2022/7/17, Sun.

 移動の自由の足枷となったカテゴリー区分はほかにもあった。それでも、人種・階級・宗教・民族・性指向といった条件による制約は限定的で、女性であることと違って揺らぎの余地を残していた。それに比べ女性に課されてきた制約は、いずれのジェンダーについてもそれぞ(end394)れの自己規定に対して千年単位にわたって根本的な影響を与えている。この事実は生物学的にも心理学的にも説明が可能だが、おそらく決定的な要因は社会・政治的な状況だ。どこまで遡ることができるだろうか試してみよう。中アッシリア時代(前十七世紀―前十一世紀〔日本語でいう「中アッシリア時代」は前十四世紀から〕)、女性は二つのカテゴリーに区分された。夫のある者と未亡人は「通りに出る」際に頭部を人目に曝してならないと法に定められ、娼婦と奴隷階級の少女は逆に頭を隠してはならないとされた。法に背いてヴェールを着用した者は鞭で五十回打たれるか、もしくは融けた松脂を頭からかけられた。これに関して歴史家ゲルダ・ラーナーは次のように述べている。

家庭の女性、つまりひとりの男性に性的に仕えその庇護を受ける者は、ヴェールによって「尊重すべき [リスペクタブル] (=方正である)」存在であると示される。ひとりの男性の庇護下になく性的な統制を受けていない女性は「公衆の女 [パブリック・ウーマン] (=売春婦)」であり、したがってヴェールを着用させない。……この種の視覚的な差別化は歴史において繰り返されている。「いかがわしい女」をなにか目につく印をつけた特定の地域や建物に住まわせたり、当局への登録を義務付けて身分証を携帯させたり、といった取り決めが無数に存在する。

 無論のこと「方正な」女性も統制を免れていたというわけではないが、それは法よりもむしろ社会的な制約によるものだった。その意図がその後の世界でひろく実現されていったように(end395)も思えるこの法の登場には、多くの重要な点が指摘できる。女性のセクシュアリティを私的ではなく公的なものにしたということ。性的な接近可能性と可視性とを等号で結んだこと。女性を他人の手の届かぬ対象とするために、当人の道徳や意思ではなく物質的な障壁を必要としたこと。女性を性的な行状にもとづいて誰もが認識できる二つの範疇に分離したこと。その一方で、男性の性は私的な領域に留めることを許容し、いずれの範疇の女性に対しても等しく接近可能としたこと。方正な範疇への帰属には私的生活への埋没という犠牲をともない、空間的・性的な自由を有する範疇への帰属には社会的評価における代価が求められた。いずれにせよ、この法は女性が公的な存在として尊重されることを事実上不可能にし、それ以来、女性のセクシュアリティは公の関心事となった。
 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、394~396; 第十四章「夜歩く――女、性、公共空間」)





 九時ごろにいちど覚醒。そこから深呼吸したり、膝を立てた状態で静止したり、息を吐きながらあたまを左右にころがして首のすじを伸ばしたりしているうちにけっこう時間が経っていたようで、起き上がって携帯をみると一〇時半ごろだった。寝床で目を閉じているあいだにもカーテンの裏から漏れてくるあかるみがときおりつよまるのを感じていたが、あけてみれば久方ぶりの晴れで、空には雲に追いつかれぬ青さがみられ、ひかりもあたりにただよっている。昨晩はまたしてもちょっと休もうとおもっていたところにいつの間にか寝てしまっており、したがってまたシャワーを浴びられなかった。そのために髪がすこしべたついていて、あたまがかゆい。洗面所に行くと顔を洗い、そのままデスクについて歯磨きもした。そうして一一時前をむかえると寝床に帰って書見。マルクス・ガブリエル/中島隆博全体主義の克服』(集英社新書、二〇二〇年)。122からはじめて、いまもう宵にはいった七時半だが、ほぼさいごまで行っている。あと一五ページくらい。第四章「全体主義に対峙する新実在論」、第五章「東アジア哲学に秘められたヒント」あたりは、新書なのでおおざっぱではあるけれどわりとガチガチの形而上学がはなされていて、そうするとやはりおもしろい。じぶんのこういう形而上学的な世界把握にたいする関心や、それをおもしろいと感じる感性がなんなのかというのもあらためて意識するとよくわからないが。中国思想もおもしろそう。王弼 [おうひつ] という三世紀の魏の学者がいて、中島隆博によればかれは「「無」を概念化して、いわば無の形而上学を作り上げようとし」たというが(144)、マルクス・ガブリエルはいぜん中国哲学の研究もたしょうしており、ハイデルベルク大学セミナーでルドルフ・G・ヴァーグナーという中国研究者とともにこの王弼について議論していたのだという。目配りがひろい。かれの「無谷」という思想はシェリングの「無底」という概念と似ていると。シェリングなんていま日本であまり注目されていないというかぜんぜんなまえを聞かない印象だけれど、デリダの「反復可能性」という概念はシェリングから直接来ているというし(163)、ここではなされていることを読むにさいきんのいわゆる現代思想、つまりメイヤスーとかにとっても重要な哲学者なのではないかという気がする。哲学史的に意外な投錨点というか。ぜんぜん知らんのであてずっぽうだが。
 シェリングの「原偶然性(Urzufall)」とか、「原事実」というかんがえかたについては以下のように説明されている。

MG わたしは、後期シェリングの議論をこんなふうに読んでいます。机の上にペットボトルがありますね。でもさっきまではありませんでした。では、机にペットボトルがない状態からある状態への時間的な移行をどう考えればいいでしょうか。
 シェリングによれば、ペットボトルが置かれる以前の状況をすべて知り尽くしても、机の上にペットボトルが置かれるようになることを知ることはできません。たとえ「こういう場合なら、ペットボトルがあるだろう」といったような予見的な知識をもっていたとしても、それは単に、特定の条件に関わる問題を提起するだけです。その条件は、どこから来るのでしょうか。その条件が由来する条件を知っても、さらにその条件の条件自体はど(end159)うなるのでしょうか。わたしは条件の条件の……条件という知識はもてません。
 結局、あるのは事実だけです。シェリングが言うように、この事実が存在するという事実――その事実性――にそれ以上の根拠はないのです。
中島 シェリングが「原事実」と呼んでいるものですね。
MG ええ、彼はそれを「それ以前を考えることのできない存在」とも言います。他の存在がその背後にあるとは考えられない存在のことですね。ですから、「それ以前を考えることのできない存在」は、ペットボトルにも宇宙にも自然にもなりえます。何であってもいいのです。
 しかし、事実の背後に考えうるものはない。これが「無底」の意味するものです。するとここに、後期シェリングのトリックが出てくるのです。原事実を根拠づけるような理由がないことを考えると、原事実がないことの理由もないというものです。
 人々は常に、偶然性は何かが存在する理由がないことだと考えてきました。しかし、シェリングは、偶然性が存在することを排除するものもないというのです。つまり、原事実が存在することを排除するものはなく、事実がいきなり生起するということです。これは実に現代的な議論です。
 (マルクス・ガブリエル/中島隆博全体主義の克服』(集英社新書、二〇二〇年)、159~160)

