ほら、『我が心』はあの頃そのもので、それは奇妙な時で、その時わたしは若くすらなかった。そして今、わたしは七十二年生きてきて、工場やつまらない仕事から何とか抜け出そうとずっと頑張っていたようなものだ。今も書くことはいっぱいあるように思え、言葉が紙に噛み付いていくかのようで、これまで同様書かずにはいられない[…]書くことで救われ、わたしは精神病院に(end295)入ったり、殺人を犯したり自殺をしたりせずに済んだのだ。今も書かずにはいられない。今この時。明日。息を引き取るその時まで。
(チャールズ・ブコウスキー/アベル・デブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、295~296; ジャック・グレープス宛、1992年10月22日午後12時10分)
またしてもいつの間にか意識を喪失。三時をまわった時点でいちど覚めて、明かりを落として正式な就眠。そうして朝をむかえて覚醒すると八時六分だった。布団をまとったからだが暑く、いくらか汗ばんでいたので布をごちゃごちゃと横にどかし、深呼吸をしながら腹を揉んだり頭蓋を揉んだり。カーテンの端をめくってみたところ、天気は白さのつよい曇りである。雨になりそうな予感をふくんでいないでもない。からだの各所を揉んで起き上がったのが八時三九分、きのうもけっこうあるいたから肉の感じはわるくない。歩行を習慣にしてしばらく経ったが、あおむけになっているときの腹にすこし張りが出てきたような気がする。いずれにしても細すぎて筋肉などないので貧弱なのには変わりないが。洗面所に行って顔を洗ったり用を足したりするともう屈伸をしておき、そうして口をゆすいでうがい。椅子につくと水を飲み、パソコンを用意しながら蒸しタオルも。きょうは寝床にもどらず、はやい時点でいちどあるきに出てしまおうとおもっていた。昨晩読んだ英文記事で、あるくにはやはり朝がいちばんよい、目がひかりをとりいれるとメラトニンが抑制されるとともに一五時間後に眠るようにからだが調節される、いっぽうでセロトニンも分泌されてこれが夜になるとメラトニンに変わるから眠りもよくなる、つまり総じていわゆる体内時計、circadian rhythmが適正にととのえられる、というはなしを読んだので。もちろんすでに知っている内容だったが、それでやはりからだもほぐれるし、朝起きてちょっとだけなにか食ってもうすぐいちどすこしばかり歩くべきだなとおもったのだった。そういうわけでウインナーのはさまったナーンドッグをひとつあたためて、それだけ食す。食事中はJames Campbell, “Iain Sinclair: 'I take a walk every morning. It's opening up your system to the world, charging circuits to be able to write’”(2013/11/1, Fri.)(https://www.theguardian.com/books/2013/nov/01/iain-sinclair-interview(https://www.theguardian.com/books/2013/nov/01/iain-sinclair-interview))というこれも歩行関連の記事のどれかからリンクされていたやつを読む。Iain Sinclairというのはおそらく日本ではまったく知られていないようだが、ビート方面などから影響を受けた作家で、ロンドン近辺とかを題材にしながらフィクションとノンフィクションが混ざったような作品を書いているらしい。ゼーバルトみたいなものか? とおもったのだが、たぶんそれともまた違うのだろう。ところでかんがえてみればゼーバルトもよく歩いたにんげんのはずで、こちらの読んだことがあるのは『土星の環』とあともう一冊『目眩まし』だったか、それだけだけれど、『土星の環』なんて副題が「イギリス行脚」だったはずだし、後者にもイタリアの町中をあるくシーンが多くあったようにおぼえている。そうかんがえるとまた興味が出てくるな。
食事を終えるとナーンドッグがはいっていたプラスチック製パッケージをさっと洗っておき、出るまえに洗濯もはじめておこうとおもった。そうすればあるいているあいだに洗濯機が勝手にすすめてくれる。そういうわけでニトリのビニール袋に入れておいた汚れ物を洗濯機にひとつひとつ投入して、注水を待ちながら屈伸したり背伸びしたりする。洗剤はエマールもワイドハイターもともになくなった。エマールのほうは詰替用を買ってあったのでそれで補充するが、ワイドハイターのほうはない。ネットでエマールだけだと洗浄力が弱いからワイドハイターを合わせると良いと書いてあるのを見つけてやってみたのだけれど、現状ワイドハイターの恩恵を感知できていないというか、むしろ漂白剤を入れるとすこしだけごわつくような気もされて、エマールだけのほうがいいんじゃないの? という気もしているのだがよくわからない。いずれにしても洗濯をはじめると服を着替える。といってうえは肌着にジャージのうえを羽織るだけ、したもジャージでも良いのだけれどそうするといかにもだから、青灰色のズボンである。それで九時三四分に部屋を出た。アパート近辺を細長い長方形を描くかたちで一〇分一五分程度一周してくればじゅうぶんだろうとおもっていた。階段を降りて建物を出ると左へ。保育園では部屋で遊んでいる声もあり、また園庭に出ているすがたもすこしある。路地にはこちらとおなじように朝歩きにはげんでいるらしいひとや、自転車でどこかに出かける通行人などがある。公園のところまで来ると横手から黒くてからだにわりとぴったりつく素材の、スポーティーな格好で膝下をさらした年嵩の男性があらわれて、耳にイヤフォンも挿していたとおもうが、すでによく汗をかいているようすで公園縁に沿って曲がるとゆっくり走り出していた。そのあとからまっすぐ南にすすんでいくとここに越してきて以来ずっと建設中のおおきな敷地があり、足場が組まれて透明な網状のシートがかけられてちょっとかすんだように靄ったようになっているその向こうには三、四階建てくらいと見える建物がもう構造はつくられており、組まれた足場とはべつに廊下めいて正式な通路が走っているその各所に縦に長いガラスの扉がもうけられて、それはたぶん窓ではなくて部屋の入り口なのだとおもうが、そこを人足が行ったり来たりしていた。