2022/9/9, Fri.

 ありがとう、新しい年はわたしにとても親切だ。つまり、言葉がわたしに向かって、形となって湧き起こり、舞いながら飛んで来るということだ。どんどん年老いていくにつれて、この魔法のような狂気がますますわたしを包み込むかのようだ。奇妙で仕方がないのだが、わたしはおとなしく受け入れるようにしよう。
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、297; ジョセフ・パリシ宛、1993年2月1日午後10時31分)




 八時半ごろに覚醒した。携帯で時間を見て、まあこのくらいならいいかと判断し、もう起床に向かうことに。そうは言っても時間はかかって、起き上がったのは九時一五分くらいだったが。寝床にいるあいだはまた鼻からゆっくり呼吸したり鳩尾あたりをさすってやわらげたり、腹や脚の付け根を揉んだりしていた。窓外では子どもたちのにぎやかな声が響いており、たぶん園庭に出るだけではなく近間の公園に出かけたりしていたのではないか。保育士がなんとかいうのに、ふだんはバラバラにさわいでいるのにそこだけみんなではーい、と声を合わせたりするあたり、よく教育されている。つづけてなんとかいわれるのに、活発な子がスミレ! とかこたえてもいた。洗面所に行って顔を洗ったり、黄色い小便をながながと放ったりして、室を出ると水を飲みつつパソコンを用意。電子レンジで二分間の蒸しタオルをつくっているあいだに屈伸したりした。そうして額から目にかけてをあたためると寝床にもどったが、きょうは日記の読みかえしをサボっててきとうにウェブを見回るだけになってしまった。一一時にいたって再度の離床。水をまたちょっと飲んで、浄水ポットからペットボトルへあらたに補充した。そういえば日記に書いたかおぼえていないが、浄水カートリッジは先日『文学空間』といっしょのタイミングでAmazonで買って、数日前にあたらしいものに交換した。だいたい八週間だったかが適正期間らしく、浄水ポットの蓋にあとどれくらい期間がのこっているかを四段階の目盛りで表示する機能がついている。それが尽きたので。尽きてからも二、三回、替えないままにつかっていたけど。そうして一一時八分くらいから瞑想した。れいによって足首がかたいままなのでつづかず、二〇分も行かなかったはず。さすったりしてからやったほうがほんとうはよいのだろう。食事もいつものようにサラダにハンバーグやナゲット、それにパック米である。そろそろ調理をはじめてもうすこしなんかバリエーションを持たせたいが、そのためにはまず電子レンジを冷蔵庫のうえから移動させなければなるまい。食事中はきのうにひきつづき、コ2 [kostu] のサイトの連載記事をいろいろ読んだ。筋共鳴とか、後屈入門とか、イールドワークとか。筋共鳴とか反射区みたいなはなしはもろにそうだが、だいたいみんなからだ全体の連動性とか統合性みたいなはなしをふくんでいて、やはりそういうことなんだろうと。さいきんストレッチをやっていてもおもうのは、姿勢を取っているあいだに、伸ばしている該当箇所だけではなくてその他の部位とかからだ全体の感覚とかをも意識したり観察したりするのが大事だということで、だから要はマインドフルネスでいうボディスキャンをやりながらやるということでもあり、まえからなんども書いているように肉を伸ばすというよりはポーズを取った瞑想としてやるということでもあるのだけれど、つうじょうの座位でおこなう瞑想はとくべつどこも伸長させずなにもせずにからだの全体を感じつづけるということで、いわばニュートラルなかたちでおこなわれる身体観察であり、座ってじっとしているとまさしくからだの統合性が高まって正確に調律されたような感じになる。なぜなのかわからないが、ある部分を意識しているとそこがほぐれてくるということがじっさいに起こる。そこの部分の感覚に意識を向けることで血流がうながされたりするのだろうか。めちゃくちゃ下世話な例だけれど、股間を意識することで勃起してしまうみたいなことなのか。瞑想は措いてストレッチのたぐいでいちばん全身の統合性を感じたり確保しやすいのは背伸びか胎児のポーズではないかとおもう。