2022/8/30, Tue.

 (……)わたしが思うにミラーが引き起こした問題は(彼のせいではないが)、頑張って自分の作品をせっかちに(早めに)出してしまい、それゆえそれが正しいやり方なのだとほかの人たちに思わせてしまったことで、そこで半人前の作家の大隊が押し寄せてドアをノックし、自分たちの才能とやらを見せびらかせて押し売りするようになってしまっていて、それはなぜかといえば自分たちがずっと「見出されていない」からで、見出されていないというまさにその事実に自分たちは天才だということを確信させられてしまっていて、それというのも「世界はまだ彼らに追いついていない」からなのだ。
 彼らの大部分にとって世界が追いつくことは決してないだろう。彼らは書き方を知らないし、言葉や言葉遣いの恩寵もまったく受けたことはないのだ。そうでない者にわたしは会ったこともないし作品を読んだこともない。そんな者たちがどこかにいてくれることを願う。わたしたちにはそんな人物が必要だ。まわりにいるのは、鍛錬していないやつらばかりだ。しかしギターを抱えて現(end228)れた者たちにしても、わたしにわかったのは、いちばん才能のないやつらがいちばん大きな声で叫び、最も下品で、最も自己満足に浸っているということだ。やつらはわたしのカウチで眠り、わたしの敷物の上に吐き、わたしの酒を飲み、自分たちがどれほど偉大かわたしに向かってのべつまくなしに喋りたてていた。わたしは歌や詩や長編小説と短編小説、あるいは長編小説か短編小説を出版する人間ではない。闘いの場がどこなのかはわかっている。友だちや恋人、そのほかの者たちに頼み込むのは空に向かってマスターベーションをすることだ。そう、今夜わたしはワインをたっぷり飲んでいて、訪ねてきた者たちにきっと困惑してしまったのだろう。作家たちども、どうかわたしを作家たちのもとから救い出しておくれ。アルヴァラド通りの娼婦たちのおしゃべりの方がもっと面白かったし、みんな違っていてありきたりではなかった。[…]
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、228~229; ジョン・マーティン宛、1980年[6月か?])




 目を覚まして携帯を見ると、七時五八分。やはりさくばんあるいたためだろう、からだがぜんたいてきに軽い感じがした。部屋のなかは曇り日の明度といろあいで、気温はもうよほど低く、腹を揉んだり胸をさすったりするにも布団をどける気にならずそのなかでもぞもぞやる。あまり時間をかけず、八時二〇分ごろに離床した。吊るされている洗濯物をどけつつカーテンをあけて、そのあとはいつもどおり顔を洗ったりなんだり。パソコンは落とさずにスリープ状態で寝たのでそれを復活させるとNotionのきょうの記事もさっそくつくっておいた。蒸しタオルを額に乗せると寝床にもどり、Chromebookでウェブをちょっと見たり、一年前の日記を読みかえしたり。読みながらきのうつかった足をよく揉んでおく。2021/8/30, Tue.には二〇一六年の情景記述がふたつ引かれており、もうこの時点でもそこそこやってんな、という印象を得た。書きぶりがそんなにいまとちがわない。ただ、いまよりも読点を頻繁に置いてあたまのなかで呼吸をととのえながら書いているような感じがある。また、このころはこういう文を書くのにいまよりもたぶん苦労して、ちからをついやしてがんばっていたはずだ。いまはもう風景描写もたいしてがんばっていない。見聞きしておもいだせるものを記録しようとしているだけ。

いま三一日の午前一時四〇分。過去の日記の読みかえし兼検閲でもするかというわけで、2020/1/18, Sat.をブログで読んでいる。2016/12/17, Sat.および2016/8/20から情景描写がそれぞれ引かれているのだが、そのどちらもなかなか悪くなく書けているようにおもわれた。ひとつめの記述では、「白く締まって満ちるように艶めいて」といういいかたが良い。また、「どんな澄んだ藍色の時にもこれほど無数の輝きに満たされることなどあり得ないだけに」の、「~~だけに」などといういいかたはもうずっとつかったおぼえがない。もしかしたらこのとき以来いちどもつかっていないかもしれない。まがい物のほうが本物よりも真実味を帯びる、という逆説のテーマはありふれたものだが、なかなかロマンティックに書けていて悪くない。後者の記述もちいさなもののささやかな現象をずいぶんと綿密に、熱心に書いているなという印象。


 ガラスを埋め尽くす汚れは陽に浮き彫りとなって、その一つ一つが白く締まって満ちるように艶めいて、例によって馴染みのイメージの反復だが、星屑の集合のように目に映り、宇宙の一画を切り取って縮小したかのようで、現実の夜空の表面は、どんな澄んだ藍色の時にもこれほど無数の輝きに満たされることなどあり得ないだけに、白昼の太陽のなかでのみ目に映る紛い物のこの星空は、それが紛い物であるがゆえに星天の理想的な像をいっとき受け持って具現化してみせるのだろう、本物よりもかえって、星屑という言葉を付すのに似つかわしいような感じがするのだった。

