2022/10/12, Wed.

 今日ぼくは考えたのですが、ぼくらが現実に一緒にいた、あなたにとってはなんということもないあの束の間の一時間を除いて、先週の手紙以外ぼくに資料がないとした場合、ぼくがあなただったら、ぼくについてどんなふうに考えるでしょうか。それらの手紙はたしかに、以前の手紙に含まれていた生活に有用なものすべてを、十分反駁し、忘れさせる種類のものですが、それでもぼくは、それらの手紙を書く場合、生活に有用というこの方向に一層徹底させたいという欲求を弱いながら持っていたし、実際どの手紙も極度の嫌悪感なしには読めませんでした、それも――他のもっと分り易い理由は黙っているとして――なによりまずぼくがその手紙によってどんなに深くまたしばしば刺されるように感じてもまだ足りないと思われたからです。ところでこのような手紙はぼくについてのどんな考えも解消させずにはおかないのではないでしょうか? あなたの前に証拠がない場合、ぼくのように無益に生き、それでも生きている [﹅9] ような人間を、あなたはこれまでの経験に従って、考えてみることができるでしょうか? その人間ときたら、生きていながら、巨大な穴の周りを走り、見張っているほかなにもできないのです。最愛のひと、あなたにこう書いているのは人間ではなく、なにか不実な幽鬼ではないかと思わずにはいられないのではありませんか?
 それでもあなたに書いているのは人間なのです、最愛のひとよ(彼はしかし、身の程もしらずこう主張したものの、人間であることの結果についてはほとんど説明することができません。それはもうあまりに高く彼の能力を超えています)。そしてあなたへと努力し、そのため彼の哀れな力を集中し、ベルリンの距離を、あなたから彼を隔てる高み程には、決して重く感じないのです。そしてあらゆる彼の善意にも拘わらず彼が到達するのは、今日お書きになって(end281)いるように、あなたを「繰返しあらたに失望させる」だろうということしかありません(あなたが書いているのはたしかに別な関連ですが、こうした言葉のぼくに対する関連は、全くあなたの意図抜きで、おのずと形成されるのです)。彼にはそれしかできません、なぜならぼくらは、身につけて生まれてきた力しか持たず、ぼくらの生命が問題となる場合でも、どこかの暗い貯蔵庫から新しい力を取ってくることはできません。
 あなたはオフィスでも市電でもぼくにあてて書くことができませんでした。その訳をあなたに説明しましょうか、最愛のひと? あなたは、だれにあてて書くべきか、知らなかったのです。ぼくは手紙の目標ではありません。もしぼくが自分の惨めな状態の全貌を示しながら悠然とあなたの前に歩みよったならば、歩みよることができたならば、あなたは驚いて尻込みするでしょう。そしてぼくは――もちろんそこになんの意図もありませんが――檻の中の狂ったリスのように、四方八方を走り回り、あなたを見ることはできないまでも、最愛のひと、ただあなたをぼくの檻の前に引き留め、身近にあなたがいることを知りたいと思うのです。あなたはいつそのことを見抜くでしょうか、そして見抜いたら、どのくらいそこにあなたは留まっているでしょうか?
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、281~282; 一九一三年二月二一日から二二日)




 いまもう二三時五八分。一三日に移行する直前。さいきんあきらかに引用をしすぎなのだけれど、もうはじめにそれをまとめておく。一年前の日記からのニュースがした。

(……)新聞にはきのうの夕刊にも載っていたが柳家小三治という噺家の訃報。落語というものにもいくらかなり触れてみたい。文化面はその関連と、先ごろノーベル文学賞を受賞したアブドゥルラザク・グルナ(Abdulrazak Gurnah)について。このひとは東アフリカはタンザニアザンジバルという島の生まれで、六〇年代に故郷の革命の混乱をのがれてイギリスにわたっていらいずっとそこで活動し、スワヒリ語母語のようだが英語で書いているらしい。いまWikipediaを見たら日本語の記事があったのだが、脚注部の典拠の閲覧日を見るとどれも一〇月七日か八日なので、ノーベル文学賞の発表を受けて急遽だれかがつくったページなのだろう。邦訳がない作家なのだが参考文献にいちおう邦文のものも四つあげられていて、どうやってしらべてきたのかなとおもう。ここに名がある粟飯原文子というひとが新聞の記事の寄稿者で、今回の賞はあまり知名度のない作家にあたえられたということで日本だけでなく世界的にもおどろかれているのではないかとおもうが、彼の筆力を知っているものにとっては納得の行くもので、いままで見過ごされてきたがここでおおきな評価をえることになった、みたいなことをさいしょに述べていた。作品世界としては東アフリカの風土や環境や状況をベースにやはり植民地主義やヨーロッパとの相克などを取りこんだ複雑な物語をつくっているというはなしで、くわえて、やはりノーベル賞を受賞したナイジェリアのウォレ・ショインカや、ケニアグギ・ワ・ジオンゴなど、先行作家を踏まえつつアフリカを背負って書いているという意識がかんじられる、という説明だった。ショインカはなまえと存在だけは知っていたが、ジオンゴというひとはここではじめて知った。近年は毎年のようにノーベル賞の候補として名があげられているらしい。

柳家小三治についての記事は矢野誠一という「演藝評論家」のもので、故人とは六〇年くらいのつきあいがあって句会同人として毎月顔をあわせてはなすような仲だったというから、このひとの名もはじめて知ったけれどクソベテランというか業界の大御所じゃないかとおもった。古今亭志ん朝立川談志柳家小三治と、年下で仲良くしていたこの三人がもうみんな亡くなってしまってやはりさびしい、みたいなことを言っていた。柳家小三治はオートバイとかオーディオとか趣味がおおかったというが本も読むひとで、大佛次郎を『ドレフュス事件』から(大佛次郎ドレフュス事件について書いているなんてはじめて知ったのだが)、やたらながいらしい『天皇の世紀』というやつまですべて読み通し、さいきんだと永井荷風を読んでいたらしく、荷風的な性分や姿勢に親和的だったのだろう、とのこと。