 「つまり、原事実が存在することを排除するものはなく、事実がいきなり生起するということです」といっているが、うえでメイヤスーというなまえを出したのは、よく知らんのだけれど、メイヤスーは思弁的に論理を組み上げて、この世界の物理とか存在法則があるとき一挙に変容してもおかしくはない、そういう可能性があるということを論証している、みたいなはなしをききかじったことがあるからだ。もうひとつ、うえに箇所につづく興味深い部分を引用しておきたい。

 たとえば、無限の側面をもった立体を想像してみましょう。その立体のひとつの側面にわたしたちがいるとします。そこには無限の時間があります。立体は常に回転しています。これがわたしたちの置かれた状況です。でもわたしたちの状況がそのように示されたものであることに理由はありません。その背後には何もないのです。シェリングは、この立体のようなモデルを一般化したわけです。
 あなたは、この立体はどこにあるのか、どうなっているのかと、統計的あるいは物理的な説明を求めるかもしれません。
 しかしシェリングに言わせれば、それは間違っています。立体の状況をそのように説明するための、すでに存在しているリアルなものなど必要ありません。あなたに必要なのは、存在するものの無限の可能性だと言うでしょう。このまだ存在していないもの、存在していない可能性が、すべての物において実現されていくのです。
 だからシェリングは、原事実は絶えず反復されていると考えました。原事実は物のなか(end161)に維持されているのです。宇宙の始まりや時間の始まりがあるということではなく、物事は一連の出来事の途中に生起するのです。ということは、常に別の出来事が生じているということです。物事は常に可能的なものから存在するものへと直ちに生起します。
 わたしたちは、物事はつながっていると考えがちですが、シェリングはそれを幻想だと退けます。その代わりに、原事実がその間ずっと反復されていると考えるのです。かつてヘラクレイトスが巧みに語ったように、シェリングも「時間とはサイコロで遊ぶ子どもである」ということを念頭に置いています。
 (161~162)

 ここで述べられていることの内実をあまりうまく腑に落とせていないが、ただ、原事実の反復という後半のはなしは小説や、物語を語るということのあたらしいありかたになにかひかりを当てる可能性があるのではないかとおもった。「出来事」にかんしては、自由意志(ということはすなわちキリスト教パラダイム)との関連で、つぎのようにも述べられている。

MG 自由意志の問題に対するわたしの解決策は、『「私」は脳ではない』の最終章で展開しています。かいつまんで言えば、自由意志とは、出来事構造の一部であるわたしが自己決定することです。物事は法則のない出来事構造の一部として規定されています。
 ところが、その出来事構造のある部分はわたしなのです。「わたしがこの出来事である」ということが、自己決定なのです。現実の出来事構造の一部がわたしであるために、それは自己という決定になるのです。この文字どおりの「自己決定」が自由なのです。
 ところが、多くの人は自由意志を自己に結びつけ、その自己を作動させることだと考えています。人は自律性を有しているという見方ですね。
 わたしはこれを「スターター・モデル」と呼んでいます。車に乗ってキーを回すと、エンジンがかかる。これが自由意志の「スターター・モデル」です。
 しかし、自由意志はエンジンをスタートさせるだけでなく、車に乗り込み、キーを回してエンジンをかけ、車を運転し、どこかに到着するという一連のプロセスであるとは言えないのでしょうか。そうすればパラドックス(スターターのスターターは何か)に陥らずにすみます。(end171)
 というのも、純粋な出来事構造のなかでは、京都に車を運転していったことと、そうしたのはその人だったからだと主張することが、同時にできるからです。わたしはある一連の出来事と同じであって、わたしが出来事なのです。そして、これが自由意志です。
 (171~172)

