2022/10/11, Tue.

 そしてどんな手で、どんな夢で、ぼくがあなたをすっかり自分のものにしたなどと、あなたは書きしたためたのでしょう? 最愛のひとよ、あなたはある一瞬、はるか遠方でそう思うのです。しかし近くで、持続的に獲得するためには、ぼくのペンを前に駆り立ててゆく筋肉の動きとは別な力が必要です。よく考えれば、あなた自身そう思いませんか? この文通は、それを越えて現実に至り着くようほとんどいつもぼくは憧れてはいるのですが、ぼくの惨めさに相応する唯一つの交際であり(ぼくの惨めさを、もちろんぼくは必ずしも惨めと思ってはいませんが)、ぼくに課せられたこの限界を超えれば、ぼくら二人ともが不幸になる、というふうに時折ぼくには思われるのです。最愛のひと、次のように自分に言う想像力は十分ぼくは持っています――ぼくが自分のことを考えると、あなたのもとに留まり、あなたに身を押しつけ、あなたを決して手離してはならないのと全く同様に、ぼくがあなたのことを考えると(なんとぼくらは混り合っていることでしょう、またしてもぼくの頭の中では区別し難く、これこそ悪いことです)、全力をあげてぼくをあなたから遠ざけねばなるまい、ということです。ああ、これではどんな結末になることでしょう! そしてご覧、ぼくの最愛のフェリーツェ、この恐し(end276)い手紙をいまから出そうというのです。しかしもう三時を過ぎ、別な手紙を書くことはできません。ただぼくが言いそえたいのは、前便であなたの気に入らなかったことすべては真実でなく、そのつもりで書いたものではない、ということです。なるほどそれは完全に真実で、またそのつもりでもあるのですが、ぼくはあなたをこれほど愛しているので、あなたが一瞥でそれを望めば、ぼくは不真実をも語り、――それ以上に――不真実を信じるのです。時折ぼくは考えるのですが、あなたはだって、フェリーツェ、それだけの力をぼくに持っているのです。自明なことを為しうる人間に、どうかぼくを変えてください。
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、276~277; 一九一三年二月一七日から一八日)




 いまもうちょうど一二日に日付が変わったところだ。きょうはいちにちそとに出ずにこもってしまったので、たいして書くことはない。天気は雲混じりではあったけれど水色と暖色のみえる晴れで、きのう洗ってしまった洗濯物を昼頃から風とひかりにあてられたのがよかった。体調はわるくはないが、やはり文を書こうとすると腹がひりついたりする。それできょうは夜まで書けなかったわけだ。とはいえ喉の詰まり的感覚はほぼなく、食事じたいはわるくなく食べられる。きのうにつづいて寝床でよくごろごろして腰や背中をほぐしたり、ふくらはぎを膝で揉んだりした。ゆる体操まわりをあらためて検索してみておもいだしたのだけれど、ふくらはぎを揉むこの運動はちからを抜いてうまくやれば大腰筋とかいうものまでうごいて、背面もこまかくうごくので背骨や首のほうまでほぐれるというしろものだったのだ。たしかにそれは感じる。二度目の食事(煮込みうどんののこり)を取ったあと、九日の文を書こうとしてもうーんという感じだったのでいったんはなれて、消化がちょっとすすんでから寝床に逃げたのだけれど、それでアンナ・カヴァンを読んでいるあいまに、横向きになって背骨をもうダイレクトにゆびでさするという仕儀に出た。そうするとやっぱりそれにからだが反応するのが顕著にかんじとれるわけだ。首の付け根から一段さがったところのいちばん出っ張っている部分とか、それよりもしたのだいたい背中の中央あたりかなというところとか、肩甲骨のあいだとか、それぞれさすると、ああやっぱりここ凝ってるなというのがわかるし、応じて胃がうごめいたり、首とか後頭部のあたりになにかしらの感触をかんじたりする。だからやっぱり背骨がゆがんでいたりこごっていたりしたのがよくなかったのではないか。それにかんしてさらにおもったのだけれど、首の付け根付近にあるいちばんの出っ張り部分はふれてみると反応がつよいというか、ちょっとひりつくような感じがあった。それはもしかすると枕のせいというか布団のせいで、いまつかっている布団は薄っぺらなやつで、そのまま寝ると腰が痛いのでそのしたには座布団を置いているのだが、枕はちょっとやわらかいものをつかっており、そのせいで背骨のこの出っ張り部分が硬い布団に当たって寝ているあいだに痛められていたのでは? という気がしたのだ。わからんが。それでいぜんそうしていたようにもう一枚の座布団をたたんで枕代わりとし、枕は二枚の座布団のあいだを埋めるかたちで背のしたに置いてクッションとするのがよいのではないかと考案した。これでどんな感じかちょっとためしてみよう。これが体調に関係ないとしても、背骨やそのまわりをおりにふれてさするというのは大事そう。
 おとといときのうの記事をしあげてさきほど投稿したが、きのうの文を投稿するさいに、まいにち写真をいちまい撮るこころみをはじめたのだとおもいだして、きょうはさっそくわすれていてなにも撮っていなかったので、机上の本をてきとうに撮った。そんなに外出しないし、たぶんだいたい部屋のなかの写真になるとおもうんだよな。写真を本文中に組みこむのか、記事下部とか決まったばしょに独立させるのかというのもわからんな。

