ダーシー氏にとって、そして著者オースティンにとっても読者にとっても、こうしたひとり歩きはヒロインの自立を意味するものであり、家を中心とする世間やその住人をはなれて、自由にものを考えられる広大で寄る辺ない世界への道を示すものとなっている。歩行は心身両面の自由を表明しているのだ。オースティンはこの小説 [『高慢と偏見』] では『マンスフィールド・パーク』ほどには景色について触れていないが、エリザベスがみせる風景への感受性はやはり彼女の洗練された知性を証すものとなっている。ダーシー氏自身ではなく彼の所領ペンバリーこそが、氏へ(end163)のエリザベスの考えが変わるきっかけとなった。そして、その庭園を歩くことはすぐれて親密な行為となる。
彼女は「自然がこれほど生かされていて、自然の美しさが下手な意味で損なわれていない場所はほかに見たことがなかった。……そのときエリザベスは思った、ペンバリーの女主人になるのも悪くないかもしれない!」 エリザベスは明らかにギルピンの教えに従って、館のあちこちの窓から眺望を吟味した。その後、川へ向かって歩いて行く途中で、館と川の持ち主である当主が姿を見せる。彼女の叔父は「この大庭園をひとまわりしてみたいものだが、とても歩けるものではないかもしれない、といった。園丁は得意気な微笑みを浮かべて、ひとまわりで一〇マイルはあります、といった」。エリザベスがひとり歩きを好むことと同様、明らかに有能なる [ケイパビリティ] ブラウンの先進的なスタイルを採り入れて自然のよさを表現した見事な土地を所有していることは、ダーシー氏の人格を示すヒントとなっている。この場所で偶然に出会ったことをきっかけにして、ふたりはそれまで以上に注意深い、意識的な関係をもつようになる。「一行は定まった道順をたどることにした。しばらく行くと、やがて森の間を下って水辺に出た。そこは川幅がいちばん狭いあたりだった。あたりの風景によく馴染んだ簡素な橋をわたった。……谷はここで狭まり、川の流れと、川辺を縁どる低木のあいだに細い道を通しているのみだった。エリザベスは曲がりくねった先へ歩いていきたかった。……」
(レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、163~164; 第六章「庭園を歩み出て」)
八時二三分に起床。それいぜんにもやはり覚めたおぼえがある。八時台に覚めたときにももうすこしねむろうかなとおもったのだが、まあいいかと深呼吸をはじめ、二三分におきあがるとカーテンをあけた。きょうも曇天。また雨が降ってもおかしくなさそうな鈍い色の空。しかし予報を見ると降水確率は低い。あしたは晴れるようだ。洗濯をしたいが、あしたが転入届け出の期限日なので、役所に行かなければならないだろう。まずもって(……)市役所がどこにあるのか把握していない。高校時代にまえをとおったおぼえはあって、たしかあのへんだったかなという漠然とした見当はあるのだが。
起き上がると洗面所で顔を洗い、麦茶を飲む。さくばんはロラゼパムを飲んだためにまたからだが重くなって、漫画とかでよくあるが、なんだこの不可解な重い眠気は……まさかさっき食べたあの食事に薬が……? みたいな、睡眠薬を盛られたかのごとく身が重く眠かったので、シャワーはかろうじて浴びたものの、歯磨きをせずに倒れてしまった。それでいつか意識をうしない、気づくと四時台だったのでそこで明かりを消して眠ったわけだが、それなので歯を磨くことにして、デスクについてウェブをみながら口のなかをガシガシやった。そうして八時四〇分くらい。寝床にもどって書見をする。ホッブズ/永井道雄・上田邦義訳『リヴァイアサンⅡ』。53から109まで。第三〇章は「主権を持つ代表者の職務について」。主権者の目的は人民の安全を獲得し、ひとびとが生命を維持するだけでなくコモンウェルスの害にならない範囲で生活上の満足をもえられるようにすることであるとか、こうした主権者の権利にかんしては、その根拠や理由を人民におしえて理解させなければならないとか、国民は統治の変更を望まないように教えられなければならないとか、また主権者ではないけれど人気のあるひとにしたがわないように教えられなければならないとか述べられている。