2022/5/25, Wed.

 (……)つまり、冬のシーズンは十月からだというのに、食堂はもういまから満員だった。そしてハンス・カストルプぐらいの症状では、つまり彼ぐらいの病気の等級では、特殊な配慮にあずかる権利は少しもなかった。たとえばシュテール夫人であるが、彼女がいかに無知、無教養であったにしろ、ハンス・カストルプ以上に重症であることは明らかだったし、ドクトル・ブルーメンコールはむろんのことだった。そういう等級や差異というものにまったく無感覚でなければ、ハンス・カストルプ級の症例では控え目に小さくなっているのが当り前(end426)だった。――しかもこうした差別的精神が「ベルクホーフ」の家風であってみれば、これはなおさらのことである。つまり軽症者は軽蔑されていたのである。ハンス・カストルプはそのことをひとびとの話しぶりからしばしば感じとった。ここで通用している標準に基づいて、軽症者は軽蔑的口調で噂された。しかし軽症者を軽んずるのは単にそれ以上の重症者、一般に重症な人ばかりでなく、彼と大差のない病状の「軽い」ひとたちまでがそうだった。「軽い」ひとたちがそういう態度をとるのは、彼ら自身の自己軽蔑を告白しているようなものであったが、彼らにしてみれば一般の標準に従うことによって、健康人に対する自分たちの誇りを傷つけないですんだのである。これはいかにも人間的であった。「ああ、あれか」 みんなこんな具合に互いに噂し合う。「あの男は実は少しも悪くないんだよ。本来ならばここにいる権利さえないんだ。空洞ひとつないんだから……」 これが「ベルクホーフ」の精神というものであった。それは特別な意味では貴族的ともいえる精神だった。規則や制度という名のもとには、どんなものに対してであろうと敬意を表せずにはいられなかったハンス・カストルプは、「ベルクホーフ」のこの精神にも敬意を表した。所変れば品変る、である。旅行者が旅さきの民族の習慣や規準を嘲笑するのは自分の無教養を広告するようなもので、どの民族も他の民族に優るなんらかの特性を持っているものである。ハンス・カストルプはヨーアヒムに対してすらいくぶんの尊敬と遠慮を覚えた。――それはヨーアヒムがここに彼よりも余計に滞在し(end427)ていて、ここの世界の案内者、指導者であったためというよりも、むしろヨーアヒムが彼より明らかに「重かった」からである。こういうわけで、誰もが自分の病気をできるだけ重く見せ、その点を誇張し、貴族の組に入るなり、あるいはそれに近づこうとしたりするのは当然のことであった。ハンス・カストルプも食事の際に質問されると、実際の検温の結果に二、三本の線を加えて話し、食えない男だとみんなから指でおどかされたりすると、得意な気持にならざるをえなかった。しかし少しくらいのおまけをつけてみても、彼は依然として下級のひとりであって、だから辛抱と遠慮以外に彼にふさわしい態度はなかったのである。
 (トーマス・マン高橋義孝訳『魔の山』(上巻)(新潮文庫、一九六九年/二〇〇五年改版)、426~428)