20221011, Tue., 235520

20221011, Tue., 235520


 書見はアンナ・カヴァン安野玲訳『草地は緑に輝いて』(文遊社、二〇二〇年)を読了。感想はめんどうくさいし、負担を減らしたいので、書ければあしたいこうに書く。パティ・スミスの詩集も図書館で借りているのだけれど、それはいいかなという気になって、オンライン会合でUlyssesも読みはじめたし、柳瀬尚紀『翻訳はいかにすべきか』(岩波新書、二〇〇〇年)をあたらしく読み出した。冒頭、「要するに、翻訳は日本語の問題である。結局は、それに尽きる」(2)という「一国語主義」(3)を標榜しており、三島由紀夫『文章讀本』なんて引きつつ、「一国語の質の善し悪しがすべてだ。翻訳した外国語の原文を言訳に持出して泣言を並べるのを、しばしば見かける。翻訳者が「飜譯文」として自立していないものを世に送り出したことを懺悔したところで、それはただたんにみっともない」(3)と言っている。こちらもわりとこの線で、けっきょくはやっぱり日本語としてすぐれた文、すぐれた文とまで行かずともきちんとしていて違和感なく読める文になっていないとしょうがないよね、とおもうものだが、ただその「日本語としてすぐれた文」、「きちんとしていて違和感なく読める文」の判断のなかに、こちらのばあいはいわゆる翻訳文体みたいにいわれるものもわりと含まれている気がされて、柳瀬尚紀はそのへんちょっと基準がちがうかもしれないなという感触はないでもない。たとえばかれは「彼」「彼女」という代名詞が翻訳には頻出しすぎるということを言っていて、それも道理だとはおもうのだけれど、じぶんはそれにけっこう違和感なく慣れてしまっていて(あまりつづくとあれだが)、じぶんの文章を書くときでも主語をはぶくということがどうもしづらい。はぶいてもつうじるのだけれど、というところでも、なにか文のかたちをきっちり不足なくさだめてしまいたかったり、あとないとリズム的になんかどうもなあ、みたいに感じることがおおい。だからけっこう、「じぶん」だの「こちら」だの、一人称がやたらつづいて出てくるみたいな箇所はけっこうあるとおもう。
 いまもう零時というか二四時三六分にいたっているので、この日の記述のつづきはあしたにまわす。からだはわりとよい感じで、胃のうずきも喉の詰まりもないし、なんなら腹が鳴って空腹をかんじるくらいだからなかなかよいだろう。しかしここでものを食べるのは愚の骨頂である。内臓をやすめなければ。