 この日は(……)と通話もしており、そのうちの一幕。リアリズム的にしっかりした小説書けなさそうというのはいまもおなじ。

あとはこちらの文章について。日記を書いているということはまえに言ったので知っているのだが、それは発表していないのかときくので、ブログにあげてはいる、とこたえると、URLをおしえてほしいといわれたのだけれど、(……)はとりたてて本を読む人間ではないし、こんなにながながとしたやつを見せてもしかたあるまいというわけで、いやまああんまり知り合いに見せるようなもんでもないし、などと言ってにごしておいた。そうして、そのうち気が向いたらおしえるよ、と落とす。さいきん読んだ本もきかれたので、このあいだワクチンの一回目を受けにいったときにひさしぶりに図書館に行って、そうしたら詩を読む気になって詩集を借りてきて読んだね、と言い、リルケっていうやつをひとつ読んでそれがいちばんおもしろかったかな、とこたえた。(……)はその場で検索しはじめたようだったので、リルケってのはまあなんかいかにも文学、みたいなやつ、と言をくわえておき、(……)もWikipediaかなにか見てそのような印象をえたようだった。あと、ニール・ホールっていう、このひとはさいきんのひとでぜんぜん有名じゃないとおもうけど、アメリカの黒人のひとで、黒人差別を批判する詩を書いているひとで、これもけっこうおもしろかった、おもしろいっていうかまあ良かったね、とおしえると、(……)は、(……)さんは感受性がゆたかなんだね、といったのでわらってしまった。感受性がゆたかどうこうという観点でじぶんを規定することがここ数年、まったくなかったので、そのことばのつきなみさとあいまって、なんだかおもいがけない形容を受けた、というかんじがあったようだ。(……)は、ああいうのって、ポエムをつくるのって((……)はなぜかこのはなしのあいだ、詩のことを「ポエム」という横文字で言うことがおおかった)、どういう……? どういうかんじなんだろう? みたいな疑問を表明したので、あくまで俺のばあいはという限定つきで説明した。俺はまあ小説もつくりたいといちおうおもってるわけだけど、小説ってわりとながいじゃん、で、小説をやるってなると基本は物語、ストーリーがいるんだよね、で、物語をつくるってなると、そこでうごく人物がいるし、その人物の性格とか、場所とか、環境とか、そういう具体的な設定をいろいろかんがえなきゃいけなくて、俺はそういうのにはあんまり向いてないんだよね、でも詩のほうは、わりと言語だけで完結できるのよ、一行書いて、それに合うもう一行を書いて、っていうふうにできるから、分量もすくなくて済むしね、小説だと具体的なことをいろいろ書かなきゃいけない、と。つまり小説のばあい、物語内容としての表象的な側面がつねにつきまとうもので、詩でもむろんそうした側面はあるものだけれど、小説のばあいはそれを基本的にはわれわれが生きている現実と似たものとして辻褄があうように構築・設計しなければならず、だからたとえばこの人物はこういう人生で、過去にこういう事件があって、こういう思想を持っていて、というような人物造形が必要になるし、場所や空間の歴史や人間関係の経緯などもかんがえなければならない。そんなものはじっさいに書きながらかんがえていき、書きすすめているうちにおのずと見えてくるものでもあるのだろうが、こちらはそういう設定をかんがえるのがどうも得意ではないというか、あまりそういう方向にあたまがはたらかず、だからたぶんそれにたいして興味がないということなのだとおもう。小説を書こうとおもうようなひとのおおくは、むしろそういうふうにじぶんのあたまで想像的に世界を構築することに魅力をかんじるものなのではないかとおもうのだが。じぶんのばあい、そういう、この現実世界を写し取るような、あるいはそれと似たものを言語をとおして映し出すような、すなわちみじかく言ってリアリズム的な表象行為にたいする欲求というのは、この日記でおおかた尽きて満足しているかんじがある。物語やおもしろいはなしをかたりたいという欲望もない。もちろん小説にはもっといろいろな側面がふくまれてもいるだろうが、だから小説を書きたい書きたいといままでずっと言ってきて、いまも書きたいという気持ちはじっさいあるにはあるのだけれど、ほんとうに小説を書きたいのか、どういう小説を書きたいのか、というのはよくわからない。もともと小説を書きたいとおもっていたのも、べつになにか書きたい題材があるとかつたえたいことがある、表現したいテーマや形象化したい時空などをもっている、というわけではなく、たとえば『族長の秋』とか『灯台へ』とかを読んで、こういうすごいやつをじぶんでもつくりたいなあとおもっていただけのことだし。磯崎憲一郎的なやりかただったらこちらでも小説を書けるだろうが、それだったら詩でいいじゃないかとおもってしまうというか、じぶんのばあいは詩のほうがむいているのではないかという気がする。とにかくながく書くのがたいへんだし。でもあれだ、ひとつ、『タンナー兄弟姉妹』をパクったようなやつは書きたい気はする。

 2014/3/6, Thu.には、「玄関先に干してあった傘をしまいに外に出ると、Tさんが日なたぼっこをしていた。下り坂の入り口にもうけられたガードレールの内側で、置いてある台のようなものに座って遠くを見ていた。写真に撮りたいような構図だった。晴れ空の下で、彼女は何を見ていたのだろうか?」とあるが、このTさんは隣家の老婆である(……)さんのこと。このようすはけっこうよくおぼえている。(……)さんももう死んじまった。一〇一歳だったか一〇二歳だったかわすれたが。さいごのほうはしばらくホームか施設にはいっていたけれど、それまではおとろえながらも一軒家にひとりで住まって身の回りのことをじぶんでやっていたわけで、すごい老人だった。ここ数年はさすがにおとろえが見えていたけれど、九五歳くらいまではほんとうに元気で、だいたい毎日庭に出て草取りしたり、道に出て(ベビーカー的な手押し車を支えにしながらも)ちょっと歩いたりしていたはず。「呆れたねえ」というのと(こんなにながく生きるとはおもわなかった、という意味のじぶんにたいする「呆れ」だ)、「あしたのことはわかんねえ」ということばをよく口にしていた。
 もうひとつ、たいした記述ではないけれど、あるいているとちゅうの一景。たしかに映画的な場面のようにおもえる。

 昨日とうってかわった晴天から受ける印象よりはるかに寒い日だった。木枯らしかと思う風の強さで、春一番にはまだ遠いらしかった。高校の前の横断歩道で女子高生三人がボタンを押してから写真を撮りはじめた。信号が赤に変わって車がとまるなか、一人が携帯をかまえ、二人が体を寄せてポーズをとった。わずかに車のほうを意識しながらも撮影をつづけ、信号が変わろうとしているのを見てあわてて駆けだし、転がるように道を渡りながら笑い声をあげた、その一連の流れがほとんど映画の一場面のような輝きを放っていた。