  • 「英語」: 550 - 568


 一〇時を越えて覚醒。そのまえにも一、二回さめたときがあったとおもう。そんなにぱっと目がひらくかんじではなく、なかなか開かないまぶたをもてあましつつカーテンを左右に分け窓もひらいて、意識を失わないようにしながらだんだんと瞑目を解除していった。さわやかな晴れの日。枕をどかしてあたまをベッドに直接つけながら左右にうごかして首のすじを伸ばしたり、耳のまわりを揉んだり深呼吸をしたり。一〇時四五分に離床した。たちあがって消毒スプレーとティッシュでコンピューターを拭き、水場に行って用足し。顔をよく洗ってうがいも。三二年生きてきて今年にはいってはじめて気づいたが、みずで顔を洗うのはきもちがよい。肌としてもしゃきっとする。部屋にもどると屈伸して、ホッブズリヴァイアサン』をしばらく読んだ。契約のはなしがつづく。ホッブズは基本的に、大多数のにんげんは無知だったり、権力欲とか肉欲とか快楽とかそういったもろもろの欲求に駆られている、という認識をベースにしている。リアリズム的なというか、きびしい現実認識だが、その点はたぶんルソーと対比されるところなのだろう。ルソーはたしか自然的人間は憐れみによって最終的には他者を放っておけず、そこから共同性が発生するみたいなことをいっているらしいので(ちがうかもしれないが)。一一時半から瞑想した。ながく座りたかったのだが、便意がきざしてきたので二〇分で断念。上階に行ってジャージにきがえ、トイレに行って糞を垂れると食事。ジャガイモとかインゲン豆とかをトマトソースで和えたものを米のうえに乗せた料理と、きのうのナスの味噌汁。父親はたぶん山梨に行ったようだ。飯を食っているあいだに(……)さんが来て、出た母親は、かのじょはいつもそうだが来客に応対するときは声のトーンがあがってやや甲高く、朗らかになり、声量も増す。それで(……)さんが野菜をくれるのに愛想よくふるまっていたのだけれど、もらった菜っ葉をもって台所にもどってくると、さきほどとはちがってそんなに嬉しそうなようすはみせず、ありがた迷惑までは行かないかもしれないが、うちにもあるのにとか、茎が硬くてこれじゃ食べられないよ、などともらしていた。とりあえずみずに漬けておくらしい。もう出発しなきゃいけないからあとこれいい? というのを了承し(それは菜っ葉ではなく食器のことだったのだが)、新聞を読みつつ食事。QUADの首脳会談がおこなわれて、中露を念頭になまえは出さないながら牽制する内容を表明と。インドがロシアと関係が深いらしいので、それに配慮してウクライナ侵攻にかんしてもロシアの名は出さなかったという。二四日にはまたまさしくその中露の爆撃機がいっしょになって日本海から東シナ海、太平洋まで飛行したと。ロシアの情報収集機も北海道のほうから能登半島沖まで飛行したという。爆撃機沖縄本島宮古島のあいだを通過。さらにはこのときちょうどテレビでやっていたニュースによれば、北朝鮮弾道ミサイルを二発発射したとかで、どこもかしこも牽制、挑発、威嚇だらけでどうなってんねんという感じ。ものものしい。ウクライナ侵攻にかんしては、ロシア国内でも反対の声が目立ってきているというはなしだった。ジュネーブにあるロシアの国連代表部の外交官が侵攻に反対して辞任を表明したと。自国をこれほど恥ずかしくおもったことはないと言い、ウクライナのひとびとのみならずロシア国民にたいしてもこのうえない犯罪だとプーチンを弾劾した。いっぽうでロシア国内の将校会議とかいう組織はウクライナ侵攻を「特殊軍事作戦」から「戦争」へと切り替えて予備役の動員をできるようにするべきだとプーチンにもとめているらしい。その将校会議に属しているひとりが一月にやはり戦争反対を表明していたらしいのだが、そのひともここで辞任したと。二月二四日の侵攻開始以来、ロシア国内では軍の徴兵事務をおこなう施設への放火が一〇件ほど起こっているらしい。ウクライナ側の観測によれば、プーチンを暗殺する計画もロシア内にあったという。
 ながしには菜っ葉が洗い桶に漬けられているので泡を飛ばさないよう端のほうで食器を洗い、それから風呂も。ブラシがあたらしくなっていた。さいしょなのでまだ硬く、かえってこすりにくいようでもあるが。出ると白湯を持って帰室し、Notionを用意して音読。「英語」のみ。一時くらいまで読んで、それからきょうのことをここまで記した。三時過ぎに出てあるいていくか、それか四時まえの電車で行くか。きょうは暑い。音読のBGMのために窓を閉めるとだいぶ熱がこもる。日記はおととい分をきのう終わらせることができず通話中のことがのこっているが、これは後回しでもよい。出発までにできればきのうのことを書いてしまいたいが行けるかどうか。


 いま二六日の午前一時四五分、すなわちこの二五日の日付でかんがえると二六時のてまえである。二三日月曜日のことを書き終えて投稿した。二四日分ももう日中、やっつけ気味にしあげてある。二三日の記事ははてなブログの投稿欄で見たところ二一〇〇〇字強をかぞえており、この日は引用の文が冒頭のやつと(……)さんのブログから引いたニーチェしかないので、それを引いても二万字弱ではあるだろう。そこそこたいした量だ。しかしそのおおくは勤務中のことと通話中のはなしなわけで、それらをぜんぶカットした結果ブログでじっさいに読めるのは六〇〇〇字程度まで減っている。なんとなくもったいないというか、すべてを公開できないのは残念なきもちもある。職場の生徒らのことなどおもしろい。ひとが読んでもおもしろいかはわからないが、こちらじしんは、一〇年後に読みかえしたらめちゃくちゃなつかしく、おもしろく感じるだろうとおもう。