108から109にかけては、「主権者の権力について議論しないこと」、「国民は、義務を学ぶための日をべつにとっておくこと」という二つの小見出しのもとに説明があるが、まず前者にいわく、「つぎのようなこともひじょうな誤りであることを国民に知らせなければならない。すなわち、主権を持つ代表者〔それがひとりであろうと合議体であろうと〕の悪口をいうこと、その権力について論証したり、議論すること、あるいは、彼の名称をなんらかのしかたで不敬に使用し、それによって彼が人民に軽蔑されるようになり、人民の服従〔コモンウェルスの安全はこれにかかっている〕をゆるやかにすることになるようなことである」(108)とある。後者は以下のような記述だが、読んでいてこれやっぱり中国じゃん、とおもった。ホッブズ自身はユダヤ教の安息日における法の学びにそれを比しているが。
第四に、人民にこれらのことを教えることは困難であり、かりに教えたとしても彼らは記憶することができない。そればかりか、一世代もたてば権力がだれの手にあるかということさえわからなくなるということを考えておく必要がある。そしてこれを避けるには、一定の時間を通常の労働と区別し、その時間には、彼らを教育するために任命された人々のところに出席するようにするほかはない。したがって、そのような一定の時間を決め、そのときには彼らが一個所に集まり、〔主権者のなかの主権者である神に祈りと賛美を捧げたあとで〕彼らの義務についてその任命された人々によって話されるのを聞き、彼らすべての者に一般に関係がある諸実定法が読まれ説明されるのを聞き、彼らに法を作っている権威を心に銘記させるようにすることが必要である。
一〇時過ぎまで読んだ。MOLDEXピュラフィットの耳栓はとてもよい。長時間つけていても耳が痛くならないし、それでいて遮音効果はかなりある。向かいの保育園の子どもたちの騒ぎ声がほどよいBGMと化した。とちゅういちど耳をマッサージしようとおもってはずしたとき、保育園では花のなまえをいいながら手を叩くというあそびをやっており、保育士がツバキとかタンポポとか、アジサイとかいろいろな花のなまえをいいながら拍子をつくるように手をパンパンパンと叩き、そのあとに子どもたちの一団がそれを真似してみんなでいっしょにくりかえすという趣向だが、なかにひとり、このリズムの交換にしたがわずそれからはみ出して、ア! ジサイ! とかタンポポー! とか、まだいわれていないなまえをじぶんのタイミングとリズムでもう口にしてしまう独立独歩の気概をもった男児がいた。書見を切ると瞑想。座布団を二つ折りにしたうえに乗るのがいちばんよさそう。さいしょにしばらく深呼吸をしてからだ全体に酸素や血をめぐらせる。そうすると全般的に筋肉がふわっと軽くふくらむような感じがする。それから静止。なにもしない時間としての瞑想だという点にたちかえった。窓外では子どもたちがまたなにやら叫びをあげており、その叫びは蒸気が沸騰しているようなおとの甲高さで、たちあがりの軌跡はまっすぐではなく、おおきな風船が穴をあけられて一気にヒュルヒュルと空中をおよいでいくような、すこしゆらぎと曲線の混ざった伸び方だったが、よくあんな声をふつうに苦もなく何回も出せるなとおもった。
三〇分ほど座って一一時前。立ち上がって屈伸など。麦茶がなくなった。飲み物をまた買わなければならない。自販機の水が補充されているといいのだが。麦茶でもべつにわるくないが。きのう郵便ボックスに郵便局からの「居住確認のお伺い」といううぐいす色っぽい緑の紙がはいっており、なんでも郵便物が届いているが、居住確認ができないのでお預かりしている、居住している、していないに丸をつけてちかくのポストに投函してくれとのことで、これはたぶん兄が浄水ポットを送ってきたのではないか。居住確認ができなかったというのは、転入手続きをまだできていないことが関係しているのかもしれない。あるいはまさしく、(……)市から転出証明書が送られてきたということではないのか? そうだったらさっさとこの確認用紙を投函しておいたほうがよいなというわけで、いましがた行ってきた。かっこうはこだわらずジャージに肌着で、ついでに飲み物も買おうとおもって財布をポケットに入れた。