 ここでいわれていることの意味もじゅうぶん理解できていないが、やはりなにかの可能性をおぼえるもので、小説についてのかんがえかたはいろいろあるだろうけれど、じぶんのばあいひとつには、「出来事」を表出するものというのがその重要なしごとではないかという気がしている。主体としての人間にフォーカスを当てるのもよいのだけれど、人間がその一部である(一部でしかない)その時空のさまざまな要素やアクターを、総体的に、構造的に、しかしある程度いじょう総体化も構造化もできないような様相として描くこと。たとえばもしかすると、ウルフが『灯台へ』でやっているのってそういうことなのではないか。もうひとつには、もの、事物を書く(もしくは描く)ということ。事物というか、(事物の)存在か? ものがあるということやあったということをひたむきに語るという意味での「物語/ものがたり」が小説の重要なしごとにありうる気がするのだけれど、そう言ったその意味はじぶんでもあまりよくわかっていない。うえの「出来事」とけっきょくはおなじことになるのだろうか。
 その他、デリダは最終的にはユダヤ - キリスト教的なパラダイムから出ることができなかった(だからこそかれは晩年に中国を訪問したさい、「中国には哲学がない」と言った)とか(168~170)、そういうパラダイムにたいする九鬼周造の正確な批判(166~167)とか、趙汀陽 [ちょうていよう] という中国の哲学者の「天下」概念の再構築とか(174~181)、はなしはどれもおもしろい。
 正午まで読み、瞑想。椅子のうえに座り、目のまえのパソコンが画面右下にまさしく12:00ぴったりを映し出しているその瞬間からはじめた。三四分ほど。わりとよろしい。きのうときょう瞑想をしたさいちゅうにおもったり感じたりしたことをもうここにいっぺんにまとめて書いてしまおうとおもう。まずきのうの夜だか夕方に座ったときにおもったのはいわゆる「悟り」についてのことで、うまくいえないのだけれど「悟り」って、いまここにあり生起しつづけていることごとがこんなふうだったんだ、こんなふうに起こっていたんだ、ということに気づくというのが、ひじょうにちいさなかたちではあるがその一端なのではないかという気がしたのだ。座っているあいだは雨がぱらぱら降っていて、窓のほうからそれがおそらく物干し棒を打ったり、あるいはその棒に溜まった水がしずくとなってはなれたのが柵のうえかその内側に落ちるものなのか、パチパチいうようなほかの雨音よりもちょっと鈍いひびきがたまにさしはさまるのだけれど、そのひとつひとつの雨音が起こってつらなる推移というのは一定の秩序にはしたがっているとしても、もちろんとてもではないがそのながれを言語化できようはずもないし、こういうふうになっていたんだな、というような言い方でしか把握できないものである。というかこのとき、ああこれらの雨音はこんなふうに起こりつながっていたのか、こんなふうな鳴り方だったのか、という感覚が立ったのだが(「つながっていた」という言い方をしたが、そこには、じっさいにはひとつの(あるいは複数の)音が発生したあとにまたひとつの(あるいは複数の)音が発生しているだけで、そのあいだに因果関係や接続は存在せず、だからこそ、それらの雨音の継起のしかたはある一定の秩序内におさまりながらも、じぶんが認識によってながれのなかのある範囲を切り取るその都度微妙に異なって多様であるという感覚がふくまれている(もちろんその差異をじゅうぶんに認知することはできず、ほぼ反復にしか聞こえないとしても))、それは雨音にかぎらず、背後でしずかにうなっている冷蔵庫の稼働音とか、あるいはじぶんのからだの内外に生まれる細胞的なとでも言いたい微細な触感の拡散とか、あとエアコンの音もあったかもしれないが、それらについても同様で、なおかつ、これら複数の知覚要素が基本的にたがいに関係をもたない共存の様態でつくりだすその場所自体のありかた、認知や感受にたいする刺激や手触りの総体にかんしてもおなじことである。それをロラン・バルト風に「テクスト」とか、あるいはたとえば「空間の肌理」とか言ってみたってよいが、ここでは「時空の模様」と呼んでみたい。あたりまえのことながらその時空の模様を、ふだんわれわれはほとんど認識していないわけである。なぜならなによりも、ふだんのわれわれはなにかをしているからだ。なにかをしているということは、認知や意識が指向対象や目的をもち、その対象や目的が要求する一連の系列のうちに限定されてしまうということである(ときおり、といういじょうにたびたびに、こまかくそこから逸れることはあるにしても)。文を書いたりしていれば雨音なんぞ聞いちゃいないわけである。ただそれでも、たまにふっと耳にはいってくることはたしかにあるが。瞑想というのはじぶんの定義では座って動かずじっとしていることだから、その動きのない状態においてその場にひろがっている諸要素はようやくはっきりと意識の網にはいってきて、行動していたときよりも時空の模様のじっさいが見えるようになる。それで、ああ、こんなふうになっていたのか、という気づきが生まれたのだけれど、これがもっとも微小な意味での「悟り」ではないかという気がしたのだった。そこに、これが、あったのだ、ということに気づくこと。
 つぎにこの日の正午に三〇分くらい座っていたあいだにおもったのは、というか感じたのは、そこはかとないかなしみのにじみで、ほとんど外気中に一瞬ただようにおいめいたかすかさだったが、なんについてのかなしみかといえば、それもいまいちとらえきれずむずかしいのだけれど、たぶん「このわたし」の有限性にたいするものということだったのではないか。このはなしには前段があり、ここ数日だったかそれかきのう夜歩きしたときだったか、じぶんは都会というものにたいする憧れがぜんぜんないなとおもったことがあったのだ。道を歩いていても、建物の建て込んだ街中よりも(それはそれでむろんおもしろみはあるが)、やはり草とか樹々とか花とか周囲にいくらでもあった地元のほうが性に合っていた気がするな、と。とりわけ風がながれてこずえの葉が鳴るあれがやはりきもちがよい。ただそうかんがえながら直後にまたおもったのは、ここでいう「都会」というのは東京の都心あたりをイメージしていたけれど、西洋の都市に行ってみたい、見てみたい、なんだったらそこに暮らしてみたい、みたいな憧れは相応にあるぞ、ということだ。たとえばいま読んでいる新書のなかでマルクス・ガブリエルが、「しかし、ここボンはそうした遺産 [ヨーロッパ中心主義や保守的でキリスト教的な考え方] から自由になろうとしています。ボンはドイツ民主主義の発祥の地で、ドイツ憲法が書かれた場所ですから。ハーバーマスのよい部分、解放的な部分は、ボン的な部分です」(87)といっているのを読んだときに、ボン行ってみたいな、そういうところで暮らして生きるという人生もあるのだよなとおもったのだった(この「そういうところで暮らして生きるという人生」のなかには、じぶんのそれとじぶんの知らない他人のそれとが半分ずつ想定されているような感じがある)。まあこれはそれがたんに西洋の都市だからというより、「自由」とか「解放的」とかいうことばにつられたところが大きいとおもわれ、それがあの西洋的都市の整然とした瀟洒なイメージと合体して憧憬の念を生んだようだが、いわばオリエンタリズムの逆バージョンである。マルクス・ガブリエルのようにそこのそういう風土で、その土地の雰囲気や特殊性を感じながら生きている人間もいるし、特に意識せずに生きている人間もいるわけだが、こういう憧憬というのはおおざっぱにいって、いまここにあるこのじぶんの生や生活、あるいはこのじぶんという存在そのものから超脱したいという欲望とみなせるだろう。「いまここのじぶん」ではない、「どこかのだれか」になりたいという願望。ただこういうことを感じたりかんがえたときにいつもおもうのは、たとえばじぶんがこの先でボンに移り住み、そこで人生を送ったとしても、そのときにはボンに生きているじぶんが「いまここのじぶん」、すなわち「このわたし」になってしまうということなのだ。じぶんが、今現在アイデンティティをもって構成されたこのじぶんではないべつのじぶん、べつの人間として生まれていた可能性というものを誰もたしょうはおもったことがあるとおもうが、それにしたって事情は変わらない。いまの「このわたし」とはぜんぜん違う場所、違う時代の人間としてこの世に生まれていたとしても、そのときにはそのじぶんがまったく同様に「このわたし」なのだ。「このわたし」は、その内実がなんであれ、「このわたし」であることしかできず、他者にはなれない。人間に課せられたこの限界にたいするかなしみをおぼえたということだったとおもうのだが、これは言ってみれば人間の、自己認識といえばよいのか、自我といえばよいのか、存在といえばよいのかわからないが、ともかくもそれにかんする構造的な制約である。言い換えればつまり、人間は基本的に(根底的に?)一人称単数としてしかありえないということだ。一人称単数、「このわたし」とはだから、「構造的な制約」といったように、存在としての位置の問題である。その位置にあるように、ひとはさだめられている。その限定性があるからこそひとは他者に憧れたり、世界に憧れたり、他人のこころを知りたくなったり、まあ文学を読んだりするのかもしれないが、かなしみは措いていっぽうで、じぶんがどこまで行っても結局は「このわたし」であること(でしかありえないこと)の意味とか、その意義については興味があり、だから(もうここに書いてしまうが)きのうの夜歩きのあとに書店に行ったときにも、八木雄二ソクラテスについて書いた一人称単数がどうのみたいな本とか、あとアルフォンソ・リンギスだったとおもうが『わたしの声』みたいな著作に目が留まったのだ(そちらにも「一人称単数」ということばが使われていたはず)。あとメルロ=ポンティの研究書にもなんか興味深いものがあった気がするがそれはわすれた。ただこのばあいの「わたしの声」、「一人称単数」といったときに、その関心というのは、さきにあげた存在の構造的な問題というよりは、内実をともなったこの具体的なじぶんという領域での興味で、要はこのじぶんとはいったい何なのかという、古き良き古代ギリシア的な「自己の真理」のテーマなのだろう。つまりは実存的な興味ということ。べつにいまさら自分探しというわけでもないが、しかしある意味では人間は死ぬまでずっと自分探しをしているようなもんかもしれないともおもう。
