2022/4/2, Sat.

 ソヴェト政権は世界革命に生き残りを賭けていたことから、諸国の共産主義者に働きかけ、共産主義インターナショナル第三インターナショナルコミンテルン)を一九一九年三月に創設した。コミンテルンはモスクワに本部がおかれ、各国の共産党や革命運動を支援したのであり、運営経費などのすべてをロシア・ソ連が負担していた。創設当初コミンテルンは、ドイツ革命の実現を目指したが、ドイツではやがて革命情勢が遠のいたため、社会民主主義を含む労働者の統一戦線形成に方針を転換した。その一方で、コミンテルンへのロシア共産党の影響力が次第に強められ、やがてコミンテルンは事実上ソ連外交の「道具」や「手段」と化していった。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、47)



  • 「英語」: 316 - 350
  • 「読みかえし」: 611 - 621
  • 一一時まえに覚醒。携帯をみるとめずらしく着信がはいっていて、なにかとのぞけば職場からだった。時刻は八時四〇分。なにかトラブルか、勤務追加の願いかとあやぶみつつすぐにはかえさず、起き上がって水場に行き、うがいや用足しなどしてきてから電話をかけた。(……)それからすぐには瞑想せず、しばらく臥位で『魔の山』下巻を読んでからまくらのうえにすわって静止。二〇分ほど。きょうの天気は快晴で陽射しもよくとおり、すわっているあいだ風がなにかものを揺らしたりあたりの家に正面からぶつかったりするようなひびきもほうぼうに立ち、窓のちかくではパチパチと火花がはじけるような下草の摩擦音も鳴っていた。気温はしかしやや低いような印象だった。午後二時半現在では空に雲があわくひろがりなじんで青さが減っている。
  • 上階へ。便所にはいって糞を垂れていると父親がそとからはいってきた。室を出るとあいさつし、洗面所でうがいするなど。(……)の関連で午後出かけるという。食事にはれいによってハムエッグを焼いた。父親はカップの鴨出汁蕎麦。ハムエッグを乗せた丼米を卓にはこび、きょうの新聞は父親がみていたのできのうの新聞をひきよせると、新聞いいよと言ってわたしてくるので一面をながめた。ロシアはキエフはあきらめつつ、マリウポリをとるというのを今次侵攻の成果として落としたいのではないか、みたいな推測が述べられてあった。東部親露派を自治共和国として独立させ、そこに駐留するとともにその区域をドネツク・ルガンスクを越えた東南部にできるだけひろく確立したいというあたりか。すでに東南部は掌握しているわけだし、停戦交渉でもここはゆずらずものにしたいだろう。
  • 食器を洗い、風呂も。白湯を一杯ポットからコップについで帰室。Notionを支度し、ウェブをうろついたのち、一時半くらいから音読。「英語」記事を読んで二時に達するといったん階をあがって洗濯物をいれ、白湯をまたコップについでもどるとこんどは「読みかえし」ノートを読んだ。そのあときょうのことをここまで記せば二時四〇分。きょうは土曜日、そしてあしたは日曜日というわけで、ひさしぶりにようやっとつかんだ土日連続の休日である。この二日で日記を現在時に追いつけるつもり。それはふつうにできるはずだ。あとは(……)くんの訳文を添削したり、(……)。
  • (……)さんのブログの四月一日付けから。こいつは明快でおもしろい。とても大事なはなしでもある。「だから、この「法外なもの」について、もっと考えないといけない。たとえば、正義とは法外なものだというデリダの認識がありますよね。法に適うように行為することは、あらかじめ法によって正しさを保証されているわけだから、正義でもなんでもない。正義とはそういった法の後ろ盾がないところである判断を下し、行為することだと」というのは、かんぜんにハンナ・アーレントだとおもった。「後ろ盾がないところである判断を下し、行為すること」という点。かのじょはたしか道徳的判断というのはそういうものであると、それまでの法や道徳性が一挙に転換してしまったナチスドイツの経験をもとにかんがえ、”judge without a banister”と呼んでいたらしい(というのはNew York Timesでむかし読んだ記事で知った情報で、原典にはあたっていないのでちがうかもしれないが)。あと、千葉雅也が「すべてが空間化されている」というのは、なるほどそういうとらえかたができるのかと感心した。