マスクもつける。それで部屋を出て、階段を下りてビルを抜け、あたりにポストがないかと見回したものの赤い色が見つからなかったので、先日行った郵便局のポストでいいやとそちらのほうにあるきだした。「(……)」という蕎麦屋がすぐそこにあることは(……)が言及したりして知っていたのだが、きょうはじめてそれを意識して確認した。テイクアウトができるようならここで飯を買うのもたまにはよさそうだとおもったが、すくなくとも店の表のメニューを見た限りではテイクアウトの文字はなく、やっているのかどうかわからない。店内だけかもしれない。そこをはなれてすすむと向かいにバスが来て、空き地のまえに停まっていたのでこんなところがバス停なのかとおもった。道沿いの集合住宅ではゴミが出されており、いまちょうど収集車が来て路地に止まり、ビニール袋を回収しているところだった。きょうは木曜日なので燃やせるゴミの日だ。ぜんぜん意識していなかったが、燃えるゴミはまだ出すほど溜まっていない。それよりも火曜日の夜に、消耗と薬の作用でたおれてしまい、発泡スチロールを出せなかったのが痛かった。目の筋肉を伸ばそうとおもってまっすぐ果てまでつづくみちのそのいちばんさきを見ながらあるき、ポストに投函。そうして来た道をもどる。「(……)」のまえにはすこしふくれたからだでややいかつそうな土方の兄ちゃんが立って電話をしていた。セッパンはあったんですけどなんとかかんとか、とか言っていた。空は厚く雲に覆われており切れ目はすこしもない。白を越えて薄灰色によどんでいる範囲もひろい。アパートのまえまで来ると自販機を見たが、やはりまだ水が補充されていなかったので、麦茶を二本買った。そうして部屋にもどり、ついでに室のそとにある乾燥機をつかってみるかとおもって、耳栓をつけ直すと吊るしてあるタオルや下着などに鼻を寄せてかいでみたところ、乾ききってはいないものの、意外にも生乾き部屋干しの悪臭はまったくない。なぜなのかわからないが。それで、まあこれでももういいといえばいいなとおもいつつタオル類だけは乾燥機をつかおうかなとおもったところが、財布をみると一〇〇円玉がなかった。五〇円玉しかない。一〇〇円で一稼働だからあれはたぶん五〇円玉は駄目だろうとおもって扉をくぐってみてみるとやはりそうだったので、しかたないとあきらめて、はずしてしまったタオルはじゃあもういいやとたたんで籠にしまっておいた。それでここまで記述して一二時半前。そろそろ飯を食いたいが、もうあと豆腐とカップヌードルしかないのでそれを食うほかはない。したがってきょうやることとしてはまず買い出しに出かけなければならない。あと二一日ときのうの日記をかたづけること。その他すぐやらなければというほどのことはないはずだが、転出証明書が来れば役所に行って手続き。手続きは転入と、国民年金の住所変更と、あとマイナンバーカードもつくってしまおうかとおもっている。その他そろえるべきなのはアイロンと調理器具、洗った皿を置いておくようなもの、炊飯器、あたりが優先度が高いか。冷蔵庫のなかのセッティングもけっきょくしていなかった。段ボール解体や雑紙の始末はぜんぜんやる気にならない。とくに先住者(……)氏が置いていった大量のチラシとか雑紙を処分せねばならず、なんでおれがやらなきゃならんのだともおもうが、これも人助けである(ほんとうにそうか?)。(……)氏宛のハガキ類は数日前にひとつ来たきりあとはないので、あちらも住所変更の手続きを済ませたのではないか。転入手続きが済めばなにができるかというと、それはもちろん(……)図書館のカードをつくって本を借りられるということだ! これこそがひとり暮らしの場所として(……)市をえらんだ最大の目的である。(……)図書館はすばらしい。だいたいなんでもある。バルトの講義録とかまた読みたいな。あとカフカ全集。フェリーツェへの手紙また読みたい。その他読みたいものは無限大な夢くらいにたくさんある。あそこは宝庫だ。
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- 「英語」: 61 - 72