 きょうは二時四〇分くらいから三時ごろまでにもまた瞑想をしたのだけれど、そのときおもったのは、これはまあうえのひとつめのはなしとそう遠くないのだけれど、じっと止まって自他のようす、うえに言った「時空の模様」を受け止めていると、じぶんがなにかメディア、媒体になったような感じがするな、ということである。ただ、メディア、媒体とか仲介というからには、受け止めたそのものを伝達し運ぶ先がどこかにあるのがほんらいである。ところが、それがなんなのかはわからないし、むしろない。送付先がないままに、じぶんがメディアであるような感じがしたのだった。静止していると、さいしょは主にはじぶんのからだを感じているのだけれど、とちゅうでそれを感じなくなっているときがある。じっと止まって動かずにいるので、からだに気づかないというか、じぶんがからだとしてあることを忘れているというか。あとからそれに気づいて、いまマジで石みたいになってたな、とおもうときがあった。それと近いが、目を閉じているうちに、じぶんがじぶんの部屋にいるということをわすれているときもある。それで、あれ、いまどこにいるんだっけという困惑がちいさく生じ、じぶんの部屋の視覚的なようすをつかの間おもいだせない瞬間があったりする。ということは、うえで「時空の模様」と言ったけれど、この「時空」は具体的な「場所」から、まさしくいくらかなり抽象化された「時空」となり得るということだ。もちろんじぶんの部屋という「場所」が意識され、あるいは前提として安定的に維持されている時間のほうが多い。「場所」を指示するはたらきはどうも視覚が圧倒的につよいようで、目を閉じても物音は聞こえつづけているわけで、雨音とか冷蔵庫の音とか場所の構成要素があるのだけれど、それを耳にしていてもじぶんの部屋だということをわすれることはある。場所をわすれる、じぶんのからだをわすれる、ということとともに、自己をわすれている、ということもときたま起こっているのかもしれない。精神のはたらきがなくなることはない。じぶんがからだとしてあることをわすれたとしても、たんなる認知とはべつに、脳内のつぶやきや思考は絶えず延々とつづいている。だからそこにはたしかに自我が存在しており、しかもそれがつねにある程度は見えているはずなのだけれど、その渦中にあって、じぶんがじぶんであるということを忘れているという瞬間が、おそらくあるような気がする。忘れるというのはだから、抽象化されるということなのだろう。その抽象化が要するに、うえに述べた「メディア」となった感覚ということなのかもしれない。「忘我」なんていうことをいままであまり信じていなかったのだが、こういうかたちでのそれはあり得る気がしてきた。「忘我」と似たことばに「没我」があり、「物事に熱中して我を忘れること」とネット上の辞書にはある。つまり自己を没するということだろうが、自己に没することを通じて自己を没するという、屈折した忘我のしかたが瞑想にはあるような気がする。
 一二時半過ぎで瞑想を切ったあとは食事。野菜はニンジンがすこししかない。あとドレッシングもなくなった。きのうの夜にコンビニで買った鮭のおにぎりとカレーパン、それにバナナや、冷凍のハンバーグに揚げチキンを食った。カレーパンはうまかった。食後、昨晩シャワーを浴びずにあたまがかゆかったので、全身浴びるのは億劫だがあたまだけでも洗おうとおもい、浴室兼洗面所に行った。上半身だけ裸になったかっこうで、壁の支えにとりつけたシャワーから湯を出させ、浴槽の外側からかがんであたまを突き出すかたちで洗ったのだが、けっきょく右手でシャワーをつかんで操作したので左手で頭皮をこするわけだけれど、そうすると左腕をつたって下半身のハーフパンツが濡れるのでしたも脱げば良かったとおもった。せっかく晴れているし洗濯もしたいところだが、エマールが切れているわけである。近間のサンドラッグに買いに行くかどうか迷った。きょう洗濯をするならすでに午後だからさっさと行ったほうがよいわけだけれど、陽が出ているなかに出るのも気後れして、夜にスーパーに食材を買いに行くかもしれないしそのときでいいかなという気になった。ただそうなるとあしたは通話に労働で洗濯をしている余裕があまりないだろうから、火曜日になる。そこまで汚れ物を溜めてしまうのもちょっと嫌だが。いずれにしても午後九時四〇分現在、スーパーに行くのも面倒くさくてやっぱりいいかなという気になっているので、明後日までもたせるしかない。きょうのこともまだここまでしか書けていないし、昨晩の外出はまだちっとも書いていないのだ。
 とはいえきょうのその後は、音読したり、床をちょっと掃除したり、書抜きをしたり、また本を読んだり、あとは座布団や足拭きマットや洗い物用のスポンジを窓外に出して干したり。床の掃除は午後に瞑想をしたあとだったか否か、立ち上がって屈伸したときに、屈伸すると目が床に近くなるからこまかいゴミが溜まって汚れているのがよく見えて、面倒くさいなとまよいながらもちょっとだけでも掃除しておくかという気になったのだった。やはりクリーナーが必要かもしれない。しかし雑巾しかないのでそれで拭き掃除。椅子のしたあたりが汚れていたのでそこだけやろうとおもったものの、やりだせばけっきょく周辺も多少やってしまった。ゴミを集めるようにして濡れた雑巾で拭いていき、ゴミを布に取って流しでゆすぐというのを繰り返す。椅子のしたには透明な保護シートが敷かれており、椅子をどかしてまずそのうえを奥(窓側)から手前(扉側)に向かってなんども雑巾を横切らせる。それでおもて面がきれいになったかなというところでシートをめくり、そのしたの床とかシートの裏面も掃除。あと机のしたには薄緑色のコットンラグを引いているがそれにもいたるところにこまかなゴミが溜まっていたので拭いた。しかし濡れた雑巾でこするように拭くとラグの繊維にあまりよくなさそう。椅子の座部とか腕置きとか、中心棒から五つに分岐している銀色の足とか、あと机の足とか、そのへんの塵も取っておいた。
 書抜きはレベッカ・ソルニットの『ウォークス』をようやく終え、その他ブコウスキー書簡。BGMにSantana『All That I Am』。一曲目の"Hermes"の、ラテンとブルージーなギターが混ざったあの風味にそこはかとないダサさを感じたのだが、こういう曲はやはりこうでないと。郷愁としてのほのかなダサさ、という感じ。なにしろB'zとかDeep Purpleからはじまった人間なので。Michelle BranchがSantanaとやった"The Game of Love"ではないほうの曲というのは、このアルバムの三曲目にある"I'm Feeling You"だった。さわやかだが、"The Game of Love"のほうが良いかな。その他R&B風味あり、will.i.am.の軽快な曲あり、ラップ風あり、メタリカのカーク・ハメットがなんかおだやかなメロディ弾いていたり、Los Lonely Boys参加の陰影ラテンありでバリエーションはひろい。個人的にいちばん好きだったのはAnthony Hamiltonが歌っている#8 "Twisted"。
 天気はカーテンにふれる陽射しに増減はあったものの夕方まで晴れがつづいていた。四時ごろだったか座布団などを入れるついでにレースのカーテンもあけて、陽光を宿した布団のうえで少々ストレッチをしたとき、見上げれば向かいの保育園の上空に浮かぶ雲はどれも白さかたちともくっきりとして、無軌道な輪郭ながら立体感と実質を帯びた散在で、あいまを満たす空の青さも果汁のジュースのように濃い。
 六時くらいから寝床に逃げて本を読みながら休み、その後七時直前に椅子にもどってまた瞑想。二〇分強だったか。そうしてこの日の日記をようやく書き出したところが、ここまで記してもう一〇時をまわっている。二時間半くらいか。


