2022/3/13, Sun.

 マハは「偉大」、トマは「魂」、すなわち聖人の意。ガンジーに、民衆から、この称号が初めて捧げられた正確な日付は不明である。この言葉は、インド古代の哲学書ウパニシャッド』(「奥義書」と訳される。四五八ページ注21参照)に由来する。神を意味し、また知と愛によって神に帰した者を意味する。
 彼は輝ける一人、万有の創造主、マハトマなり。
つねに人々の胸に宿り、愛により、直観により、知によりて啓示さる。彼を知りし者は不滅とならん。
 一九二二年十二月、ガンジーが入獄中で留守のアーメダバードのアシュラム(道場)を訪れたインドの文豪、ラビンドラナート・タゴールも、この辞句を引用してガンジーに捧げている。しかしガンジーは、この「マハトマ」と言われるのを非常にいやがった。そして普通、親愛をこめて使われる尊称で「おとうさん」「おじいさん」という意味の「バプー」か、ただの敬称「ジ」を好んだ。
 (マハトマ・ガンジー/蠟山芳郎訳『ガンジー自伝』(中公文庫、一九八三年/改版二〇〇四年)、454; 訳註第一部9)



  • 一一時半に離床。きょうもかなりあたたかい空気。鼻をかんだりしてから水場に出て、洗顔や用足しをしてもどる。瞑想。三〇分ほど。いよいよ花粉の時期のまっただなかだから、すわっていても鼻水がたれてきてやりづらい。それでもかなりよいかんじでからだはほぐれた。
  • 上階へ。父親が帰ってきたところ。きのう床屋から鹿肉をもらってきていたが、母親はそれをカレーにしたという。ジャージにきがえて洗面所でうがいし、食事。新聞一面からウクライナ情勢。ロシア軍は北東と北西からキエフ中心部にだんだん接近しているもよう。各地で攻撃もつづいている。西部にも戦線が拡大したのは、各地の主要都市をとっておいてキエフを攻撃するまえに降伏をせまる思惑もあるのではないかという。二日まえくらいからそういう情報が出ていた気がするが、セルゲイ・ショイグ露国防相によれば、中東から一万六〇〇〇人の志願兵を確保しているとか。あと、さくばんの夕刊ですでに出ていたが、METAがウクライナ国内にかぎりロシアにたいするヘイトスピーチ的な表現を容認したとあった。きのうの夕刊でみたときには、「露に憎悪表現容認」というような見出しになっていて、さすがにそれはよくないんじゃないのとおもったのだが、記事内をみてみると、「侵略したロシア兵にたいする憎悪表現」のように書かれてあり、それならまだだいじょうぶかなとおもったのだった。ただ、この読売新聞の見出しは誤解をまねきかねないのでは、ともおもった。「ロシア」や「ロシア人」一般と、「ウクライナに侵略したロシア兵」はちがうものなのに、「露に憎悪表現容認」というような見出しでは、ロシア一般にたいするヘイトスピーチがみとめられたと読めるからだ。ただ、きょうの新聞だと「ロシア兵にたいする」という情報は本文中からなくなっていたし、METAの運用がほんとうに侵略者とみなされるロシア兵にまつわるものだけ削除しない方針なのか、それともロシア一般についてのヘイトスピーチもみとめるということなのか、よくわからない(前者の方針だったとして、ほんとうにその運用基準を徹底できるかということもある)。もし後者だったらさすがにやばいとおもう。META側のいいぶんとしては、現状においてそういう投稿を削除してしまうと、侵略にたいするウクライナのひとびとの自衛の表現をうばってしまうことになる、というもの。METAの方針と運用のじっさいてきなところという問題もひとつありつつ、ここでもうひとつさらに問題なのは、うえにもふれたように、読売新聞がまず誤解を生みかねないとおもわれる見出しを採用し、かつその点の詳細を記事中で説明していないことだとおもう。これはメディアのしごととして不十分なものなのではないか。
  • 書評面はまだよくみていないが、入り口の文庫本にしたい世界文学みたいなコーナーで、阿部公彦シェイマス・ヒーニー全詩集をとりあげていたのだけ読んだ。ロマン派以降詩人はみな個人のことばで個人の資格でかたることを余儀なくされ、それによっておおかれすくなかれおどろくべき他者としてあらわれてきたが、ヒーニーは古代的なものを下地に置きつつ、ひととしても作品としてももっとやさしく善良で、もちろん繊細な言語操作がないわけではないし、アイルランド紛争の重い影を反映していないわけでもないけれど、読者をはねつけるようなところがない、それが魅力だ、というような評を述べていた。
  • 食器を洗い、風呂も。洗濯機に水をくみこむためのポンプのさきのほうがぬるぬるしていたので、ブラシでこすっておいた。浴槽も洗い、出ると白湯をもって帰室。きょうは読書会。さくばん九時くらいからでいいかとLINEのグループにきいておいたが、たぶんそうなりそう。課題書は『魔の山』上巻で、一二〇ページくらい読み終わっていないが、みなもたいしてすすんでいないようすで、三〇〇ページくらいまでを目安としていいんじゃないかというはなしが出ていたので、ノルマはすでにクリアしている。
  • Notionを準備し、きょうのことをここまで記して一時半。
  • いま午後八時すぎ。風呂にはいるまえにねころがって太ももなど揉みつつ、(……)さんのブログを読んだ。三月一二日から一〇日まで。以下、ひとつめは一二日、ふたつめは一一日、三つ目は一〇日から。