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本堂を右手に左へ廻ると墓場である。墓場の入口には化銀杏(ばけいちょう)がある。ただし化の字は余のつけたのではない。聞くところによるとこの界隈で寂光院のばけ銀杏と云えば誰も知らぬ者はないそうだ。しかし何が化けたって、こんなに高くはなりそうもない。三抱(みかかえ)もあろうと云う大木だ。例年なら今頃はとくに葉を振(ふる)って、から坊主になって、野分(のわき)のなかに唸っているのだが、今年は全く破格な時候なので、高い枝がことごとく美しい葉をつけている。下から仰ぐと目に余る黄金(こがね)の雲が、穏かな日光を浴びて、ところどころ鼈甲のように輝くからまぼしいくらい見事である。その雲の塊りが風もないのにはらはらと落ちてくる。無論薄い葉の事だから落ちても音はしない、落ちる間もまたすこぶる長い。枝を離れて地に着くまでの間にあるいは日に向いあるいは日に背いて色々な光を放つ。色々に変りはするものの急ぐ景色もなく、至って豊かに、至ってしとやかに降って来る。だから見ていると落つるのではない。空中を揺曳して遊んでいるように思われる。閑静である。――すべてのものの動かぬのが一番閑静だと思うのは間違っている。動かない大面積の中に一点が動くから一点以外の静さが理解できる。しかもその一点が動くと云う感じを過重(かちょう)ならしめぬくらい、否その一点の動く事それ自らが定寂(じょうじゃく)の姿を帯びて、しかも他の部分の静粛なありさまを反思(はんし)せしむるに足るほどに靡(なび)いたなら――その時が一番閑寂の感を与える者だ。銀杏の葉の一陣の風なきに散る風情は正にこれである。限りもない葉が朝(あした)、夕(ゆうべ)を厭わず降ってくるのだから、木の下は、黒い地の見えぬほど扇形の小さい葉で敷きつめられている。さすがの寺僧(じそう)もここまでは手が届かぬと見えて、当座は掃除の煩(はん)を避けたものか、または堆(うずた)かき落葉を興ある者と眺めて、打ち棄てて置くのか。とにかく美しい。
(夏目漱石「趣味の遺伝」)
(……)さんのブログから。夏目漱石もこういう描写うまいよなとおもう。みごとだ。余計なちからを入れず、飄々と書いているような、粋な書きぶりに感じられる。「今年は全く破格な時候なので、高い枝がことごとく美しい葉をつけている。下から仰ぐと目に余る黄金(こがね)の雲が、穏かな日光を浴びて、ところどころ鼈甲のように輝くからまぼしいくらい見事である。その雲の塊りが風もないのにはらはらと落ちてくる。無論薄い葉の事だから落ちても音はしない、落ちる間もまたすこぶる長い。枝を離れて地に着くまでの間にあるいは日に向いあるいは日に背いて色々な光を放つ。色々に変りはするものの急ぐ景色もなく、至って豊かに、至ってしとやかに降って来る。だから見ていると落つるのではない。空中を揺曳して遊んでいるように思われる。閑静である」と、すばらしいのだが、いまの日本の作家でこういうことを書くひとはたぶんあまりいないんだろうなという気がする。前線の作品を読んでいないからわからないが。「今年は全く破格な時候なので、高い枝がことごとく美しい葉をつけている。下から仰ぐと目に余る黄金(こがね)の雲が、穏かな日光を浴びて、ところどころ鼈甲のように輝くからまぼしいくらい見事である。その雲の塊りが風もないのにはらはらと落ちてくる」までは書くかもしれないが、そのあとは書かないのではないか。もしくは書けないのか。じぶんはほとんどなによりもこういう記述にこそ魅力を感じるタイプだが、文学の前線でこういうのを書いてももう受けないのか。やりつくされて古臭いものなのか。季節と植物と自然みたいなテーマはもはや現代的ではないし政治的でもないということなのか。そんなことを書いて風流ぶっている余裕はいまの日本社会にはないということなのか。単純に書き手にここまでの観察力がないということなのか。読むほうもこれをもとめていないということなのか。最前線の日本作家も読まねばならんとおもうが、明治大正あたりの古典もやはり読んで学びたい。
