この小説 [『高慢と偏見』] で特筆されるのは歩行に与えられている多様な役割だ。エリザベスはたとえば社交から逃れ、姉妹や求婚者と親密な言葉を交わすために歩く。そんな彼女の目を潤すのは、新旧の庭園の眺めや、北部やケンティッシュ郊外の手つかずの自然だった。エリザベス女王のように体を動かすために歩く場合もあれば、サミュエル・ピープスのように会話のため、あるいはウォルポールやポープのように庭園の散策が目的となることもあった。グレイやギルピンのように眺望を選んで歩くこともあれば、モリッツやワーズワース兄妹のように、周囲から反対さ(end165)れつつ移動のために歩くこともあった。誰しもが楽しんでいたようなゆったりとした散歩に身を任せることもないわけではなかった。新しい目的が託されてゆく一方で以前の目的も失われることはなく、歩くという行為の意味と使い道は増すばかりだ。もはや、ひとつの表現の手段になっているといってよいかもしれない。当時の社会的な制約のなかで生きる女性にとって、歩くことが与えてくれる社会的、空間的な余裕は大きかった。彼女たちは、そこに身体と想像力を目一杯にはたらかせるチャンスを発見したのだ。ついにふたりが互いを理解しあうことができたのは、道連れがいなくなって、エリザベスが「思いきって彼とふたりきりで歩いた」ときだった。その幸福な時間が過ぎるのは早く、「『リジーったら、いったいどこまで歩いてらしたの?』という質問を、エリザベスは部屋に入るなりジェーンに、それに食卓についたときにほかのみなから受けたのだった。ふたりで歩きまわって、自分でもわからないところへ行ってしまったの、と答えるほかなかった」。風景と心の区別はなくなり、エリザベスは文字通りに「自分でもわからない」新しい可能性へ足を踏み出している。それが、疲れを知らぬこの小説の主人公に歩行が果たした最後の役割だった。
また、この小説を含めて、当時の小説には歩くことが動詞ではなく名詞として頻出することも指摘に値する。「ロングボーンの村から徒歩で少しの距離に within a short walk 家族が住んでいた」「メリトンまで歩くことが朝の楽しみに必要だった a walk to Meryton was necessary to amuse their morning hours」「彼女の好きな散歩道は……自由に出入りできる木立に沿っていて her favourite walk... was along the open grove」などなど。これらは歩くことを「歌」や「食事」(end166)のような、ひとまとまりの意味を備えた振舞いとして表現している。すなわち歩きに出かけることは単に両脚を交互に動かすということではなく、長すぎも短すぎもしない、ある程度の時間を継続する歩行を意味し、心地良い環境に身をおき、健康や楽しみ以外に余計な生産性のない行為に勤しむということを表現している。こうした言葉づかいには、日常的な振舞いを純化し洗練することへの意識を読み取ることができる。人はいつでも歩いていたが、その型式に常にこうした意味を託していたわけではなかった。そして、その意味はさらに拡張されてゆく。
(レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、165~167; 第六章「庭園を歩み出て」)
覚めると七時八分だか。そのまえにもたしかいちど目覚めたはず。べつに起きるつもりもなかったが、ここがおのずと正式な覚醒になり、深呼吸しながらからだの各所を揉んでいると、いつの間にか八時前にいたっていた。それで起床。カーテンをあけるときょうは空に青みがみられてひかりもいくらか色づいており、暑くなりそうな雰囲気。子どもたちが集まりはじめている。洗面所に行って顔を洗い、冷蔵庫からおおきな水のペットボトルを取り出してプラスチックのコップにそそぎ、水分を身に取りこんだ。きのうはまたしてもシャワーも浴びず歯も磨かずに寝てしまった。一日にロラゼパムの二錠目を飲むときは、夕食後ではなくてこれから寝るというときに飲んだほうがよさそうだ。パニック障害初期のときもそうしていたような気がする。そうだ、不安とか心臓神経症であまりうまく眠れなかったので、それをやわらげるために寝るまえに飲もうということになっていたのではないか。
寝床にもどって書見。上田秋成『雨月物語』を読みすすめる。現代語訳のパートは終わり、古文のほうに。さいしょの「白峯」はもう読んだので飛ばしてつぎの「菊花の約 [ちぎり] 」から。「菊花の約」のはじまりはいかにも物語っぽいなと数日前に書いたが、「青々たる春の柳、家園 [みその] に種 [う] ゆることなかれ。交りは軽薄の人と結ぶことなかれ」うんぬんというこの冒頭は、註によれば「范巨卿鶏黍死生交」という中国白話小説の書き出しを翻訳したものなのだという。白話小説というのは、ウィキペディアいわく、「中国において、伝統的な文語文(漢文)で記述された文言小説[1]に対して、より話し言葉に近い口語体で書かれた文学作品のことである。白話は中国語で口語のこと」だという。「中華民国時期には陳独秀、胡適、魯迅らを筆頭にした言文一致運動[2]が興り文語文が使用されなくなると、小説の区分としての白話小説は消滅した」とも。三国志演義、西遊記、水滸伝、金瓶梅、紅楼夢あたりが代表らしい。紅楼夢は岩波文庫に八巻くらいではいっていた記憶がある。