     *


 一年前の日記にもたいしたことはなかったとおもうが、(……)さんのメールが記録されていて、出国前のとうじの不安に言及されている。「物音にやたらと敏感になっていちいち鼓動がはねあがるっていう症状」はもちろんわかるし、なんだったらいまもかんぜんになくなったわけではない。

出発前、ひさしぶりにざわざわがやばかったよ。本格的に荷造りをはじめた段階からこれはちょっときとるな、ずいぶん緊張しとるなっていう感じがあったんやけど、大阪のホテルでそれが軽めに爆発したね。ごくごく短い時間やったけど、これはちょっと無理かもしれん、なにかと理由つけて実家に引き返したほうがええかもしれん、いまは大丈夫でも飛行機のなかででかい発作がくるかもしれんっていうマイナスのぐるぐる循環モードに入りかけたけど、散歩したら気を散らすことができたよ。よかった、よかった。いまはもちろん問題なく落ち着いとるね。ただ今朝の起き抜けやったか、朝食をもってくるひとが扉をノックする音にやたらとびくっとなった瞬間があって、あ、これまだ本調子ちゃうな、と思ったりはしたけど。不安障害まっただなかやったとき、物音にやたらと敏感になっていちいち鼓動がはねあがるっていう症状があったことを、それでひさしぶりに思い出したよ。

 あとはしたのような言。

日本の感染者数もひとまず落ち着いてきたみたいやし、(……)くんもワクチン接種できたみたいやし、少しは安心やね。こっちはコロナに関しては不安ゼロやけど、最近のプーさんの暴走っぷりにはちょっと辟易しとるよ。学生らも愛国心やら党に対する忠誠やらを疑ったこともないような子たちがようけおるし、いまより若い世代はますますそうなっていくかもしれん。そういう意味でどれだけ密に交流しても、ぜったいに触れることのできへん部分があるし、越えることのできへん一線もあると思うんやけど、でもよくよく考えてみると、この状況ってリゾートにおったときとおんなじなんよね。なんぼ仲良しになっても、究極的なところはやっぱり共有することはできひんっていうか。ラブホの清掃員と大学の教師では全然境遇ちゃうやろみたいなアレもあるかもしれんけど、構図がまんま同じようにしか最近は感じられへんし、そういう構図にいつのまにか自身の境遇を寄せてしまうじぶんのこの享楽はなんなんやろねとも思うよ。不思議や。その共有できなさを決してネガティヴ一辺倒でとらえとるわけでもないじぶんがおるんよ。

 食事中には「【藤田一照仏教塾】道元からライフデザインへ(19/06)学習ノート」というnoteの記事を、この一九年六月分はぜんぶ読んだ。藤田一照はラカン精神科医の小林芳樹と、打楽器奏者の佐藤正治というひとといっしょにイベントやったりもしているらしい。かなりフットワークがかるいというか、ほんとにいろんな方面のひととはなしているよね、とおもう。小林秀雄賞を取った『数学する身体』の著者である森田真生 [まさお] とも対談したことがあるらしいし。この本は新聞で書評を読んだときからちょっと気になっている。まあこのひともいわゆる典型的な「理系」とはぜんぜんちがうタイプなんだろうが。Wikipediaにも、「数学をテーマとした著作・講演活動などを行う日本の「独立研究者」」とされていて、大学や組織に属していないようだし。在野でやって単著を書き、小林秀雄賞や河合隼雄学芸賞をとっているのだからすごい。
 小林芳樹は『ラカン 患者との対話: 症例ジェラール、エディプスを超えて』という本をいちおう読んだことがあり、しょうじきあまりおもしろくなかったのだけれど、このnoteの記事によれば、「ラカンは禅にとても強い興味を持っていたらしく、「セミネール」の講義録の初めの部分に禅に関する記述が出てきます。/それから、小林さんがいま教育分析を受けている分析家というのは、ラカンが弟子と認めた数少ないうちの一人だということですが、その人を小林さんが訪ねた時に「君は道元を読んでいるかね?」と言われたというのです」とあって、これもしかしてミレールのことかな? とおもったところ、やはりそうらしい。Wikipediaをみてもミレールの弟子筋だとあるし、この藤田一照仏教塾のレポートをたくさんあげている「ひろさん」というアカウントのひとが、「【わたしはどこへ行くのか? - ラカンと禅の対話】(2018/06/03)」として、小林芳樹とのイベントもレポートしており、同記事に、「そこでは、ラカンがサンタンヌ病院(パリ)で始めた「セミネール(セミナー)」の第1回開講にあたって述べた挨拶の中で禅仏教の教説を引用したことや、ラカンの最大の理解者であり、小林先生も直に指導を受けたというフランスの精神分析医、ジャック=アラン・ミレールとの初めての対面の時に「君は道元の"正法眼蔵"は読んだかね?」と言われたことなど、ラカンとその理論が禅を深く理解していたことがよく分かりました」とあったので。さすがだなというか、やっぱりそうなんだなあとおもう。
 「学習ノート②」のうちでちょっとおもしろかったのは永井均に言及されているところで、まあいちおうながながと引いておくと、