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飯は日清のカップヌードル(シーフード)と豆腐。二一日の日記を書き、それを投稿するあいだに電気ケトルで湯を沸かしておき、水道水は煮沸したあとに蓋をあけておいて蒸気を逃がしたほうがよい、そこに夾雑的な物質が混ざって出ていくから、それで何度か再沸騰させたほうがよいという情報を先日見たので、まあべつにこのあいだただ一回沸かしただけの湯でカップヌードル食ったときになにもかんじなかったがとおもいつつも、そのようにした。投稿して検閲漏れなどチェックするあいだに再沸騰させ、そうして食事。豆腐に鰹節を乗せるのはいつもどおりだが、きょうは麺つゆでなくて刻みタマネギドレッシングにした。タマネギドレッシングはうまい。それにカップヌードル。ウェブをみながらさっさと食い、食後はロラゼパムを一錠服用した。からだの調子はよい。胃のあたりがしくしくする感じとか、喉のつかえとかはない。とはいえ油断はできない。このまま心身をよりよい状態に高めていきたい。そのためにはやはりたしょうは運動的なことをしてからだに血を巡らせ、肉体じたいをつよくすることも大事だろうというわけで、それでさいきんは深呼吸をしたり、筋トレまで行かないが息をつよく吐きながらポーズを取ったりストレッチしたりとやっている。プランク状態で息をつよく吐くとかなりきいて、からだがてきめんにあたたまる。
カップヌードルの容器にはひとまず洗剤を垂らして泡立てておき、豆腐の容器とヌードルの蓋はスポンジでさっと洗ってながし、そのへんに置いておく。のちほどトイレに立ったついでに始末した。食後はきのうの日記を進行。投稿もOK。それで三時くらいだったはず。ロラゼパムの作用でやはりからだが重く、眠い。昼寝にいざなわれたりその欲望に屈しかかったりしているときの甘美さがある。つかいはじめはこんなに重かったのだなあといまさらのようにおもう。慣れてきたころあいには、重さは弱まってどちらかというとふわふわした感じになるので、その状態で春ごろに陽射しのなかをあるくとここちがよく、あー……気持ちいいなー……というダウナーな恍惚を得ることがたまにあった。またあの恍惚を体験したい気持ちもないではない。あとそういえば、どこかのタイミングで(……)さんにメールを送っておいた。精神科でヤクをもらったので二七日から復帰するということがひとつ。もうひとつには、先日もとめられたシフト希望提出には七月からいままでどおり週三で行ければと書いてしまったが、やはりちょっと不安なので、いったんすくなめで週二くらいの勤務ペースにしてもらい、それでようすをみながらならしていって、八月からもとの週三形態にもどれればとおもう、とお願いをしておいた。ちょっと不安なのでというのは嘘ではなく、やはり一気にもどすのではなく、また調子を悪くしないよう、油断せずにならしながらやっていったほうがよいのではないかという慎重な判断があるわけだが、パニック障害の悪化を口実に勤務を減らしてだらだらやりたいという怠け心ももちろんある。それだととうぜん金が稼げないが、いますぐ死にはしない。
きのうの日記をかたづけたあとはからだの重さのために寝床にうつらざるをえず、さいしょのうちはそこでChromebookをもって音読をしようと英語をボソボソ読んでいたのだが、まもなく(……)さんのブログを読むほうに気が変わった。さいしんの記事と、五月二〇日分。それでしばらくすると起き上がり、デスクについてきょうのことを加筆。ここまで記すと五時を越えたところ。
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買い出しに行かなければならないのだが、やる気が出ない。からだもやや凝っていたので、寝床にうつって書見をすることにした。『雨月物語』を読みすすめる。84から153まで。まあべつに、ふつうに怪奇譚なので、そんなにおもしろいというほどではない。亡霊もしくは幽霊が出てくるはなしがおおい。「蛇性の婬」だけあからさまに妖怪が出てくる。文章的にも、すくなくとも現代語訳を読むかぎりですごく興味深いこともないが、ただ訳文はきちんとした端正な仕事で、リズムがよいなとおもう箇所もときどきある。