 したは(……)さんのブログから。

(…)行為をまた別の、逆の視点から見たらどうだろう——発話行為と発話の内容の分裂を明るみに出すのは、これを現前させるのは、まさに「実現された」行為に他ならない、というかたちで。こうして見ると、成功した行為は、まさに嘘つきの逆説と同じ構造をもつと言える。嘘つきが「私は嘘をついている」と「不可能」なことを言い、発話行為のレベルとその内容のレベルの分裂を、転位語「私」とシニフィアン「嘘をついている」の間にある裂け目を、明るみに出すというのと同じ構造である。倫理的行為をする「英雄」あるいは主体は存在しないということは、「嘘をついている」のレベルにおける主体は常に「病的」であることを、常に〈他者〉によって、主体に先立って存在するシニフィアンによって、決定されていることを、意味する。このレベルにおいては、主体は還元可能なもの、「なくてもかまわない」ものである。しかし、それだけではない。発話の内容の主語=主体が前もって決定されている(主体は与えられたシニフィアンしか使うことができない)のに対し、転位語である私は後になってから、遡及的に、決定される。「私」は、「発話の内容のレベルに現れる、それが発話行為のレベルに生むところのものの意味となる」のである。我々は、倫理的主体についてもこのようなかたちで考えなくてはならない。すなわちこの主体は、行為(ここでは「発話」行為)においてのみ「それがそうであるところのもの」、すなわち主体となる——しかも、言わば、他の主語=主体によって生み出されるようなかたちで、主体となるのである。
 しかし、行為が発話行為のレベルと発話の内容のレベルの差異を「暴露する」からといって、行為の主体が分裂した主体であることにはならない。そうではなく、「行為の内にあるものは主体のみである」。発話行為とその内容の差異、何かを言ったり、したりする主体とそこからたち現れる主体の差異を「暴露する」のは、そこにおいて主体の分裂が抹消されるという事実に他ならない。もちろん、行為の主体が「欠くところのない」主体である、自分が本当に何を欲しているのか知っている主体である、などと言っているわけではない。この行為において、主体は「実現する」、「客体として現れる」、つまり対象の側へ渡る、と言っているのである。倫理的主体は、この対象を欲する主体ではなく、この対象そのものなのだ。行為の中に「分裂した主体」は存在しない。そこにあるのは、ただ「それ」(ラカンの言う「ソレ」)と、そこから現れる新たな主体のみなのである。
 それゆえ、このように結論づけよう——行為の名に値する行為は、ラカンの言う「頭を欠いた主体化」、または「主体なき主体化」の論理にしたがって起こるものである、と。
(『リアルの倫理——カントとラカン』アレンカ・ジュパンチッチ・著/冨樫剛・訳 p.124-125)

 「読みかえし」ノートからも。英訳だがPrimo Leviの文章はすごい。なんどでも読むべきだ。ふたつめは井上究一郎訳のプルースト

Carole Angier, "The secret life of Primo Levi"(2002/3/9, Sat.)(https://www.theguardian.com/books/2002/mar/09/biography.artsandhumanities(https://www.theguardian.com/books/2002/mar/09/biography.artsandhumanities))

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Hope and despair in Auschwitz, by Primo Levi

Sooner or later in life everyone discovers that perfect happiness is unrealisable, but there are few who pause to consider the antithesis: that perfect unhappiness is equally unattainable. The obstacles preventing the realisation of both these extreme states are of the same nature: they derive from our human condition which is opposed to everything infinite. Our ever-insufficient knowledge of the future opposes it: and this is called, in the one instance, hope, and in the other, uncertainty of the following day. The certainty of death opposes it: for it places a limit on every joy, but also on every grief. The inevitable material cares oppose it: for as they poison every lasting happiness, they equally assiduously distract us from our misfortunes and make our consciousness of them intermittent and hence supportable.

October 1944

We fought with all our strength to prevent the arrival of winter. We clung to all the warm hours, at every dusk we tried to keep the sun in the sky for a little longer, but it was all in vain. Yesterday evening the sun went down irrevocably behind a confusion of dirty clouds, chimney stacks and wires, and today it is winter.

We know what it means because we were here last winter; and the others will soon learn. It means that in the course of these months, from October till April, seven out of 10 of us will die. Whoever does not die will suffer minute by minute, all day, every day: from the morning before dawn until the distribution of the evening soup, we will have to keep our muscles continually tensed, dance from foot to foot, beat our arms under our shoulders against the cold. We will have to spend bread to acquire gloves, and lose hours of sleep to repair them when they become unstitched. As it will no longer be possible to eat in the open, we will have to eat our meals in the hut, on our feet, everyone will be assigned an area of floor as large as a hand, as it is forbidden to rest against the bunks. Wounds will open on everyone's hands, and to be given a bandage will mean waiting every evening for hours on one's feet in the snow and wind.

Just as our hunger is not that feeling of missing a meal, so our way of being cold has need of a new word. We say "hunger", we say "tiredness", "fear", "pain", we say "winter" and they are different things. They are free words, created and used by free men who lived in comfort and suffering in their homes. If the Lagers had lasted longer a new, harsh language would have been born; and only this language could express what it means to toil the whole day in the wind, with the temperature below freezing, wearing only a shirt, underpants, cloth jacket and trousers, and in one's body nothing but weakness, hunger and knowledge of the end drawing nearer.

In the same way in which one sees a hope end, winter arrived this morning. We realised it when we left the hut to go and wash: there were no stars, the dark, cold air had the smell of snow. In roll-call square, in the grey of dawn, when we assembled for work, no one spoke. When we saw the first flakes of snow, we thought that if at the same time last year they had told us that we would have seen another winter in Lager, we would have gone and touched the electric wire-fence; and that even now, we would go if we were logical, were it not for this last senseless crazy residue of unavoidable hope.

When it rains, we would like to cry. It is November, it has been raining for 10 days now and the ground is like the bottom of a swamp. Everything made of wood gives out a smell of mushrooms.

If I could walk 10 steps to the left I would be under shelter in the shed; a sack to cover my shoulders would be sufficient, or even the prospect of a fire where I could dry myself; or even a dry rag to put between my shirt and my back. Between one movement of the shovel and another I think about it, and I really believe that to have a dry rag would be positive happiness.

By now it would be impossible to be wetter; I will just have to pay attention to move as little as possible, and above all not to make new movements, to prevent some other part of my skin coming into unnecessary contact with my soaking, icy clothes.

It is lucky that it is not windy today. Strange how, in some way, one always has the impression of being fortunate, how some chance happening, perhaps infinitesimal, stops us crossing the threshold of despair and allows us to live. It is raining, but it is not windy. Or else, it is raining and is also windy: but you know that this evening, it is your turn for the supplement of soup so that even today, you find the strength to reach the evening. Or it is raining, windy and you have the usual hunger, and then you think that if you really had to, if you really felt nothing in your heart but suffering and tedium - as sometimes happens, when you really seem to lie on the bottom - well, even in that case, at any moment you want you could always go and touch the electric wire-fence, or throw yourself under the shunting trains, and then it would stop raining.