「第四図の中にいる人たちの中にたった一人だけいる<私>」というのを、永井先生の独特な表現で「独在的存在」と言います。
「独在的」とか「独在性」というのを簡単に言うと、「世界は"ここ"からしか見えない」ということになります。どんなに高速であちこち移動してみても、世界は常に"ここから"しか見えないじゃないですか。叩かれて痛い身体も、音が聞こえるのも、常に"ここ"にしかない。この不思議さとか異様さ…っていうのは分かりますか?

この第四図の「コトバで構成された世界」のことを「世間」ともいうのですが、世間の"間"というのが大事で、この"間(あいだ)"には、国家とか文化とか歴史、時代というのがあって、コトバによる構成の仕方がそれぞれ違ってくるのです。
(……)

世間の中には「私(1)、私(2)、私(3)……」という具合に、「私」がいっぱいいるわけです。だって、みんな一人称でしゃべっているじゃないですか。こういう私を、「私」(カギカッコの私)というわけですが、その「私」たちの中にたった一人だけいる<私>(ヤマカギの私)は、他の「私」とはまったく違うありかたをしているのです。

この<私>というのは、世界が始まるところ、

「世界開闢(かいびゃく)の起点」

であるわけです。
(参考:「<仏教3.0>を哲学する」(春秋社刊)」191ページ)


     *


第四図の中にいる様々な人たち、コトバのはたらきで構成された世界を世界そのものと思いなして生きている人にとってみれば、この「世界開闢の起点」という事実は見失われているわけです。
それでも、その人たちがその事実を忘却していようがいまいが、世界はそこからしか開けていないという事実には何の変わりもないのです。

内山老師の第四図は、先ほど言った「転換」の前の状態です。そして第五図というのは、第四図の様相とか中身(「アタマの展開する世界」)は変わらないのだけれど、第四図のままに坐禅している身体がある…という図になります。第四図から第五図への転換というのが、先ほど話した「坐即転換」になってくるわけです。第四図というのはアタマの中で起きていることで、リアリティというのはその外側にある…というところへ転換していくことになります。

しかし、「世界開闢の起点として<私>がある」という事実は、転換の前後で何の変りもありません。では何が変わるのかというと、

「世界開闢の起点としての<私>を"思い出した、気がついた"」

ということが起こるわけです。

第四図の中で逃げたり追ったり、グループ呆けしながら生きている人たちも、即自的には世界開闢の起点として生きているのですが、それがまったく対自化されていなかった、ということに"気づく、洞察する"という転換です。

悟りというのは、今までになかった新しいものが加わるわけではないのですよ。「(世界開闢の起点として<私>があるということが)実際にそうだった」ということに気がつく、というだけの話です。それを、自分の"世間"での生活の中に影響させてゆく…ということになります。

講義の中で永井先生がおもしろい言い方をしていたのが、「私たちは、構成された世間(=演劇)の中に「没入」してしまっている」というわけです。「没入人から、(演劇の)"見物人"になる」というシフトです。
見物人になったからといって、第四図的世間から出ることはできないので、