それで食後、皿を洗ったあとはやたら背伸びしてしまった。ただ手をゆるく組んで直上に伸ばしあげて目を閉じながら静止するだけなのだけれど、足の裏からあたまのさきまでという感じでこれがなかなかよろしい。首とか胸とか背とかがだんだんほぐれてくる。コ2の後屈入門でも、この連載はさいしょとさいごの記事しか無料では読めずとちゅうのほかの記事はnoteで一五〇円だか払わなければならないのだけれど(そのほかの連載もだいたいそうだ)、さいごの記事で、大事なのは筋肉を伸ばすことではなくて、つま先からあたままで全身が連動していることを感じることだと書いてあった。そういうわけで屈伸などもはさみながらしばらくやってしまい、そうするともう一時である。ここまで書いて一時半前。二時半には出るからもうシャワーを浴びて準備をはじめなければならない。


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 その後シャワーを浴び、ワイシャツにアイロンをかけたり歯を磨いたりして身支度。着替えて荷物を用意すると二時半までいくらかのこったので、ちょっとだけでも床の掃除をしておくかと、扉脇の隅に立てかけてある箒とちりとりのセットを取った。埃がつく可能性があるから、やるのだったら着替えないうちにやったほうが良かったのだろうが。そういえばスラックスの腹まわりがゆるいからベルトをつけようとおもって、きのう冬服の茶色いズボンにつけてあったやはり茶色のベルトをはずしておいたのだけれど、いざスラックスを履くと腹まわりを締めつけるのがなんかなあとおもわれたのでけっきょくゆるいままで行くことにした。そうしてしゃがんだ姿勢を取りつつ床のうえを掃き、埃や髪の毛をあつめてはゴミ箱に捨てる。髪の毛がとにかく多い。一〇分少々だったが、扉付近から椅子のした、寝床のきわまでいちおう始末できた。机のしたのコットンラグのうえはぜんぜんやっていないし、椅子のしたの保護シートの裏も同様。シートの表面にもゴミがついたりしているので、ほんとうは掃くだけではなく拭き掃除もしなければならない。そうして二時半をむかえたので出発へ。建物を抜けて道を踏むと左に折れる。太陽は雲にひっかかりながらもひかりを送って路地には明暗の差がうすく湧いており、公園に来ると滑り台に群がる子どもらをあそばせて遠くでながめながら立ち話をしている女性ふたりの、うちいっぽうが折りたたみのような平たいかたちの青い傘で頭上をまもっていた。右折して西を正面にしてもけっこう暑い。路地をすすめば停まっている車につやが宿る瞬間もある。ある一軒では軽自動車のボンネットとあたまのうえに、デフォルメされた花の絵の座布団が四つ、置かれて陽に当てられていた。小公園を過ぎたあたりでまえから小学生の男子が三人やってきて、そのさきにも立ち話をする女子ふたりがいたり、出口にみえるおもての横断歩道のところでは旗をもった老人が誘導役をつとめ、ランドセルの子どもたちのすがたが横にながれていく。いままでこの時間に下校する小学生をみかけたおぼえはない。夏休みが終わって学校がはじまったからか。それにしても一学期中もみかけた記憶がない、とおもったが、六月七月はパニック障害の再発で金曜日に出勤することがすくなかったから、そのためではといまおもいあたった。通りをわたって細道にはいると前方からやってくるチェックのシャツで白髪の年嵩は、(……)というなまえのスーパーの店員である。きのうも夜に行ったときレジをやってもらったが、いまから出勤ということはたぶん三時からだろう、それできのうは一〇時半前にいたわけだから、きょうもおなじだとすると七時間半、ずいぶんながいなとおもった。ながいというかそれがふつうなのかもしれないが。いちにち六時間いじょうは決して労働しないこちらからするとながい。とは言いながらじぶんもさいきんはなんだかんだのこってながくなったりもするが。しかし週三だ。それがじぶんの限界だ。週四いじょうは無理。