九時ごろまで読んだ。九時八分から瞑想。座り、さいしょに息をなんどかつよく吐いてからだをあたため、それから静止。なかなかよい感じに停まることができた。耳栓をしているから外界のおとも遠く、意識がまどろみそうでまどろまない、独特のしずけさがある。さいごにまた深呼吸して終えるかたちにしたが、二二分しか経っていなかった。
それからもう食事を取ることに。キャベツを切ろうかともおもったが、面倒くさかったのでおにぎりで済ませることに。流しにはさくばんの洗い物を溜めたままだったが、それは起きたときだったか瞑想前だったかにかたづけておいた。Chromebookでウェブをみながらおにぎりふたつ、それにオールドファッションドーナツをひとつ食べる。飲むヨーグルトも一杯、プラスチックコップに注いで飲み、すぐに洗っておくと、べつのコップに水をそそいでロラゼパムを服用した。そうしてここまで日記を記して一〇時半前。さくばん(……)から電話があって、住民票が必要だった、管理会社にもとめられている、いまはもうあまりそういう会社もないのだがどうもちょっと古い会社らしいといわれたので、ちょうどあしたが転入手続きの期限だったとつたえたのだった。それなので取りに行くと。転出証明書を郵送で手続きしているさいちゅうで返ってきていないがというと、もしすでに手続きが終わっていたとしても、転出済みみたいなかたちで住民票は取れるはずというので了承。取ったらコンビニでPDF化してUSBに入れ、データで(……)のほうに送ればいいかなとかんがえている。二時くらいに家を発つつもりだが、それまでに転出証明書が来ればそれでOK、来なければ二度手間だが住民票を取りに行ったついでにその場で手続きしてしまい、いずれにしても(……)市役所のほうにも出向いて転入手続きをしなければならない。あとは国民年金の住所変更。マイナンバーカードは交付申請書とかいうものがもらえるようなので、それだけもらってネット上で手続きすればよいだろう。
きょうは風がいくらかあるようで、網戸の手前のレースカーテンがたびたび吸いつけられて身悶えし、端のほうが瞬間すきまを生んだりもするが、涼しさが室内にはいってくるほどではない。一〇時半現在、陽はかげったようでそとの空気はあかるみを減らして白っぽくなっている。
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その後、きのうの日記を記述。一二時ごろにはしあげて投稿することができた。わるくない。書きぶりもわるくなかった。一時白っぽくなっていた空気だが、正午付近からまた陽のいろを帯びはじめ、気温もだんだん上がってきた肌合いだけれど、それよりも風が激しく駆け出しており、ぶわっという精霊のうなりが頻々と立ち、カーテンもたびたびそれにやられて前後左右しながら襞を変え、あかるみの模様を狂った波のごとくすべらせている。天気が良いので出かけるまでのあいだだけ、布団を干すことにした。とはいえ風がひじょうにつよい。それなので柵にかけた布団の左右を、ひとつではなくてふたつずつピンチで留めることにして、やや苦戦しながらやってみたところそれでどうやらだいじょうぶそうだ。座布団二枚も柵の内側に出しておく。そのスペースにはゴキブリが一匹ひっくりかえって乾き死んでいたが、さいしょそのへんにあったペンで弾き飛ばしてそとに落とそうとおもったところうまく行かず、ただゴキブリのからだから足が取れて、メインの部分はそとに落とせたけれどこまかな破片はのこったので、それらはティッシュで包んで捨てておいたのだが、破片はとてもよく乾いており、ものによっては焼き魚の皮みたいなパリパリした質感をもっており、うまく取れずつぶしてしまったものなどはパラパラと粉になって端のほうに散っていった。
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- 「英語」: 91 - 117
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一首: 「耳寄りな不幸のうわさをひとつかみスイカにまぶして夏よあかるし」
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帰宅後、寝床で深呼吸しつつ休息しながら一年前の日記を読んだ。まだ六月二三日まで。二四日分も気が向いたら読みたい。したの二段落はちょっとおもしろかった。一段落目でいっていること、「おもうに人間など本質的には一片の存在性にすぎないもので、存在者ですらない」については、それと関連するのかわからないが、さいきん、じぶんというのはひとつの場、場所なのだなとおもうことがよくある。世界のなかのある場所にじぶんが存在しているのではなくて、じぶんそのものが場なのだと。瞑想もそうだが、目をつぶってストレッチをしているときとかにそうおもうことがおおい。ティク・ナット・ハンが、じぶんじしんがhomeになれば世界のどこにいようともそこに帰って安心し、くつろぐことができます、みたいなことを言っていたもので、その聖人風の慰撫的ニュアンスにはのりきれないのだけれど、かんがえかたの方向性としてはそれにちかい。ひとつの見方としては、世界のなかに空間(と時間)があり、そのどこかしらにじぶんが存在している(ハイデガーのいう「世界内存在」という概念はそういう意味なのだろうか? ぜんぜん知らないのでわからない)。