「演劇を続けながら、観客席から演劇を観るという視点も同時に持てるようになる」

という言い方をされていました。


     *


先ほどシェアしてくれた「ワンネス感、この世界、universe」というのは、神秘的な話とかいうものではなくて、<私>というのは、

「世界開闢の起点である<私>と、そこから開けている世界」、この全体

が<私>ということです。

ところが、同じ"わたし"という言葉を使っても、私は「<私>(ヤマカギの私)」と呼ぶするつもりで"わたし"と言っても、他の人が、私が"わたし"という言葉を使うのを聞くと、「「私」(カギカッコの私)」のことだと思ってしまう。このズレが問題になってきます。
<私>が包含しているものは「世界」であるわけですが、他の人にとっては「「私」(カギカッコの私)」のことであると(悪気がなくても)誤解しているのです。しかも、世間では不思議なことにその誤解が通用してしまうので、人は世間にどんどん没入していってしまうことになります。

しかし、没入していても、「<私>が世界開闢の起点である」という本来的な事実は変わらない。私たちがいま読んでいる「弁道話」の"自受用三昧"というのは、こういう問題を扱っているのだと私は思っているのですよ。
「自分の世界を、自分として生きていて、それを受けて用いている」。
「ワンネス感」にしても、この<私>の観点というのを入れれば、別段遠いところとか大変なことではなくて、ただ単にそういう事実があるだけ、ということになります。

この事実というのは永井先生にとっては決定的なもので、神や仏のことを飛び越えてしまうくらい大事なことだと、講義の中で話していました。
「世界開闢の起点としての<私>」を抜きにして、いろいろなことを考えてしまうと、何か大事なことを忘れてしまうことになる…というわけです。

「世界開闢の起点として、"特異点"として独在している<私>」の驚くべき不思議さ、異様さ…「宇宙は歪(いびつ)である」といってもいいですよね、これを見失わないようにして、対自化して、日常生活に影響させていく…これが、永井先生が取り組んでいるプロジェクトだと思います。