     *


 一〇時のあとは飯を食べるなど。昨晩コンビニで買った欧風チーズカレー。まあまあ。あしたが燃えるゴミの回収日なので、ゴミ箱からティッシュなどの詰まった薄黄色の指定袋をとりだし、冷凍庫に保管しておいたバナナの皮やキャベツの芯など凍った生ゴミをべつのビニール袋に入れて密閉し、燃えるゴミに合流させた。ティッシュをいくらかすくいあげるようにして内のほうに入れておく。そうしてもう夜半が過ぎていたかとおもうが、そとに出しに行った。アパートのすぐ脇。古びた固いネットがあるのでそのなかに入れて置いておく。ちゃんとした防護になっているわけでもなく、壁のとちゅうにとりつけられ下面が開口部になったものが地面まで垂れているのでそのなかにおさめておくというだけだが。きのうの日記もいくらか書いたが一時くらいでここまでだなとおもったはず。瞑想をすることと、生産性やその日なにをやったどこまでできたということにこだわるのではなくからだの声を聞いてそのみちびきにしたがうことが肝要である。疲れを押して深夜にがんばってもよいことにはならない。といいながらこの部分を書いているのは翌一八日の二四時半ちょうどで、きょうは労働があったからまさしく疲れを押して深夜にがんばってしまっているのだが。しかし心身がそういう気になり、意欲を持ったのでよいのだ。翌日は午前一〇時から通話なので八時には起きるつもりでアラームをかける。したがって二時くらいには寝ようとおもっていたところが、けっきょく三時二〇分までだらだら夜を深めてしまった。


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  • 「英語」: 501 - 531


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 (……)さんのブログ、七月一五日。したの一段にはさすがに笑う。たしか、『文豪たちの悪口本』みたいな本が出ていたとおもうが、じっさい、古今東西の文学作品とかさまざまなテクストから悪口とか罵倒暴言だけあつめたアンソロジーつくったらかなりおもしろいだろう。そういうブログつくろうかな。

2021年7月15日づけの記事にはその一年前、すなわち、2020年7月15日づけの記事からけっこう長々と文章が引かれている。象徴的父と〈父の名〉の違いについて、「簡単にいえば、象徴的父とは、主体から〈母〉(千葉雅也の用語でいえば「親1」)を引き離すさまざまな事情のことで、〈父の名〉とはそのような事情の抽象的総体およびその受容(内面化)のことだ。さらに単純化していえば、象徴的父とは「(現実を)思い通りにさせてくれない諸事情」であり、〈父の名〉とは、「(現実が)思い通りにならないことを知ること」だといえるだろう」と簡潔にまとめた文章に続けて、コンタルドカリガリス『妄想はなぜ必要か——ラカン派の精神病臨床』に記載されている症例を解説する片岡一竹の文章を引いたあと、「「自分」という投錨点が作用している」ということは、換言すれば、主体に自己同一性(首尾一貫性)が(ある程度強く)与えられている状態のことだろう。つまり、主体に(強い)自己同一性(首尾一貫性)を与える/強化するのも、〈父の名〉の効果であるということだ。千葉雅也のタームを借りていえば、接続過剰性を生きる主体は、そのような自己同一性(首尾一貫性)が安定していない。なぜなら、そのような主体は常に何かに接続し、過度に生成変化をくりかえしてしまうからだ(精神分析的にいえば、「想像的同一化」の作業をはてしなくくりかえしてしまう)。(…)その効果としてある過度の生成変化を抑止し、主体にある輪郭を与えることになる有限性、主体を接続過剰なその平面から切り抜く切断性こそが、〈父の名〉である。〈父の名〉がもたらす「諦め」とは、このような有限性や切断性のことである——そういうふうに総括することもできるかもしれない」と書いており、なるほど、そうすると主体というのは、換言すれば「諦め」や「断念」のかたちということになる。そしてこの観点は、カフカの小説のおもしろさをその個性的な失敗のかたちにあるものとみなすこちらのカフカ観(「カフカの作品の大半は失敗作である。ただし、それらの作品は彼以外のいかなる書き手も達成したことのないかたちで失敗している。その失敗のかたちに、カフカカフカたらしめるものがある。彼の天才は、彼以前にはだれも目にしたことのない失敗のかたちをあみだしたという一点にある。」)にも通ずる。