「きのうかきょう咲いたと思った尾上 [おのえ] の桜もいつのまにかすっかり散ってしまって、涼しい風に吹き寄せられる浦浪の様子にも、問わずとしれた初夏の訪れがはっきりとわかるころになった」(39)とか、「月日はたちまちのうちに経過して、下枝の茱萸 [ぐみ] の実が赤く色づき、垣根の野菊が色美しく咲いて、九月ともなった」(40)とか、こういう、年月の経過と季節のうつりかわりに風物をあしらって書くところはいかにも日本のむかしの物語だなという感じ。「やがて豊雄も真女児 [まなご] も、ほどよい酔いごこちになったとき、真女児は杯をとって豊雄にさし、あたかもらんまんたる桜の枝が水面 [みなも] に映っているような、ほんのりと桜色に色づいた顔に、そよ吹く春風をあしらうような媚を見せ、春風にのって梢から梢へと飛びくぐりながら鳴く鶯のような美しく妙なる声で、こんなことをいい出した」という120ページの描写はちょっと良かった。要はこの「真女児」(その正体は大蛇のあやかしである)の美しさや酔いの艶やかさを春のイメージに集約させているわけで、桜、春風、鶯と、春の三つセットをとりそろえて演出しているけれど、「そよ吹く春風を」以降はまあやりすぎかなとおもう。ただそのまえ、「あたかもらんまんたる桜の枝が水面に映っているような、ほんのりと桜色に色づいた顔」はすこし良かった。「桜の枝」と「水面」というふたつの要素のとりあわせで比喩がなりたっているからである。桜の枝が水面にうつりこんで色を水に混ぜているという現象と、顔の色づきという対応が、どちらもやや動詞的なものをふくみつつ、また視覚像として色彩を喚起させやすいのがよいのかもしれない。そのあとの比喩は「春風」と「媚」は単純な一対一の対応だし(「あしらう」という動詞はすこしよいが)、「鶯」と「声」は尋常に過ぎてひねりがない。「鶯」には「春風にのって梢から梢へと飛びくぐりながら鳴く」というながめの修飾がついているものの、これは「鶯」に収束するもので、比喩の向かうさきである「美しく妙なる声」にはほぼなんの具体性もつけくわえていない。ただ「鶯」にかんしても「春」という要素を明示し、とりそろえを強調しているだけで、「鶯」が「春」の風物であることは自明なのだから、冗語法とみえなくもない。直接にはおそらく、そのまえの顔の「媚」につかわれた「春風」のイメージをそのまま受け、そこから声の描写へとなめらかにつなげるのに利用したというところだろう。ここの記述で描かれているじっさいの対象は三つであり、それは、顔→(そこにあらわれている)媚→(美しく妙なる)声という順序である。そのそれぞれにたいしてあてがわれた比喩は、桜(の枝)→春風→鶯という連鎖をなしている。こうしてみると、「水面」という要素がなくともこの比喩的調和、イメージによる空間的統合はじゅうぶんになりたちえる。桜(の枝や花)を春風が揺らし、その揺れる枝のあいだを風に乗ってウグイスが飛び回りながら鳴く、という情景である。したがって、この比喩領域の三位一体からすると、「水面」はあってもなくてもよい要素であり、その剰余的な具体性こそがじぶんの感性を惹いたのかもしれない。とはいえ、この「水面」が要請されたのは比喩の行き先が「顔」だからであり、「水面」に桜の色が映りこむことと、「顔」が色づくこととがかさねあわされている。色づき、という現象があったからこそ、それに対応するイメージとして「水面」が必要だったのだ。その「顔」=「水面」の具体性を尊重するならば、「媚」をもたらす「春風」もとうぜんながら「水面」に吹くものであるはずで、そのばあいこの「媚」とは、風を受けて発生するさざなみや、水の立ちさわぎのようなものとしてイメージされているのかもしれない。すくなくとも、たとえるものとたとえられるものとの対応をかんがえると、地位としてはそれと同一の位置に来る。「水面」に風が吹いてふれたときに自然法則にしたがって順当に生まれるのは、その表面の揺動であるはずだからだ。「媚」というのは辞書的には、とりわけ女性が男性に性的にアピールしようとするさいのある種の色っぽさとかなまめかしさを指すものだが、「顔」にあらわれた「媚」が視覚的な意味で「揺動」として映るかというと、それはこころもとないところではある。ただ、客観的なあらわれとの対応は不問として比喩の連鎖をつづけていくならば、「水面」の「揺動」は「乱れ」とか「襞」ともいいあらわされる現象であり、そこまで行くとこの「媚」にある種の肉感性が生じてくるようでもある。