 一時四〇分から三〇分ほどと、そのあと三時台にまた少々、瞑想をした。どちらのときも風はおおきくうごいてときに大気じたいがうなりをもらし、また家屋にぶつかってばたばたといわせるおとや、草木を薙いでざあっとふるわせるおとなどひっきりなしにきこえて、そとの空気はざわめきに満ちている。鳥の声もピチュピチュホケキョとたくさん散っているなかに、赤ん坊の泣き声が立つのがきこえて、それに添ってもうひとつ、赤ん坊は越えた年ごろとおもえる幼児の、こちらは泣き声ではなくたんじゅんな絶叫そのもの、ひとというより鳥のそれにちかい叫びもくりかえしきこえて、いったいなんなのかわからないがそれを踏まえてみると赤ん坊のほうも泣いているのではなく、ただ声をあげているだけのように聞こえが変わった。風はときおりレースのカーテンをふくらませるようで目を閉じていても視界の端のあかるさの変化でそれがわかり、またもちあがった布がひらいたすきまから空気のながれもよくはいりこんできて、座って停まっている肌のうえをするするとこすりながれていくのは幻影の小川がそこに生まれたようであり、涼しさはたしかでながれが去ったあともしばらく感触が腕にのこっているくらいだった。
 瞑想を終えたあと二時一〇分過ぎに上階にあがって洗濯物を入れ、とりあえずタオルをたたみ各種マットを洗面所やトイレに配置すると、冷蔵庫にはいっていた残り物のメンチカツをあたためてソースをかけ、椀に盛った米のうえに乗せて帰室したのだったか居間で食ったのだったか。ともかくそれで軽い腹ごしらえをすますと食器を洗い、歯磨きもやってしまったはず。徒歩で行ける時間ではあったのだが、きょうはなんとなく瞑想をしたい気がしたのでそちらに時間をつかうことにして座り、三時二五分くらいで解いて身支度。ベストすがたになるとバッグをもってあがり、靴下を履いたり台所で泡石鹸をつかって手を洗ったり。それからのこった数分のあいだに肌着や寝間着などさきほど始末しなかった洗濯物をたたみ、両親のものを仏間にはこんだりじぶんのものを簞笥にいれたりしておき、そうして出発。家を出るとむかいの木造屋の庭といえるほどのひろさでないがたぶんカナメモチだとおもう生け垣のむこうに家屋に接してほんのすこしだけあるスペースで、生け垣のためにすがたはよくみえないのだがなにか草木を切っているようなおとが立っていて、そちらをみていると葉のすきまから老人のすがたがみえたのでこんにちはとあいさつした。先日脚立だかにのぼって木の枝を切りととのえていたのとおなじひとだろう。いまから行っていつまで? ときかれたので、きょうは八時ぐらいですねとこたえると、ああそう、この時間からじゃたいへんだねとねぎらいのことばをくれたので笑いをもらし、ありがとうございます、行ってきますと受けてみちをすすんだ。右のみちばたに石段のある範囲を終えると道路から直接茂みに接しているが、そこに繁茂している草ぐさのうえ、柑橘類のこずえのしたでクロアゲハが一匹舞っており、葉をみおろしてなにかをさがすかのように左右にちょっと行き来したあと、林の奥のほうへとはいっていった。公団前、みちの左側には敷地に添ってガードレールがずっとつづき、その足もとには草が生え揃っていて、伸びたのを取って放置された薄茶色の残骸もちょっとあったが、ひかえめな葉のあいだにピンクいろの、やはりつつましいツツジがちらほらあしらわれたように、縫いつけられた布飾りのように花のおもてをみせている。十字路で坂道に折れてのぼっていけば、黄色くかわいた竹の葉がたくさん路上に散らかっており、出口をまえにするとそれまでもおおく聞かれた鳥の声がいっそう繁くきりなしになって、みちの左右に生えたり立ったりした草木からチュンチュンチュンチュン、来るひとをむかえいれるかのようだった。
 電車で移動して勤務。(……)
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