2022/5/12, Thu.

 雑踏やタクシーでにぎわうブルジェ(カノン)広場から、アーケードの路地に入ってゆくと、そこにスークが開かれていた。通り路には珍らしく涼を呼ぶ氷柱などが置かれてあって、ダマスカスやアレッポのそれに較べてはるかに観光地化されているように見えた。けれどそれ以上に大きなちがいはどことなく黄金の匂いが漂っていることだった。それはスーク特有の金銀細工や宝石を売る店々があるためではなく、むしろ路地に軒をならべた両替屋をみた時にうける印象が原因だった。ショーウィンドーに世界各国の紙幣がべたべたとはられ「あらゆる通貨を両替いたします」と広告しているのだった。景気がよい光景というより、生々しく露骨で、紙幣特有のくすんだ色が不潔なのである。そのうえ奇異なのは、店々の内部に散策するものの眼を楽しませてくれる色鮮やかな商品がまったくないのである。かわって代書屋のような殺風景があるばかりだった。そして、汚れたテーブルをかこんで、金銭を直接あつかう者特有の、無表情で眼の鋭い男たちが紙幣の束を数えていて、計算しおえると、札束をくるくるとまるめ、パチンと輪ゴムでとめてしまうのである。そんな光景をみていると、金銭が小気味よいほど紙ッペラとうつるだけでなく、富というものに対して一種の嫌悪の情がわきあがってくるのだった。現世の喉元をぐっとしめあげている魔神ににた表情が、両替屋の机につみあげられた紙幣の山にあって、そのどぎつい抽象性がニタリと笑っているように見えた。(end123)
 このスークで宝石商を営むK氏は妻の実家の古い友人であった。トルコから追われ、世界に散ったアルメニア人の一人として、氏はアレッポに居を定めていたのだが、アラブ社会主義による国有化の風波がたちはじめたころ、いさぎよくアレッポをも捨ててベイルートへ移住してしまったのである。だから彼もまた今回の私の旅で多く出会った難民の一人だった。実のところ、難民の苦渋にみちた心を知るには単一民族国家にすむ日本人はあまりに幸福すぎるのではなかろうか。フランス滞在中、あるパレスチナ人の学生が何のはっきりした理由もなく退去命令をうけた事件があったが、私が彼だとして、八日以内に国外退去すること、出国までは日に一度警察署に出頭せよ、という令状をうけとったと仮定してみよう。今まで親しかった者たちと私のあいだに見えない鉄壁が降り、いかに叫んだとして応答してくれるものもなく、平和な街角で自分が無益な零 [ゼロ] である、という自覚が襲ってくるにちがいない。こうした抹殺される者の不安と孤独はいかばかりであろう。気も狂わんばかりであるだろう。世界の不正に対する絶望と反抗は、おのれの死を選ぶか、世界の破滅を願うかというところまでエスカレートしてゆくだろう。つまり「流浪の民」はこうした煮え湯をのんで誕生するのである。たぶんここにかれらの絶望の深さがあると同時に強靭な性格の秘密もあるのだ。タンポポの種子のように運命の風にとばされてきた異邦の土地で、難民は心に誓うだろう、絶対に成功することを。さもなくば難民に明日はないからである。そうしたもっとも単純なあらわれが経済力への渇仰なのである。ニー(end124)スの市場で誰よりも早く店をあけ、誰よりも遅く店をたたんでいたアルメニア人夫婦のけなげな姿を忘れられないのもそのためである。
 (井上輝夫『聖シメオンの木菟 シリア・レバノン紀行〈新版〉』(ミッドナイト・プレス、二〇一八年/国書刊行会、一九七七年)、123~125; 「Ⅱ ベイルート夜話」)



  • 「英語」: 301 - 322