その建築現場にかかるまえの角だったが、右手の一軒のまえを通ると、庭ですらなく戸口のまえの狭いスペースにちいさなビニールプールを置いて水風船みたいなボールが浮かぶなかで遊んでいる幼児とそれを至近でみまもる老婆のすがたがあらわれて、一瞬だけ目を向けた。幼児はなにかあいまいな疑問符めいた声を漏らし、老婆は赤子をみながらほほえんでいた。まっすぐすすむと横にとおった車道に突き当たるが、ここを右折すればすぐにストアとコンビニのある角に出る。行っているとうしろから抜かしてきた男があり、見れば髪はピンク色で、かぶった帽子のうしろからちょっと突き出して浮かんでいるさまは染めた毛というよりはあたまに貼りつけた人工毛のような感じで、衣服はうえもしたも真っ黒でやはり薄手のスポーティーな格好なのだがトップスの背中にはJack The Ripperの文字があり、足もとだけ不思議にも真っ黄色の靴下を履いたそのからだはまた腕や脛にタトゥーをたくさん入れており、そういう風貌のひとが両腕はいちおう拳をにぎってからだの脇にゆるく持ち上げ、上体はほんのわずか前傾させながらも足は歩幅をちいさくパタパタと重力感のとぼしい踏み方で、明確にあるくでもなく走るでもなく半端なうごきでさきを行った。ドラッグストアのある角で右折すると方角は北になり、ここをずっとまっすぐいってまた右折し、てきとうなところで最後にいちど右にはいればそのままアパートにもどってくるだろうという目論見である。風が正面からあって涼しい。空はなべての白曇りに薄よどみの影がいくらかひっかかっている。道をずっと北上すると、(……)通りのほうに曲がる口を過ぎたあと、米を売っているローカルな商店があったり、突き当たりには「(……)」という医院があって、そこで右の細い裏道にはいった。住宅地のならびである。アパートやら戸建てのあいだを行き、右手をのぞいて見通しながら、保育園の建物のピンク色がのぞく角があったから、ああここだな、ここを行けばちょうどアパートだなとおもったもののいったん通り越し、そのさきで右折したのだけれどけっきょく道は合流してしまった。まえにはどこに行くのかキャリーケースをからだの横に置いて片手に引いた老婆がゆるゆる歩いており、うしろから車が来るので振り向いてうかがいながら端に寄る。こちらもおなじように背後を見ながら車をやり過ごして、路地を抜けると渡ってアパートにもどった。保育園の園庭端では保育士がひとり柵に腰をあずけるようにしてもたれ、その足もとでオレンジ色の帽子をかぶった園児がひとり、しゃがみこんだ姿勢から柵を手がかりにして保育士のほうを見上げながら徐々に立ち上がるところだった。
部屋にもどってつけっぱなしにしてあったパソコンを見ると九時五三分、だから一〇分一五分程度とおもっていたところがじっさい二〇分ほどの道行きだったわけだ。朝起きてしばらくしてから二〇分歩ければこれは良いのではないか。習慣化したいところ。洗濯は続いている。ともかく手を洗い、曇天とはいえ汗はやはりかいているので肌着を脱いでズボンもハーフパンツに着替え、制汗剤シートで上半身をぬぐうとそのまま布をまとわずに瞑想した。一〇時一分だった。あるいてきたのでからだがほぐれてあたたまっており、足もしびれない。座っているのは楽である。とはいえ一五分程度で終えてしまったが。まもなく洗濯が終わったのでそれを干す。天気はふるわない。白い曇天に陽の気配が弱く、雨が来てもおかしくないなとYahoo!の天気予報を見るとやはりいくらか確率がある。それでもとりあえずはそとに出しておこうといくつかハンガーをかけ、それから頭蓋を揉みつつJames Campbell, “Iain Sinclair: 'I take a walk every morning. It's opening up your system to the world, charging circuits to be able to write’”(2013/11/1, Fri.)(https://www.theguardian.com/books/2013/nov/01/iain-sinclair-interview(https://www.theguardian.com/books/2013/nov/01/iain-sinclair-interview))をさいごまで読んだ。そういえばさいきんではもう「英語」ノートにわからなかった単語をふくむ前後をうつして読み返すということをやっていない。そろそろいいのではないかとおもったのだ。その都度調べるだけで、どんどん読んでいけばよいのではないかと。音読による読みかえしはもう「読みかえし」ノートだけで良かろうと。そちらにも英文記事からの引用はおりにあるから、英語を口に出して読む機会もなくなるわけではない。その後、きょうのことをここまで記せば一一時三五分。きょうは二時の電車で行かなければならない。
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この日の文を書いたあと、出勤前にもう一食食べた。サラダをこしらえて、もう一品なんだったかおぼえていない。冷凍の肉まんだったか? 二時前にはでなければならないので、その他シャワーを浴びたりワイシャツにアイロンをかけたりで、なにをやっている時間もない。たしょう雨降りだったので、ビニール傘を持つ。路地のとちゅうのサルスベリはさすがにもう花を落としきってこずえに白さもみられず、地面に落ちた滓もだいたい消えている。とおりすぎたあとから振り返って低い塀にかかっているのをみやったが、そうしてみると緑のあいだにすきまもあって、花がふくらんでいたときとはずいぶんちがってうつる。駅までの道中、ほかのことはおもいだせない。駅にはいってホームにうつるとベンチに座って目を閉じながら数分待ち、やってきた電車に乗りこんだ。扉際に立って手すりをつかみながら瞑目のなかに待って、(……)で降りると乗り換えに余裕があるのでホームの向かい側にうつり、ひとつさきの口へとあるく。