     *

(……)該当するコーナー周辺を行ったり来たりしていると、大学生くらいの女がショッピングカートに足を投げ出して乗っているのをその彼氏らしい男が乳母車のように後ろから押して歩いているのと出くわした。こういうやつらは存在そのものが神に対する冒瀆なんだよなと思った。だいたいショッピングカートに乗せて後ろから押してほしいと恥知らずにも頼んでみせる女と付き合うくらいであれば、コメツキバッタに名前をつけて部屋で放し飼いするほうがよほど愉快ではないか? というかそもそもショッピングカートに乗り込むということはみずからが商品であると主張しているようなものではないか? それはおまえらが高校や大学で履修することを強いられている政治の教科書でさんざん批判されている資本主義のエッセンスをまさに身をもって体現するふるまいではないか? 反政府主義者なのか? だいじょうぶか? 微信や微博での立ち回りには気をつけろ! 必要ならテレグラムを使え!




レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)


 [リチャード・] ロングは遠い過去との紐帯が損なわれていない場所を好む。そのため、建物や人間といった現代や近過去の痕跡が作品に現れることは少ない。彼の作品は田野を歩くというイギリスの伝統を、そのもっとも面妖で魅惑的な側面に光をあてつつ、新たな視線のもとで再検討に付すものだ。ロングはオーストラリア、ヒマラヤ、ボリビアアンデス地方でも作品を制作している。これらの場所がすべてイギリス的な経験に回収されると考えるのは植民地主義か、少なくとも高慢な観光趣味の謗りを免れないだろう。そこで改めて喚起されるのは、田野を歩くことが固有の文化的実践だということを忘れる危険だ。それ自体は丁寧で穏当だとしても、その価値観を他所に押しつけることは異なる。文芸における田舎歩きのモチーフが陳腐さや感傷や自伝的(end455)なお喋りに嵌まり込んでしまう一方、ロングの芸術は素気なく、ほとんど沈黙している。そして何かを造形する行為として歩行を重視する点でまったく新しく、文化の継承というよりは創造的な再検討となっている。彼の作品はときとして息を呑むほどに美しい。素朴な身振りにともなって歩く者と地表が関係を結び、道と歩行者が互いに互いを測り進み、ほとんど跡形を残さない巨大な描線となり、芸術となる、そのようなことが可能なのだという、深く洗練された説得力をもっている。ロングの同世代の友人ハミッシュ・フルトンも、歩行を自らの芸術にとり入れた。テキストを添えた写真からなる彼の作品群は、一見するとロングのものと区別が難しい。しかし歩行の精神的・情緒的な側面に重点をおいたフルトンは場として聖地や巡礼の道を選ぶことが多く、ギャラリーに立体作品をつくることもなければ、地面に痕跡を残すこともなかった。
 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、455~456; 第十六章「歩行の造形」)

     *

 歩行を用いたパフォーマンスのうち、もっとも劇的で野心的、かつ過激なものはマリナ・アブラモヴィッチとウライが一九八八年に行なった「グレート・ウォール・ウォーク」だろう。片やユーゴスラヴィア、片や東ドイツという社会主義時代の東側を出自とするラディカルなパフォーマンス・アーティストで、一九七六年の「リレーショナル・ワークス」と称する一連のパフォーマンス以降、二人組で活動している。その関心は、彼ら自身ばかりでなく鑑賞者も含めた身体と精神の境界線を危険、痛み、侵犯、倦怠といったものによって試すことに向けられ、男女のジェンダーを理想的な統一体へと象徴的に統合することにも関心をもってきた。シャーマニズム錬金術チベット仏教などの秘教的な伝統の影響が徐々に強くなっていることが見てとれる。彼らの作品は、ゲイリー・スナイダーが中国の伝統として述べる「立つ、寝る、座る、歩くという〈四つの尊厳〉」を想起させる。「それらは、我々が完全に我々自身として、根底的な様相において自らの身体に充足して在るための術という意味で〈尊厳〉なのである」。またヴィパッサナーと呼ばれる仏教の瞑想がこれら四つの姿勢を重視していることも連想される。最初の作品「空間における関係」は、逆方向の壁からふたりが速足で歩き寄ってきて衝突することを繰り返すというものだった。一九七七年の「測り知れないもの」は、美術館の玄関(end458)に彼らが裸かつ不動で立っており、やってきた人びとに対して、ふたりの間をすり抜ける際にどちらに顔を向けるか決断するよう促すものだった。一九八〇年代の「静止エネルギー」は、互いに向き合い、マリナが弓を、ウライが弦に番えた矢を握り、その先をマリナの心臓に向けているというものだった。彼らの静止した緊張状態によって、安定化された危険をはらみつつ時間が引き伸ばされる。これを発表した同じ年には、オーストラリアの内陸 [アウトバック] に赴いてアボリジニとの交流を試みている。相手にされなかった彼らは数ヶ月間灼熱の砂漠にとどまり、座して動かないという実践により「静止すること、沈黙すること、注視すること」を砂漠から学ぼうとした。その後は、地元の人びとが以前よりも接しやすく思えたという。この経験からは「夜の海を渡る」というパフォーマンスが生まれ、シドニートロント、ベルリンをはじめとする各地で展開された。これは一日二十四時間の沈黙と断食を続けながら、連続する数日間に一日あたり数時間ずつ美術館や公共の場所に静止して座っているというものだった。ふたりはひとつの過酷なコミットメントを示す生きた彫刻作品として、テーブルを挟んで向き合って座った。「チベットに行ったときやアボリジニに会いに行った際、スーフィ教の儀式にも触れていました。これらの文化は、精神的な跳躍のために肉体を極限まで追いつめます。死や痛みの恐怖を取り除き、わたしたちの肉体的な限界を取り除くためです」と、アブラモヴィッチは後に語っている。「パフォーマンスは別の空間と次元へのジャンプを可能にする形式でした」。「グレート・ウォール・ウォーク」の構想は彼女とウライとのコラボレーションの頂点を示すものだった。二人が長さ四〇〇〇キロメートルの万里の長城の両端から互いに向かって歩き、出会い、(end459)結婚するのだ。しかし何年もの期間を経てようやく中国政府の官僚的な障害を乗り越える見通しのついたとき、ふたりの関係はすでに大きく変わっており、歩みは彼らの関係とコラボレーションに終止符を打つものに変わっていた。一九八八年、ふたりは二四〇〇マイルの彼方から互いに向かって歩き、その中央で抱擁を交わし、別々の道へと歩みを進めた。
 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、458~460; 第十六章「歩行の造形」)




チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)


 あなたが魂を守ることについて考えてくれていることが嬉しい、このことは多くの人たちにまったく忘れ去られてしまっているか、あるいはまだまだ何も満たされていなくてわたしたちが自分たち自身のことを今のようにはわかっていなかった過去のロマンティックなたわごとだと見なされている。しかし基本的なことは(end95)まるで変わってはいない。クソみたいなものの中にいつまでもまみれ続けていると、いつのまにかクソのようになってしまう。わたしたちがやらなければならないことは、自分が何に向き合っているのかをちゃんと見抜くことで、そうすればそんなものにまみれるようなことはない。わたしは工場でボルトを締めるのと同じぐらい、新入生のクラスで英語を教えたりするのがいやだ。どちらもとんでもなくひどい。そんなことをして生きていかなければならない時、自由にできる時間を待ち遠しく思うようになる。これが実に巧妙に仕組まれているときている。多くの場合、どれだけうまくやったところで、別の時間、ボルトを締めたり、新入生に英語を教えたりといった時間に何もかもが吸い取られてしまう。アーティストたちの中には(今よりも過去の方がそうだとわたしは思うが)労働しないことで自由な時間をより多く手に入れる者たちがいて、それはすなわち時間を手に入れるためにひもじい思いをするということで、そんなことをすれば決まって罠にはまって、とんでもない目にあうことになってしまう。自殺か発狂。今わたしは腹が満ちているので前よりもうまく書けると思うが、それは多分いつも腹ペコだった時のことを覚えているからで、またそうなる可能性は極めて高いのだ。魂を救えるかどうかは、その人が何をやっているのか、それも見てすぐにわかるようなことではなく、そして何をどれほど多く抱えて始めなければならないのか、そしてやり続ける中でどれほど多くのものを実際に得ることができるのかということにかかっているのだ。プロの魂の救済人たちやインテリたちがいて、標準的なやり方にのっとってあれこれとやってみるものの、その結果は標準的に救われるだけで、そんなものは救われたことにはまったくならない。わたしは何人かの知人から聞かれることがある、「どうして酒を飲み、そして競馬場通いをするんだ?」。わたしが家の中にひと月も籠もってまわりの壁を見つめている方が彼らは納得できるのだろう。彼らがわかっていないのは、わたしはそんなことはとっくにやってしまっているということだ。彼らがわかっていないのは、このからだの中がウイスキーとせめぎ合う言葉でいっぱいになっていなければ、わたしはもうおしまいだということで、だからこそわたしはそれに(酒瓶)(人混み)ありつける場所へと出かけていくのだ、これまではずっと。もっと先になると、多分、もうどうでもよくなるだろう。
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、95~97; エドワード・ヴァン・アールスティン宛、1963年3月31日)

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 それでわたしを見ると人はこう言うしかなかった、「どうして競馬場に行くんだ? どうして酒を飲むんだ? 身の破滅だぞ」。(end100)まさにそのとおり、身の破滅だ。それならニューオリンズで週給17ドルで働くことも身の破滅だ。それなら老いぼれた足首や脛骨、くだらない何やかやがシーツから飛び出した、おびただしい数の白いからだが横たわるLAカウンティ総合病院もまた……死者が死ぬのを待っている……壁と静寂と郡の墓地しかない、まるでゴミ溜めのような場所で老いぼれが狂気の空気を吸いながら、ただ待っている。わたしは何一つ気にしていないと思われ、何も感じていないと思われる、というのもわたしはまったくの無表情で、わたしの両眼はくり抜かれ、わたしは酒を片手にその場に立ち、競馬新聞を読んでいるからだ。やつら [﹅3] は思っている、こんないかしたやり方で、くそったれ野郎、間抜け野郎、いやらしい笑いを浮かべてレモンをしゃぶっているうんこ漏らし野郎たち、やつらは思っている、間違いなく、正しいやり方で、ただ一つ言えることは正しいやり方などどこにもないことで、やつらはそのうち思い知ることになる……ある夜、ある朝、あるいはもしかしてある真昼間に高速道路で、バラを育む太陽の光を浴びてガラスや鋼鉄や膀胱が砕け散る断末魔の轟音。やつらは自分たちの蔦や強強格を手に入れることができ、それらを自分たちの尻の穴に突っ込む……まだ何も突っ込まれていないのだとしたら。
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、100~101; ジョン・ウィリアム・コリントン宛、1963年5月1日)

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以下の序文はもともとは『Dronken Mirakels & Andere Offers /酔っ払いの奇跡とそのほかの捧げ物』の中で、ベラートによってオランダ語に翻訳されて出版されていたもので、英語で活字になったことはこれまで一度もなかった。

[ジェラルド・ベラート宛]
1970年1月11日

 […]「序文」
 これらの詩をざっと見返してみる。単純にそして恐らくはメロ(end168)ドラマ的に説明するために。これらはわたしの血で書かれたものだ。恐怖と虚勢と狂気、そしてほかにどうすればいいのかわからないことの賜物だ。壁が立ちはだかり、敵を食い止めている時に書かれた。壁が崩れ落ち敵が侵入してきてわたしを捕まえ、自分の吐く言葉の聖なる残虐さに気がつかされた時に書かれた。出口はどこにもない。わたし特有の戦いに勝つ手段はどこにもない。どこに足を踏み出そうが地獄を通り抜けるしかない。日々はどうしようもないとわたしは思い、そして夜が訪れる。夜が訪れ、美しい女たちはほかの男たちと寝ている……ネズミのような顔をした男たち、ガマのような顔をした男たち。わたしは天井をじっと見つめ、雨の音か無の響きに耳を傾け、自分の死を待つ。そこからこれらの詩は生まれてきた。そのようなものだ。これらの詩を理解してくれる者がこの世に一人でもいれば、わたしはまったく孤独にはならないだろう。ページはあなたのものだ。
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、168~169)