 九時に覚醒した。ゆめみをすこしだけ。ふだん徒歩での出勤につかう街道までのみちをあるいているあいだに八百屋(「(……)」)のおっさん(もう五〇代か六〇くらいだとおもうのに、「おっさん」というよりも「あんちゃん」といったほうがにつかわしいような雰囲気の、若々しくて威勢のよいひとだが)と遭遇する。街道に出るすぐてまえにガードレールを右側に置いてそのむこうが杉の樹のいくつか立ち上がる下り斜面になっているところがあるがその斜面のあたりにいたようで(こちらはみちに立っていたもののみおろすのではなくおなじ高さでむかいあっていたから、ガードレールのむこうに浮かぶようなかんじだったのかもしれない)、なんとかやりとり。内容はおおかたわすれてしまったが、ひとつ、さいきんは不安でしかたがない、という弱気をわらいながらもらし、もともとにんげんが弱いから、だったか、あるいはもろいから、だったかそんなような自己評価をつけくわえていた。その形容詞はこのひとの調子にまったくそぐわないものである。
 カーテンをあけると雲まじりながらも青さがひろくみえる空でひかりもとおっていたので酸素をもとめる魚のようにからだと枕の位置をずりずりずらして東空からななめにかかって窓の至近に落ちている小日向に顔を入れ、しばらくまぶしさと熱を浴びた。はやくも九時一〇分には離床。「胎児のポーズ」をたくさんやるようになったのでからだのぜんたいに血がよくめぐっており、心身はかるい。(……)の結婚式でもらった小型除菌スプレーをティッシュに吹きつけてパソコンをちょっとこすり、それから水場に行って顔を洗ったり口をゆすいだり用を足したりした。部屋にひきかえしてくるとクロード・シモン平岡篤頼訳『フランドルへの道』を読む。これはこのときではなくきのうの夜寝るまえに読んだぶぶんだが、ひとりのセリフのとちゅうで丸括弧がはじまり、それが閉じないまま直接話法の鍵括弧のほうが閉じてもうひとりが発言し、再返答のとちゅうで丸括弧が終わるというかたちがあった。182である。こういうつかいかたははじめてみた。《「(……)しかしとにかくそのアニェスの肉体は、生暖かくて手に触れることのできるからだだけは……(だっておまえも彼女が亭主より二十歳も年下だったのでそれで……といわなかったか?」、そこでジョルジュ、「とんでもない。おまえはなんでもいっしょくたにしてしまうんだ。それは彼じゃなくて……」、そこでブルム、「……曽孫 [ひいまご] か。そうだったな。しかしそれでも想像できないことではないな、あの時代は十三歳の少女を老人と結婚させたもので、たとえその二枚の肖像画ではふたりがいかにも同年配に見えたとしてもそれはきっと画家の手腕が(つまり処世術が、つまりへつらい方のうまさが)いくらか細君のほうを若がえらせたからなのさ。いや、いいまちがいでもなんでもないよ、はっきり細君といったさ、つまり彼女の実際の経験、数字でいえば、嘘と二枚舌とにかけては、彼よりもざっと千年ほど多い経験の、外にすけて見える部分をぼかしやわらげたからなんだ。)……そこでその博愛心に富んだジャコバン党員で、戦争ずきなアルノルフは、人類を改良することをいよいよあきらめ(……)」》ということ。
 一〇時をまわって一五分から枕のうえにおきなおり、瞑想した。ここちがよかった。すでにだいぶからだがほぐれているところにもってさらにじわじわほぐれてなめらかになっていくのできもちがよく、そうとうしずかにとまることもできて肉体として存在していることをほとんどわすれるかのような瞬間もあった。窓外ではきょうもとおくに、たちのぼる川のみずのおとなのかひびきがあり、そのうちに子どもたちの、おそらくは小学校未満、幼稚園や保育園のおさなごらの歓声がどこかから湧き、わあああ……というかんじであどけなく高い声がざわめきとして一体化し、プールにはいっているのだろうか、暑くなってきたから水浴びが解禁されたのだろうかという印象なのだが、そのざわめきはきいているうちになんどかおなじ調子で周期的にもりあがり、まるであそんでいる子どもたちぜんいんにむかってたびたび滝のようにおおきなみずのながれが浴びせられているか、それかなにかの試合や競争を観戦していて白熱のせめぎあいに応援を投げているかのようだった。
