2022/8/4, Thu.

以下の序文はもともとは『Dronken Mirakels & Andere Offers /酔っ払いの奇跡とそのほかの捧げ物』の中で、ベラートによってオランダ語に翻訳されて出版されていたもので、英語で活字になったことはこれまで一度もなかった。


[ジェラルド・ベラート宛]
1970年1月11日


 […]「序文」
 これらの詩をざっと見返してみる。単純にそして恐らくはメロ(end168)ドラマ的に説明するために。これらはわたしの血で書かれたものだ。恐怖と虚勢と狂気、そしてほかにどうすればいいのかわからないことの賜物だ。壁が立ちはだかり、敵を食い止めている時に書かれた。壁が崩れ落ち敵が侵入してきてわたしを捕まえ、自分の吐く言葉の聖なる残虐さに気がつかされた時に書かれた。出口はどこにもない。わたし特有の戦いに勝つ手段はどこにもない。どこに足を踏み出そうが地獄を通り抜けるしかない。日々はどうしようもないとわたしは思い、そして夜が訪れる。夜が訪れ、美しい女たちはほかの男たちと寝ている……ネズミのような顔をした男たち、ガマのような顔をした男たち。わたしは天井をじっと見つめ、雨の音か無の響きに耳を傾け、自分の死を待つ。そこからこれらの詩は生まれてきた。そのようなものだ。これらの詩を理解してくれる者がこの世に一人でもいれば、わたしはまったく孤独にはならないだろう。ページはあなたのものだ。
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、168~169)