そこから階段をのぼると上階フロアでは床上に品の箱をならべて路上販売的に野菜を売っている。先日もみた。けっこう足をとめているひともおり、こちらも勤務がなければちょっと見たいくらいだが、いまは乗り換え先のホームに行かねばならない。下りていっていちばん先頭のほうに行き、所定の位置に立つとイヤフォンと携帯を出して音楽をながしはじめた。なぜかCurtis Mayfieldのことをおもいだしており、『Curtis Live!』も聞きたかったが"Move On Up"があたまにながれていたので、『Curtis』を再生した。冒頭曲は"(Don't Worry) If There's a Hell Below"だが、むかし聞いていたころよりなにを言っているのかすこし聞き取れるようになっている。ほかの曲もわりとそう。そうはいってもすこしだけだが。しかし"We the People Who Are Darker Than Blue"とか良い曲だなあと。電車に乗ってからも席について聞いていたが、ヤクを二錠飲むとやはりねむくなってしまい、肝心の"Move On Up"はおぼえていない。
(……)に着くと首をまわしたり、スラックスなのにちょっと屈伸したりしてから降りて職場へ。(……)
(……)
(……)
(……)
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James Campbell, “Iain Sinclair: 'I take a walk every morning. It's opening up your system to the world, charging circuits to be able to write’”(2013/11/1, Fri.)(https://www.theguardian.com/books/2013/nov/01/iain-sinclair-interview(https://www.theguardian.com/books/2013/nov/01/iain-sinclair-interview))
JC: There's a nice phrase in the book, about "burning fresh neural pathways" when you make your "plodding journeys". Walking is one of the things you're known for. What's happening when you walk?
IS: Everything. I do a walk around here every morning before I start. It's opening up your system to the world, making the skin porous, letting all the impressions pour through and charging circuits to be able to write. And the burning of neural pathways is when you've established a set of pathways in the head. To go somewhere new is to feel the brain is being remapped, in an interesting way. And you hope that by doing that, a new form of writing might emerge.
JC: Now the Olympics are over, and Hackney has changed in ways you dislike, is there a sense of despair?
IS: Now that it's over, I think we wait for something new. But the shadow, the ghost of that, hangs heavy, because almost everything's referred to it. It's a stain that runs through the whole of our media – as if that was a golden moment in England, and everything's got to try to reflect it. But I feel that the territory's breathing a sigh of relief. It's coming back to life in different ways. Ginsberg always talked about how the mass media is a hallucinatory form. And the business of the writer is to find something out for yourself and to stick by it. To forge a new mythology out of materials pertinent to the moment. Otherwise you're at the mercy of their mythology, which is a destruction of language, above everything else. This non-language, this bureaucratic-speak of the global corporate entities, is a horror in the world. So that strange language we started with – that piece of Kerouac – I think is more valuable than ever.