 三五分すわった。上階へ。居間は無人。郵便局で簡易保険の更新だかあたらしいサービスだかの説明をするため一〇時に来るということだったが、それはすぐに終わったようだ。書き置きによれば母親はパーマをかけにいっているらしい。居間はやたらかたづいていてテーブルやソファのうえにものがぜんぜんなかったが、これは局員があがるかもしれないとおもった母親がきれいにしたものだろう。しかしたぶん、家のなかまであがらず、玄関でみじかく済んだのではないか。仏間に追いやられていたジャージにきがえる。このときはやくもひかりと青空はうしなわれて雲がおおう曇天になっていた。きのうと同様、晴れとくもりのうつりかわりがはやい。勝手口のそとに洗って干してあったゴミ箱をなかにいれて、じぶんの部屋にビニール袋があったのをおもいだして持ってきて、台所にセット。洗面所でうがいをしたり髪を濡らしてから乾かしたり。食事はベーコンエッグを焼いた。あとさくばんのナメコの味噌汁ののこり。新聞一面にはヘルソンの市長がインタビューにこたえたとあり、その記事の冒頭に、「ロシア軍はヘルソン州住民投票を実施し、一方的な「独立」の宣言を画策している」みたいな文があったのだけれど、これだと住民投票の実施がすでにおこなわれた事実のようにも読めてしまって誤解をまねきかねないから報道の文としてはよくないんじゃないかとおもった。「住民投票を実施し、一方的な「独立」を宣言することを画策している」とか、「住民投票の実施と、一方的な「独立」の宣言を画策している」のように、並列されるふたつのことがらの身分を動詞か名詞に統一したほうがよいとおもう。ロシアはヘルソン市のあたらしい行政長をいっぽうてきに任命しているが、市長はいまも遠隔で実務をこなしているといい、ロシアにはぜったいに協力しない、戦時の住民投票は法に違反していると述べたと。この日一面でもっともおおきくあつかわれていたのは沖縄の本土復帰五〇年にさいして連載されているコラムの記事で、沖縄本島から五〇九キロ南西、日本最西端の与那国島付近で中国の動向にたいして防衛力が整備されているというはなしだった。与那国島は人口一七〇〇人の島で、台湾から一一一キロ、台湾の東側で軍事演習がおこなわれると漁協に気をつけてと連絡がくるのだがその回数が増しており、二〇一八年に一八回だったのがさくねんは三四回、地元の漁協長は台湾が有事にそなえて演習を活発化させているのをひしひしとかんじると。むかしは与那国の防衛は「拳銃二丁」と揶揄されており、これは島に交番二つのみでほかに防衛力がないことを指したものだが、二〇一六年の三月から陸上自衛隊が駐屯していまは一七〇人だかが二四時間体制で国境付近の状況を監視しており、近年航空自衛隊も出張ってレーダーをつかい、スクランブル発進の必要があるときには那覇の基地に連絡して発進につなげている。その回数がいつのデータだったかわすれたが、たしか一年で一〇〇四回にのぼるとかで、そのうちの七割は中国機への対応だと。与那国のほか、宮古島にも自衛隊は置かれ、石垣島にも二二年から配備される予定らしい。二面にはヘルソン州で親露派「政権」の幹部が、同州のロシアへの編入プーチンに要請する予定だと表明したと。ヘルソンはもともとロシアの領土だった、住民投票は必要ないと述べ、クリミアへの併合を想定しているとみられるとのこと。文化面には明石家さんまのインタビュー。六〇歳で引退しようとおもっていたらしいが、太田光に、かっこうよすぎる、落ちてくところをみせてくれといわれてじゃあつづけるかとなったという。いっぽう、きのう母親がつぶやいたのをすでにきいていたが、ダチョウ倶楽部上島竜兵が亡くなった。家でたおれていたとかきいたが、記事によれば自殺とみられるという。明石家さんまは六六歳、上島竜兵は六一歳。東京大空襲の資料や証言をあつめる活動に奮闘しつづけた早乙女なんとかいう作家のひとも亡くなったと。