     *

 それで窓を眺めていると、外の電灯が流れて行く時に、白であれ黄色っぽいものであれ赤みがかった暖色灯であれみなおしなべて例外なく、その光の周囲に電磁波を纏っているような風に、放電現象の如く細かく振動する嵩を膨らませながら通過していく。それは初めて目にするもので、なぜそんな事象が起こっているのかしばらくわからなかったのだが、途中の駅で少々停車している際に、ガラスに目をやると先の雨の名残りが――と言ってこの頃にはまた降りはじめていたのだが――無数に付着していて、その粒の一つ一つが、いまは静止している白い街灯の光を吸収して分け持っているのを発見し、これだなと気付いた。灯火が水粒の敷き詰められた地帯を踏み越えて行く際に、無数の粒のそれぞれに刹那飛び移り、それによって分散させられ、広げられ、また起伏を付与されて乱されながら滑り抜けて行くので、あたかも乱反射めいた揺動が光に生じ、実際にそうした効果が演じられているのは目と鼻の先のガラスの表面においてなのだが、街灯のほうに瞳の焦点を合わせているとまるで、電車の外の空中に現実に電気の衣が生まれているかのように見えるのだった。

 この日、二〇二一年じたいの風景描写もまあまあ。「通りすがりの花の香のように淡い日なた」なんてずいぶんロマンティックな比喩をつかっている。このマンションのうえにほのかに浮かんでいる電線などの影の図はけっこうよくおもいだせる。さいごの一段も季節感と夜道の感じがよく喚起される。これらの記述にかんしては、「やはりそとでからだに感覚したものをよくおぼえているうちに十分に記述できるというのが充実するようで、べつにきわだってよく書けたというてごたえがあるわけではないけれど、満足感がある。なぜだかわからないが、まったく急がず、ゆっくりと落ちついてしるせたのも良かった。それでいて文に凝ったわけでなく、さほどちからをこめずにゆるやかにかるい感触で書けた」というコメントをのこしている。

(……)西へ向かった。空は暗くはないもののなめらかに薄雲まじりで、そのせいもあるだろうがあたりはおろか南の川向こうにももはや陽の色がはっきりと見えず、だいぶ日も短くなったようだなとおもわれた。(……)さんと(……)さんの宅のあいだには白の、(……)さんの庭には紅色の、それぞれサルスベリが花を厚く咲かせ、色をあつめてボンボンかシュシュか毬のような小球を、あまり整然とせずおおきさもかたちも違えていくつも浮かべた様相になっていた。

坂をのぼれば抜けるころにはやはり汗で肌がべたついている。駅前の横断歩道から見ると雲につつまれて弱くなりながら落ちゆく太陽もやはりずいぶん西寄りの低い位置、林の梢にほどちかいところにもうかたよっていて、秋へとむかう季節が再度おもわれる。ホームにうつると、おとろえて弱々しいとはいえ陽のひかりがななめにながれるように差しており、通りすがりの花の香のように淡い日なたとそれに応じた色しかもたない蔭とがかろうじて分かれ、陽の先にあるマンションは壁をすべてつつまれながらも大して色も変えず、ただ電線の影をやさしく捺されて浮かべているばかり、そんななかでもあるいていけば首から喉から胸から顔からと汗が肌を濡らしていて、とまるとハンカチで湿りをぬぐわずにはいられなかった。

最寄り駅からの帰路。坂のとちゅうから、道の奥のほうから浮遊してくるようにして風が生じ、やわらかかったが、くだって平路を行けばそれがさらにふくらんでここちよく、おもわず足をゆるめて歩を遅めながら浴びるようになった。公営住宅の敷地をくぎるフェンスを前後からかこむように伸びた草ぐさが身を反らして揺れ、路上にまばらに落ちている葉っぱも小動物めいてちょっとすべって道をこすり、風は膜か糸束をからだにかけられたようにやわらかだけれど涼しくはなく、もう九月目前であたりの虫も秋の声というのにぬるい夏夜のながれだった。