     *


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  • 284~285: 「一方もうすこし先に行くと、文字通りの浮かぶ花壇となって、おしあうように密生し、まるであちこちの庭のパンジーが、蝶のように、その青味をおびた、つやのある羽を、この水上の花畑の透明(end284)な斜面に休めにきていたかのようであった、この水上の花畑はまた天上の花畑でもあった、なぜなら、この花畑は、花自身の色よりも、もっと貴重な、もっと感動的な色でできた、一種の土を、花々にあたえていたからであり、またこの花畑は、午後のあいだ、睡蓮の下に、注意深くだまって動く幸福の万華鏡をきらめかせるときも、夕方になって、どこか遠い港のように、沈む夕日のばら色と夢の色とに満たされるときも、次第に色調が固定する花冠のまわりに、その時刻にもっとも奥深いものとの調和、もっとも逃げさりやすいものとの調和、もっとも神秘なものとの調和――すなわち無限なものとの調和――をいつまでも失わないようにたえず変化しながら、睡蓮を中天に花咲かせたように思われたからであった」

 その他Guardianなどウェブ記事もいくつか読んだが、それらは下部に。
 起床まわりのことなどはもうわすれた。天気は雨降りもしくは曇り。夜までずっと部屋内で過ごし、九時半くらいに夜歩き兼買い物へ。体調はそうわるくはない。ただ、そとに出たときにはやはりばくぜんとうすい緊張がからだにあるような感じはした。そのいっぽうで意識はおちついており、胃がなんとなく、かすかに反応していながらもそれが精神のほうで不安にはつながらない、という調子。胃はごくうっすらとひりつき、胃液が逆流しているのかわからないが、口内にも酸味っぽいものがたしょうあった。喉の詰まりはだいぶよくなったけれどないとはいえない。ぜんたいにはからだとしてもよくなってきているとは言える。タイミングにもよるが、文章を書いてもからだはそこまで反応しない。とはいえいまはこうしながら、背骨のうち肩甲骨のあいだにあたる部分がちょっと痛んでいる。どうもここが胃とつながっているのではないかという気がされ、さすってみればピリっとした感触がおりおり散って生まれる。背骨をさするいがいには、臥位で書見しながら脚を揉んだり腰をこすりつけたり、脛を片足にかけて揺らしたりもした。さいごのやつはいがいとよいというか、脚をプラプラ揺らすその振動が背面にもつたわって背骨もいくらかほぐれていく。あとは背伸びしたり両腕をうしろに伸ばしたりや、体操的なうごきを少々。そうしたこころみによって体調はすこしずつよくなってきているようではある。いままでぜんぜん気にしてこなかったのだけれど、背骨がやはりゆがんでいるのではないか? ヘルニアにでもなっているか、なりかけているのだろうか? ゆびでふれてちょっとさするだけでありありと反応をかんじるというのはそういうことなのではないか。だとすればそれはやはり、パソコンでウェブをみたり文を書いたりする時間がおおいというところに起因しているのだろう。古井由吉も、かれはパソコンではなかったが、首をやった。しかも二回やっていなかったか? 首と目で一回ずつだったっけ? 目は晩年もずっと通院していたようだが。