 食器を洗い、風呂。洗剤はギリギリもった。あした詰め替える。出ると白湯をもって下階の自室にかえり、コンピューターを用意すると「英語」ノートを音読。はじめたのは一二時をまわったくらいだったはず。いや、一二時まえだったかもしれない。みじかくすませてきょうのことを記述しはじめ、ここまで記せば一時。きょうも三時ごろには出勤にむかわねばならない。書けていないのは月曜日のことときのうのこと。月曜のことはもうおぼえていないのであとまわしにして、出発までにきのうの往路のことを記したいところ。雲行きがあまりよくなさそうだし新聞の天気予報も降水確率は五〇とあったので、洗濯物もちょっと気になる。

 まもなく母親が帰宅した。きのうの日記にとりかかり、二時までで往路のことを記述し終えた。それからベッドにうつってストレッチをしているとすこしひらいていた窓のそとから草木に雨粒があたるらしきおとがはじまったので降ってきたなと察してうえにいくと、洗濯物はすでに母親がとりこんでいた。もう出勤まえの食事をとってしまうことに。天麩羅のあまりや米やバナナはんぶんなど。用意して、朱塗りの盆に乗せて自室にもってかえり、窓ととびらをあけて空気をとおしながら、コンピューターには(……)さんのブログをうつして読みつつものを食った。四月三〇日。丹生谷貴志『死者の挨拶で夜がはじまる』からの引用。

そこで……子供の心を持ったひとならこれが帽子ではなくて象を呑み込んだ大きなヘビだとわかるはずです……サン・テグジュペリの『星の王子さま』の冒頭の一節が浮かぶ。大嫌いな一節。子供の心を持ったひと? 子供の世界には確定した情報の量が希薄だ。その結果彼らはその希薄な確定情報を寄せ集めて膨大な物理的知覚情報を処理するしかない。そこから彼らの「説明」は大人からすれば突飛な、愛らしい空想の趣を帯びて聞こえることになる。ヘリコプターのプロペラが見えなくなるのは、あまりに早く回るからプロペラに風と光が混ざってしまうからだ……青虫の腹が揺れるのは中に葉を溶かす工場があるからだ…… 蟻たちは青虫の首を運ぶ警察を持っている……しかし、その論理は本質的に異様なほど唯物論的である。彼が希少な情報を駆使して自らに説得しようとしているのはひたすら物質的世界であって空想や夢の世界ではない。だからその説明が大人の目から愛らしい想像に見えても、彼らは想像しているのではない。そこにはメタファーはない。そこに「子供の世界」の想像豊かな夢の広がりを読み取るのは大人の側の勝手な視線の問題であり、そこには実際上ロマン主義はほとんどない。子供の世界が無気味なのは夢が完全に欠如しているからであるだろう。子供は夢見ない。夢見るのは大人であって子供ではない。


(…)最悪だったのは「ポストモダン」の概念が、(…)「モダン」の絶対主義に対する「ポストモダン」の相対主義というかたちで一部に理解されてしまったことだった。実際は、相対主義は「モダン」の補足性質であり、「ポストモダン」はむしろ「留保なき絶対主義」とでもよぶべき象面を持っているのである。
 簡単な例。百人の人間が目の前にいる時、「モダンな視線」(!)はその中のただ一人に注視し憑かれる視線である。その視線の中で、ただ一人が絶対化され、そして残りの九十九人は誰でもいい誰かの集合として相対化される。一方、「ポストモダンな視線」(!)は百人の人間全部を同じ強度で見つめようとする。その視線が見出すのは、同じ強度で存在する置き換え不能の百人である。百人を絶対的に同時に・同じ強度において見ること、これが「ポストモダン的視線」の要請である。そこには相対主義は有り得ない。それはドゥルーズが「スキゾフレニア」という誤解されやすい言い方で示唆したものであり、アラン・バディウドゥルーズについて、「無数に多数化された絶対一者」という矛盾した言い方で説明しようとしたことである(…)。