 そのあときのうのAmy Fleming, "It’s a superpower’: how walking makes us healthier, happier and brainier"(2019/7/28, Sun.)(https://www.theguardian.com/lifeandstyle/2019/jul/28/its-a-superpower-how-walking-makes-us-healthier-happier-and-brainier)のつづきをさいごまで読み、立ち上がると屈伸などしてから瞑想。九時四〇分から一〇時まで。そとではおおきなプールのある水遊び施設とか遊園地であそんでいるかのような子どもたちのにぎやかな歓声が聞こえ、ホイッスルをいきおいよく吹き鳴らして狭いすきまから空気をするどく噴出させるようなよろこびの高音がたびたび立ち上がる。保育士の女性がちょっとおどかしながら子どもを追いかけているらしき声も聞こえる。瞑想は二〇分ほどで、目をひらくと一〇時一分だった。そうして食事へ。キャベツと豆腐、大根とタマネギにハムのサラダを用意。サラダに豆腐を入れるのはとてもよい。あとは冷凍のパスタ(ナスとベーコンの端切れとほうれん草らしき菜っ葉がはいったバター醤油味のもの)で、そろそろまた食い物がすくなくなってきた。キャベツものこりすくないし、野菜はあと大根とタマネギしかない。大根はまだ半分がまるまるあって、タマネギもそこそこあるが。冷凍にも未開封のチキンナゲットと唐揚げがあるから、そんなにすくなくなっていないと言えばそうだけれど、野菜を補充したい。あと米。きょうは昨晩駆り立てられた歩行欲にしたがって図書館まであるいていくつもりである。食事中にはなんか動画でも見るかとおもって、まえにも一回すこしだけ見たのだが、國分功一郎がVimeoにあげているマゾッホについての動画の第一回を見た。これは(……)さんがブログでふれていて知り、メモしておいたもの。こういうのを飯を食うあいだに見るのもわるくない。國分功一郎は東西のあいだでつねに翻弄されてきたガリツィア(ポーランド東部からウクライナ西部のあたり)という地方が、フランスを代表として確立された近代主権概念(それを敷衍すれば自律的で確固とした主体の概念となる)とはべつのモデルやひとびとの生き方のべつの戦略をかんがえるにあたり、なにか興味深い端緒になるのではないかとかんがえているようだった。そこにマゾッホマゾヒズムの問題がつうじていると(むろん、今次のロシアによるウクライナ侵攻は端的な暴挙で言語道断のぜったいにあってはならないことであり、ウクライナの主権は侵害されてはならないということをとうぜんの前提としたうえでのはなしである)。というのもマゾッホは、今次の戦争でもニュースでなまえがたびたび見られたいまでいうウクライナ西部リヴィウの出身だったらしい。いわゆる通俗化されたマゾヒズムのイメージとはまったくちがって、歴史的にひじょうに複雑な経緯を持った地域での少数民族ユダヤ人や革命運動や国籍の問題などについての作品をものしたという。それをドゥルーズが一九六七年に『ザッヘル・マゾッホ紹介』という著述によって紹介し、そのなかで、サディズムマゾヒズムはぜんぜん関係がない、対になるようなものではないということを主張しているらしい(そもそもその時点ですでにサド/マゾの二分論が生まれていたのか、いつからあったのかという疑問があるのだが)。
 食後は食器をすぐに洗い、そのままきのうの日記を書きはじめた。やはりあるいたためかやる気がみなぎっており、からだも安定していて、即座にとりかかることができる。そのままさいごまで書き記し、投稿したのが一時過ぎくらいか。しごとがはやい。とにかくあるきたいというほとんど胸がどきどきするかのような官能的欲望をおぼえており、さっさと出かけたいのだが、そのまえにシャワーも浴びなければならないし、洗濯もしておきたい。そういうわけでまたちょっと体操すると身にまとっているものを脱いで全裸になり、袋に入れてあったものと合わせて洗濯機に服を入れ、水が溜まるまでのあいだは腕を伸ばしたり開脚したりして、洗剤を投入すると浴室にはいった。湯を浴びる。髭を剃りたいがこのときはその気にならず。できたら今夜に。あがるとからだの水気を取り、肌着とハーフパンツを身につけ、ドライヤーで髪を乾かし、さきに歯を磨き、水を飲みつつきょうのことを書き出して、とちゅうで洗濯が終わったがそれを無視してここまで記すといま二時半をまわったところだ。けっこう遅くなってしまった。もっとさっさと出かけたかったのだが。しかしきょうは休日だからべつに遅くなったってとくに問題はない。