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書見は八時前くらいまで。買い物に行くことにした。肌着のシャツを脱いで制汗剤シートでからだや顔を拭く。服装はれいによってTシャツに真っ黒なズボン。きのう乾ききらなかったのだが、きょうはそとに出さず部屋のなかに吊るしておいただけなのに、意外にもこれならいいかなというところまで来ていた。ほかの洗濯物も同様だったので、それらはたたんでしまっておいた。そうしてあけていた窓を閉め、鍵もかけておき、リュックサックに財布やビニール袋を入れて、腕には時計、顔にはマスクをつけて外出。空いたペットボトルを自販機脇のボックスに入れておいた。左方、すなわち南へ。夜道に背後から車のライトが生じたので振り返ってみれば、近距離ではなく、とちゅうの通りを横にはさんだその向こう、反対側の路地から来るものだった。この土地の道はわりとそういうふうに、交差しながらながくまっすぐ伸びていることがおおい。公園にはひとの気配があったがよく見えず。電柱の下部になにかかかっているのを、老人がたたずんで煙草でも吸っているのか? と見間違えてしまう目の粗雑さである。二二日が公示だったので、よくみなかったがポスター掲示板は市議選のものから参院選のものへと変わっていたのではないか。右折しておもてへ。出ると左方に二つ目を皓々とひからせてくる車がみえたので、ぼんやり夜空をながめたりあたまをかいたりしながら待っていると、その車が止まってくれたので会釈を向けながら道を渡った。裏路地にはいる。すれ違うひとはそこそこある。空には雲の、繭糸が織りかさなったようなくすんだ白さがあらわで、そのまわりの深い地帯は青をふくんでいるとも見えるが、果たしてあれは晴れているのか、都市柄、星も見当たらないと各方をきょろきょろ見上げていると、雲のきわで湾になったような場所に一点ともったものがあったので、晴れてきてはいるらしかった。街灯がその根もとから両の瞳に向かって触手じみたひかりの線を、先端をするどくほそめたかたちで伸ばしてはまた縮ませる。向かっているのは駅の方角である。だから正面には駅前のマンションがそびえており、灯る窓あり灯らぬもあり、灯っていても暖色だったり黄みがかったり白かったり、またあれは部屋ではなくて通路なのか照明のすがたがはっきり見えて平べったく歪んだ花のように映る窓もあり、おのおの四角く切り取られた明かりのまだら模様は子どもがブロックを積んでつくった細工のごとく妙に興だが、手前では道の先にマンションを背景にいただいて低い建物が置かれ、夜闇のなかでもいくらか古びた質感をつたえてわびしいようなその横には赤い看板、それは昼間の知識にしたがえばクリーニング屋の表示なのだが、道が暗くて眼鏡もないので、白抜きされた「クリーニング」の文字がかろうじてかたちを成すかどうか、その店のまえを見逃してしまいそうにひそやかな調子でひとりが歩くところだった。表通りにあたれば横断歩道のボタンを押す。向かいはすでにスーパーで、衛生的なあかるさの店内を映した入り口にはいま男性がひとり、軽い身のこなしでカートをかたづけたかとおもうと、即座に出てきて片手にビニール袋を提げてわずかにかたむいた姿勢ですたすた去っていき、駅につづく細道からはふたりがあらわれ、通る自転車のライトがはためき、右手を見やれば先んじて黄色く赤くなった信号機がまっすぐな通りの宙に浮かんで色をにじませている。
渡ると入店。手を消毒し、籠を持つ。目当てはキャベツと大根、あと豆腐も買おうとおもっていたが豆腐はわすれた。先にしかしサラダチキンとかおにぎりとかそちらのほうへ。チキンはこのあいだ食ってうまかったレモン風味のやつと、三個セットのハーブのもの。水のペットボトルもおおきいやつを買うことに。サントリーの天然水。二リットルで八〇円くらいなので、自販機で買うよりかなり安い。自販機は五〇〇ミリリットルだか六〇〇だかで一〇〇円なので。今度からそうしよう。浄水ポットもじきに来るはずだが。飲むヨーグルトも買った。