 八時ごろに覚めたようなおぼえがあるのだが、よくおぼえていない。起床は九時ごろか? 昨晩はまたしても帰宅後に休んでいるうちに力尽きて意識を落としていた。もう勤務のある日はそれを前提としたほうがよいな。燃えるゴミも出せず。帰ってきてマスクを捨てたりエアコンをつけたり手を洗ったりしているあいだに、これいま着替えるまえにゴミ出しを済ませておかないと疲労でできなくなるかもしれない、とその可能性をおもってはいたのだが、その予想通りになった。しかたあるまい。つぎの月曜を待つ。
 きょうの天気は曇りである。現在は午後四時。窓の外をぜんぜん見ていないのでわからないが、おそらく雨がとおったときもあったようだ。それらしき音響が一時聞こえた気がする。洗濯物にはよくない日和となったが、洗わないわけにもいかない。起き上がったあとはいつもどおり洗顔やらなにやら済ませて、寝床でウェブをみたり、過去の日記を読みかえしたりした。一年前からの引用はしたのほうに。こいつマジでひかりのことばっかり書いてんな、とおもう。なぜそんなにもひかりのことばかり気にしているのか? あと一貫して好きなのは空と風と大気の感じだろう。じっさい、天気ってすげえなとおもう。なにがすごいのかわからないが。また、2021/8/4, Wed.はふたたびこんなもん書かなくたっていい、読み書きをいつやめたっていい、という言を表明していて、なぜなのかわからないが昨年はそういうニヒルなこころになることがおおかったようだ。そういうことをわざわざ言うというのはじぶんに言い聞かせている面があるはずで、書きたいけれどじゅうぶんに書けない鬱屈とか、こんな生き方をしていてもさきがないという不安とか、ばあいによっては世にたいするルサンチマン的な感情とかがもしかしたらあり、そうしたいろいろの屈託がじぶんにそういうことばを書きつけさせたのかもしれない。いまやどうでもよろしい。いつやめたっていい、そりゃそうだ。しかしいまのところまだやめる気はない。あと、井上究一郎プルーストからのみじかめの抜き書きがいくつか付されているのだけれど、「過去を喚起しようとつとめるのは空しい努力であり、われわれの理知のあらゆる努力はむだである。過去は理知の領域のそと、その力のおよばないところで、何か思いがけない物質のなかに(そんな物質があたえてくれるであろう感覚のなかに)かくされている。その物質に、われわれが死ぬよりまえに出会うか、または出会わないかは、偶然によるのである」というのに、やっぱり「感覚」なのね、とおもった。わざわざ括弧で補足して「物質」というより「感覚」だとつけくわえているところに、プルーストをみる気がする。
 一〇時半くらいに床をはなれたのではなかったか。一〇時三六分から三〇分ほど瞑想をしたおぼえがある。しかし開始が一〇時六分だった気もしてはっきりしない。いずれにしても瞑想はわりとよい感じだった。座ってじっとしていればそれで成立メソッドにたちかえったからだ。瞑想はよかったとしても、からだじたいはなんだかちょっと鈍いようで、意識もなんだかもやもやしているようであまりきっかり晴れてこない。きのうの疲労がのこっていたのか、それか明かりをつけたままにねむってしまったから、それでねむりの質がわるかったのかもしれない。じっさいその後もどうも奮わず、二時くらいから床に逃げてもちょっとまどろむようになってしまいつつ、こうして四時からようやく文を書いている。瞑想後は食事。キャベツや大根やタマネギやキュウリやベーコンでサラダ。シーザーサラダドレッシング。その他冷凍のコロッケやヒレカツ。バナナもさいごの一本を食べた。越してきていらい、なんかぜんぜん腹減ったという感じにならんなあ、とおもっていたのだが、それはやはりパニック障害が再発したくらいだからからだがおそらくつねに緊張していて、食欲も平常にまわらなかったということなのだろう。ロラゼパムを飲みつづけてなじんできたから、いまはそのへん改善されて、ふつうに飯は食いたくなるしサラダはうまい。からだの基本的なリラックス度がたかまった気がする。食後は洗濯。洗濯をしているあいだ、音楽を聞いたというか、なんかきょう瞑想がよかったからまた音楽ながしつつじっとしてみようとおもい、ヘッドフォンで六一年のBill Evans Trioの二枚目、”All of You (take 2)”から”Detour Ahead (take 1)”、(あいだに”Discussing Repertoire”もはさんで)”Waltz for Debby (take 1)”とながしたのだけれど、やはり意識がはっきりせず、音楽はたいして聞き取れず。それでもかまわん。そうして一時くらいだった。洗濯物を部屋内の窓辺に干し、食器やまな板などを洗い、シャワーを浴びた。ドライヤーで髪をかわかし、音読をちょっとやろうとコソコソ読み出したが、まもなく来客を知らせるチャイムが鳴り、めずらしい、なんだろうとおもって壁の画面を見つつ通話ボタンを押すと、NHKのひとで、住所変更の届け出がどうのとか言った。それで扉に出ると、引っ越し時に届け出が出されていないので確認に来たということで、引っ越してこられたのはさいきんですかときくので、六月一〇日だとこたえる。受信設備があると届け出をしなければならないということらしく、テレビはないが、受信設備みたいなものはあるとおもうと部屋のなかを振り返りながら受けると、書類を記入してほしいというので受け取ってなまえを書きはじめた。料金とかは特にかからないと。姓名を書いたところでしかし、テレビいがいにチューナーつきのパソコンとか、あとスマートフォンとかでも見られるやつがあるんですけれど、おつかいのスマホは、ときくが対応などわかるはずもないので、持ってきてやりとりしながら設定画面をひらき、モデル番号を見せると、あちらでそれを検索して対応していないということを調べてくれた。そうすると、車ももっていないから、放送を見るための道具がまったくないということで、届け出は不要らしい。すでに用紙を書きはじめてしまったのでわるかったなとおもってすみませんと笑うが、あちらも、こちらでさきにちゃんと確認するべきでした、すみませんと言って、おたがいに笑う。三〇代くらいとみえる男性で、髪は黒、とくに飾り気はなく頭頂から顔のまわりをそのままばさっと覆っているような感じで、腰の低いひとだった。NHKはみないのに受信料徴収がどうのとかいわれ、それでNHKをぶっ壊したがる政党も出てきてあんなことになっているわけなので、なにかと気をつかうのだろう。すみません、暑いなか、とかいわれたが、曇り日とはいえ、どうかんがえても暑いのは紺色のつなぎめいた服を来ていたあちらのほうである。ご苦労さまです、と言い、おたがいに礼をしあいながら扉を閉めた。その後音読をしつつ寝床に逃げたのだがどうもからだがなかなか活気づいてこず、太ももを揉みながらカフカ書簡を読んでいてもねむく、わりと休んでしまった。正気づくとまたちょっと書簡を読んでから起き上がり、ここまで記して四時半すぎ。さきほどから雨が本格的にはじまって、かみなりの音も頻々と発生し、右方のレースのカーテンをとおして閃光がみえる瞬間もあって、そろそろ帰宅にむかう保育園の子どもたちもなにあれ! とかさわいでいる。