     *


 洗濯物を干した。曇りだし、出かけるので部屋干し。ハンガーについていたものたちを取ってたたみ(タオルなどやはりいくらか特有の湿ったにおいがなごっている)、かわりに洗ったものをつけたりかけたりして吊るす。そのまえだったかもしれないが、腹が減ったしこれからたくさんあるくのでなにかすこしだけものを入れておいたほうがよいだろうとおもって、豆腐とハム二枚とヨーグルトだけ食べた。それなのでもういちど歯磨きをして、いつものTシャツと黒ズボンにきがえると出発。三時一五分ごろだったとおもう。部屋を出ると通路端に寄って白天のもとに雨が降っているか、顔を出したり手をちょっと伸ばしたりしてたしかめる。降っていないようだった。とはいえ降り出してもおかしくなさそうな空気感ではあるので傘を持ってもよかったのだが、あるくのにめんどうくさいとおもい、降ったらコンビニで買えばいいやと払った。階段をとんとんくだって道に出ると左折。もうよほど涼しい。さきほどは降っていないと見たけれど、かすかにぱらつくものが腕などに触れてきて、つよまるとめんどうだなとおもいながらももどらずにすすむ。公園には、保育園の子と保育士なのか、おとなに連れられたふたりが出てくるところで、ひとりが入り口にあるちいさな柱上の石、ちょうど爪楊枝のうえのほうを切り落として置いたみたいに溝がはいっているが、そのうえに乗って腕をひろげながら意気高く叫ぶのを女性があっちに帰るよ、と誘って先導していた。右折しておもてへ。ルートはきのうの夜に帰ってきた道をそのまま逆からたどろうとおもっていた。それなので出ると向かいに渡りさらに左、つまり南へ向かう。正面から自転車に乗った婦人が来たが駐車場の柵と街路樹にはさまれた道は狭く、あちらがてまえで止まったので会釈をしつつ、木の足もとに生えたネコジャラシなどをわさわさこするようにしてさっと抜ける。コンビニのところで右折して西へ。このあたりでマスクをはずしたが、そうするとなんのものなのか、いずれそのへんにある木とか草とか植え込みとかそのしたに敷き詰められている葉の残骸などが湿った大気に感応して吐いたにちがいないが、草っぽいような土っぽいようなにおいがかすかにふれて、においはそれがどんなものであれほのかであればあるほど、ただよって嗅覚を乱すその一瞬だけは官能性をもたらすようだ。ここからは当面のあいだ、西へ一路まっすぐである。昨晩雨のしずけさを見た踏切りを反対側から越え、病院にいたるてまえの敷地は草の生えた空き地がひろくあるが、そのなかがいくらか刈られていて、このへんではマスクをもどしていたが青臭いにおいが鼻に寄ってくる。敷地はすこしまえに夜歩きでとおったときには一面ぜんぶひろびろとした空き地で、細い丸太棒とワイヤーで画されていたのだが、それがこのあいだから半分くらいフェンスになっており、そちらのなかには奥に二棟、黄土色のちょっと混ざったような茶色の小屋があって、看板を瞥見するに水道新設工事をするとかで作業員のすがたもあった。ということはあの小屋は作業用の簡易拠点なのだろうか。水道を引くというのは病院関連の建物ができて範囲がひろがるということなのか。わからないが、すすめば病院のまえに来て、そこには草木がよく植わっていて患者があるきまわる用にだろう、草のなかを行く細道みたいなものももうけられており、なかにヒマワリがいくらか立って、もう夏も終いにちかいがおおきな顔で咲きひらいたものもあり、しかしきょうは曇り空で太陽のありかもさだかでないから向く方向も見いだせないのか、どれも首をやや垂れてうつむきがちだった。すぐ脇に生えたいっぽんのまえを通りすぎざまに見ると、黄色い花弁のなかの円形部分はまあなんかすごい質感で、おおきな饅頭みたいに丸く盛り上がっている。入り口に二股の巨木がある敷地は(……)公園というなまえだった。昼間にとおったことがなかったが、よく見れば奥に小広場もあって遊具も見える。(……)の入り口まえには赤く小さな鳥居のところに中学生か高校生か男女が数人寄ってつどっている。まもなくひろめの交差点にかかり、ここを右折してずっと行けばなつかしき(……)ビルのあたりにいたるはずで、そちらに行ってもみたかったがきょうはとりあえずきのうの道を逆からたどろう、(……)ビルは帰りにしようと決めてそのまままっすぐ通りをわたった。あたりには飯屋やさまざまな商店やコンビニ、そして雑居ビルが通りのどちらがわにもおおくならび、さすがに街のことで車が途切れる隙はなくひっきりなしに走行音がつづき、ひとの数も増えてきて、たいがいは追い抜かされるわけだが、ベビーカーといまは歩行中のおさなごをともなってあるく女性とならんだりもする。右手の路地にはいってみたい気もしたが、それもまたこんど。とちゅう、その入り口にみじかい横断歩道と信号がもうけられた路地もあり、赤だったので止まったものの車がはいってくるようすもなく、こんなみじかさなんだからぜんぜん渡ってしまっていいでしょとおもいつつも、向かいでチャリに乗っている老人もだれもみんな律儀に待っているので郷に入っては郷に従った。ひとり、信号が変わらないうちに、路地のほうにちょっとはいってそこから渡ったおばさんもいたが。駅がちかくなるとだんだん繁華なおもむきが出てきて、右をのぞけば高校大学時代にうろついておぼえのある風景もあり、そのへんではいってしまってもよかったのだがきのうの道すじに固執する。ここのVELOCEはなんどかはいったことがあるとか、ここのFamily Martはこういう位置だったのかという調子で、過去の記憶と現在たどってきた道のりが接続される。しかしここよりさらに南にはまだいちども行ったことがない。駅前につづく幅広の交差点で右に折れ、高架歩廊のしたの薄暗さのなかを行くと、無断駐輪の自転車に、「警告」といかにも警告的な太めの字体で真っ黄色の地に書かれた紙が貼られていたりする。車道のきわでも路上駐車の車に、薄緑っぽい制服を着た老人ふたりが寄って紙を貼っていたようだ。階段をのぼって高架歩廊にうつり、太陽はと空をみあげつつ行ったところが、いちおう西空に白さがはっきりしているところがあるからそこだと所在はわかるのだけれど、すべてはあくまで雲であり、瞳にたいした刺激もあたえてこない。そうして駅舎内大通路を北へとおりぬける。またしても緑一色のボトムスを履いた女性を見つけてしまった。(……)のまえから男性ひとりと三人で連れ立ってあるきだしたのだが、ひとりは青味をかんじさせるビリジアン的な緑の襞のゆるいロングスカートで、もうひとりはこちらはそれよりもわずかに黄色の混ざった色調の細身のパンツを履いており、足もとはともに白のスニーカー、パンツのほうのひとはピンクのラインがわずかはいっていたが、それにしても姉妹なのか? というようなかっこうだった。北口広場かどこかでももうひとり、おなじような緑一色の下半身をした女性を見かけたおぼえがある。ほんとうにあの色を履いているひとがおおくてやたら目につくのだが。目的地は図書館である。広場に出て歩廊をたどりつつ西を見上げると、あるのはやはり真っ白なひろがりで、目をこらせばそのうえに煙、というよりは染みのような微灰の雲がかろうじて見受けられる程度だが、東がわはまだしもうす青さがなじんでいなくもない。高架歩廊上をすすんでいく。おもいだしたが、緑色のズボンのひとをみかけたのは広場ではなく、この歩廊のとちゅうのことだった。周辺のビルではたらいているひとだろう、一色のパンツにうえはさらさらした感じのチュニックといえばよいのかそんな服で、足は低い黒のパンプス、バッグをともなっていなかったから、時刻は四時だが、おそらくは休憩に出てきてなにか買いに行くところだったのではないか。そのすがたとすれちがい、もうすこし行けば図書館のビルに着く。したの車道のうえを渡りながら風が身に触れてくるが、眼下の道に沿ってならぶ街路樹は、枝の両側にまるい葉の茂ってながく伸びた房だとやはりその程度の風では動じないくらいに重いのか、ほとんど揺れずにたたずんでいた。ソバージュ的に房がいくらかぼさぼさ突き出した木もある。