     *

[ジャック・スティーヴンソン宛]
1982年3月

 […]たいていのやつらが同じように始める。詩人たちのことだ。初めは極めて良し。彼らは孤立していて、おわかりのとおり、程度の差こそあれちょっとした刺激にも敏感な心をしていて、純真そのものだから、言葉と真剣に向き合う。最初からちょっとした気配を漂わせている。それから彼らはうまくやり始める。だんだんと朗読する回数が増え、同類に出会う。互いに話し合う。自分たちがとても賢いかのように思い始める。政治や魂、ホモセク(end239)シュアル、有機栽培などについて一席ぶつ……あれやこれやと……下水の配管工事以外あらゆることに精通するようになるが、彼らが知らなければならないのはまさにその配管工事のことで、それというのも糞ばかり垂れ流しているからだ。彼らがのさばる様子を見るとほんとうに心が折れてしまう。インドへの旅、呼吸法の訓練、肺を鍛えることでより大口を叩けるかのようだ。すぐにも彼らは教師 [﹅2] となって、人々の前でどうすればいいのか [﹅9] その方法を偉そうにまくし立てる。どうすれば書けるのか [﹅5] ということだけでなく、どんなことでも [﹅7] どうすればやれるのかということを。どんな罠にも手当たり次第すぐにはまってしまう。かつては極めて個性的だったはずの人物こそが最もしばしば、そもそも自分たちが闘いを挑み、打破しようとしていたものや存在になってしまう。彼らが朗読する場面を目撃するべきだ。彼らは好きで好きでたまらない、聴衆、可愛い女子学生たち、青臭い男子学生たち、ポエトリー・リーディングに参加する白痴集団全体が。溶けたアイスクリームのようにくっついて次から次へとやって来る尻の穴にジェリーを塗りたくり、(柔らかい)中華麺のような脳みそをしたやつら。どれほど朗読するのを愛していることか、これらの詩人たちは。詩を読む自分たちの声を宙に漂わせたくてたまらないのだ。「さて」と、彼らが言う、「あと三編だけ詩を読むことにしよう!」、そういったたぐいのことを言う、何をほざいている、誰が気にするというのか? そして当然のごとく、三編の詩はどれもやたらと長い。しかもわたしは当てずっぽうで言っているのではない。こんなふうにどいつもこいつもまったく同じなのだ。ちょっとした違いがあるだけ……黒人だったり、ホモだったり。黒人でホモだったり。しかし誰も彼もみんな退屈千万。そしてわたしはナチだ。確かに。わたしを復活させておくれ。
 わたしが考える作家とは、文章を書く人間だということだ。タイ(end240)プライターの前に座って言葉を叩き出す者。それが本質だろう。他人にどうすればいいのか教えたり、ゼミの場に座ったり、俗世間に向かって朗読することではない。そこまで外交的になるのはどうしてなのか? もしもわたしが役者になりたいと思ったら、ハリウッドで撮影されようとしたことだろう。あれやこれやで五十人ほどの作家と出会ったなかで、少しは人間らしいところがあると思えたのは、たった二人だけだ。その一人とは三、四回会ったことがあり、彼は目が見えなくて両足は切断され、七十二歳だが見事に書き続けていて、死の床につきながらも素晴らしい妻に口述筆記してもらっていた。もう一人は天然でめちゃくちゃな人物で、ドイツのマンハイムで自分の作品をタイプライターで叩き出している。
 この二人を別にすれば、一緒に酒を飲んだり、話に耳を傾けたりすることをいちばんしたくないのはわたしの場合は作家だ。歳をとった新聞配達人や雑役夫、オールナイトのしけた店で客待ちをしている若者たちの方がもっと肝の座った生き方をしている。書くことは最善のものではなく最悪のものを引き出しているようにわたしには思えるし、この世の印刷機は無能で力足らずの批評家どもが文学、詩、散文と呼ぶ、無能で力足らずの人間が書き散らかした紙の束をとこしえに印刷し続けているようにわたしには思える。ほんの時たま、何のすべも見いだせないままその場で消えてしまう微かな閃きが生じる以外、まったくの無駄でしかない。
 二本目のワインのボトルに手をつけながら、この手紙をさっと読み返してみて、ブコウスキーは黒人やホモセクシュアルたちのことを嫌っているかのような書き方をしているということに気づくことだろう。だからこそわたしに触れさせておくれ。女たち、メキシコ人たち、レスビアンたち、ユダヤ人のことを。
 はっきり表明させておくれ、わたしが嫌っているのは人間たち(end241)そのもので、とりわけ創造的な作家たちだと。今は水爆から逃れ得られない時代だというだけではなく、恐怖の時代、計り知れないほど大きな恐怖の時代だ。
 わたしは白人たちもまた嫌いだ。そしてわたしは白人野郎だ。
 わたしは何が好きかだって? わたしは二本目のワインのボトルを飲み進めるのが好きだ。今日という日を帳消しにしなければならない。今日は競馬場で10ドルすってしまった。何と無駄なことだったか。何枚も積み重ねられた蜜が滴るホットケーキめがけてマスをかきたい。
 むしろわたしはいつでも中国人たちをすごいと思っていた。それはたいていの中国人がうんと遠くにいるからなのだろう。
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、239~242)

     *

 わたしは詩人たちに近づかないようにしている。わたしがスラムの部屋に住んでいた時、そうするのはもっと難しかった。わたしを見つけると、彼らは座り込んで人の噂話をしたりわたしの酒を飲んだりした。その中にはとてもよく知られた詩人たちもいた。しかしうまくやった他の詩人たちに対する彼らの恨みや不平不満、妬みときたら信じ難いものだった。そこにいるのは熱情や叡智や探求を言葉にしてしかるべき者たちのはずなのに、ただの病んだ馬鹿者たちで、酒すらまともに飲むことができず、口角泡を飛ばし、そのよだれでシャツをベトベトにして、数杯飲んだだけでフラフラになって、ゲロを吐いたり大声でわめき散らしていた。誰であれその場にいない者たちの悪口を言い、他の場所ならわたしの悪口が言われていることは一片の疑いもなかった。わたしはまったく脅威を感じなかった。彼らが立ち去った後が大変だった。彼らが発散した安っぽい感情が敷物の下にもブラインドの上にも、いたるところにとどまり、わたしがましな気分になるまで一、二日かかることもあった……とにかく、やれやれという感じだ。
 「あいつはイタ公のユダヤ人のくそったれで女房はきちがい病院に入っている」
 「Xはとにかくけちん坊で、車に乗っていて下り坂になったら、エンジンを切ってギヤをニュートラルにして走るんだ」
 「Yはズボンをずりおろしてケツの穴に突っ込んでくれって俺に頼み込み、このことは秘密にしておいてくれって言ったんだ(end259よ」
 「わたしが黒人のホモセクシュアルだったら、きっと有名になっていただろうな。このままじゃ何のチャンスもありゃしない」
 「雑誌を創刊しようぜ。金はあるかい?」
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、258~259; ウィリアム・パッカード宛、1984年5月19日)