 選べるもの・選びたいものだけを選んで他を相対化するという身振りは、「語り得るもの」だけを選んで「見えているもの」を無化し相対化することである。それに対して「すべてを同等に同じ強度で見る」とは「見えているもの」の絶対性に与することによって「語ること」の選別性を解体することである(…)。仮にドゥルーズについてすら「ポストモダン」が語られるとすれば、「ポストモダン」とは「語り得るもの」の選別的閉鎖の解体における「苦行」であるだろう(…)。

 ひとつめはそんなにめずらしいいいぶんとはおもわないが、「子供の世界が無気味なのは夢が完全に欠如しているからであるだろう」という逆説がたいせつで、この原理を小説化できたらおもしろそうだなとおもった。
 ヴェルナー・ヘルツォーク『氷上旅日記』への言及もあり、こちらなどぜったいに好きだとおもうといわれているが、まさしくそうで、この本はレベッカ・ソルニット『ウォークス』のなかですこしだけふれられており、それを読んだときからおもしろそうだなとおもっていた。したがひかれている一節。さいしょの、「リンゴが、収穫する人もいないまま、木のまわりのぬかるむ地面に落ちて、半分腐って転がっている。遠くから見たときは、一本だけ葉がついていると思っていた木が、近づいてみると、不思議なことに、リンゴがまだひとつも落ちずに、全部なったままだった」というのがすばらしい。とくに後文。

リンゴが、収穫する人もいないまま、木のまわりのぬかるむ地面に落ちて、半分腐って転がっている。遠くから見たときは、一本だけ葉がついていると思っていた木が、近づいてみると、不思議なことに、リンゴがまだひとつも落ちずに、全部なったままだった。濡れた気には、葉は一枚も残っておらず、あるのは、落ちることを拒んでいる、濡れたリンゴだけだった。ひとつ取ってかじってみると、かなりすっぱかったが、汁が喉の渇きをいやしてくれた。食べたリンゴの残りを木にぶつけると、リンゴが雨のように降ってきた。リンゴの落ちる音がやみ、地面が静けさを取り戻したとき、ひとり心のなかで、これほどのさびしさは誰にも想像できまい、と思った。今日は、今までのなかで、一番さびしい日だ。それで、木に歩み寄って、実が全部落ちてしまうまで、揺さぶった。静まり返ったなかで、リンゴは音を立てて地面に落ちた。残らず落ちてしまうと、不意に途方もない静けさが、こっちの心のなかにまで、広がった。

 二〇一一年九月二六日からひかれているカフカのでてくる以下のゆめのなかでは、「大晦日の夜にはいつもひとりボートで大河をさかのぼり母方の実家のある国にまでむかうのだ」というフレーズがなぜかすごくよいとかんじた。

夢。カフカと一緒にいる。大晦日の夜にはいつもひとりボートで大河をさかのぼり母方の実家のある国にまでむかうのだというのでぜひじぶんも同行させてくれと頼みこむ。本音の見えないポートレイトのあの表情で了承される。どちらかというと嫌がっているように見えなくもない。父親の運転するワゴン車に乗ってひとまずカフカの家にむかう。じぶんは助手席、カフカは後部座席に乗っており、そのカフカのとなりにはもしかしたら母親もいたかもしれない。カフカのどこがそんなによいのだ、とたずねる父にむけて、たましいが、と答える。左右にむけて長細くのぼる部屋の真ん中でカフカの父が背もたれのない丸椅子に腰かけている。白衣を身にまとっているところから見るとどうやら医者であるらしい。商人ではない。部屋の左隅にはカフカの妹がひとり置物のように硬直して動かず、右手にはカフカの母親が盆の上に飲み物かなにかを乗せて部屋をゆっくりとした足取りで行ったり来たりしている。カフカの父のおどろいたような目つきから、カフカがじぶんの訪問について家族に何も告げていなかったのだと察する。そのことにかんして腹立たしい気持ちになるが、これもやはり父との確執ゆえにだろうと思いなおす。丸椅子に腰かけたままこちらをじっと直視し続けているカフカの父にむけて英語で話しかける。