     *


 九時半ごろから外出した。うえはジャージでしたはいつものブルーグレーのズボン。出るまえに窓をあけて宙に手を伸ばしてみるとかすかにふれるものがあるようだったが、このくらいだったら問題ないかなと傘は持たず。Yahoo!のサイトで雨雲レーダーもみてみたが、一時間二時間の範囲ではここ(……)周辺に水色はあらわれない。それで建物を抜けるとルートをかんがえるよりもまえにいつものように左折している。スーパーに買い出しに行くのだけれど、そのまえによくあるく病院のほうの道をまたいくらかたどってくるかとさだまった。公園にひとかげはなく、風のおとも聞こえず、静寂がとおりきっているなかに、道の前方では一軒から出てきたひとがあって、女性であり、友人宅をおとずれていたような声の調子だったが、家のなかのひとに向けてなにかことばを向けていた。あるいは電話をしていたともとれる。いずれにせよすぐに声はおさまって、こちらとおなじ行く手へ向かう。そのあとから路地を行けば周囲に配された電灯のあんばいでじぶんの影がいくつも生まれ、薄いもの濃いものとそれぞれあり、すぐひだりは建設中のなにかの施設をかこむ白い壁だから、そのうえに三つ四つ分身がならんでついてくる。どれも壁の上端に達するか達さないかのおおきさだった。車道沿いに出て右に曲がれば方角は西になる。角では向かいの建物を越えた南のさきに高いマンションの列灯がひかり、目のまえの道路のうえでは信号がすずやかに青く、対岸に見える歩行者用の小さなそれは応じて赤だが、とおる車も待つひともなくてここでもしずけさが満ち満ちた。そのまま車道沿いをまっすぐにすすむ。足のはこびはゆったりながら重くはなく、ただすこし横にぶれるようではあった。街路樹のかたわらをあるきながらひだりをみやれば、向かいをあるくふたりの男のすがたは黒一色で、それでもバッグは背負いであること、また仕事人風情らしいことが見て取れる。(……)通りまで来ると横断歩道はちょうど青になったので車を待たせないようにここだけちょっと足を急がせ、渡るとまたおだやかになって踏切りを越え、するとれいの草っ原になっている空き地にかかる。横を行きながらたびたびフェンスの向こうに目をやったが、草はとうぜんながらいくらか丈と嵩を増しているようだった。とはいえひとの背を覆い尽くすような、さほど高いものはない。水道管配設だったかなにかがすすんでいる一画を過ぎるとまた草の土地になるが、そちらには伸びた先で葉をすこし黄色く染めているものがみられた。かろうじて明かりの圏内にあるのを緑の黄色のと認知しているが、すべてじっさいには、緑ともなにともつかないようなくすんだ色にすぎない。空もおなじようなくすんだ雲の色を満たしている。病院の敷地縁をすすんでいき、きょうは車の音が厚く響く通りまで行かずに、そのてまえ、(……)のところで曲がって敷地裏のほうの通りにうつった。そうしてもときたほうに帰っていく。携帯を持ってくるのをわすれたなとおもった。まいにちいちまいの写真を、きょうはそとで撮ろうとおもっていたのだ。花でも咲いていれば良いとおもっていたが、通り沿いのムクゲの小さ木にもう花はほとんどなく、それでもてっぺんのほうにひとつ、形を保ったすがたをつけた一本があった。駅前のマンションはきょうはさしたる印象をもたらしてこない。それよりも道からはいって棟に向かう通路の片端にならんだ箒めいた樹々の、遮蔽の関係で足もとがみえないがそれぞれそこに灯のもとが置かれているらしく、こずえがしたのほうからやわらかく照らしあげられているような、むしろ幹から枝への分かれ目にしずかな明かりがひかえているような、そのさまのほうが目にとまった。最寄り駅から至近にある踏切りをわたっているとちゅうにカンカン鳴り出し、一瞬にして警報音と赤ランプのなかに置かれたのにはちょっとからだがびくっとなった。渡って細道にはいればその出口角がスーパーだけれど、遠回りをしようと入り口を過ぎ、マンションと寺にはさまれた暗がりの道をえらぶ。このころには雨がぱらぱら散っていたので、マンションの横にある小広場的なスペースは濡れたタイルに光沢を浮かせ、そのさきでは木や植込みのあいまをとおして、黄色いラインの電車がいまちょうど発車したところで音を立てつつすべりだしたのが見えた。緊張が生じるかとおもってそのすがたをじっとみやったが、とくになんの反応もなかった。寺の塀からはみ出した樹冠のあるものは道幅いっぱいに頭上を横切っているくらいで、路上に色変わりした葉っぱもちらほら転がっており、向かいからは若い女性が三人、はなやいだ声でとおっていき、うしろからは駅を出てきたひとがつぎつぎ追いついて、こちらを抜かしてせかせかさきを行く。ひとによってはなるべくはやくあるいたほうが健康に良いとでもいうような、無駄を許さぬじつに一本気な歩調をしている。塀の角で右に曲がれば車道に当たり、もういちど右折してしばらく行くと遠回りで来たスーパーになる。道路の向かいに停まった車から財布だけもった細身の婦人が渡ってきて、こちらのまえに入店していた。そのあとで自動ドアをくぐり、足踏み式のスプレーで手を消毒し、籠をもって店内を行く。野菜類をいろいろ買い足す。きょうは白菜も手に入れた。野菜スープもしくは鍋のたぐいをつくるとサラダはそんなにかなとおもい、キャベツは買ったもののレタスやトマトは見送って、鍋スープはごま豆乳鍋のやつをえらんでみた。白味噌仕立てという。そのほかハムや、飲むヨーグルトや豆腐など。籠を埋めたのはだいたいが野菜である。あとランチパックも、ツナマヨネーズのやつとハムカツのやつとふたつ、きょうこのあと食うかそれともあしたになるかと買っておいたが、けっきょく帰宅後の夜にふたつとも腹におさまった。そういうことをしようというくらいにはからだは回復している。しかしたとえばカレーを食おうとか、スイーツのたぐいを買って食おうとか、そういう気持ちが起こらないあたりやはりまだまだとみえる。なにか買うものがあったはずだがおもいだせない、とおもいながら通路とちゅうにとまって籠を見下ろしたりもしたが、浮かんでこないのでそのまま会計に行った。その買うものというのは食器用洗剤である。もうほぼないのだ。あとは皮剥き。先日両親が来たときにジャガイモをくれたからスープに入れようとおもったところが皮剥きをもっていない。包丁でやれないこともないだろうが、それをつつがなくこなせるほどのスキルはない。あと栓抜きもまあいるといえばいるが、これは急ぎではない。栓抜きがいるのは、前回実家に行ったときに、(……)さんが墓参りのついでにもってきたというちょっと値の張りそうなドレッシングをいっぽん分けてもらったところ、それが瓶だから、栓抜きであけるような蓋だったのだ。ちょうどドレッシングを切らしていたところだから渡りに船で都合がいいやとおもって帰ったあと、みてみればそれなのでこれは予想外とおもったものだ。
 会計のあいてはなまえをわすれたが高年の女性。ちょうど客のいないところで整理台のほうに行って空き籠の始末かなにかしていたので、レジ台に籠を置き、ちかづいてきたところにお願いしますと声をかけた。ひとつひとつ声に出しながら確認して商品を読みこんでいくのがこのひとのやり方である。てぎわはそれほどよくはない。こういうささやかな日常の場面でも、そのひとの空間認知というか、配置と先読みや段取りの能力がみえるものだなとおもう。スーパーのレジの商品読み込みひとつとっても多様なうごきかたや組み立て方があるものだ。このあいだいちどだけ当たったことのある若い女性はうまくて、あらかじめ籠のなかのどこにどれを置くかさきを見越しているような気配があったし、たぶんつとめているあいだにだいたいのパターンが身についているのだろう。そういうあたまのなかでの表象の処理のにおいを感じた。
 品物をリュックサックとビニール袋に詰めて帰路へ。出ると雨降りはつづいている。気にするほどの降りではない。とはいえアパートちかくの細道で、ビニールを敷かれた空き地のまえに来ると一気に打音が繁くなり、それなりに降っているのだなと感得される。


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 あとそうだ、れいのまいにちいちまいの写真をわすれていた。帰宅後にてきとうに本撮りゃいいやとおもって、机から左、収納スペースのしたに積んである本にしゃがみこんでちかづき、ムージル書簡とか日記とかそういうでかいやつうつしておくかとおもって、その塔にズームをつかって撮影した。20221012, Wed., 225949。

20221012, Wed., 225949


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  • 「ことば」: 11 - 15
  • 「読みかえし2」: 152 - 160, 161 - 169
  • 日記読み: 2021/10/12, Tue. / 2014/3/6, Thu.


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Helen Sullivan, “Russia-Ukraine war latest: what we know on day 231 of the invasion”(2022/10/12, Wed.)(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/12/russia-ukraine-war-latest-what-we-know-on-day-231-of-the-invasion(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/12/russia-ukraine-war-latest-what-we-know-on-day-231-of-the-invasion))

Russia continued to attack key infrastructure in Ukraine with missile strikes on Tuesday. Amid warnings from the UN and some Nato countries that Moscow may be committing a war crime with its continuing deadly blitz on civilian targets, Russia’s defence ministry confirmed its troops continued to launch long-range airstrikes on Ukraine’s energy and military infrastructure.

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The French president, Emmanuel Macron, described Russia’s attacks as “a profound change in the nature of this war”. During Russia’s strikes in recent days, cruise missiles and armed drones rained down on parks, playgrounds, power stations and other civilian targets.

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Roughly 30% of Ukraine’s energy infrastructure has been hit by Russia since Monday, officials said. As millions in Ukraine are facing blackouts due to the attacks, the government has urged civilians to cut their electricity use and not use domestic appliances such as ovens and washing machines.