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 それからやはりどうもからだがしゃきっとしないので屈伸したり背伸びをしたり、歯磨きしたり。五時ごろ、(……)先生にメールの返信をしておいた。きのうの欠勤について礼と謝罪を述べたメールが来ていたので。昼頃には(……)さんからの礼のメールにも返信しておいた。五時過ぎからまたちょっと座ってみることに。しかしこのときもねむけがうすく湧き、椅子のうえにあぐらをかいて立てた上体がなんどかまえにかたむくありさま。二〇分もできず。額の内側がはっきりせず濁っているようだったり、目のあたりが厚ぼったいようだったり、そういう感じで意識がぱきっとしないのは、首がこごっているからかもしれないとおもった。いちおうたびたび回したり伸ばしたりしてはいるのだが。寝て起きて首がこごっているというのは、枕が合っていないのではないか。いま実家から持ってきた枕がちょっとふかっとしたやつで沈むような感じがあり、それよりも座布団を二つ折りにしたほうが具合がいいからとそうしていたのだけれど、じつはそうではないのかもしれない。ふつうの枕のほうがよいのかもしれない。きのうはねむりがけっこうながかったのだが、ふだんはまだしも、ながく臥位でいるとじつは首に負担がかかっていてあたまがはっきりしなくなるのではないか、という推測を立てた。それでとりあえず今夜はふつうの枕でまた寝てみようかとおもう。
 そういうわけで首をよくまわしたり、両腕をまっすぐうえにかかげた状態で静止して鼻から息を吐いたり、その他上体をひねったりスクワットめいて腰を落としたかたちで止まったり、もろもろからだをほぐして、その甲斐あってこのへんからだんだん滞りがながれて、ようやく活力が寄ってきた。寄ってきたのだがまだきのうの日記を書く気にはならなかったので、書抜きをすることに。いま読んでいる、マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)。図書館で借りているので写せるときにガンガン写しておかないと困る。BGMにJoshua Redman, Brad Mehldau, Christian McBride, Brian Bladeという錚々たるメンツがやった『Round Again』をながした。diskunionのサイトが攻撃されて死んでいらい、ジャズほかの新入荷一覧もみられなくなったので、かわりにTower Recordsをみている。そこにこの四人の『Long Gone』という新譜が出ていたのだが、これはまだ発売前で一曲しか公開されておらず、それをまず聞いたらもうかっこうよいのだけれど、音としてはまあこうなるよなという感じで目新しさはなかった。それでおなじ四人の前作である『Round Again』。このカルテットはJoshua Redmanが活動開始した最初期に組んでいたメンツらしく、いまからみるととんでもないやつらがよくもまあ揃っちゃったな、という感じだが、当時からみんな引っ張りだこでながくはつづけられなかったのを、何年かまえから再結集して『Round Again』をつくったのだと。ぜんぜん知らなかった。ジャズにかぎらずそうだけれど、さいきんの音楽の動向もう疎いわ。そのつぎにJasmine Myra『Horizons』というやつをながしてこれはけっこうよい。二曲目だったかのギターがよい。リーダーはイギリスのLeedsを拠点にしているサックス奏者らしく、淡い色調のアンサンブル的な、楽団的な音楽で、曲によっては弦もはいって一〇人構成らしい。Kenny Wheelerから影響を受けたとか。bandcampの説明にそのほか挙がっているのは、Bonobo, Olafur Arnalds and Moses Sumneyというなまえで、ちっとも知らん。


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 八時ごろから寝床にうつってだらだらと過ごしてしまい、それでもう一〇時半くらいになったはず。夕食を取ったあともなぜかめちゃくちゃな疲労感におそわれて、椅子のうえでまどろんだりしながらなにもできず、シャワーを浴びる気力すら起こらなかったのできょうはもういいやとおもい、消化がある程度すすむのを待ってから布団に移動した。それでさっさと寝ればよいのにウェブをいくらかまわってしまったが、じきにねむけがはなはだしくなってきたのでもう駄目だと消灯。二時四〇分くらいだったとおもう。しかしそれからすぐスムーズに寝入ったわけではなく、意識は重くてねむけもひどいのだけれど、つうじょうどおり覚醒をうしなえるわけではなくて、入眠と喪失一歩てまえの半端な状態で窒息的な感覚におちいることがなんどかつづいた。むかしは昼寝のあとなんかによくあったもので、たぶん一種の金縛り的な状態だろう。


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  • 「ことば」: 1 - 13
  • 「読みかえし1」: 227 - 234


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  • 日記読み: 2021/8/4, Wed. / 2014/1/24, Fri.