もうひとつの見方としては、じぶんはじぶんを場として存在しているので、世界内のどこにも存在していない。場としてのじぶんは世界内に包含されているだろうが、場としてのじぶんにおいて存在している「じぶん」は世界には存在していない。だからといってそのあいだに交渉や影響がないわけではなく、「じぶん」と世界は微妙な接し方をしている。場としてのじぶんは世界のなかのどこかにあるだろうが、それはその世界のなかのどこかそのものとはべつであり、場としてのじぶんは世界内のどこに位置したとしても場としてのじぶんでしかない。ということはすなわち、じぶんとは世界のなかにおいて、どこでもない場所である。そういうことをかんがえたり感じたりすることがここ数日いくらかあった。
上階へ行き、炒飯やうどんで食事。たしかきのうだったが、原信夫の訃報があったのをおもいだした。その音源はぜんぜん聞いたことがないが。国際面を見ると、エチオピアで選挙がおこなわれて、与党「繁栄党」が圧勝のみこみと。圧勝もなにも、そもそも候補者が与党のひとしかいないみたいなことが書かれていたので。小選挙区が全部で五四七だかあるらしいのだが、北部ティグレ州は中央政府との紛争をつづけているのでそこではおこなわれず。アビー・アハメド首相はエチオピアのいままでの歴史でいちばん良い選挙だみたいなことを言って、公正で民主的な選挙だと強調したらしいが、野党候補者を拘束だか排除だかして欧米から批判されているともあったので、疑問ではある。野党候補者といって、与党繁栄党には全土の民族のうちだいたいが糾合しているようなので、たぶんほぼティグレ側の勢力ということなのではないかとおもうが。繁栄党は二〇一九年に多民族をあつめて中央集権的に糾合的に結成されたのだが、九一年の社会主義政権崩壊以後権力を握っていたティグレ人勢力はそこに合流せず、いままで対立をつづけているというのが紛争の背景らしい。ティグレ州では政府軍による住民への残虐行為が報告されているもよう。
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風呂のなかでは、ひとがなにかを所有するなどということはほんとうはありえないのだろうということなどをかんがえめぐらせていたが、面倒臭いのであまり詳述はしない。けっきょく人間、なにかを持ってなどいないし、なにか持っているものがあるとしたら、じぶんの身とたましいと声とことばくらいのものしかないとおもうが、それらだってひとが主体的に所有しているわけでないことは誰もが知っている。ひとがおのれをはなれたなにかのものを所有しているなどという事態は、ふつうに幻想であり、気のせいである。おもうに人間など本質的には一片の存在性にすぎないもので、存在者ですらない、と言いたい。じぶん、などというものは、ここにある、ということいがいなにも意味しない。はじめからたかだかその程度のものだとおのれをよく知りわきまえていればそんなに迷妄に苦しむこともなく生きていけるだろうが、ただその存在性じたいもまたひとつの枷であり呪いであるという事態があるわけで、ほんとうはそれしかないのだとおもうのだけれど、ひとは生きて時を過ごすうちに欲望なり義務なり使命なり権利なり心理なり関係なり、非常に多種多様な枷と呪いを、ときにはみずからの手によって、またときには他者から差し向けられて受け取り、みずからの存在に付加しつづけていき、それはまるで原初の呪いを直視しないよう、それを呪いの氾濫のなかにまぎらせかくし、中和してもはや見分けがつかないようにしたいかのようだ。まあ呪いといって、ときにはそれなりにたのしく、ここちよくなじむことのできる呪いではあるが。
風呂からあがって髪を乾かし洗面所から出ると、時刻は零時半かそのくらいで、居間は天井の電灯はもう落とされ食卓のうえに吊るされたオレンジ色のあかりだけが灯って壁と宙に影のおおい空間となっているのだが、そのあかりのもとで卓についた母親は、メルカリで売れたらしい小さなバッグ、というかバッグとも言えないような小袋のたぐいをおりたたんで、代金をさほどかけずに送れるサイズの荷物にしようとこころみている。眼鏡を顔に載せたそのすがたを瞥見して、老いがくるのだなあとおもった。まさしく雪が降るようにして時が降り、雨が世をひたすようにして老いがこの身をひたしていき、積もった時はそのさきで、だれもをどこかへと連れていってくれる。
さいごの段落もまあわりと文学的に、叙情的にやってるなあというところでわるくないが、「老いがくるのだなあとおもった。まさしく雪が降るようにして時が降り、雨が世をひたすようにして老いがこの身をひたしていき、積もった時はそのさきで、だれもをどこかへと連れていってくれる」という情緒的な感慨よりも、「風呂からあがって髪を乾かし洗面所から出ると、時刻は零時半かそのくらいで、居間は天井の電灯はもう落とされ食卓のうえに吊るされたオレンジ色のあかりだけが灯って壁と宙に影のおおい空間となっているのだが、そのあかりのもとで卓についた母親は、メルカリで売れたらしい小さなバッグ、というかバッグとも言えないような小袋のたぐいをおりたたんで、代金をさほどかけずに送れるサイズの荷物にしようとこころみている」のほうがやはりすばらしいとおもう。とくに居間のようす、その照明と影のぐあいを書いていること。母親のようすもそうだけれど、やはりこういうものを書いていかなければならないのだとおもった。こんな些末な、どうでもよい、だれも目を留めないような、書き残す価値などどうかんがえてもないような、そういうことを書き記すこと。日記の本分は記録である。日を記すと書くのだから。じぶんのばあいは、日を記すというより、日々に記すことである。なにを記すのか? できるかぎりすべてを。そこにそれがあったということをだ。記録とは存在を記すいとなみである。書き記すに値しないものごとなどこの世にはぜったいに存在しない。じぶんの信仰はまだゆらいでいない。