國分 最近、一般に「責任」と翻訳されるレスポンシビリティ(responsibility)を、インピュタビリティ(imputability)から区別するべきではないかと主張しているんです(國分功一郎、「中動態から考える利他——責任と帰責性」、伊藤亜紗編、『「利他」とは何か』、集英社新書、二〇二一年)。責任がレスポンシビリティであるなら、それは目の前の事態に自ら応答(respond)することですね。それに対し、インピュート(impute)というのは「誰々のせいにする」という意味で、責めを負うべき人を判断することであって、これを「帰責性」と呼ぶことができます。
 今日の議論で言えば、いまはインピュタビリティが過剰になって、それを避けることにみんな一生懸命だから、レスポンシビリティが内から湧き起こってくる余裕がないという状態ではないか。レスポンシビリティはまさに中動態的なもので、「俺が悪かった」とか、「俺がこれをなんとかしなきゃ」とか、ある状況にレスポンドしようという気持ちですね。
 ところがレスポンスを待つ雰囲気がいまの社会にはない。とにかく誰かが俺にインピュートしてくるのではないか、俺のせいにしてくるかもしれないということばかり考えているから、責任回避が過剰になる。
 千葉君の話と結びつければ、日常生活でレスポンシビリティを待つことができていれば、インピュタビリティが過剰になったりしないと言えるのではないか。さらに言えば、レスポンシビリティは法外なものと関わっている。自分の気持ちだから。
 だから、この「法外なもの」について、もっと考えないといけない。たとえば、正義とは法外なものだというデリダの認識がありますよね。法に適うように行為することは、あらかじめ法によって正しさを保証されているわけだから、正義でもなんでもない。正義とはそういった法の後ろ盾がないところである判断を下し、行為することだと。
千葉 計算を超えるわけですよね。
國分 そう。一番わかりやすい例は、良心的兵役拒否です。たとえばベトナム戦争に私は行かないというのは、その時点では明らかに違法行為だけれども、それが正義だったことは後からわかるわけです。
 ポイントは時間にあって、ジャスティスのほうは時間がかかる。いまはむしろコレクトネスばかりで、それは瞬時に判断できる。判断の物差しがあるから。社会がそういう瞬時的なコレクトネスによって支配されているから、時間がかかるジャスティスやレスポンシビリティが入り込む余地がなくなってきている感じがします。
千葉 現在では法と矛盾するけれども。未来時点においてはコレクトになるかもしれないという別の時間性、時間の多重性を導入するのがジャスティスの問題ですよね。それは未来方向にもそうだし、過去からの経緯や歴史を踏まえることによって、瞬時的な判断とは別の判断を行うという形でも多層性を含んでいると思うんです。
 だから、歴史性を考慮することと、未来に向けてのジャスティスを考えることはつながっている。それがどちらもなくなっているというのは、やや抽象的に言うと、すべてが空間化されているということですよね。不可入性の原理、つまり一つの場所を二つのものが同時に占めることはできないから、どちらかを取るという話にしかならない。
 部分的に賛成と反対が共存することを複数の時間性において考えるようなことを言うと、「何をごちゃごちゃ言ってるんだ」という話にしかならず、議論にならないんですよ。逆に、すべてを空間的に並置して、不可入性の原理で話をすっきりさせることが民主化という話になっている。それがエビデンス主義のポリティカルな対応物だと思うんです。
 (國分功一郎+千葉雅也『言語が消滅する前に』)