 ということで、じっさい瞑想をしていても、こういうことだよねというのはまあわかる。このあいだ(九月二九日の記事に)書いた、というかいぜんからなんどか書いているけれど、たんなる存在性としての「一」、すなわち事実的な単一性もしくは単独性への還元、ということとこれはおなじはなしをしている。それが、うえの引用のことばを借りれば「世界開闢の起点」としての、「このわたし」という意味での〈私〉にあたる。ただそこで、この〈私〉と、そこからひらけている世界の全体がそのまま〈私〉であるという理屈には、どうも乗り切れないというのも先日書いたとおりだ。そういうふうにいわば「一即全」に行く論理にはスピリチュアリズムの危険がつねにあってなんだかどうも、と。じぶんはむしろ自己が「一」であること、そして「一」であることしかできないこと、その単独性のほうにこそより注目したいというわけだけれど、ただこれはひとつにはおそらく、論理というよりもむしろ、概念や論理を超えた体験や体感のはなしなのであって、坐禅の実践によって二元的に構築された自我と客体のあいだのさかいがじつはないということが感得されれば、じっさい「一即全」じゃん、ということになるのだろう。禅宗の坊さんというのは多かれ少なかれ、だいたいみんなそういうことを体感した存在のはず。そしてもうひとつには、「先ほどシェアしてくれた「ワンネス感、この世界、universe」というのは、神秘的な話とかいうものではなくて」と藤田一照も言っているように、スピリチュアリズムというのはむしろこの〈私〉にまで還元しきれず、なんらかの自我性や人格性をのこした「私」がそのまま「全」とつうじてしまうという事態なのかもしれない、とおもった。「<私>が包含しているものは「世界」であるわけですが、他の人にとっては「「私」(カギカッコの私)」のことであると(悪気がなくても)誤解しているのです」という発言もみえる。だから、本質的な領域(まさしく「物自体」の領域なのか?)では〈私〉と「世界」がそのまま「一」であるという点を感得し、理解したとしても、実存的な人格をもった社会的存在としての「私」のレベルはまたそれはそれで現実にあるわけで(現実にあるわけでというか、いわゆる「空」の思想ではそれは縁起によって構成されたものであり、実体や実在ではないとされるのだろうけれど、現にその領分でひとは生きていくほかないわけなので)、そこをうまくつなげて「私」の領分、つまり生き方に益していこうというのが仏教の趣旨なのだろう。この学習会のタイトルにふくまれている「ライフデザイン」ということばもそれをあらわしている。主客合一に仮にいたったとしてもそれをも解体しなければならないのではないかと九月二九日にこちらが書いたのもそういうことで、超越に行きっぱなしになることなどにんげんには基本できないはずなのだ。このへんはいわゆるポストモダンというか、フランス現代思想のあたりともいろいろつながってくるところだろう(というか哲学全般とつながってくるはずだが)。うえにふれられているラカン精神分析ももろにそうだし、たとえばバルトなんかも禅に興味を持って、その論理に「螺旋的な回帰」をみいだしていた(たぶん『ロラン・バルトによる』のなかか、『テクストの快楽』あたりでふれていたとおもうが)。数日前に読み終わった鈴木大拙『禅』(ちくま文庫)によれば、「仏教の哲人は明言する、「”シューニヤター”を体験する前は、山は山であり、川は川である。だが体験してのちは、山は山ではなく、川は川ではない。しかし体験が深まる時、ふたたび山は山であり、川は川である。」」(174~175)といわれていて、これとおなじはなしをバルトも引いていたはずだ(”シューニヤター”というのは「空」のことである)。鈴木大拙は、「これには註を補う必要があろう」と言ってさらにつづけている。「哲人が、”シューニヤター”の体験によって、山は山であることをやめ、川は川であることをやめるという時、その体験は、そのもっとも深いところに達したとは言いがたい。それは、なお知性の働きの面にある。そこには概念化の跡が見られる。最後の一塵まですっかり払い尽されてはいない。”シューニヤター”が真に”シューニヤター”(空)である時、それは”タタター”(如)と一つになる」(175)。この「螺旋的回帰」の二段目、「山は山ではなく、川は川ではない」の部分までは、こちらはわりとわかるつもりだ。それはべつのところで引かれているある挿話とも軌を一にしている。

 次のような話がある。大窪詩仏は竹を描くことで有名であったが、ある時、竹林を描いた掛物の作製を依頼された。かれはおのれの知るかぎりの技を尽して描き上げたが、絵の中の竹林は、赤一色であった。依頼主は、これを受けとって、その技の見事さに驚嘆した。かれは芸術家の家に行って言った、「先生、わたしは絵のお礼に参りました。しかし失礼ながら、あなたは竹を赤く描かれました。」「左様。」 画伯は言った、「あなたは何色をお望みなのですか。」「もちろん黒です」と依頼主は答えた。「ところで、一体、誰が黒い葉の竹を見たことがあるのですか。」 これが芸術家の答えであった。人が一定の物の見方に慣れ切ってしまうと、方向転換をして新しい行き方を始めることは、この上なくむずかしくなる。竹の本当の色は、きっと赤でもなく、黒でもなく、緑でもなく、そのほかわれわれが知っているどんな色でもないのであろう。おそらくそれは、赤であろう。また黒かもしれない。誰が知ろうか。逆説だと思われるものは、結局、本当は逆説でないのかもしれない。
 (鈴木大拙/工藤澄子訳『禅』(ちくま文庫、一九八七年)、137~138)