「実存の危機」についての段も引いておこうかな。ところで読みかえしていて知ったが、六月二三日は(……)さんの誕生日らしい。おめでとうございます。ほんにんは何年かまえから老いについてたびたび書いているので、もううれしくないかもしれないが。
いま一時五分。茶を飲みつつ、2020/6/23, Tue.を読んだ。「六月二三日という日付はちょうど六〇年前に(すなわち一九六〇年に)いわゆる改定安保条約が発効された日であり、同時に二〇一六年においては英国でEU離脱を問う国民投票が行われた日付でもあるのだが、なんと(……)さんの誕生日でもあるらしい」とある。また、(……)さんが自殺したという報がとどいている。それを受けて「実存の危機」についておもったことを以下のようにつづっている。言われていることはいまでもおおむねただしいとおもうのだが、生の虚無感に対処するためにはやはりおのれとむきあって対話をつづけるべきであると、そちらのほうを優位化している感触があきらかにあって、そういう倫理的なマッチョ感にいまでは完全には一致できない。もちろんそうしなければ本質的な解決にならないというのはそうだとはおもうのだけれど、べつに、ときに虚無につかまりながらも完全にとらえられることだけはなんとか避けつつ、だましだまし生きていければそれでいいんじゃないの? といまはおもう。
それまでずっと大きな問題はなかったのに老年に至ってはじめて精神の調子を崩し、疾患に陥るという人が世にはいて、(……)さんもそうだし、歳を取ってからノイローゼ的な症状に悩まされ二〇一八年三月に最終的に自殺してしまった(……)さんもそうだった。それにはたとえば仕事を引退したことで生きがいや人生の目的を見失ったとか、社会や他人との繋がりを欠いたことで孤独と虚しさを強く感じるようになったとか、色々な要因が考えられるだろうが、(……)さんのときにも思ったけれどいわゆる「実存の危機」という事態はそもそもどのような年齢の人にも訪れうるものなのだ。若い頃にそれを経験せず、悩む暇もなく一生懸命に働いたりがむしゃらに子どもを育てたりしてきた人ほど、老年に近づきものを考える余裕が生まれてからそれにぶち当たるということがやはり多いのではないか。それまでは己の人生を駆動させる大きな流れに必死にしがみついて何とかそれなりにやってきたけれど、長年月の果てに自分の立っている地点とその周りを見回すことができるくらいの余裕が得られたときに、ようやく来し方を振り返って、これで本当に良かったのだろうか、自分の人生ってなんだったのだろう、そしてこれからどうすれば良いのだろうかという空虚な疑念に捕らえられるということがあるのではないか。これに行き当たってその存在に気づいてしまうと人は苦しい。多くの人間はおそらく、おりにふれてそうした虚無的な空漠が身に迫るのを感知しつつも、それに目を向けず見えないふりをして騙し騙し、ごまかしながらどうにか折り合いをつけて自分の生を生きていく。そういうやり方でそれなりに満足して生きられればそれはそれで良いだろうが、とはいえもちろんそれはあくまで対症療法でしかないし、こちらがそれに気づきたくなくとも何かのきっかけにその影が大きくそびえ立ってあちらから勝手に迫り、自分を追い詰めてくるということもときに起こる。結局のところこの世界や個々人の生には客観的で確定した根拠などないわけなので、それを根本的に乗り切るためにはいわゆるニヒリズム的苦悩に巻きこまれながらもそれを見つめ続け、考え抜くことで自分なりの確かな意味体系を構築し、それを定かな足場としながら世界と対峙するほかはなく、そういう態度が実現できればおそらくそれを倫理的な生と呼んでも良いのではないかと思うが、しかしその倫理を確立するまでに通過しなければならない苦悩と苦痛に耐えられず精神を病んだりついには死を選んだりする人がいるということは、何も不思議なことではない。人は誰も死ぬまで己と付き合っていかなければならず、この自分という主体と己の存在そのものこそが人を重力的に拘束するもっとも厄介な桎梏なのかもしれないが、そこで人間が取れる選択は大きくはたぶん二種類しかなく、死ぬまで己自身の追走から逃げ続けるか、己と対峙し対話を続けることで齟齬なき一致に近づこうとするかのいずれかだろう。ただ自分自身というのはそんなに足の遅い相手ではないので逃げようとしてもおりおりひどく容易に追いついてくるし、背を向けていたつもりがいつの間にか追い抜かされて回りこまれ、強制的に顔を合わせなければならなくなるということも普通にありうる。とはいえ常に自分と真正面から対峙し続けることもかなり負担になるもので、それこそ精神疾患や自殺に至る危険が大きくなるだろうから、上の二種類の方策を組み合わせつつ、ときには逃げてときには向き合いながらうまい折り合いのつけ方を開発していくというのが現実的なラインだろう。真正面からではなくて、〈斜めから〉対峙するということだ。
