうのことをさきに書こうかな。
  • 「読みかえし」: 485 - 486
  • きのうのことをぜんぶ書いて、一時一五分。
  • 作(風呂): 「その刹那くちづけどもは法になれ金の魔法に負けた世紀の」
  • その後は都立高校の国語の過去問を確認したり。二〇二一年度。伊吹有喜という作家の小説がとりあげられていてWikipediaをみたが、二、三度、直木賞候補になっているという情報があったはず。大問5は蜂飼耳と駒井なんとかいうひとの鴨長明についての対談。
  • 出勤時まで飛ぶ。三時四〇分ごろ出発。空はまっさらに青くて陽射しがあり、十字路がちかくなるとその脇の樹々の群れがひかりをとおされ内にふくんで、葉叢のはしばしに溜まってひっかかったきらめきがそれじたい風に触られるようにふるえて、緑色が若く軽く華やいだようになっている。この景色もずいぶんひさしぶりにみる気がするなとおもった。坂道に折れてのぼればここでも木漏れ日がまだ高めにはいりこんで右手の段上の木立があかるみ、うえからそそぐというよりは幹を一面したから撫であげるように裸木をあたためているひかりのさきで、雲の欠けた穏和な青空が枝のあいだを充たしている。出口付近でも右側の壁の一画に日なたがともって、べつに特徴的でもない草の色がよりあらわになっているが、そのあかるさをみるだけでなにかしら解放感めいたものをおぼえた。表通りに出る脇でも小さな木の色がおなじようにあかるみ、横断歩道にかかればひだりの西空は太陽に占められながれるまばゆさが視界を埋めつつこちらを過ぎ越えて、右手にはそのひかりを浴びた街道がまっすぐながくはしっていくそのさきにまた空がひろがっている。あたりをみながら視線がおのずと遠く伸びるようで、こんなんじゃヴァルザーになっちゃうよとおもった。
  • 道を渡って駅の敷地にはいっても太陽はまぶしさを送りつけてきて、水のようなその白光のなかですぐそばの木の一本の、妙に角張った軌跡で横に飛び出た枝のひとつきわだつはだかのこずえがただ黒いかたちに還元されて、階段にはいるまで色も枝先のとぼしい葉もみえなかった。ホームにうつって先頭のほうへ。おもてのほうからつたわってくるひびきは風音に似ているが車の立てるものである。ほんものの風もあり、線路脇で白く色を抜いていさぎよく老いさらばえたネコジャラシのたぐいがシャラシャラ鳴りをもらすとともに、すぐ眼下、レールのそばにある同種のひともとも、カニのようにぎこちないうごきでふるえもだえていた。線路をはさんで向かいの細道を郵便屋のバイクが特有の排気音を立てながら走ってきて、小回りのよく利くうごきでひかりを跳ね返しながら丘のちかくの家のまわりを行き来する。駐車場の奥、丘がはじまるその林の縁にはひとところ、多色の草が接し合っていろどっている箇所があり、緑やら黄やら半端な褪せ色やら臙脂やら褐色やら、ふさふさやわらかい動物の毛のように、あるいはエアブラシで吹きつけられたかのように微妙なグラデーションをあつめているその色彩に、やばいなとおもった。
  • 帰路。最寄り駅を出て坂をくだっているあいだはあまり周囲をみなかったが、したの道に出て行くとちゅうで歩速がよわまって、一〇時半まえの夜気は寒いには寒いがからだはいそがず、右手にひらいた空とそこにうつった満月をたびたびみあげながら道をたどった。昼間のかんぜんな晴れがつづいて夜空はいまもまっさらになめらかで、星はしかし色の深みに落ちこみがちでさほどきわだたず、月ばかり瓏々と玲々と冴えてひろがるひかりが金属板めく夜空をうすめるが、その色は黒とも灰とも青とも藍とも紺とも白ともなんともいえず、そのすべてをふくみつつどれにも寄らず還元されない分類不能の精妙な単色の濃淡だった。
  • 勤務。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 帰路のことはすでにうえに書いた。父親は山梨に行ったらしく不在で、うるさくないので平和でよい。帰宅後はたいしたことはなく、飯を食って風呂にはいって一三日の日記をすすめたはず。夕食時に母親が職場のはなしをした。同僚の「デブ」の若い男性が掃除やものをはこぶしごとなどをぜんぜんやってくれないのだと。それで女性陣はみんな陰で、わかくてからだもおおきいのにぜんぜん手伝ってくれないよね、と文句を言っているらしい。太っているのでできるだけうごきたくないのだろう、とのこと。職場長は職場長でまえまえからきいているがそこそこえらそうな感じの人間らしく、主に事務仕事などやっているからやはりあまり手伝ってはくれない。「デブ」の男性も資格をもっているらしく、立場としてはパートではなく社員のようで、だから資格のないパートのひとびとをしたに見ているのではないかというのが母親の感触のようだ。掃除とかもろもろの雑務はじぶんのしごとではない、という雰囲気なのだろうたぶん。そのかれはだいたいパソコンにむきあって業務計画などを立てたりしているもよう。手伝ってほしいって言えばいいじゃん、とか、そいつとおなじたちばの女性いないの? とか、職場長に注意してくれってたのめばいいじゃん、などといろいろ言い、言うときはひとりに言わせるんじゃなくて、女性陣をあつめて徒党を組んだほうがいいよ、みんなであつまって圧力をかけないと、などとそそのかしたが、そうすると母親は、言うって、なんて言うの? ときいてくる。