 駅にはいると緊張をうっすら感じた。ホームに行っても同様。とりあえず携帯とイヤフォンを出して、Curtis Mayfieldの『Curtis/Live!』をながしはじめる。来た電車に乗ると扉際に立って目を閉じるがやはり緊張はある。(……)に着いて移動し、乗り換えてからも同様。しかもこの日はこの時間にもかかわらず乗客がやや多い。車両のいちばん端にもベビーカーをともなった夫婦があったので最奥の隅は取れず、その手前の扉際に立つ。緊張はそこまでつよくはないものの、うちに圧迫感は絶えずあり、それがいつ高まってくるかわからないというおちつかなさにつねにおびやかされてはいる。しかし立ったままではあるものの手すりをつかんで瞑目のうちに静止し、からだがほぐれておちついてくるのを待つ。夫婦は(……)で降りていき、それで角を取ったが、そのおかげもあってじきにこれならだいじょうぶだなという感じになってきた。きょうは背伸びをよくして血をめぐらせからだをほぐしたつもりでいたのだけれど、電車に来てみればじっさいには肌がけっこうざらついていて身におちつきが足りないわけである。そうしてちからを抜いてじっととまりながら待っていると、だんだん肌のざらつきがなくなっておちついてくる。つまり瞑想をしているときとおなじことなのだが、それでおもったのだけれど、身の安心、心身のおちつきというのは、たんに血流が良くなっている、からだがあたたまっているというだけではなくて、やはり統合性の問題なのだろうと。からだぜんたいがなめらかにひとつながりになったかのようにまとまっているという統合感覚こそがおちつきをもたらすのであって、バランスの問題なのだ。いくらよく血がめぐって体内が活発になっていても、それが身体全体としてよいバランスになっていなければ安息は生まれない。そして、そういう統合感覚を身に呼ぶにはやはり瞑想がいちばん効果があるとおもわれる。だから起床時に一回と、くわえて外出前にもういちどできたほうがよいのだろう。実家にいたときにはだいたいそうしていた。一晩ねむるとからだというのは統合性をうしなっているというか、前日のメンテナンスがかんぜんにうしなわれるわけではないけれど、こごったりざらついたりよどんだりかたまったりして、いってみれば惨状を呈しているというか、かなりバランスのわるい状態になっている。だからそれをまいにちとりなおし、調律的にととのえて、あらたにはじめなければならない。ねむるとどうしたってチューニングが狂っているんだよな。しかしそれは必要なことなのだろう。つまり、ギターもきちんとしているひとはネックに負担をかけないように、弾いたあと各弦をてきとうにゆるめてしまっておいたりするけれど、それとおなじようなことがからだにも自動的におこなわれるのだろう。こころをおちつかせるには丹田だとか上虚下実だとかよくいわれて、そういう東洋身体術の方面のひとはぜったいに、かならずみんなそう言うのだけれど、それからするとやはり下半身をよくうごかして血をめぐらせておくのが大事なのではないか。屈伸とか胎児のポーズをやると全身に血がまわるので、脚や太ももをほぐして血をまわしたうえで、瞑想してそのながれをバランスよくするのが身体養生としてはよさそう。ところでCurtis Mayfieldのライブ盤は、(……)行きに乗ってから序盤のうちは緊張があったのでたいして耳を向けられもしなかったのだが、冒頭曲の"Mighty Mighty"のとちゅうで、we don't need no music, we got conga! とか、we got soulとか言ってパーカスをフィーチュアするのはいいなとおもった。あと英語がやはりほんのすこしながらいぜんよりも聞き取れるようになっているのだが、"People Get Ready"で、train to Jordanどうのこうのとか、There ain't no room for the hopeless sinnerとか言っていて、宗教的もしくは政治的な歌詞の雰囲気が感知され、この曲ってそんな歌だったのかとおもった。また、"Stare and Stare"のころにはもうおちついていたのでわりとよく聞けたのだけれど、ギターいっぽんからはじまるこの曲のそのギター、音数はおおくないくせにくねくねしており譜割りがどうなっているのかいまいちよくわからないようなこれはいったいなんやねん、とおもった。ほかの楽器やボーカルがはいってくるにつれて、拍子がふつうに四分の四だということはわかるのだが、妙な譜割りになっていて、リズム感が至極つかみづらい。そんななかでCurtis Mayfieldはふつうに四分の四にあわせたボーカルを取っているからへんな感じだし、ギターもソロのときにはそういうリズム感になるのだけれど、このリフのときにこれをどうしぜんに感覚しているのかがわからない。