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Meanwhile deputy head of the Zaporizhzhia power plant has been kidnapped by Russian forces, Ukraine’s state nuclear energy company Energoatom said. Valeriy Martynyuk was taken on Monday and is being detained in an unknown location, Energoatom said in a post on Telegram.


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Weronika Strzyżyńska and Haroon Janjua, “Iranian security forces intensify crackdown in Kurdistan”(2022/10/11, Tue.)(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/11/iran-alarm-raised-over-bloody-crackdown-on-protesters-in-kurdistan(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/11/iran-alarm-raised-over-bloody-crackdown-on-protesters-in-kurdistan))

Rights groups have sounded the alarm over an intensifying crackdown by Iranian security forces against protesters in the western province of Kurdistan, as Tehran summoned the British ambassador in response to UK sanctions against the morality police.

Security forces in the provincial capital, Sanandaj, have used firearms and fired teargas “indiscriminately”, including into people’s homes, Amnesty International reported.

A female protester in the city told the Guardian that a “massacre” by the Islamic Revolutionary Guard Corps was taking place. “They have shut down the city and are slaughtering people inside with guns and bombs just because they are chanting for freedom,” she said.

Despite the authorities’ disruption of internet, videos showing apparent gunfire in Sanandaj have been posted online by the Norway-based human rights group Hengaw.

Hengaw said Iranian war planes had arrived at the city’s airport overnight and buses carrying special forces were on their way to the city from elsewhere in Iran.

On Monday – as protests sparked by the death of 22-year-old Mahsa Amini in police custody entered their fourth week – Britain said it was imposing sanctions against the “morality police in its entirety”, as well as against Iran’s police commander and the head of the Basij militia, linked to the Revolutionary Guards.

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Protests have been especially intense in Sanandaj in Kurdistan, Amini’s home region, where rights groups fear heavy casualties.

The New-York based Center for Human Rights in Iran said there was a risk of a similar situation in Sistan and Baluchistan province, in the south-east, where activists say more than 90 people have been killed since 30 September.

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Iran has the fourth largest reserves of crude oil in the world and the industry is key to its economy. Strikes of oil workers were a major factor in the success of the 1979 revolution.

“If these unrests continue and expand, especially if the energy sector joins the protests, the regime will irreversibly be in trouble,” Fatemeh Aman, senior fellow at the Washington based Middle East Institute, said from Erbil. “I don’t know if at this point there is a will within the establishment to reconcile, but even if there is, bloody crackdowns on ethnic minorities [like in Sanandaj] will make any reconciliation almost certainly impossible.”


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Innocent Chizaram Ilo, “End Sars: The exhilarating songs of street protests”(2020/12/9)(https://www.bbc.com/culture/article/20201208-how-music-is-intertwined-with-social-justice-in-nigeria(https://www.bbc.com/culture/article/20201208-how-music-is-intertwined-with-social-justice-in-nigeria))

Lagos. 14 October 2020. The atmosphere is electrifying. On a regular day, Lekki toll gate in Lagos wears a different cloak; vehicles line up along interminable queues. There are no queues today. No one is hooting their horn to urge the toll workers to do sharp sharp make pesin commot here abeg (“Hasten up so we can all leave here”). The toll gate is blocked from both ends for the #EndSARS protests against the Special Anti-Robbery Squad (Sars), a Nigerian police unit, due to claims of police brutality. Demonstrators are singing along to the chorus of African China’s 2006 hit Mr President. One man is twirling his white T-shirt, now browned with sweat around the armpit region, in the air. Another holds a banner that reads “Stop killing our dreamers. #EndSARS now.” The DJ switches to Timaya’s Dem Mama, released in 2007, and, while conscious of the risks of the Covid-19 virus, young people sing along to songs that are more than a decade old without skipping a verse or mixing up the lyrics.

It is intriguing that songs critiquing Nigeria’s first eight years of a return to democracy under Chief Olusegun Obasanjo (from 1999 to 2007), after 16 years of military rule, still ring true to the present realities of the country and its citizens: widespread corruption, a high poverty rate and widening inequality gap, a skyrocketing unemployment rate, authorities clashing with protesters and detaining journalists, electoral violence, and, of course, accusations of police brutality. Barely a week after the protest I joined, on 20 October 2020, demonstrators at Lekki toll gate would be singing the Nigerian national anthem and waving the country’s green-white-green flags as officers of the Nigerian army opened fire. While Amnesty International says 12 people were killed, and multiple eyewitnesses have told the BBC they saw soldiers shoot people, the army has claimed its soldiers were firing blank bullets.

Music and protests are inseparable in Nigeria. The history of this intersection is evident in our folklores and moonlight stories. For instance, Ojadili, a popular Igbo myth, tells the story of a warrior whose strength is drawn from the music of his personal flautist who accompanies him to the numerous wars he fights to defend his village from invasion. During the Biafran war (a civil war in Nigeria from 1967 to 1970), music was an important tool to serve as a cohesive force on the Biafran side even as they continued to incur more casualties, death, and hunger.

Cultural and political commentator Nduka Dike offered beautiful reflections on this era in his podcast about Igbo culture. He tells BBC Culture that songs were key during the Biafran war in boosting morale and translating complicated messages and manifestos for the general population. Not everyone can understand the Aburi Accord (agreed between opposing sides in 1967, its breakdown led to the outbreak of the war), and songs like Mu Na Nwannem Gara Aha (“Me and my sibling went to war”) – which was popular in the training grounds of Biafran soldiers – helped create a wider understanding.

After the war, as Nigeria regenerated into a series of oppressive and corrupt military and civilian adminstrations, musicians like Fela Kuti, Peterside Ottong, and Ras Kimono gained popularity with Afrobeat and Nigerian reggae, musical styles and expressions that resonated with the plight of Nigerians. Their songs formed the soundtrack to a series of anti-government protests organised during that era. Growing up during Chief Olusegun Obasanjo’s administration, and having civil servants and union members as parents, I memorised popular chants like “Solidarity forever we shall always fight for our rights” and “We no go gree o!” used by working-class Nigerians to demand better pay and working conditions.

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In a recent article reflecting on the music of the George Floyd protests in the US, Mariusz Kozak, Assistant Professor of Music at Columbia University, explained how “music functions as a social glue that binds the minds and bodies of those who create it”, thereby creating a unification of purpose which is key for the sustenance and success of social justice protests. During the #EndSARS protests, there was a rediscovery of music both on and off the protest grounds, with a resurgence of interest in socially conscious songs like Zombie, Sorrow Tears and Blood, Beast of No Nation, and Coffin for The Head of State by Fela Kuti, Jailer by Asa, Mr President by African China, Dem Mama by Timaya, and Nigeria Jaga Jaga by Eedris Abdulkareem.