 このはなしはわりとわかる感じがするのだ。とくに、「竹の本当の色は(……)われわれが知っているどんな色でもないのであろう」という部分がよくわかる。ではどうわかるのか、ということを説明するのはなかなかむずかしいのだけれど、つまりじぶんのなかでも明晰に思考化されていないのだけれど(鈴木大拙によれば禅はむしろその「思考化」を超脱するものだから、「わりとわかる感じ」でとめておけばよいのだろうが)、そこをあえていうならば、これは言語(概念)と事物にはほんらいなんの関係もないというか、そのふたつはまったくべつのものだという路線のはなしのようにおもうのだ。だからそれはソシュール以来のいわゆる現代思想の文脈にもちろんはいってくるというか、むしろその前提的基礎にあたる部分のはずだけれど、それを知識として知っているのとなにかしらのリアリティを帯びた体験として得たことがあるかどうかでは、むろんことがちがってくる。うえの竹のはなしのようなことは、そとをあるいていてものを見、見たものを自動的にことばにしようとしている精神のはたらきのなかで感じることがおおい。とりわけ色という例はわかりやすいものだ。なんのいろでもよいのだけれど、緑ひとつとっても無数の緑があるわけで、個々の緑はそれぞれちがった色であり、そこからえた知覚や感覚をじゅうぶんに言語であらわそうとすると、緑が緑ではおさまらなくなってくることがある。ある色を配合色としてみることは一般によくあることだろうけれど、たとえばその配合が7:3の割合だったとして、ほんらいベースは7の色のほうであり、言語表現もそれに相応させるべきなのだろうが、じっさい見た感覚や印象としては3の割合の色のほうがきわだっていて、むしろそちらがベースになっているようにみえるので文もそのように書いた、みたいなことはある。そういうとき、仮に文を読んだひとがじぶんとおなじものを見ていたとして、このもののこの色は、どうかんがえてもこういうことばにはならないだろうと言うだろうな、とおもうこともあった。言語というものを仮に網にたとえるならば、その網の目はあまりにも粗すぎて、事物の実相どころか主観として感じ取られる知覚や印象面ですら、その網の目のなかの部分にあるわけで、しかもすきまのなかの中央にあったり、隅のほうにあったり、半端なところにあったりと、それはその都度ことなっている。で、ここまでは網にひっかかってくるけれど、それだとこの取りこぼしが生まれてしまって目のすきまのなかにはいる、その取りこぼしをどうにか言おうとするときに、ふつうだったら緑というものが赤になってしまったりするわけだ。
 要することのできないはなしをそれでも無理やり粗雑に要してしまうなら、禅宗のいう螺旋的回帰の二段目は、われわれの生きるこの現象世界が構成されたものであり、いいかえれば表象であって(ショーペンハウアーの主著もそういうはなしをあつかっているのだろうか?)、だからそこにほんらい確実な、絶対的な根拠など存在しないということを、あたまで理解するだけではなくて(坐禅などの身体的実践をとおして)体感するというフェイズだろうとおもう。このフェイズはわりとわかる気がする。もろもろの観念の相対化とか知覚や観察の深化とかによって、いわば酔いから覚醒したような状態がこれにあたるだろう。そしてその覚醒がさらに深まっていくと、いったん山ではなくなった山がまた山としてあるがままのものになるというのだが、この第三段階はじぶんにはまだいまいち腑に落ちていない。たんじゅんにうえで述べたようなこと、主客同一の本来的次元とか、言語と事物の根本的非対応とかを実感し、前提化したうえで、それでもこの現象世界や社会のなかで生きていくこと、世界のすべてに根拠がないことを身に知りながらも、無根拠な世界と事物たちをそれそのものとして受け入れ、引き受けて生きていくということかもしれないが。バルトはたしかこの精神の段階的進行を「螺旋的回帰」と呼んでいたはずだが、そういう線的な軌跡というよりは積層のイメージを取るならば、第三段階において、山は山でありながら同時にいつだって山でないこともできる存在であり、山でないと同時にいつでも山である、というような世界認識になるのではないか。鈴木大拙もどこかで、アリストテレス以来の論理学からすると矛盾のきわみでしかないそういう論理を述べていたようなおぼえがある。で、こういう言い方はじぶんにはわりとわかる気がする。というかそれこそ文学というか、ものを書くということなのではないか。そしてそこには比喩が、たんにレトリックとしての比喩ではなく、思考原理としての比喩がおおいにかかわってくるだろう。
 この日のことはこんなに書くつもりはなく、ミレールのことと永井均のことにふれてもうさっと終わらせるつもりだったのだが。こちらのいう自己の絶対的単一性についておそらく日本でいちばんかんがえているのが永井均なんだとおもうが、その本はまだ一冊も読んだことがない。その他(熊野純彦の本によれば)レヴィナスなんかもそれはもちろんかんがえているし(破壊的なほど大雑把にいえばこの〈私〉に不可避的に「他者」(世界もふくむ)の存在が食い込んでおり、それがゆえに〈私〉ははじめから、というかはじまりのそのまえから、「他者」に責を負っているというようなはなしのはず)、哲学者はだいたいみんなかんがえているだろう。
 あとは「読みかえし」ノートで読んだ石原吉郎の文をしたに。「いわば人間でなくなることへのためらいから、さいごまで自由になることのできなかった人たちから淘汰がはじまったのである」という一文は、これはちょっととんでもない、すさまじいことばだとおもった。