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 電車内での静止によってからだがだいぶおちつきはしたのだけれど、勤務にむけてもうすこしあたためておくかなとおもい、時間にまだまだ余裕があるので駅を出るとそのへんをひとまわりしてくることにした。職場の脇から裏路地にはいってまっすぐ行くと、どうかんがえても客などはいっていないだろうとおもわれるイタリア料理屋とかとんかつ屋とかがあるのだが、そのあたりで関電工のひとびとがクレーン車を出して電線をいじっていた。というかそれいぜん、駅前駐車場の脇に軽トラが二台停まっていて、青いつなぎを着込んだ関電工のひとがそのいっぽうからなにか道具を受け取ると、まるでロボットの歩みめいたうごきでガシャガシャいわせながらもういっぽうの荷台に移し、それから道の奥、クレーン車のほうに歩いていった。荷台にはよくわからないがなにか円形の、タイヤのホイール部分のようなものがたくさん載せられてあった。そうしてすすんでいくとクレーンに乗ったひとが作業しているところにあたり、交通誘導員が端をどうぞとしめしてくるので会釈して、頭上のようすをみあげながらとおりすぎた。そのさきは路地がいったん切れて十字地点に出る。まっすぐすすめば林の脇を抜けていく裏道で、そこの木々からはミンミンゼミがまだ鳴きをあげているので、さすが地元だなとおもった。右折しておもてへ。すぐ街道にあたるのでまた右折。そうして車道沿いにまっすぐぶらぶら行き、駅前でまた右折すれば長方形にひとまわりするかたちで職場に着く。
 (……)
 (……)
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 (……)
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 (……)
 帰路は(……)までまたあるいた。街道沿いの北側を行く。さしたる印象はない。空気はかなり涼しかったはず。駅に着くとホームの先頭に出て乗車。車中では着席して瞑目に休む。ややまどろんだ。やたらねむいというか、からだが重いようで、(……)に着いて降り、階段をのぼってみても、あるいてきたためか脚に疲労と熱が溜まっている感があり、とにかくねむく、これだと帰りにスーパーに寄ろうとおもっていたがやっぱりやめようかなとおもったが、(……)線にうつって扉際で待ち、(……)に降りたころにはすこしねむけが散っていて、けっきょく寄った。寄ったのはドレッシングを切らしていたので買いたかったためである。キューピーのごま油&ガーリックのものと、コブサラダドレッシングにする。そのほかキャベツやタマネギとか、冷凍のパスタとか。レジはきのうと同様白髪の(……)氏で、やはり行きにみかけたときからこの時間まではたらいているのだ。その後の帰路にたいした印象はない。じぶんのちいさな足音を聞くに周囲からリーリー鳴きを送ったりヒュルヒュル立ちあがったりする秋虫の声よりもかすかで、そうしたしずかなひとりの夜道のなかではじぶんも秋虫も一片として平等で、じぶんが世界の中心などではなくたかだかひとひらの、宮沢賢治のいいかたをかりればただ一粒の銀のアトムにすぎない、その自己における脱中心化とたんなる希薄な単一への埋没が、この世界がひとにあたえてくれる恩寵だろうとおもったが、これをおもったのは正確にはもともとこの二日前、水曜日の帰路のことだった。帰宅後は休んでから食事を取り、日記をいくらかでも書こうとこころみたのだが、メモ帳をひらいて文をすこし落とすとすぐに詰まり、そこで目を閉じて来たるものを受けようとしても食後の肉体の重さとねむけに殺されて、耐えられず寝床に投げ身してそのまま意識をうしなった。