おいてめえ、若いくせにサボってんじゃねえぞ、ちゃんとはたらけよ、って、とこたえると母親は、そんなこと言えるわけないじゃん、ととたんに困惑の声をあげたが、それはむろん冗談である。ふつうに、すみませんけどちからがいるしごとのときはちょっとだけでも手伝ってもらえないですか? と言えば良いだけのはなしだ。しかし、どうも母親の職場はあまり雰囲気がよくなく、同僚同士の関係もしたしみやすいものではないようで、そういったことを気軽にチャレンジしたり、そういう問題解決を主導したりする人間がいないようだ。たぶん職場長の性質がそうさせているのではないかとこちらはまえから見込んでいる。労働者たちはみんな陰で基本的に長の悪口を言っているらしく、そんな不満が蔓延していやいやはたらいているひとがおおいのだったら、気楽な雰囲気など生まれるわけがない。もっとも母親の長にたいする印象は、いぜんとくらべるとやや見直されたようで、さいきんは掃除などをたまにやってくれているときもあるらしいのだが。でもみんなほんとうにいやがってじぶんで率先してやらない、なるべくやらないで済むようにしようって感じで、そとに行ったときとかもなるべく時間を遅らせてもどってこようみたいな、と母親は言い、だからたぶん掃除とかゴミの始末とかはだいたいいつもかのじょがやっているのではないかとおもうが、まあそういうもんですよ、大多数の人間はやっぱそうでしょ、とこちらは鷹揚に受けた。例の「デブ」とか職場長についても、男ってだいたいそうでクソバカだから、他人に奉仕するってことを知らないんだよね、クソバカだから、とじぶんのことを棚に上げて雑駁に同族を糾弾した。べつに他人に奉仕するということをあまり知らないのは男女問わずそうで、女性のほうが一般的にそういう姿勢をもっているように見えるのだとしたら、それは社会環境や歴史によって男性はそういう態度をとらなくても済むように免除されてきて(あるいは取ってはいけないと強制されてきて)、女性はそれを強いられてきたということにすぎないとおもう。みんなだいたいじぶんにあたえられたしごとの範囲しかやらないというのはたぶんどこでもだいたいそうだろう。こちらの職場でもそうで、だからおれがいつもトイレの掃除してんのよ、とはなした(あとはたぶん室長だけ)。まあ掃除とか美化衛生はいちおう社員の、つまり室長のしごとの範疇で、アルバイトの講師にそもそも割り当てられていないと言えばそうではあるのだが、とはいえ職場に着いてさいしょに小便をしたくてトイレにはいると、だいたいいつも中蓋の裏が汚れている。だからだれも拭き掃除をしていないのだなということがわかるわけで、じぶんは小便をしたあとにいつもペーパーと洗剤で便器や周辺を拭いておく(これはたんじゅんに習慣である)。ほぼかならずと言ってよいほどに中蓋を立てたときの裏側、楕円形の穴の上端付近を中心になんか茶色いようなオレンジ色のような汚れがついているのだが、それはいつも塾でうんこをする習慣の生徒がいるのかもしれない。しかしいま気づいたけれど、そもそも中蓋の裏が汚れているというのは、立って小便をする男性でないと気づかない。うんこをしたひとや、座って小用を足す女性はわざわざそこまで見ないだろう。立って放尿するのもそれはそれで見えない飛沫がめちゃくちゃ飛び散っていて良くないらしいが、スーツだとワイシャツを出したりスラックスをあけたり、脱いだあとにまたととのえたりするのがけっこうめんどうくさい。はなしをもどすと、みんなだいたいじぶんに課せられたぶんのしごとしかやらないということだったのだけれど、それがわるいかどうかというとまた微妙である。とうぜんのことであるとは言えるし、言われたことだけでなくじぶんにできることをどんどんやっていこうという雰囲気が支配的になるとそれはそれでまた圧迫を生むわけだし。「働き方改革」の観点からするとむしろよくないとすら言える。こちらじしんはすくなくとも職場では、気づいたことをわりとどんどんやってしまうタイプなのだが、それは立場がそれを可能にしているという面もあるだろうし、またそういうことをやっていたのでいまの立場になってしまったということでもあるだろう。いずれにしても、ほんとうはもうすこししごとを同僚や後輩に振っていって育成したほうがよいのだろうが、性分としてそちらのほうがめんどうくさくかんじてしまうのでみずからやってしまう。そして、それをおのずから真似して積極的にはたらきだすような人間はけっこうな少数派である。ここで乖離が生まれてバランスがわるくなり、たとえば派閥などにつながっていったりする。じぶんの職場ではそこまでのことにはなっていないし、そんなに相性の悪い同士というのも明確にはいないとおもう。そこまでまじめではないほうの大学四年生ら数人と室長とのあいだで、ゆいいつややぎこちない感じがあったのだが、かれらはここで卒業していったので、人間のタイプ的な齟齬の懸念というのはいまのところ明確には見受けられなくなった。いずれにしてもそろそろこちらいがいに回す役の人間がほしいのだが、できそうな人員がいないし、できるようになりそうな人員もほぼいない。会議のときに発表したり、はなしあいで主導したりするのそろそろめんどうくさくてやめたいのだが。しかしもうかんぜんにそういう役回りにさだまってしまった。そういうことができるようになったことにいくばくかの自負はおぼえるし、それはそれでおもしろくもあるのだけれど、しかしやはりほんとうはもうすこし人目につかないところにいたいというか、表立ちたくない。