出勤路のこと。林を埋め尽くしているセミの声がやはりその厚さはげしさが格別のものになっていてそうとうにうるさい。ちょっと神経を圧迫してくるのではないかというくらいのさわがしさ。公営住宅まえから棟のかなたに見えている山が緑のうえに午後五時のオレンジ色をかけられながら水色の空を接しているのをぼんやりながめながらいく。坂道もとうぜん木がちかいからセミが圧倒的で、カナカナなど左右の近間からつぎつぎと立って宙をこすりながら身をつらぬいていくようなかんじ。木洩れ陽はきょうは晴れなのでよくあって、右手の壁に豊富にかかっている。のぼりながら右の膝が痛んだので、ストレッチをかえってやりすぎたかとおもってとちゅうでとまり、膝をちょっと揉んだ。身体というのもなかなかむずかしいものだ。ほぐしすぎてもかえっていためてしまう。

坂の出口付近は陽射しがあらわでつよく、漬けられるようになって暑い。最寄り駅についてもまだ五分くらい猶予があり、ホームは西陽がよくとおって占拠しているはずなので、まだ行かず、駅のまえの日蔭で立ち尽くしてしばらく待った。待ちながらやはり両膝のまわりや脚をいくらか揉んでおくが、かがんで手指をうごかすそのうごきだけで汗が出る。そろそろだなというところでホームへ。階段通路にも太陽が旺盛に射しこむというか左ななめすこしまえのかなたに日輪はあらわに浮かんでおり、そのまぶしさでほとんど目を完全に閉じてしまうくらいにまぶしく、くわえてもちろん熱く、熱波にひたされて息苦しいようになりながらホームへ。はいるとそのままさらに先へ。左手、線路をはさんでむこうの段上で、スズメたちが何羽も木やらなにやらにあつまったりそこから飛び移って宙をわたったりしていくのだけれど、太陽のひかりはもっぱら西から来ており、小鳥らは東にむかって移動するので、集団の成員はことごとくみなからだの前面にくらべてうしろがわだけを西陽のためにほのかにあかるませて茶色をかるくしながらはたはた飛んでいく。

勤務まえ、(……)について降り、駅を抜けて、職場にむかいながら裏路地のほうへ目をやれば、道の奥に立ったマンションがふたつ、西から来る太陽光を一面に受けて雲のない水色のもとであかるんでおり、ひかりはほぼ均一に、壁や窓のどこにも集束してかたまることなく側壁をうえからしたまですべてつつむようにひろがってなめている。


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街道に出て(……)の商店の脇の自販機でジュースを二本購入。すすんで、裏道にはいってちょっと行ったあたりで、べつに日記など書かなくてもよいのだとおもった。いちおう、毎日十分に読み書きをするために、とりわけ日々の記録を書くためにこそ正職につかずいつまでもだらだら生きているという名目があって、いままではずっとそういうふうに、読み書きをしたいがためにという説明をじぶんにも他人にもしてきて、それはいまもまちがってはいないのだけれど、絶対に読み書きをしなければならないなんてことはまったくないのだとあらためておもった。いとなみはかるい関心からはじまって欲望に結実し、欲望に火がついて加速していくと、次第にそれが使命感みたいな、言ってみれば天職的なつよい確信、じぶんはじぶんの生においてこれをやらねばならないのだ、これこそがじぶんのやるべきことなのだ、というような、そういう信念めいたものに変わっていくもので、じぶんもわりとそういう経過をたどってきたけれど、いまはそんな使命などというものは単に気のせいとか錯覚にすぎないし、使命というべきものなどじぶんにはなにひとつないしもちたくもない、というおもいにいたっている。どうでもよろしい。じぶんがじぶんの生でやらなければならないということなどなにもないし(もしあるとしたら、それはじぶんの欲望とかではなくて、なにかしら他者にかかわるたぐいのことである)、こんなことをやったところで、たいしてなににもなりはしない。やってもやらなくてもどちらでもよいけれどとりあえず気分がそちらをむいているからやる、というような軽さで物事をつづけたいとおもっているし、じっさいにそういうふうになってきている気がする。こんなものはいつでもやめてしまって良いのだ、というくらいのこころもちのほうが楽でよい。


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74: 「過去を喚起しようとつとめるのは空しい努力であり、われわれの理知のあらゆる努力はむだである。過去は理知の領域のそと、その力のおよばないところで、何か思いがけない物質のなかに(そんな物質があたえてくれるであろう感覚のなかに)かくされている。その物質に、われわれが死ぬよりまえに出会うか、または出会わないかは、偶然によるのである」


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James Crow, as told to Sally Weale, “‘It felt so powerful’: how I was seduced by the UK’s far right”(2022/8/3,Wed.)([theguardian.com/politics/2022/aug/03/it-felt-so-powerful-how-i-was-seduced-by-the-uk-far-right](http://theguardian.com/politics/2022/aug/03/it-felt-so-powerful-how-i-was-seduced-by-the-uk-far-right))