     *


 入館。ゲート前に設置されている消毒液を手に出し、こすりながらはいる。ながくあるいてきて下半身や膀胱が刺激されたためにかなり小便がしたかったので、なにはともあれトイレに行った。すこし曲がり目の多いつくりになっているトイレ内を行って、いちばん奥の小便器に用を足す。手を洗って出ると、目的はカフカ全集の再貸出だったが、美術方面の本とかちょっと見ておくかとおもって階をあがった。かつてはここでCDをたくさん借りたものだが、いまやAmazon Musicの世話になっているため見向きもしない。海外小説の文庫棚をまず見てブコウスキーがなにかないかとおもったが柴田元幸訳の『パルプ』のみ。これは単行本でむかし読んだ。それもこの図書館で借りたものだったはず。なんかめっちゃB級の探偵映画みたいな小説ではなかったか。てきとうにさらさらノリといきおいで書いたのか? みたいな感じで、柴田元幸も、この本の訳はじぶんが手を加えているという感覚がなくてすーっとできた、そういうのが翻訳のひとつの理想だとおもう、みたいなことをどこかで言っていた気がする(記憶がふたしかなのでかなり文言がちがっているとおもうが)。それから哲学とか宗教とかの文庫をみたのは、一〇月一五日の読書会で読むことになっている鈴木大拙の『禅』がないかなとおもったからだが、みあたらず。芸術、言語、文学のあたりもちょっと見て、それから単行本の書架のほうにながれて英語関連の書を見分。英語史の本とか、ちょっとした新書とか、こういうのも読んでおいたほうが良いのだろうなとおもう。ジェームス・バーダマンなんてなまえを見たが、これは大学の教授として知ったなまえだ。授業を取ったことはないが。たしかシラバスに英語でやると書かれてあって、とてもじゃないがそんな講義でいきのこれる気がしないとおもった記憶がある。言語総記の欄にもおもしろそうな本がたくさんある。みすず書房の『エコラリアス』とか、チョムスキーとか、アガンベンもなにか一冊あった。英語の区画は見分している老婦人がいたのであまり見ないうちに去ったのだったが、その後ひとがいなくなったのをうかがってもどってくると、翻訳学とか翻訳関連の欄もあり、そこにもけっこうおもしろそうな本があった。あと、文庫の言語の区画には安西徹雄の本もあって、そういうのも読んでおきたい。しかも安西徹雄は光文社古典新訳の『十二夜』とかシェイクスピアの訳が良かったのでなおさら読みたい。その後、音楽、美術、写真、映画などと周辺の区画をだいたい見てまわった。音楽では武満徹著作集とか吉田秀和の本なんかがやはり気になるものだし、ショパンの書簡なんかもある。ジョン・ケージ伝なども読みたい。ジャズ方面だと中山康晴がエヴァンスについて書いている本をすこし立ち読みして、一九六一年六月二五日のライブについて書かれてあるところをざっと読んだが、この本は伝記的情報ばかりで音楽や演奏がどうというはなしはしていなかった。ちなみにそこの情報によると、このライブの音源はまず『Sunday at the Village Vanguard』として発表され、それから翌年に『Waltz For Debby』として、前者に収録されなかった音源が公開された。『Sunday at the Village Vanguard』はLaFaro追悼の向きがつよく、Evansも演奏の選択にくわわったらしい。収録されたのは、"Gloria's Step", "My Man's Gone Now", "Solar", "Alice in Wonderland", "All of You", "Jade Visions"である。よくわかる選曲だ。このうちさいしょとさいごはLaFaroの作曲であり、"My Man's Gone Now"はつかみどころのない地味な演奏でよくわからないが、"Solar"はLaFaroがドラムだけをバックに長尺のソロを取ってあからさまにフィーチュアされているし、"Alice in Wonderland"と"All of You"の二曲はたぶんこの日のライブでトリオとしていちばんすごい演奏の二曲だとおもう(どのテイクも)。美術だと気になるのはまあとうぜんいろいろあるが、ゴヤとかセザンヌとかデュシャンとか、その他まあなんでも気にはなる。みすず書房から何か月かまえに出たアルフレッド・ウォリスの本もあった。おなじくみすずから石川美子が青のなんとかみたいなタイトルの、世界最初の風景画家とかいう本も出していて、これもいぜんから気になっている。ジャコメッティの『エクリ』なんかもあった。何年かまえに法政大学出版局から出されたものだがセザンヌとゾラの往復書簡なんかも気になる。ゴッホ書簡全集全六巻はむかし、二〇一四年だか一五年だかたぶんそのくらいにぜんぶ読んだ。写真はリチャード・ロングかハミッシュ・フルトンの写真集があればぜひとも見たいとおもったのだがあるわけがない。そもそもそんなもの出版されているのかも知らないし、されていたとして日本語の本になっているともおもえない。写真もいろいろおもしろそうなものはあるのだけれど、二〇一三年とか一四年のころにほんのすこしだけ借りて、いままでそれきりだ。アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真集とか借りて見た。あとエドワード・スタイケンも借りたおぼえがあるが、よくおぼえていない。映画では、これは文庫の棚にあったものだが、ゴダール『映画史(全)』なんかも。それより映画のほうを見ろというはなしだが。歩行に開眼したのであるいて(……)の(……)にかよえばよいのだよな。あとこのへんでミニシアターみたいなやつはないのだろうか? いまとりあえず(……)のページを見たところ、『ファイナルアカウント 第三帝国最後の証言』というやつとか、ブライアン・ウィルソンの映画とか、ほかにもぜんぜん知らんやつとかがあるのだけれど、そのなかに『名探偵コナン ハロウィンの花嫁』があるのが浮きすぎてて笑う。