 (……)は今日もぼちぼち混雑していた。オーダーしたのは(……)くんのみ。ここでバイトすると忙しくて大変だろうねとこぼすと、でも給料はほかよりいいですと(……)くんはいった。時給でいえばどれくらいになるのとたずねると、(故郷である)福建省であれば10元くらいですが(……)だと8元くらいかもしれませんという返事があり、は? マジで? とたまげた。10元としても180円、一時間汗垂らして働いてたったの180円! しかしそれでいえばたしか、三年くらい前に(……)さんから、彼女の元ルームメイトである(……)さんが当時裏町付近のミルクティー店でバイトしていたが、その時給は5元かそこらと聞かされたことがあったのだった。そんなもんもう働いても働かなくても一緒じゃねえか! とびっくりしたものだ。

     *

 ミラン・クンデラという作家がいます。チェコで苦しい経験をして、亡命して、いまなおパリに住んでいる人ですが、かれが、権力を持ってる強い連中のやり方は、忘れさせることだ、ひどいめにあったことは忘れさせて、もう一度同じことをやらせようというのが権力の考えることだというんです。その反対に、記憶し続けること、覚えているということが弱い民衆の武器なんだ。弱い人間は覚えてなきゃいけない、記憶してなきゃいけない。忘却を強いられるとき、われわれが抵抗する唯一の道は記憶することだ、とクンデラはいうのです。
 (大江健三郎『あいまいな日本の私』より「井伏さんの祈りとリアリズム」 p.134)

     *

 時刻は13時だった。(……)をおとずれてみることにした。(……)さんが(……)のブログ的なページに対するリンクをモーメンツに投稿していたのを覚えているので、住所変更などないか確認するためにのぞいてみると、最新記事の冒頭に青い四角の絵文字と黄色い四角の絵文字が並べられていた。ウクライナ国旗の色だ。特に何か断り書きがされているわけではない。普通の宣伝記事の冒頭に、見るひとが見ればそれとわかるメッセージが、暗号のようにして置かれている。いるんだな、と思った。ロシアとプーチンを支持する人間が大多数を占めるこの国にも、ウクライナコロナウイルスの開発がされていたというあまりにもわかりやすいフェイクを流通させようとするロシアと、おもてむきはどうか知れないが裏ではまず間違いなくその言説を国内向けに流通させるに違いないCCPに対して、無言のままレジスタンスを続ける人間はいるのだ。コロナ以前にCCPのことをボロクソに言いまくっていたひとたちが集まっていたのはバーであったし、(……)はカフェであるし、レジスタンスというのはやはりそういう場所で発達するんだなと思った。バーやカフェというのは、なんというか、やっぱり絶対に必要なものなのだ。抵抗の前線であり、作戦本部でもあるのだ。