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In a country where history was removed from basic school curriculums between 2007 and 2019, Nigerians are learning key historical events (for example, the 1999 Odi Massacre, which is the focus of Timaya’s Dem Mama) through these songs. There are also softer versions of this socially conscious music that inspire hope and pride in Nigeria and Nigerians; The Future (We’re Nigeria) and The Land Is Green by TY Bello, and Originality by Faze. But it’s not the only type of music that drove the #EndSARS protests. Nigerians love gbedu (meaning “big drum”, a word that has come to describe types of Afrobeat and hip hop), even while protesting. So dancehall songs like Davido’s Fem, Tiwa Savage’s Koroba, Ogene by Zoro featuring Phyno and Flavor, and Killing Dem by Burna Boy and Zlatan, were so prominent during the protests to keep morale high.

In an essay published in October on The Conversation, Florence Nweke – a researcher and music lecturer at the University of Lagos – posits that protest music and the involvement of musicians in social justice protests in Nigeria has waned. For the music scholar, “The failure of Nigeria’s current pop stars to identify with the country’s oppressed has inspired feelings of nostalgia about the late Afrobeat pioneer, Fela Kuti”. This claim does a disservice to the role of Nigerian musicians like Don Jazzy, Asa, Falz, Tiwa Savage, Tems, Burna Boy, Lady Donli, Innocent Idibia (TuFace), MI Abaga, Flavour, and Phyno, who have used their social media and art to amplify the reach of the #EndSARS protests within and outside Nigeria and were also present on protest grounds. End Sars by Fikky, which started as a sample that went viral on Twitter, was adopted as the unofficial anthem of the protests. Musician and activist Eromosele Adene (EromZ) was also arrested by the police.


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椹木野衣「美術と時評101:「小ささ」と「大きさ」——河口龍夫の「関係」をめぐって」(2022/7/2)(https://www.art-it.asia/top/contributertop/225564(https://www.art-it.asia/top/contributertop/225564))

熱とはなにか。エントロピーの語で有名なこの熱現象は熱力学第二法則によって物理学的に規定されている。わかりやすく言えばエネルギーの不可逆的な推移のことだ。エントロピーに引き寄せて言えば、推移したエネルギーは統計学的にはほぼ100%と呼んでよい一方向的な過程に即してこの宇宙を移動する。たとえばビーカーの水に落とした青いインク(の分子)は時間の推移とともにおのずと水の全体に浸透するが、他方、放っておいても決して元には戻らない。同様に、「関係-熱」 [1970年] で一部が溶かされた鉛の棒や板は、熱が冷めても元のかたちへと自然に戻ることはない。言い換えれば、それは眼前の物質に対して、すでに一定の時間が推移したことの現時点でのあらわれと言ってよい。つまり、それは不可逆的な時間のあらわれでもあるのだ。先に河口作品ともの派とのあいだには初期条件において共有されるものがあると書いたが、この時点で両者は決定的に区別される。もの派において物質は、かつて李禹煥がそれとの対峙を「出会い」の一語に集約したように、一種の方法的な現象学的還元による無時間的な対象として覚知的に把握されている。そこには熱エネルギーの推移や不可逆的過程、煎じ詰めれば時間の要素は含まれていない。

だが、注意しなければならないのは、だからと言ってもの派と河口作品とを区別するのが端的に物質に対する時間の介入があるか否かだとただちに結論することはできない。時間そのものが極めて多様な概念だからだ。哲学者のアンリ・ベルクソンを参照して言えば、この世界には物理学で援用される時間とは異なるもうひとつの時間が存在する。たとえば時間を計測するために私たちが真っ先に思い浮かべるのは時計だろうが、実際には時計が計測しているのは文字盤という空間の分割(デジタル時計の場合は自然数の順列)であるにすぎない。だが、私たちの経験には空間の分割や自然数の順列によっては計り切れない性質の時間が確かに存在する。たとえば夢のようなものがそれで、夢の体験が時計にして何分ほどのものであるかは夢の内容と関係がない。もちろん自然数に倣ったような前後関係を確定することも不可能だ。ゆえに数年に及ぶ夢を時計に換算して数秒で見ることも十分にありうる。というよりも、そのような空間や順列に還元することができない不連続な持続が夢の時間が持つ特徴でもある。いや、それで言えば夢から覚めた真昼の体験であっても、あることを長く感じたり、別のことはあっというまに感じられたりするのはごく平凡で日常的な実感だろう。これらは元来、時計で測れるような性質の時間ではないのだ。

再度ベルクソンに倣って言うなら、それは記憶としての時間である。記憶として蓄えられた事象は、確かに過去のある時点で起こった物理的な出来事から発している。その意味では不可逆的な性質を持ち、エントロピーの法則と同様、放っておけば物理的な現実へと逆行して戻ることは決してない。だが同時に、すでに触れたように記憶の時間は時計によって測ることができるものでもない。にもかかわらず、なにがしかの時間が経過しないことには記憶は記憶として定着しない。ゆえに、やはり時計で測れる時間とは異なるもうひとつ別の時間が存在すると言えるのである。美術に即して言えば、絵画を鑑賞するためには一定の時間が必要だ。だが、だからと言って最低どれくらい確保できれば一枚の絵画を十分に鑑賞できるかは誰にも決めることができない。このうち前者の時間は時計で測ることができるが、後者の時間は測ることができない。別の言い方をすれば、もの派で唱えられた「出会い」とは、この両者のいずれにも属さない対象との対峙を、いわば無時間的な存在の把握として意識化したものである。すなわちそこでは、ある一定の幅を持った記憶(時間)よりも時間を切断する瞬時的な意識(認識)のほうが重要視される。

では、時間に二種の相があるとして、河口作品における時間はどのように捉えることができるだろうか。私には、この二種の時間の相が、その性質の違いにもかかわらずひとつの物質の容態においてなにがしかの交わりを形成するとき、両者の差異が物質を通じて顕現する、そのような状態のことを「関係」と呼ぶのではないかと考える。少しくだいて言えば、時間で測ることができる物理的・空間的な時間と、時計では測ることができない記憶的・持続的な時間とがひとつの物質の状態に即して重なり合い、際立つこと、それが河口における「関係」なのではないだろうか。