おにぎりは三つ、手巻きひとつ、メインはねぎとろとマグロの身が乗った丼が安くなっていたのでそれにして、その他ドレッシングも切れかけているので刻みタマネギドレッシングももう一本ほしいが、今回はクリーミーオニオンドレッシングというやつを選んでみた。あとオールドファッションドーナツが五個入った品。そうして野菜のほうにもどってキャベツと大根を取ると会計へ。れいの白髪の男性があいて。きょうも箸をすすめられたので、はいと受けて一本もらっておく。読みこんでもらうと機械で会計して整理台に移り、リュックサックとビニール袋とにわけていれていると横にちいさな子どもふたりと母親の一家がやってきて、横にふくらんだからだのおおきな母親は子どもに品物を袋に入れるようにいうのだが、子どものほうはそこに置いてあるチラシかなにかに気を取られてそれをほしがり、いらないよそんなもの、駄目でしょ、ゴミになっちゃうだけなんだから、いらないよ、などと否定され、えー、とかいいつつようやく何かの品を台にそなえつけられている薄手のビニール袋でつつみはじめた。あと整理台には何本かセットになったビール缶をつつんでいるあの紙の枠が放置されていた。だれかが取ったまま捨てていったのだろう。こちらはさきに終わってリュックサックを背負い、ビニール袋を片手に提げて退店し、横断歩道のボタンを押して待ったあとに渡りだすと、背後から、いつまでもいっしょにいられるわけじゃありません、という声が聞こえて、振り向けば先ほどの親子であり、じぶんのことはじぶんでやる、親に頼らず暮らせるようにする、などと母親が言っており、自立心をはぐくむ教育をはじめるのがずいぶんはやいじゃないかとおもった。子どもふたりはせいぜい小三以下だろう。道をわたるとせっかくなのでと来たほうとは違うほうに折れ、焼き鳥屋などのまえを過ぎつつまた駅前のマンションの照明によるまだら模様をながめて歩く。道の先はそう大きくはないが十字路である。その右手から自転車が来てライトを先触れにあらわしたあと過ぎていったり、向かいにひとがあらわれたり、信号の色が転じてあたりにひろがる色づきもうつり変わったり、脇の車道を背後から来る自動車のライトによって十字路の角に影が貼られ、こちらの影もなかに含むそれが車の進行とひかりのひろがりによって横にするするながれていったりと、たんなるちいさな辻であってもめぐり合わせによっては微小な偶発事の交錯がはなはだしく、道を曲がると音源なのか実演なのか、どこかからピアノを弾いているようなおとさえただよった。夜でそとのことでマスクは口からはずして顎のほうにずらしており、ビニール袋を片手に持って、じぶんの歩みは周囲のだれよりもまちがいなく遅い。すれ違うのは若くて背の高い男性に、胸のかたちを強調するかっこうをした女性の互いに媚び合うように身を寄せたカップル、またちいさな子どもとともに犬を連れたひとなど。自転車も通った。とちゅうの公園には誰かがいて、スマートフォンを掲げるようなそぶりを見せていたようだが、写真でも撮っていたのかそれとも自撮りの動画配信でもしていたのか。集合住宅の前にはゴミ袋が集まって一箇所に押しこまれている。
帰宅。手を洗ったり服を脱いで着替えたり。品物を冷蔵庫に入れたりも。そういえば冷蔵庫は出かける前にようやくなかをセッティングしておいた。セッティングといっても、ガラストレイを二つ差しこんで段をつくるだけだが。二リットルの水は最上段に寝かせるかたちで入れておいた。まんなかのスペースはひろめに取り、下部のフリートレイ部分に野菜とかサラダチキンとかを入れておく。その後は飯を食い、そしてロラゼパムを飲むと例によってからだがひじょうに重くなってつかいものにならなくなり、この日のことを書こうとしてもぜんぜんつづかず、椅子の背をちょっと倒してしばらく目を閉じて深呼吸し、エネルギーをとりもどしてからまた書きだすものの、それでもいくらも書けもせず、いつか重さに負けて寝床に伏しており、いつものことでそのまま意識をうしなっていた。三時頃に覚めたおぼえがある。明かりを消して就寝。
あと買い出しに出る前、七時四八分に(……)から着信があり、出ると管理会社のほうで住民票がほしいと言っているとのことだったので、ちょうどあしたが転入手続きの期限だから取ってくると了承した。