するとたどたどしい英語で返事があり、そこから英語でのやりとりがしばらく続く。どうしてここに来たのだ、との質問に、我慢ができなかったから、と答える。しばらくやりとりが続いたところで根負けし、それじゃあホテルに戻ります、と告げる。するとカフカの母親が途端になにやら口にし、その中にあったシスターという語から、どうやら寝床として教会か修道院を斡旋してくれるらしいと見当をつける。カフカの部屋にいる。二段ベッドの上の段に横たわりながら本を読んでいる。すると門を叩く音が聞こえる。むかえが来たらしい。部屋を出て玄関にむかうカフカが立ち去るまぎわ、門を叩く音がいつもと違う、とつぶやく。ひとり部屋に居残り耳をすませながら、暗くひろびろとした屋敷の中を燭台も持たずに雨の夜にむけて歩いていくカフカの姿を想像する。それは『アメリカ』の序盤でマックス少年が屋敷を徘徊する場面そのものである。

 三時ごろまで文を記し、もう時間がないなと気づいていそいできがえ、三時すぎに出発。雨は一時やんでおり、またすぐに降ってもまるでおかしくはなさそうな空と大気のいろだったが、降ったところで本式にはならないだろうと根拠もなくひとり合点して傘をもたず、ベストすがたでみちをいく。じきにやはりぱらぱら落ちるものがあったが、この往路は予想通り降りにはいたることがなかった。街道に出てむかいにわたるとそこの目のまえ、顔のたかさにツツジがいくらか茂っており、しかしピンクの花はことごとくもう身をしぼませて黄ばみを帯びたり土のような黒点に汚れたりして、精液をはきだされたまま部屋の隅にながく放置されたコンドームのようにゴムじみてたれさがっている(しかしじぶんは他人とセックスをしたことがないので必然コンドームを買ったこともないし、つかったこともないし、そもそもたぶん実物にふれたこともみたこともないのではないか。中学生のときにコンドームを財布にいれておくと金運があがるみたいな言説がいちぶにあった記憶があり、それでやんちゃな方面のやつが財布からとりだしたのをみかけたような気がしないでもないが)。きょうも工事中できのうとは反対側の車線、こちらの行く対岸にあたる南側でやはりアスファルトをつくりなおしており、きのうとおなじく信号機色の青緑をした液状的な薄いビニールが敷かれたうえにコバルトまではいかない鈍い青黒さの粉末が大量にかけられて、人足たちがそこにあつまりおのおの中腰でスコップをあやつり粉をたいらにひろげている。上体には全員かならず白い蛍光テープをいきわたらせながらしたの履き物はそれぞれちがっているかれらの脚は土木作業員にしてはみなほそく、おおかた若い世代にみえたがガタイのいいというほどのからだつきはそこになかった。すすむとむかいはバスが停まれるスペースにときおり老人たちがゲートボールに興じる広場が接した敷地になり、赤い花をつけた木とも草ともいいがたい中間くらいのおおきさの植物がいくつか立ちならんでいて、瀟洒な住宅地にでもありそうというかその木じたいがなんらかの瀟洒をふくんだすがたにうつった。
 きのうとちがってこの日はなぜか下校する高校生らをまったくみなかった。裏路地をいったが、道中印象的というほどの記憶ものこっていない。あたまのなかに詩の断片めいたことばがめぐっている時間がおおかった。きょうも(……)に寄ってトイレを借り、膀胱をかるくしてから職場へ。
 労働。(……)
 (……)
 (……)
 (……)