ここはまえにサイトを見たときにもショアー関連の映画をやっていて、せっかくちかくなったのだからそういうのどんどん見に行くべきなのだよな。ミニシアターはいま検索したかぎりでは、やはりすくなくとも吉祥寺まで行かないとなさそう。ポレポレ東中野とか行ってみたい。ところで映画の区画を見たのはヴェルナー・ヘルツォークの『氷上旅日記』が先般白水社から新装版で復刊されたからで、しかし前回図書館に来たときには海外文学の棚でそれを見かけたおぼえがなかった。かなり丹念に見たので見落としたのでなければ映画のほうにあるのでは? とおもって探してみたのだけれどやはり見当たらず。まだ発売されたばかりなのではいっていないのか、とおもったが、いま調べてみるとやはりむかしの版しかない。たぶんそのうち新装版も入れてくれるはずなので、そうしたらさっさと読みたい。この本はおそらく、歩く人間のバイブルのようなもののはず。あと榎本ロッパ(というのはまちがいで古川ロッパであり、榎本健一エノケンと混ざってしまったのだ)の日記も全四巻だかでかいやつがでんとならんでいて、これも何年かまえに新聞記事かなにかで見ていらいちょっと気になっていた。
 上階の探索をひととおり終えるとそろそろカフカ全集を借りて帰るかということで階をおり、海外文学の区画へ。ヘルツォークはドイツかオーストリアのはずとおもってそのへん見てみたがやはり見つからず。ゼーバルトなんかも読みたいけれど、カフカ全集一〇巻を取ってさっさと帰ることに。カウンターで貸出。出口へ。新着図書の棚にはこのあいだからマルク・オジェ『メトロの民俗学者』がある。あの水声社の真っ赤なジャケットの人類学シリーズの一冊。
 どういうルートで帰ろうかなとおもっていたのだけれど、交差点から南にくだって(……)ビルのあたりを抜けてさらにまっすぐ南下すれば、(……)そばのあの交差点にいたるはずというのがわかっていたので、そう行くことに。こうしてみると(……)っていう街は主要な通りはだいたいまっすぐ、縦横に交差してそこそこ整然とつくられている。それで図書館を出て目のまえにある階段からしたの道に下り、ビルのあいだを抜けてオフィス区画をはなれる。とちゅうに小公園があるが、ここは喫煙自由らしく、ワイシャツすがたのサラリーマンやら私服の暇そうな若者やら、せまいのでそう距離もあけずに、しかしたがいにかかわりを持たずにそれぞれのグループではなしたりひとりでいたりするひとびとの多くが煙草を吸っていてそのにおいが道にも漂っていた。いまや煙草を吸うにもばしょがすくなく肩身の狭い、いわば喫煙難民らのあつまりだろう。端の座席があるあたりでは野外の飲み会めいて酒を飲んでいるらしい中年男女がおり、女性はよく見えなかったが犬を足もとに連れ、男性のほうは席のうえで横になっていた。向かいに渡り、折れ、交差点へ。信号待ちのひとびとがたまっている脇を南へと曲がる。このへんもそれなりに様変わりしており、むかしは地下フロアのマクドナルドがあって高校時代などけっこう行ったものだが、いまやとうぜんないし、どの建物がそれだったのかもわからない。2nd Streetがあった。こんなところにできていたのははじめて知った。いまかるく着て出られるTシャツがこの日着ていたいちまいしかないし、それももうかなりごわごわして毛玉ができたりもしているので、古着屋でなんかてきとうに買いたいのだが、この日は寄る気にならず。そうして一路南へ。ああこんな感じだったなという景色がおりおりある。高校時代の帰り道で図書館に行くときなどたどった通りだからだ。じきに車が複雑なながれをする交差点で信号待ちにあたり、ここの信号がなかなか変わらず、こんなに変わらないばしょだったかなとおもったが、左に分かれる道をのぞけば、そこに受験予備校の(……)があるのはたしかにここにあったなと記憶どおりである。(……)がここに通っていたはずだ。信号を待ちながら、おおなつかしき(……)ビルよ、わたしはおまえのことをまだわすれていない、いま行くぞとおもっていたが、じつのところ(……)ビルはただの背の高いオフィスビルだしなかにはいる機会などあったわけもなく、ただ高校の行き帰りにそのまえを通り過ぎていたというだけである。そのそばには趣味のわるいデザインのカプセルホテルがある。しかしようやく渡れるようになってもルートをまちがえてしまい、ほんとうは(……)ビルはもっと駅寄りだから右のほうにはいっていかなければならなかったのだが、そのまままっすぐ南下する歩道をえらんでしまった。またの邂逅を待つ。その通りは上述のように高校の帰りであるくこともままあった道なので、行くにつれて、ああこのラーメン屋たしかにあったわとか、ああそうだここに小学校があったんだったとか、これはこれでひじょうになつかしい見覚えに行き当たる。こちらの右を通る車道は中洲みたいな敷地がいくつかまんなかに据えられて左右に分かたれており、その敷地はいったいなんの用途なのかわからず、一部駐車場になってTimesの黄色い看板があったりするものの、ただ漠然と、半端な調子で縁に植木がならべられて、錆びついた柵で閉ざされなかにはいれないようになっているところもある。たしかこのへんはなんとか緑地とかいわれていたはずなので、もともと草木を植えて緑地にする計画だったのが立ち消えになったのかもしれない。われわれは毎朝(……)駅からあるいてきて裏道を抜け、この通りをあちらがわから渡ってきてこのへんのどこかでまた路地にはいり、しばらくあるいて高校に向かったわけである。どこだったか、その路地の入り口は、毎朝たどっていたあの道はいったいどこだったかと見ながら行くに、いまや(……)となって中学校と一体化した母校の生徒であろう、制服姿の女子がおりおりあらわれ、かのじょらが出てきた角があったので、あああそこだなとおもいだした。横断歩道をわたって目のまえという位置も記憶と一致する。しかしいざそこに行ってのぞいてみると、こんな色、こんな見え方の道だったかなとうたがったのだが、すすんでもほかにそれらしい道がないからやはりあれだったのだ。