131

 最初の淘汰は、入ソ直後の昭和二十一年から二十二年にかけて起り、私の知るかぎりもっとも多くの日本人がこの時期に死亡した。死因の圧倒的な部分は、栄養失調と発疹チフスで占められていたが、栄養失調の加速的な進行には、精神的な要因が大きく作用している。それは精神力ということではない。生きるということへのエゴイスチックな動機にあいまいな対処のしかたしかできなかった人たちが、最低の食糧から最大の栄養を奪いとる力をまず失ったのである。およそここで生きのびた者は、その適応の最初の段階の最初の死者から出発して、みずからの負い目を積み上げて行かなければならない。

 すなわちもっともよき人びとは帰っては来なかった           フランクル『夜と霧』

 いわば人間でなくなることへのためらいから、さいごまで自由になることのできなかった人たちから淘汰がはじまったのである。(end66)
 適応とは「生きのこる」ことである。それはまさに相対的な行為であって、他者を凌いで生きる、他者の死を凌いで生きるということにほかならない。この、他者とはついに「凌ぐべきもの」であるという認識は、その後の環境でもういちど承認しなおされ、やがて〈恢復期〉の混乱のなかで苦い検証を受けることになるのである。
 (石原吉郎『望郷と海』(筑摩書房、一九七二年)、66~67; 「強制された日常から」)


     *


133

 夕暮れというのはたしかに奇妙な時間である。まだらな牝犬のまだらな乳房をなだめるようなけだるさのなかにその時間はやってくるが、ひととおりいろんなことは終ったにしても、まだほんとうの終りにはしてもらえないので、どうにも恰好がつかないといった時間なのだ。だからその時間になると、誰もが誰かにもてあまされているような顔つきになる。なにかがここではじまるにしても、それはほんとうの終りが来るまでのはかないあいだでの出来事にすぎないのである。(……)
 (160; 「棒をのんだ話」)


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  • 「ことば」: 6 - 10
  • 「読みかえし2」: 129 - 148, 149 - 151
  • 2021/10/11, Mon. / 2014/3/5, Wed.


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Helen Sullivan, “Russia-Ukraine war latest: what we know on day 230 of the invasion”(2022/10/11, Tue.)(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/11/russia-ukraine-war-latest-what-we-know-on-day-230-of-the-invasion(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/11/russia-ukraine-war-latest-what-we-know-on-day-230-of-the-invasion))

At least 14 people are reported to have been killed and 97 injured, Ukraine’s Emergency Services said in an update on Monday night, after Russia launched a massive wave of strikes targeting cities across Ukraine. Many of the locations hit by cruise missiles and kamikaze drones during the morning rush hour appeared to be solely civilian sites or key pieces of infrastructure, apparently chosen to terrorise Ukrainians.

     *

The United Nations general assembly voted to reject Russia’s call for the 193-member body to hold a secret ballot later this week on whether to condemn Moscow’s move to annex four partially occupied regions in Ukraine.
The assembly decided, with 107 votes in favour, that it would hold a public vote – not a secret ballot – on a draft resolution that condemns Russia’s “illegal so-called referenda” and the “attempted illegal annexation”. Diplomats said the vote on the resolution would likely be on Wednesday or Thursday.