また、(……)さんのブログから、立木康介の「私たちの倫理や規範の崩壊は、なによりもまず、微妙な陰影や繊細な論理の上に成り立つ言論が、恥知らずなまでに凡庸で粗悪なレトリックによって威圧されることからはじまるのだ。その意味では、かくも果敢な村上の発言をただの「反原発」の一点に矮小化して伝えた我が国の多くの報道や、やはりその一点のみに賛否を集中させたインターネット上の議論は、村上が批判しているのと同じタイプの言論を垂れ流したにすぎない」という一文が引かれている(というか一年前に引いていたのを引きなおしている)。「私たちの倫理や規範の崩壊は、なによりもまず、微妙な陰影や繊細な論理の上に成り立つ言論が、恥知らずなまでに凡庸で粗悪なレトリックによって威圧されることからはじまるのだ」というのが、ほんとうにそうだなとおもった。「微妙な陰影や繊細な論理の上に成り立つ言論が、恥知らずなまでに凡庸で粗悪なレトリックによって威圧される」。これが社会であり、世界だ。
(……)さんのブログに載っていたという幸田文の文章も再掲しているのだけれど、読めばやはりよいので、これも再再掲しておく。
下町の女には貴賤さまざまに、さらさら流れるものがある。それは人物の厚さや知識の深さとは全く別なもので、ゆく水の何にとどまる海苔の味というべき香ばしいものであった。さらりと受けさらりと流す、鋭利な思考と敏活な才智は底深く隠されて、流れをはばむことは万ない。流れることは澄むことであり、透明には安全感があった。下町女のとどこおりなき心を人が蓮葉とも見、冷酷とも見るのは自由だが、流れ去るを見送るほど哀愁深きはない。山の手にくらべて下町が侮り難い面積をもっているのは、彼女等の浅く澄む心、ゆく水にとどまる味に負うとさえ私は感じ入った。 (「姦声」)
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二時ごろに出る目算で音読をしたり、ストレッチをしたり。風はほんとうにつよく、建物全体をガタガタ揺らすこともあるくらいで、カーテンはひっきりなしに身をよじらせていた。そのうちに取りこむ。布団の左右を留めた洗濯ばさみも風でなかばはずれてしまい、かろうじてひっかかっているという感じだった。落ちなくて良かった。座布団ふたつもちょっと払って入れておき、布団もシーツのうえをたたくのではなくなんどもこするように払ってこまかなゴミをのぞいた。したのみちを男性がとおるときには外側ではなくて柵の内側を。そうして布団を引き入れて、窓のそばに敷き、縁からシーツを折りこんで寝床をととのえておく。その他歯を磨いたり、シャワーを浴びたり。湯を浴びるまえに髭も剃った。シャワーを浴びだすと鏡が曇ってしまってやりづらいので、湯浴みのまえにやったほうがよい。シェービングフォームを顔にすりこみ、ジレットの剃刀で全体を剃る。すでに全裸だった。それから縁をまたぎ越して浴槽のなかにはいり、シャワーを浴びた。頭やからだを洗い終えるとまず浴槽のなかでフェイスタオルを使ってあたまやからだをある程度拭き、それから縁をまたいで便器のまえに立ち、背後の扉をちょっとあけて外気の涼しさをとりいれるとともに蒸気を逃がしつつ、バスタオルでかさねて拭いた。パンツのみ履いて出て、足拭きマットで足の裏の水気を取ると、Tシャツと真っ黒なズボンのすがたに。リュックサックには先日実家から持ってきたクリアファイルを入れ、その他パスポートや印鑑などはそのへんにあったちいさなビニールにまとめて入れておいた。あとは財布やスマートフォンやイヤフォン、手帳。それで出発はなんだかんだ、二時二〇分くらいになった。アパートの郵便ボックスをみると、共産党のチラシのほかに、またしても(……)氏のViewカードの封筒がはいっていた。それはいったん措き、建物を出て、自販機脇のボックスにペットボトルを捨て、みちへ。陽がまぶしく熱く照っていた。路地に家の生み出す陰もさほどひろくない。一軒の内では庭に緑の草がいっぱいに盛って一団で曲線をえがいている。ひとが住んでおらず、手入れがされていないのだろうか。停まっている車のからだはどれもいろをてらてらと光沢させている。おもてに出ると左右から車が来るところだったのでぼんやり見上げて待っていると、右手からクラクションが鳴ったのはそちらの車が停まってくれたもので、応じて左を見ればいま来たそちらも横断歩道前で停まったので、左右に会釈を向けながらすこし急いで道を渡った。そうしてまた裏道にはいる。太陽は西空で雲にまかれながらもそのひかりはまばゆく、裏路地であっても日なたは豊富で、片手をひさしにかざさなければ光源にちかい空は見づらい。印象としては雲も多く混ざっていて白さがなじんだ地帯もあるが、ひかりは意に介さず、青みもよく映っている。