     *


 もともと(……)ビルをちかくに臨むあたりを抜けて南へ渡り、そのまままっすぐ行って(……)そばの交差点にいたる道をかんがえていたのだが、すじをまちがえてしまった。とはいえ大雑把な方向はおなじなのだから、とにかく線路を越えて南に行けばどうにかなるわけである。どこから線路を越えられるんだったかなとすすんでいるうちに高い棟がいくつもひろがるおおきな団地の区画にいたり、棟と棟のあいだには木が植えられてセミの声もひびき、つよいピンクのサルスベリが薄暗い木叢のなかにあったが、犬の散歩は禁じられているらしかった。まもなく車道の端にいたり、そのへんではもう低めの高架になっている線路のしたをくぐり抜けられる場所を見つけたので、そこを通ってさらにすすんだ。むかしやはりこのあたりを通って(……)の実家に連れて行かれたことがあった気がする。じきに(……)が出てきて、ここにあったのかとおもった。このへんにあるとはよく聞いていたし、ここの教習車は家の近辺でよく見かけるし、都心のほうから電車に乗って帰ってくるときも見かける敷地だが、間近に接したのははじめてである。敷地が広いので頭上の空が開放されて南西のとおくにはマンションやらなにやら背の高い建物がいくつもならび、すでに五時台だが空は白けて夕陽の色味もほのかにも混ざらず、青味が湧き出すにもまだはやくて色気のない暮れがただが、あまり汚れた白さでもないし、空がひろければそれだけでもどこか晴れ晴れとする。このさきが(……)の実家のある通りではないかとおもって路地を抜けるとやはりそうだった。ただ、右手に見える踏切りの向こうが(……)の家だったか、それとも反対側だったかがおもいだせない。しかしこのときは気づかなかったが、この線路は(……)線のもののはずだから、だからそれに沿ってくだったさきが最寄りの(……)駅なのだ。このときはなんとなく左をえらんで車道沿いに歩道を行くと、(……)の実家があらわれたのでああこっちだった、とおもった。そうすればそのいくらか先で右に伸びるのが(……)通りでスーパーのある通りだからちょうどよい。ここからまっすぐ北進すると、おそらくはちょうど母校のあるあたりに着くのだろう。通りにはいってまっすぐ進み、スーパー(……)にいたると入店。手を消毒して籠を持ち、野菜コーナーからまわってもろもろ籠をいっぱいにした。あたらしいものとしてはレトルトのカレーを買ってみたり。木製皿があるのだからそれにサトウのごはんを出して、カレーをかけてあたためればよいではないかとおもったのだ。あとレンジでできるらしい水餃子。野菜はキャベツ、セロリ、パプリカ、リーフレタス、トマト、タマネギ。ドレッシングもそろそろなくなるのでシーザーサラダドレッシングをえらび、豆腐をサラダに入れずにそのまま食うとき用の鰹節も切れていたのでそれも。会計。夜に来るとひとりでレジをまわしていてけっこう客を待たせていることがおおいが、このときは五時半過ぎだから帰り道で買うひともおおい時間だろう、レジは三列稼働しており、しかしちょうど客の切れたときですぐに受け持ってもらえた。年嵩の女性。こちらの背後のカウンターではいつもの灰色髪のおじさんがやっていたが、かれが積み上がった籠を始末しようとしたさいに女性は、(……)ちゃんだか(……)ちゃんだかわからないが男性のなまえが「(……)」なのでそこから取ったあだなを呼び、いいよさきにじぶんのやっちゃいな、と言っていた。男性はあきらかにベテランだとおもっていたのだが、この女性のほうが歴がながいのかもしれない。とはいえ品物を読み込んでいく手際はそうはやくはなく、~~ね、~~ね、と確認しながらながしていき、バラの野菜のときには、キャベツね、キャベツで……確定! と言いながらパネルに触れて情報を入力していた。集計が済むと礼を言って籠を受け取り、カウンター端のセルフレジで会計をする。そうして整理台にうつり、リュックサックとビニール袋にそれぞれものを詰めて帰宅へ。