  • この日は作業中、Mike Nockというピアニストの作品をながした。diskunionのサイトの新譜情報にあってはじめて知ったなまえだが、ニュージーランド出身のひとでベテランらしく、七〇年代だか八〇年代だかにECMから一作出しているとか。ソロピアノの作品と、Michael Breckerをフロントに据えた作品(ベースはGeorge Mraz、ドラムはAl Fosterだったとおもう)をながしたが、けっこうよさそう。
  • 通話は九時から。会までにけっきょく六二〇ページくらいまで読んだはず。(……)さんも五三〇くらいまで行っていたが、(……)くんと(……)さんはそれぞれ序盤でとまっているということで、『魔の山』のはなしはあまりなされず、その他の話題がたいはんだった。さいしょZOOMにはいったときには(……)くんがゲームをやっていて、『ダークソウル』だという。なぜなのか不明なのだが、じぶんはこのタイトルを知っており、しかもゼルダ的な3Dアクションのやつだということすら知っていたので、3Dアクションみたいなやつですかと受けた。むずかしいらしい。ボスをたおしてもセーブポイントにもどるのがむずかしく、そのへんの雑魚にふつうにころされたりするということで、いまは慎重にセーブポイントまでもどっているとちゅうだといった。『エルデンリング』というのがさいきんおなじ会社から出されて話題になっているともあがったが、このなまえも(……)さんのブログでみかけて知っていた。どういうゲームなのかは知らないがおなじようなアクションRPGのたぐいで、やたらながいらしい。ただストーリー性はあまりなく、戦闘などをひたすらやりこむタイプのものだとか。(……)くんと(……)さんはゲーム実況動画をたしょうみたらしかった((……)くんはぜんぶみたといっていたか?)。『ダークソウル』のほうか『エルデンリング』のほうかわすれたが、おなじ時間におなじ地点をゲームしているプレイヤーのようすが影のようにみえたりとか、あと他人の位相に侵入するみたいな機能もあるらしい。協力機能はなく、なぜか侵入して邪魔することだけができると。このふたつにかんしてだったかわすれたが、さいきんのゲームはゲームシステムとか進め方とか、こまかいところのコツやテクニックや攻略法なんかはかなり複雑化しているらしく、だからもうオンラインで攻略サイトができてみんな情報交換しあってすすめていくというのを、つくる側も前提にしているのだなとある時期からおもった、と(……)さんはいっていた。ちなみにプレイステーション5と4はいま転売のせいで高騰しており、容易に入手できない状況になっているという。ここのヨドバシカメラに一品だけはいりましたとかいうのをききつけたひとびとが争ったり、そこで買うにしてもヨドバシカメラのクレジットカードをもっていないといけないとか、そういうふうに制限をかけて転売を防止しようとしているらしい。
  • スタンディングデスクのはなしも序盤にあった。(……)くんがさいきん買って導入したらしく、めちゃくちゃいい、もっとはやくやればよかった、ということだった。音楽をながしてちょっとからだをうごかしたりしながら作業をするのがたのしいという。つかれてきたらしばらく椅子にすわって本を読み、回復したらまた立って読むというかんじで、ずっとつづけられると。こちらの自室にあるデスクというかちいさなテーブル的なものもスツール椅子にあわせたものなのでわりと高く(これは兄が会社にはいってまもないころ、神奈川の寮にいたときにつかっていたもので、父親とふたりでながなが車に乗って引っ越しの手伝いに行ったときにはこんだ記憶がある)、いぜんはじぶんもヘミングウェイが立ったまま書くスタイルだったときいてまねしようとおもったり、書抜きを立位でやったりしていたのだが、やはり脚がつかれるし、書抜きはともかく文を書くとなると腰が据わっていないとなんか集中できなくてやりづらいな、とやらなくなってしまったのだった。(……)くんのはなしをきいて、またためしてみようかなという気になった。日々の書き物も、いまだったらもうよほど楽に書くようになっていて腰を据えた集中などいらないだろうから、立位でもできるかもしれない。(……)くんのかんじでは立っていると血流がよくなって、それでやる気が出るらしかった。立ってはたらくのとすわったままはたらくのだと、心臓病になるリスクがかなりちがうとかききますね、とこちらは受ける。また(……)さんが言っていたとおもうが、楽天は会社ぜんたいでスタンディングデスクになっているらしい。まあじっさいすわりつづけていると血もとどこおるし、姿勢もずっときれいに保つのはむずかしいし、血がこごれば心身ともにどよんとしたかんじにはなるだろうし、その点脚をのばして立っていればめぐりはよくなるだろうから、あたまのはたらきもまあわりとスムーズになるんではないか。ブライアン・イーノのインタビュー読んだんですけど、とこちらはおもいだした。イーノの友だちでなんとかいう画家のひとがいて、そのひとが、にんげんのからだはひとつのおおきな脳だって言ってたらしいです。
  • 魔の山』のはなしにはいったのはもうかなり後半のころ、たぶん一一時くらいからようやくというかんじだったのではないか。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)