 八時四〇分ごろに退勤。駅にはいり、ベンチでちょっと待って、やってきた電車に乗ると席について瞑目。そこそこの疲れ。やはり二日連続ではたらいたあとだと、一日はたらいただけの勤務後とはちがうようだ。最寄りで降りると雨がそれなりに降っており、しかしボタボタバチバチおとを立てるというほどのいきおいではなかった。いずれにせよ傘がないので濡れるほかはない。気にせず駅を出て通りをわたり、木の間の坂をおりていくあいだ、葉にしずくがおおきくたまって落ちてくるほどの降りではないので樹冠にむしろたすけられる。風がながれてひだりの林縁からはりだしている枝葉がたわむようにゆれ、したのみちに出れば公団付属の公園の桜がこずえの影をみちにながしてむかいの宅の庭までおおきくわたりながら影絵はするする足もとを掃き、幅をひろく往復してあいまいな光影のダンスをえがく。すすめば濡れたアスファルトはこまかくなった肌理でもって街灯の白さをなめらかに受け、その発光がみちのまんなかに輪郭をくずしたあかりのすじを、こちらにむかっていっぽんすっと走らせている。雨粒にうたれる感触もないが、風は肌においてすずしさをやや越えた。
 帰宅後、ベッドで休息。父親が上階の居間でなんだかんだひとりごとをいったり、歌をくちずさんだりしている声がきこえてくる。夕食は鶏肉のソテーなど。(……)さんのブログを読みながら食べたはず。この日で五月一日まで読んだ。風呂から出た母親が天井をどんどん踏みならして合図するのでぶちころすぞとおもう。ひとが飯を食っているときに急かしたりしずかにできなかったりするにんげんをゆるさない。とはいえ母親はあした勤務だし、はやく洗濯をしたいとかあるだろうから、食事を終えるとすぐに盆をもって上階へ。階段にかかったあたりでは、おそらく母親が図書館で本を借りてきても読んでる時間がないとか、居間にいられると邪魔だみたいなことを言ったのだとおもうが、父親が、もうしたに行くから、ここで読めばいいじゃん、これだけみたらもうおれはしたに行くから、とかややおおきめの声でいっていた。うんざりする。父親は午前中とか、午後のはやい時間くらいはまだうっとうしさがなくてなんともおもわないのだが、夕方くらいからはじまって夜にはいると疲労のためかいつもかたなしというかんじになっていて、うっとうしいことこのうえない。声もでかくなるし、どうでもいいささいなことで気色ばむし。このときもタブレットでたぶん韓国ドラマをみながら、劇の展開にたびたび反応をしめしてうなったり笑ったりことばをつぶやいたりしていた。こちらは乾燥機のなかみをかたづけて食器を洗い、生ゴミ受けからゴミをつかみとってビニール袋にいれておき、米がもうのこりすくないので皿にとってあたらしく磨いでおこうとおもったところが、洗面所とのあいだを行き来していた母親が、焼きそばとか古い米があるからあした炊けばいいというのでそのようにして、釜だけ洗っておき、また炊飯器の蓋をあけて釜をいれこむ穴の縁、枠みたいなぶぶんに固まった米粒がたまっていたりなにか汚れていたりするので、キッチンペーパーでそこを拭いておいた。そうして入浴。出たのは零時ごろだったか。出るとあかりが食卓灯のオレンジ色だけになったなかで母親がソファにねころがっており、テレビはなんらかのドラマをうつしていて、若い夫婦らしき男女がきりこさんだったか年上の女性にモツ煮を食べてもらいながらこの家をよくしていくという決意を語って協力をあおぐみたいな場面で、よくわからないが老舗の料理屋にあたらしい味を導入してたてなおすみたいなことなのかなとおもったが、女性のほうが土屋太鳳のようにみえたのだけれど目がよくないし自信はない。母親はそのドラマをみるわけではなくスマートフォンを手にもっていたとおもうが、それをみるわけでもなくほぼねむっているような調子だった。白湯をもって帰室し、そのあとは日記を書こうとし、じっさい書いたのだけれど、やはりからだがあまりついていかずいくらもできず、一時半くらいであきらめてベッドに休んでいたところがいつか意識を落としていた。気づくと四時だったので、たちあがり、部屋の入り口脇にあるスイッチで消灯して就床。こういうことがあるたびに、労働後の夜はがんばろうとしても無駄だから書見なりなんなりにあててからだを休め、よくねむってつぎの日にやったほうがいいなとおもうのだけれど、じっさいにそういう状況に身を置くといつもそうする気にはならない。