(……)駅へ。薬も飲んでいるわけだし、先日よりは緊張は感じない。しかしまったくないというわけではない。駅にはいると階段をあがって向かいのホームに移り、きょうはさきのほうに出ずそこのベンチに腰を下ろして、この感じだともう一錠飲んでおいたほうがよいだろうなと判断し、そばの自販機で買った「いろはす」の小ボトルで財布から出したロラゼパムをながしこんだ。やはりはじめが肝心、無理にがんばろうとせず、平常に近い状態で電車に乗るというのを心身に経験させるべきである。それで電車のアナウンスがはいると立ち上がってちょっと移動し、来たものに乗る。ひとがすくなかったので安心した。リュックサックを背負ったまま座席につき、瞑目のうちにしばらく待って(……)着。ほかのひとびとが降りていくのを待ってから立ち上がり、ホームに降り立っても階段口の殺到が弱くなるのをちょっと待って、それから階段へ。とはいってもだいたいみんなエスカレーターを選ぶので階段のほうはさいしょからひとがそう多くはないのだ。眼鏡がないととおくの電光掲示板がよくも見えないのでややちかづいて(……)行きの時間を確認すると、五番線だった。ほんとうは座っていきたかったが時間的にそうも言っていられないのでホームに下り、すでに来ていたものに乗っていちばん端へ。車両の角に立つ。そうしてまた瞑目して待つ。この時点ではすでにスマートフォンでFISHMANSをながしていた。さいしょのうちはいくらかなり緊張がやはりあって、森田療法を実践していると腹や喉にたしょうの感覚はあったが、精神安定剤のおかげでそれもちいさく遠く、苦しいところまでもたげてくることはほとんどない。恐怖と向かい合ってただしく対峙しそれを見つめることこそが、と先日書いて、それもまちがってはいないとおもうのだけれど、わざわざマッチョ的にそれをこころがけてこちらから恐怖と相対しにいかなくてもよいかもなときょうはおもった。それよりも瞑想とおなじで、なにもしないということを実践するのがよいのではないかと。そのなかで恐怖が生まれたり安堵が来たり希望があったり気が逸れたり、音楽に耳が行ったり、それらをその都度受け止めていくのでよいのではと。(……)だったかどこかそのあたりで席に座った。この電車もひとがすくなかったのでよかったが、しかしひとの多寡は本質ではないのだ。ひとがすくなかろうがなんだろうが恐怖や緊張はおのれのうちにあるわけで、それとどうつきあっていくかというのが本質的な問題である。
とはいえこの道行きの後半は楽で、問題がなかった。(……)に着く。降りるのはまるでひさしぶりである。陽に照らされたホームを行って駅前のスーパーのほうなどみながら、かつて(……)さんと会ったときのことをおもいだした。かのじょも元気でやっているのだろうか。シカゴにいたんだっけか? その後日本に帰ってきたんだったか。(……)さんもまだオレゴンにいるのかどうか。かれにはときおりメールを送りたいとおもうことがありつつも、けっきょく送れていない。かれとはじめてはなしたころやその後メールではなしていたころ、あるいは(……)さんと会ったころとくらべても、ようやっとひとり暮らしをはじめはしたが、じぶんの生活はおどろくほどに、おそろしいほどに変わっていない。ホームを行き、階段をのぼり、改札を抜けてそとに出るため階段をおりるころに、ちょうど"バックビートに乗っかって"がはじまっていた。駅舎を抜ければ陽射しが身に降って暑い。駅前にはラーメン屋が一軒あって、いままで生きてきてはいったことはいちどもないが、ああここだここだと黄色い看板をみやった。そのうえに記されている店名の文字は、もともと書かれてあったのが薄れて消え、さらにそのうえから黒いビニールのようなもの(ある種のゴミ袋を切ってつくったような)を貼って文字を成していたようなのだが、それもほとんどそこなわれてもはや文字として成り立っていなかった。通り沿いにあるき、市役所へ。気分はわりとよろしい。市役所に来たのなどいつぶりかわからないほどひさしぶりで、庁舎が新しくなってから来た記憶すらないが、なにかしらで一回くらいはおとずれただろう。建物前の広場をあるき、正面からはいる。すでに参院選の期日前投票所が用意されているようで、二階に誘導する看板があった。その横を過ぎて自動ドアをくぐり、手を消毒。フロアにはいって右手に体温測定の機械もあったのでそのまえに立って身をかがめ、額を画面にうつしていると、しかし一向に体温が表示されない。あきらめると同時にちかくにいた女性案内員が、すみません、いまそれちょっとなかなか読み込みがわるくて、と声をかけてきたので肯定し、ちょうどよかったので、二つやりたいことがあって、と案内をもとめた。ひとつが住民票を取るのと、もうひとつが転出届の提出だと。質問にこたえてすでに引っ越しており、(……)市にいるというと、女性は記入台まで案内してくれ、用紙を二枚取り出した。住民票の写しは管理会社に提出をもとめられていると事情を言うと、すでに引っ越しが済んでいるとなると、むしろ(……)市のほうで転入をすませてそちらで住民票を取る方法もあるがといわれ、ここで取るなら除票というものになるということだったが、もともとここに住んでいたということがわかればいいようだとこたえる。それでは除票というところにチェックをしてくださいと言われ、それで女性ははなれていったので、台で用紙を記入。ボールペンはじぶんのものではなくてそこに用意されていたものをつかった。これは消毒済みの表示があって、つかったあとは発券機の横の箱に入れてくださいとあったのでそうした。書き終えると発券。画面を押す。