それにしても、その特性の違いにもかかわらず、なぜ二種の時間は重なり合うことができるのだろうか。それはなにより、この両者がなにがしかの不可逆的な過程の結果であることによる。たとえば瞬時的な意識と持続的な時間(記憶)は重なり合うにしてもそれだけではそのための基底が存在しない。だが、記憶と意識は、夢と現実が部分的に重なり合いながら日々が過ぎるように、実際に私たちの日常や現実を形成している。「関係-熱」に振り返って言えば、鉛の棒や板は、物理的な時間の推移のなかで熱によって溶かされ、性質を一部変更したけれども、そのような性質の推移を把握するのは、私たちの記憶のなかでのことにほかならない。それは決して、単に物理的に鉛の棒や板が熱によって溶けた、というだけのことではない。それがこの宇宙において不可逆的な熱エネルギーの移行であって、決して取り戻すことができないという絶対的な喪失を、私たちは記憶という別の時間の相のなかであらためて認識するのだ。ゆえに——この比喩は十分に注意して使わなければならないが——「関係-熱」はどこかで物質の墓標のように見えてくる。だがそれは、象徴的な意味で言っているのではなく、熱エネルギーが推移してもう二度と元へは戻らないということが、煎じ詰めれば死ということであり、言い換えれば、生とはこの不可逆的なエネルギーの喪失に生体が一瞬一瞬、逆らい続ける過程が持続することを意味する。その意味で「関係-熱」は、エントロピーの増大による熱エネルギーの推移の定位状態(熱死)というものがこの世界に存在することを、物理学的な法則性においてではなく、記憶の時間との関係のなかで私たちがどう捉えるか、ということに帰着する。それは突き詰めれば人間にとって死とはなにか、ということを意味せずにはいない。「関係-熱」がどこか墓標のように見えると書いたのは、そのことによる。裏返して言えば、熱こそが生命なのだ。


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椹木野衣「美術と時評1:大竹伸朗の現在はどこにあるのか」(2009/10/13)(https://www.art-it.asia/u/admin_columns/2WqNcoSUBdteQfkpjrO6(https://www.art-it.asia/u/admin_columns/2WqNcoSUBdteQfkpjrO6))

大竹伸朗といえば、数年前に東京都現代美術館で大規模な回顧展が開かれ、一般への大竹の知名度を一気に押し上げた。作家にとっても大きな転機になったといってよい。けれども、これを機会に肝心の美術界でこの展覧会の持つ意味や作家の位置づけをめぐり充分な議論がされたかというと、そうはいいえない。実は、こと東京都現代美術館に限っても、大竹に先立ち、森村泰昌村上隆横尾忠則森万里子といった1980年代以降に(美術界で)頭角を現した作家たちの個展が次々に開かれている。が、美術界でその個別な批評的総括がされているとは思えない。そうした総括がなされなくとも、もちろん作家たちはおのずと「それ以後」の活動に入っていく。が、そのことが日本で美術作家たちの「その後」を何か曖昧としたものにしてはいないか。おそらく、それは大竹も同様だろう。そんなことを感じていたので、先の座談会でこの展覧会が批評的に言って(美術界よりも)遥かに論点としてまともに取り上げられているのはありがたかったし、僕としても事後的に遠隔からではあるが参加しておきたいと思うのだ。

さて、そこでも取り上げられている先の大竹論を、僕は「懐かしさ」をキーワードに書いたのだった。『圧縮批評宣言』の著者である可能は、そこで僕が下敷きとしている坂口安吾の「懐かしさ」に反応して、大竹の「ゴミ」を、すべてが等価となり突出のない今の時代の「石ころ」から見ようとしている。が、同時に大竹のゴミには聖/賤が循環して糞便が黄金となる(文化人類学的な)危うさがあるとも言う。そして、そのあたりの曖昧さを(絓や鴻に)つかれてロマン主義的ではないかと突っ込まれている。

石ころはたしかに懐かしい。誰でも子供のころ、道ばたの石ころを拾って意味も無く遠くへと投げたことがあるだろう。そういう遠さへの志向と手に取った石ころの重くも軽くもなく疑いようがなく「在る」という感触は身体に深く根を張って残存していて、ふとしたときに成人してからも手のひらにおかしな触感として復元される(実際ににぎってみるとわかる)。それを懐かしいというのだから、ここでの懐かしさは記憶ではなく、むしろ触覚にかかわっている。だからロマン主義を回避できるとは即、言わないが、少なくとも大竹のゴミは、懐かしいと言っても記憶の残影というわけではなく(この点で大竹と横尾忠則は大きく分たれる)、目で見てはいても具象的な再現性には乏しく、むしろ(それを拾うときの)触覚的な蘇りのアトランダムな集積でできている。つまり、大竹のゴミはそこからただちに「帰りたい風景」(洲之内徹)が立ち現れるものではなく、目でいくら凝視しても、見ただけでは実体がよくわからない。「拾う」「拾った」「自分も拾ったことがある」けれども、「それが何であるかはわからない」という様々な感覚の呼び起こしがあって、初めてそれは大竹らしさを帯びてくる。

逆に言えば、だからこそ大竹の作品には歴史が宿らない。先の座談会で鴻は大竹のゴミが、同じくジャンク性を孕んだカントールの演劇やカバコフのインスタレーションのようには「歴史が刻まれた過去の残骸」として意味を産出しないことにいら立つのだけれど、もしも大竹のゴミが可能のいうような可能性としての「石ころ」にあるのだとしたら、元より歴史は排除されていてしかるべきだ。むしろ、そうした重力が入り込む余地がないことでそれらのゴミは歴史主義から即物的な距離を取りうる。この距離=軽さが大竹をして鴻の言う「たとえばこれはほとんどキーファーだと誰もがわかるような模造作品」を「模造」としてではなく、終わってしまったゴミのひとつとして拾わせるのであって、そのことが大竹の作品から西洋美術の血なまぐささを脱臭し、結果としてゴミであるにもかかわらずそこには奇妙な清潔感(浄化ではなく)がある。この清潔感はすべてを等価に標本化するからやはり糞尿的と言うことはできず、西洋美術に望まれるようなダイナミズムもない代わりに、見る者に対しぶっきらぼうに投げ出されている。情報は圧縮されていても自分からは語ってこない。だから、大竹の作品が「懐かしい」と言っても、それは物語になる前の状態に閉じ込められていて、(ブルースにおける微分音=ブルーノートのように)余韻(テンション)として「懐かしい」だけなのだ。頼まれなくても饒舌に意味を物語りたがる西洋の美術とは全く違っていて、そのあたりはやはり歴史の断片ではなく道端の石ころというべきか。