(……)

  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 魔の山』についてはたいしたはなしもなかったし、だいたいこちらがこういう展開だったというのを説明したくらい。(……)さんは感想として、読んでいるあいだにアンビエント的な感覚をおぼえたといっていた。山のうえが舞台になっているわけだが、そこの風景とか、空気のうすい清冽なかんじとかがイメージされ、説話として起伏のない記述がつづくその停滞感もあいまってそういう感触が生まれたようだ。それはなんとなくわかる気はした。こちらの感想はおりおり書いているけれど、三〇〇ページくらいまでは退屈だったもののそのへんでハンス・カストルプがショーシャ夫人にはっきりと興味をもちはじめるから、恋愛にはいっていくのかなという筋のみとおしがひとつ生まれ、それでようやく物語のさきへの志向が導入されることになる。そのあたりから乗れるようになってきて、五〇〇くらいからわりとふつうにおもしろくなってきた印象だった。さいしょのうちは、まあこの漫然とした平板さ、どうでもよい余計なことをいろいろだらだら書いちゃうのがやっぱり長篇小説というものでしょう、などとかまえて、そういうもんだというふうにつきあっていたのだが、とちゅうから、めちゃくちゃおもしろいとかマジですごいとはおもわないけれど、でもトーマス・マンのほかの作品もちょっと読んでみたいなというきもちがでてくるくらいにはなった。ちなみに(……)さんはこれを風呂で読んでおり、だから毎日二〇分くらいはそこで確保してコンスタントに読んでいたらそれが積もって五〇〇ページくらいまで行った、ということだった。こちらは風呂にはいりながら本を読んだことはないし、とくにやってみたいという欲望もない。Kindleをつかうようになればそういうことも容易なのだろうが、そもそもじぶんの入浴はほぼ瞑想とおなじで浸かりながら目を閉じてじっとしている時間がたいはんなので、そこでわざわざ本を読んだり情報を摂取したりなにかをしようとはおもわない。(……)さんも(……)くんも風呂はみじかいらしかった。(……)さんはふだんだったら一〇分とかで出ることもあるというし、(……)くんも二〇分とかいっていたか。みじかいというかそのくらいがふつうなのだろうし尋常な勤め人ならそうゆっくりもしていられないだろうが、こちらが一時間くらいは余裕ではいるというと(……)くんはびっくりし、しんじられないみたいな口ぶりになって、カルチャーショックを受けたとまでいっていた。ただその後、ずーっと浸かりつづけているわけではなく、冷水をからだに浴びせてまた浸かって、というのをなんかいかやるので、というと、それならわかる、サウナとおなじですからねと納得し、ショックは解消されたようだった。しかし風呂というのはほんとうにおちつくし心身もすっきりするし文化のきわみで、古代ローマ人がせっかく浴場をつくり入浴文化を確立したのに、それを個人化せず現代の住宅にまで受け継がなかった西洋の連中は馬鹿である。(……)さんはKindleではなくふつうに紙の本をもちこんで読んでいたわけだが、え、それ腕とか拭くんですか? ふやけて読んでます? という(……)くんの質問にはわらった。「ふやけて読む」といういいかたがおもしろかったのだ。(……)さんの文庫本はまさしくふやけているらしく、岩波とかちくま学芸とかだと風呂にもちこむのはためらわれるが、新潮文庫ならいいかなというかんじがあるといい、その差別はちょっとわかる気がする。たしかに新潮文庫はまあいいかな、という謎のかんじはある。たんにやすいということもあるのだろうが。講談社文芸文庫とかはぜったいに風呂にもちこむ気にはならないだろう。