     *


 アパートまでの帰路の印象はよみがえってこない。帰り着くと六時過ぎだった。三時一五分ごろ家を発ったはずだからちょうど三時間ほどの外出で、そのうちだいたい半分くらいはあるいていたはずだからざっと一時間半はあるいただろう。それいがいの時間も座ることはなかったし、図書館やスーパーのなかでも止まりつつ歩を運んではいる。だいぶたくさん歩いたと言ってよい。しかしたった三時間であれだけあるけるとおもうとむしろぜんぜんいいな、こんどから休日は部屋にこもらずともかく歩きに出ようとおもった。品物を冷蔵庫に入れたり着替えたりし、さすがに疲れたので寝床で休息したのち、七時を過ぎてから飯を食ったはず。この日はまだカレーではなくて冷凍のタレ味の唐揚げをおかずに米を食ったとおもう。そのあとのことはあまり印象にのこっていない。借りてきたカフカ全集の書き抜きは五箇所できたが、たくさんあるいてさすがに疲労したため日付が変わるあたりからだらだら休んだおぼえがある。湯を浴びることはかろうじてかない、三時二〇分ごろ就寝した。


―――――

  • 「ことば」: 11 - 15
  • 「読みかえし1」: 330 - 353
  • 日記読み: 2021/8/30, Tue.

 第二の主著『存在するとはべつのしかたで』にあってレヴィナスは、老いてゆく身体の時間性を見つめている。「〈自己に反して [﹅6] 〉(malgré soi)ということが、生きることそのものにおける生をしるしづけている。生とは生に反する生である。生の忍耐によって、生が老いることによってそうなのである」(86/105)。生は生に反して [﹅5] 剝がれおちてゆく。生は生であるとともに [﹅4] 、生が剝離してゆくことである。生はじぶんを維持しようとして、かえってみずからを失ってゆく。時間が時間であるとは、生のなかで生が剝落してゆくことである。生が「忍耐」であり、「老いること」が生にとって必然的である、すなわち避けがたいことがらである、とはそういうことだ。生とは「回収不能な経過」であり、老いることは「いっさいの意志の外部」にある(90/110)。どのような意志も老いてゆくことに抵抗することができず、意志それ自体もやがて死滅するからである。――私とは時間である。ただし「ディアクロニー」としての、「同一性が散逸すること」としての、絶えず自己を喪失してゆくこととしての時間の時間化である(88/107)。「主体」が「時(end138)間のうちに [﹅3] あるわけではない。主体がディアクロニーそのものなのである」(96/117)。
 レヴィナスのいうディアクロニーはしかし「たんなる喪失」(66/82)ではなく、時間はたんなる悲劇ではない。レヴィナスが見つめようとするものは、時間の〈倫理〉的な側面である。ディアクロニーとはとりあえず、私の現在へと回収しえない、「隣人の他性」(239/278)そのもの、差異がかたちづくる時間でもある。他者と〈私〉とは差異によってへだてられ、時間性は差異によって散乱してゆく。他者との時間を私は、ともに在る現在として経験することができない。他者の現前に、私の現在はつねにいやおうなく「遅れて」しまう、ともレヴィナスはかたる。他者と〈私〉とが差異によってへだてられているとは、そのことにほかならない。目のまえの他者もまた、歴史と時間の傷跡を皺のあいだに刻みこみ、ほどなく死者となってゆくことにおいて、私をさけがたく「強迫」しつづける。かくして私は、他者との絶対的差異にもかかわらず、あるいは他者との遥かな隔たりのゆえに、他者にたいして「無関心であることができない」。
 時間への問いは、レヴィナスにあってはこうして、〈他者との関係〉への問いとなり、〈倫理〉をめぐる問いかけとなる。あるいは、他者との関係に目を凝らし、他者という差異のかたちを〈倫理〉そのものとして見さだめようとするレヴィナスの思考は、そもそものはじめからもうひとつの時間 [﹅8] をめぐる思考、ないしは時間をめぐるもうひとつの思考 [﹅8] であったといってもよい。(……)
 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、138~139; 第Ⅱ部「はじめに――移ろいゆくものへ」)


―――――


田中康夫×浅田彰「「憂国呆談」第1回【Part1】: ゼレンスキーへの危うい「熱狂」と、リベラル言論人の衰退を問う」(2022/5/10)(https://gendai.media/articles/-/94281(https://gendai.media/articles/-/94281))

田中 もう1点留意すべきは、非資源国ニッポンの冷厳な現実だ。カロリーベースの食料自給率が、統計を1965年に開始して以降で最低数値の37・17%を2020年度に更新し、パンや麺類や菓子に欠かせぬ小麦粉も、豆腐の原料の大豆も、国内消費量の9割以上を輸入に依存している。鎖国時代の江戸と異なり、「ボーダーレス経済」の中に日本も組み込まれている。
 とするなら、ウクライナとロシアという穀倉地帯でのきな臭さに直面する今こそ、「食の経済安全保障」構築が急務だ。SUSHIと並んで今や世界用語となったSOBAのソバの実の6割を輸入依存する日本への最大輸出国は、皮肉にもロシアなのだからね。
 (……)
 資源輸入国と思われがちな人口14億人の中国は、エネルギー自給率8割、穀物自給率は9割を超える。そして、ロシアとウクライナは両国合わせて小麦の3割、大麦の3割、トウモロコシの2割、ヒマワリの75%を世界に供給している。「侵攻」前から既にニッポンは生殺与奪を握られているんだよ。