用事がふたつあったので二種発券してしまったが、そのうちのいっぽうの番号ですぐに呼ばれてカウンターに行き、そこの中年女性に券を示すと、ここで両方とも対応しますねということで二種とも渡し、いっぽうは破棄されるとともに女性は該当の窓口にこっちでやるということをつたえていた。それでまず転出届のほうだが、パソコンをつかって調べていた女性は、あれ? みたいな雰囲気でしばらくやっていたとおもうと、転出の手続きがすでに処理されているというので、すでに郵便で送ったのだが証明書の返送がまだで、引っ越しから二週間以内というと期限がきょうなので直接来たと説明した。それから女性は少々お待ちくださいといって席をはなれ、パソコンなどの乗ったデスクがひろがって職員らがおのおのはたらいている奥のほうに行って聞いたり調べたりしていたようだが、もどってくると、処理は済んでおり、郵便の発送ももう済んでいるのだという。ただ郵便局のほうで処理があるのでそれでまだ届いていないのだろうと。しかもいまは土日はやらないから、受け取りはおそらく月曜日、ばあいによっては火曜日になるだろうという。それで転出届というのはここであたらしく発行することはできず、そうすると二重になってしまう。郵送したものをなくしたとかそういう事情があれば発行できるのだが、いまの状況では問題なく受け取れるはずなので、そうなるとそれを待って(……)市のほうで転入手続きをしてもらうことになると。一四日以内と期限が定められてはいるが、すくなくともうちだと、コロナウイルスもあって役所に来れないというひとも多いから、まあしょうがないよね、みたいなそういう風になっているというので、まあなるべくということですねと笑って受けた。まあちょっと過ぎたからどうのということもないだろう。それに(……)市でも問われたら事情をはなせばどうにでもなる。それなのでこの日このあとに(……)市役所にも行って転入手続きまでやるつもりでいたが、その用事はなくなり、住民票を取得するだけで済むことになった。これは好都合だった。時間的にも(……)のほうに五時までに間に合うかどうかあやしかったし。それで住民票については、(……)市のほうでというのは案内人にではなくてここで言われたのだったかもしれない。いずれにしても旧住所の証明になればいいようなのでと言って発行してもらうことに。それではなしは終わったので礼を言って立ち、そのへんの座席にすわって待つ。番号券は二枚セットになっていたのだが、その片割れがここで返却されて、呼ばれるさいの目印になるわけである。席にすわってからは瞑目して休んだり、まわりのようすをながめたりしていた。待っているひとのあいだに意外とスマートフォンをつかっているものは目につかず、なにをするでもなくカウンターのほうを見たり、アナウンスとともに頭上の電光掲示板に番号が映し出されるとそれを追ったりしているひとが多かった。すこしまえの席には老婆がおり、その脇でたぶん職員だったとおもうがひざまずいていろいろはなしをきいている若い男性がいて、ずいぶんながいあいだそうしていた。こちらの右隣には年嵩の夫婦が来たり。ちなみにカウンターにいるときの右隣では高齢の老人をふくんだ一家がなにか手続きしていて、女性が老人について、もういくらかぼけちゃってて、と言っていた。職員がなにか質問をして、それにこたえるのにまごついたりおもいだせなかったりしていたようだが、本人証明はできましたので、ともいわれていた。
ふたたび呼ばれるまではそこそこ待った。D035番で呼ばれ、六番窓口に行くと、さきほどとはべつの若い女性に住民票の除票を示されて支払い。三〇〇円。五〇〇円玉で支払い、釣りを受け取って礼を言い、退去。入り口近くまでもどって、リュックサックからクリアファイルを出してそこに入れておく。そうして建物をあとに。風がよく吹いており、広場には市の旗と日本国旗と、あとはたぶん姉妹都市のものだろうが外国のものらしい旗が三つならんで柱に掲げられて大気にうねっており、陽射しもまだまだあって空気に熱がこもっていた。完全無欠に夏だった。駅までゆっくりあるいてもどる。ホームにはいると先頭のほうへ。わざわざ屋根のない、ひかりにさらされるそのしたに出たことになる。電車を数分待つあいだ、線路をはさんで向かいでは家屋のすきまのような敷地で野菜づくりをしているひとが、枠組みにビニールをとりつけるかなにかしていた。四十代くらいの男性。じきに奥さんもそこに合流し、緑の葉のあいだを通って作業をしている。つくっているのはよくわからなかったが、ピーマンかなにかだったろうか。何種かあるようだったが。
電車に乗るとふたたびFISHMANSを耳にながしこんで、席で瞑目。特段の問題はなかった。道中のおぼえはない。(……)に着くとニトリに行くことに。キャベツを切って食うのにいつまでも紙皿ではやりづらいので、大きめの皿を一枚だけでも買うつもりだったのだ。駅を抜け、広場を通り、高架の通路へ。(……)の横を行くと正面のショーガラスにTシャツに黒ズボンのこちらのすがたがうすくうつり、そのうしろからずんずんとあるいてちかづいてくる人影も見える。まもなく追い抜かされる。周囲の誰よりもじぶんは歩みがおそい。歩道橋に出ると風がよくよくながれており、渡って左折するその角にしたの街路から伸びている樹はイチョウではなくてもっとおおきな葉の茂り、赤ん坊の顔をすっぽり覆えるくらいは容易にありそうな緑の葉の群れが風にわさわさ立ちさわいで旺盛だった。(……)のビルへ入館。