  • いま夕食後の八時三四分。三月三〇日の記事を書いていたのだが、とちゅうでnoteをちょっとのぞいたついでにさいきんのじぶんの文を読みかえしてみて、150番である三月二七日付の記述を読むと以下のような一節があって一文なげえよと笑った。「風はきのうほどではないが盛んに吹き、宙にはこまかな虫も生じていて、線路を越えてむかいの段上の敷地には、まっすぐまえにまず梅があり、もう時季も終わりちかくてこずえの最上部に溶け残りの白さをわずかにとどめたのみであり、その左手奥には桜がいっぽんあって、こちらはこれからが盛りというわけでいろを満たしかかっているが、いずれも枝はやや左右にジグザグと振れながらも一様に天にむかって突きあがったさまであり、花の白さを添えられているのがその様相をなおさらきわだたせているのか否か、ともかく一斉に万歳を決めこんだようなすがたにあって、さらに風に感じてあたまのほうをゆらゆらわずかにゆらすので、奇矯な舞いを踊っているようでもあった」。ながいのにくわえて、「~(で)ある」で終えすぎでしょ、というのも笑う。まあまああいかわらず見聞きしたものを書きたい欲というか執念深さのようなものはつたわってくるからわるくはないが(それがゆえにわるいとも言えるだろうが)、文のリズムや口調としてはもうあまりになじみだから退屈で、とくにながれているようにもかんじられない。しかしこういう調子で、そんなにちからをいれて成型するでなくともあれ見聞きして印象にのこったものを日々さらさら書いて記録するというかんじでもうよい。それをつづけているうちにまたすこしずつ変わってたしょうおもしろくなってくることをのぞむ。このいちねんでいえばことばをめちゃくちゃひらがなにひらくようになったので、口調はともかく字面は一年前の文とはかなり変わっているはずだ。うえの文にもあらわれているが、さいきんだと「いろ」ももうひらいている。とくに基準はなくわりとそのときの気分にゆだねてもいるから、近距離でおなじ語が漢字にもひらがなにもなっていたりもする。いちいち漢字にするのがめんどうくさいというのもけっこうある。ひらがなでつうじればそれでいいじゃないかと。
  • 夜に(……)がLINEに、この音源をきいてリップノイズが気になるかどうかおしえてほしいみたいな投稿をして、みみめめMIMI “1メートル”という曲をあげていたので、その場でダウンロードしてすぐきき、以下のコメントをおくった。

きいたぞ。以下評言。ながい。

おれはそもそも音楽をきいていて、リップノイズが気になるということはほぼないから、そこにかんしてはあまりあてにならないとおもう(そもそもノイズや音質を気にしていたら、50年代のジャズとか戦前のブルースとかきけない)。

この音源のばあいはもろもろリップノイズ的な音はたぶんかなり多いほうだとおもうが、きいていて不快になったり引っかかったりということはまったくない。ボーカルのそういうアタック音がこの音楽のきずだとはおもわない。

くわえてこの音源のばあいはおそらくより特殊で、むしろそういうノイズを演出の一部にしているようにかんじられた。

というのも、まずイントロからしてプチプチというような、ノイズっぽい音がちょっとはいっているでしょう。そのあとの1Aのボーカルは、はいりの数音だけすこしこもったような音質にきこえるんだが、イントロのプチプチがその音質を下準備しているようにかんじられた。

この曲のなかで、きいているひとにとってノイズが気になるとしたら、音数のすくない1Aがいちばんそうじゃないかとおもうのだけれど、イントロからのながれで1A全体の頻繁なリップノイズも違和感なく受け入れられる。

また、ボーカルじたいが、口をゆがめて発しているようなというか、やや独特の強調点をもった発語をしているでしょう(たぶんじっさいにはそんなふうにはしていないとおもうが、「アヒル口のボーカル」とでも評したい)。さらに、楽器が本格的にはいってきて以降、全体に、曲のアレンジとしても電子音楽的な音がはしばしにふくまれていて、その二点はリップノイズ的なアタックのつよさとむしろ調和しているようにきこえた。

いじょうからして、このボーカルの性格と曲の性格をかんがえたときに、たぶんこういう演出をいくらか意図的にやったんじゃないかという気がした。このひとの歌ならこれでいいんじゃね? という判断があったんではないかと。まあそこはもちろんわからんのだけれど、意図をはなれても、きいているこちらの感覚としては、たんにノイズが多いけれど気にならないといういじょうに、この音源のばあいはそれがひとつの積極的な要素になっているようにかんじられた。

  • その他さしたる印象事はない。夕刻にはアイロン掛けをしたり、野菜炒めと小松菜と卵のスープをつくったり。
  • (……)

(……)