2022/5/5, Thu.

 社会を活性化し、「停滞」から脱却することが目指されたが、なにより経済の建て直しと生産性の向上が急務であった。一九八七年には、外国企業との合弁企業設立、サービス業での協同組合経営と個人経営が認められた。これらは生産とサービスの中心をなす国営(end215)企業以外の経営主体を認めたもので、経済全体での比重はごく小さなものだったが、一九八八年一月には「国営企業法」が施行されて、国営企業全般について、市場の要素の導入と企業の自主性の拡大を軸とする経済改革が始められた。しかし、国民生活に必要不可欠な財の生産やサービスの提供を保障するための国家発注制度が設けられていたことが、経済改革を妨げることにつながった。従来の国から企業への指令を国家発注に代えることで国家と企業の関係も市場的な契約関係に転じさせ、国家発注を次第に減らすことで企業間の取引を拡大させていき、企業の自主性が発揮されるようになることが想定されていたのだが、法の規定に不備があったため国家発注が恣意的になされた例のあったことに加えて、生産物の引き受けが保障される国家発注を企業の側が望んだこともあって、国家発注は減らず、市場的な関係の拡大を妨げた。並行して価格の自由化も進められるはずであったが、国家発注による生産物には従来通りの固定価格が適用され、これが多くの部分を占めたため、価格の自由化も遅々として進まなかった。
 経済改革がうまくいかなかったのは、制度上の不備だけが理由ではなかった。それまで価格が低く据え置かれていたため、価格の自由化はほとんどの場合値上げを意味し、国民の生活を圧迫して不満を強めるという問題もあった。生産性向上のための労働規律の引き締めは、労働者にとっては労働強化を意味したから不評で、労働者の多くは熱心に取り組(end216)もうとはしなかった。買い物に多くの時間を費やしていた状況での労働規律の引き締めは、人々の不便さを増すことにもなった。労働者に対する経済的刺激策の導入も、一部の意欲的で有能な者には歓迎されたが、そうでない者には給与の引き下げや賃金格差の発生による不満を生んだ。
 こうして経済改革は期待通りの成果につながらず、この頃原油価格が急落したこともあって、「停滞」の時代においてもかろうじてプラス成長だった経済が一九八九年にマイナス成長に陥り、商品不足と買いだめの悪循環は一層激しくなった。ゴルバチョフの回想には次のように記されている。「一九八九年秋、さまざまな赤信号が点った。少なくとも縮小再生産という事態が発生したことをわれわれははっきりと認識した。商品の供給は国民の購買力に追い付かなくなっていた。……正負は小売り物価の値上げを行なうのではないかという噂が町に流れたとたん、あっという間に商店の棚から商品が姿を消した。ある時はいくつかの都市で、別の時はソ連全土で”商品飢餓”とでもいうべき事態が頻繁に発生した。タバコ、砂糖といった品が何日もまったく店頭に現れないことになったのだ」。
 このため、一九八九年から一九九〇年にかけて市場経済化が本格的に検討され始めたが、保守派の抵抗や、連邦指導部とロシア共和国指導部との対立などによって、市場経済化を進める計画の策定さえ難航した。この間、経済状況は悪化の一途をたどり、一九九一年に(end217)は経済危機は一層深刻化した。肉、バター、砂糖などの商品には配給券が登場した。商品が相対的に豊富なモスクワなど大都市への近隣住民の買い出しが大規模に起こり、これを防ぐため、都市の居住許可を受けている住人を対象にカードが発行され、これなしでは買い物ができないことになった。こうした状況は、体制とゴルバチョフに対する国民の不満を著しく高めた。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、215~218


 九時四五分ごろに離床。きょうは快晴の暑い日和。明晰夢をみたおぼえがあるが、詳細はほぼわすれた。明晰夢をみられるようになる方法、つまりゆめのなかでここはゆめだと気づくための方法としてじぶんの手をおりにふれてみるのを習慣とするというやりかたがあり、おとといゆめ関連の英文記事を読んでからちょっとだけやっていたのだが、さっそく効果が出たかたち。ただこのときゆめだと気づいたのは夢中で手をみたからではなく、それいぜんになぜか気づき、直後にこの方法をおもいだして確認のようにして手のひらをみるというながれがあった。詳細はわすれたわけだがばしょは大量の本がある図書館だったはずで、飛行というか、ちょっと浮かんですべって移動するみたいなことをためしてできたおぼえがある。
 水場に行ってくるときょうは書見せずウェブをみてまわり、一〇時台後半から瞑想。二五分ほど。上階へ行って食事や新聞。ロシアは各地で駅やなにかにミサイル攻撃しており、欧米からの武器補給を断つためだと主張していると。マリウポリやアゾフスタリ製鉄所からは市民がいちおうたしょうは避難できたようだが、国連の担当官によれば第二陣はいまのところ決まっていないと。
 その後、きょうもきのうにひきつづきかなりなまけた日で、音読すらせずにだらだらしつづけた。午後七時でようやく階上へ。アイロン掛けを少々。そうして夕食。


 この日はあとたいした印象事もなく、日記もやはりすすめられていない。怠け気味である。夜に書抜きはできて、井上輝夫『聖シメオンの木菟 シリア・レバノン紀行〈新版〉』(ミッドナイト・プレス、二〇一八年/国書刊行会、一九七七年)のノートにメモしてあるぶんは終わらせた。ほんとうはそのあと日記を書けたらよかったのだがベッドにたおれてからだを休ませているうちにまたも意識をうしなって、気がつけば三時。そのままあかりを消してねむった。