手を消毒したついでに右方のPaul Smithの店舗が目にはいり、(……)自体はこのビルからもう撤退するというはなしだし、Tシャツもほしいしちょっとみてみようかなとおもってはいったが、さしてめぼしい品もなく、しかも高いから値段もたいして見ずにさっさと退散した。そうしてフロアにはいってエスカレーターに乗り、ニトリへ。キッチン道具のあたりを見分。食器のたぐいは皿を二枚とカップコップのたぐいを二つ買うことに。皿はキャベツなどを切ったときにそれを載せられるおおきめのものを探していたわけだが、白地にオリーブらしい植物が濃い目の青で描かれているやつがあるなかではいちばんよくおもったのでこれにしようと決めた。もうひとつ、ウッドディッシュみたいな、濃い茶色の木製の皿も買っておく。さきのものよりはすこしちいさめ。炊飯器を調達して米を食うようになれば椀とか、あと汁物用の椀とかもいるがそれはおいおい。コップもいつまでもプラスチックコップではとおもっていたのでなにか買おうとおもい、しかしならんでいるのをみてもさしてピンとくる品はない。ステンレス製の真っ黒なマグカップがいちばんいいなかとおもったのでそれに決め、もう一品、ガラス製のマグカップで、持ち手が深い青に染まっているやつ(「青藍」)と、琥珀色のやつ(「琥珀」)があったのだが、その前者も買っておくことにした。しかし二六日現在、どちらもまだつかっていない。あと箸も二種。ふつうに使う用と、細めの箸をもうひとつ買っておいたが、後者はなんか料理とかにつかうかなとおもって。あまり長くないが。スプーンも同様に、木製のやつとふつうのやつをひとつずつ。あとランチョンマットだ。ぜんぶ二種ずつ買ってしまったが、マットは数種の青に染まった長方形が組み合わさった、ジーンズにも見えレンガ壁のようにもみえる模様のやつと、濃い緑一色のもうすこし布っぽい、ややペラペラしたやつ。前者のほうはすこしだけゴム的というか、ウレタンなのかあれは? ウレタンってなんなのかちっとも知らないが。そのほか収納スペースしたに置いてある本たちを袋から出して積むのだったらそのしたにやはりなにか敷いたほうがいいよなとおもってそちらの方面も見分したが、これはけっきょくよさそうなものが見つからず。机のしたに敷いたコットンラグとかがあるあたりに行ってみたのだが、コットンラグは最小で100×140、収納スペース下のサイズはおおよそ80×120くらいで、それだとやっぱりちょっとでかいよなあというわけだ。そのまわりには竹風のマットもいろいろあったのだけれど、これもやはりサイズがどれも合わない。その他何個か組み合わせてつかうようなタイルの区画もみたけれど、ピンと来るものがなし、これにかんしては措いて帰ることにした。会計。五三九四円。どんどん金が出ていく。女性店員は、割れ物用の紙が台のしたにありますので、包装にご協力くださいと言った。くわえて、プチプチのシートを二枚くれた。それで台にうつり、オリーブ柄の皿を用紙でてきとうにつつんでいった。二枚重ね。セロテープがそばにあったので折りこんだ紙の各所を留める。プチプチは一枚はビニール袋の底に敷いてそのうえにオリーブの皿、そして木製皿と乗せ、もう一枚のプチプチはガラス製のカップをつつむ用につかったのだが、用途がこれでただしかったのかわからない。皿を紙で包むまえにプチプチを入れるのだったのでは? しかし割れなかったのだからなんでもよろしい。
退店し、下りていってビルを退出。一階まで下りたのだった。というのは夕飯に、先日(……)くんが買っていた「(……)」をじぶんも食べてみようとおもっていたからだ。店舗はビルの真向かいにある。それで一階の正面から出て横断歩道をわたり、店のまえでメニューの看板をみているとちいさな自動ドアをとおって店内から女性店員が出てきて、いらっしゃいませとかなんとかいう。会釈してメニューをみつづけ、やっぱりとりあえず海鮮ちらしかなとおもって、すいません、いいですかと声をかけて注文した。そのまま店のなかへ。無料でご飯を大盛りにできるがというのはふつうでとこたえ、直乗せとべつ乗せといっていたか、具と米をわけることもできるらしいのだが、それは直乗せでとたのんだ。女性は中国だかどこだかわからないがことばのはしばしのアクセントがちょっと日本人のそれとはちがっていたので、外国出身のひとだったようだ。店内にはもうひとり眼鏡の男性がいて、このひとは威勢と愛想がよく、見た目の線は細いがおおきな声でテキパキはたらくひとだった。待っているあいだはカウンターのいちばん端に案内され、女性が茶を持ってきた。ほうじ茶かなにか。あたたかいお茶です、といわれたような気がするのだけれど、冷たいものだった。男性はむこうのほうで品をつくっていたのだが茶に二口くらいしか口をつけていない時点ではやくももうできて、袋にはいったものを持ってきたので、茶はもったいないがのこしてしまうことに。飲み干していったほうが良かったか。客もひとりしかいなかったし。こちらが荷物を持って立ち上がると男性店員は奥で来たばかりのそのひとりの対応をしていたのだけれどそこからありがとうございましたー! と威勢よく声を放ってきて、こちらが身支度をととのえて扉にむかうさいはレジのほうに来てもういちど礼を言うので、じぶんもそれに応じてありがとうございましたと言って退出した。
その後は駅にもどって電車に乗り、自宅に帰ったわけだが、道中とそのあとの夜に特別なおぼえはない。