2022/10/13, Thu.

 いいえ、それではぼくは満足できません。ぼくが訊いたのは、あなたがとりわけぼくに対して感じるのは同情ではないか、ということです。そしてぼくはその問いの理由を述べました。あなたはただ、いいえと言うだけです。しかしぼくは、あなたに最初の手紙を書いたころは別人でした。その手紙の複写紙のコピーを数日前ぼくの机をただざっと整理したとき(そんな風にしか整理しないのですが)見つけたのです(それはぼくが持っている唯一の手紙のコピーです)。ぼくは別人でした、それをあなたは否定できないでしょう。そしてぼくがときどき転落したとしても、たやすく正道を見出しました。それではぼくは、この不幸な時にまで、あなたは誤り導いたのでしょうか? 二つの可能性しかありません。一つはあなたがぼくに同情しかもたないということ。それならなぜぼくはあなたの愛を強請し、あなたのすべての道をふさぎ、毎日ぼくにあてて書いたり、ぼくのことを考えたりするように強制し、無力な者の無力な愛でもってあなたを圧制するのか、なぜむしろあなたをいたわってぼくから解放し、あなたに同情されているという意識を静かにひとり享受し、こうして少くともあなたの同情にふさわしい人間になる、という可能性を探求しないのか。あるいはしかし、あなたはただ同情するだけでなく、この半年のうちに惑わされ、ぼくの惨めな本性への正しい洞察をもたず、ぼくの告白を読み過し、それを信じるのを無意識にみずから妨げているのです、他方ではあなたの本性がそれを信じるよう非常に強く迫っているにちがいないのですが。それならぼくはなぜ、事態をあなたに明瞭にするため、ぼくの持つすべてを振りしぼらないのか、なぜぼくは、見過され、誤解され、忘れられるようなことのない、最も明白で最も短かい文句を選ばないのか? ぼくはまだなにかの希望を持っているのだろうか、またはあなたがぼ(end298)くと共に残るかもしれぬというような希望を玩んでいるのだろうか? ときおりそう見えるように、事態がもしそうであるならば、ぼくは自分の内部から飛び出し、容赦なくあなたをぼくから守るのが、ぼくの義務でしょう。
 しかしさらに第三の可能性があります。あなたはただぼくに同情しているだけではないかもしれず、ぼくの現在の状況をも正しく理解しながら、いつかぼくがそれでも、釣合いのとれた、落着いた、生々した交際のできる有用な人間になり得ると信じているのです。そう信じているなら、あなたは大変な思い違いをしています。ぼくはもうあなたに、現在のぼくの状況は(そして今日はそれは比較的に楽園のようですが)例外的でない、と言いました。そんな思い違いに、フェリーツェ、屈してはなりません! 二日間とあなたはぼくのそばで生活できないでしょう。今日ぼくは十八歳の高校生の手紙を受取り、バウムのところで二度三度それを読みました。彼は自分のことを手紙の終りに、ぼくの「極めて恭順な弟子」と呼んでいます。それを考えると、気分が悪くなります。なんとまちがった考えでしょう! すべてを示し、威してしりごみさせるためには、ぼくの胸をいくら大きく切り裂いても足りないでしょう。この場合もちろん言わなくてはならないのは、たとえぼくが英雄であるとしても、この高校生を脅かしたい気持に変りはないということです。というのは、彼はぼくに気に入らない(おそらく彼の若さの故に)からで、一方ぼくは、最愛のひと、あなたを、いつも最愛のひとを、ぼくが描くこのひどい虚弱さへと引きずりおろしたいのです。
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、298~299; 一九一三年三月六日から七日)




 いま午後七時四七分。こうして起床時のことからではなく、いま何時かという点を明言したうえで、そこから順番に、あるいはあたまに浮かんでくるままにこの日のことをさかのぼって書いていく、という書き方もなかなかよい。きょうもこれまで部屋のなかに籠もりきりの蟄居体だ。体調はわりとよいはよい。背骨を中心に背中をやさしくなでさするのが地味にいちばんきくような気がする。やはりどうも背骨なのだ。それもとりわけ肩甲骨のあいだ。ここは背骨にかぎらず、肩甲骨のきわとか、すきまの肉も関連しているようだが。ふつうにただゆっくり背中を全体的にさするだけでも、けっこうな反応がからだにあらわれる。背骨がなにかしらゆがんでいるのではないかとおもう。それで朝は八時くらいには覚めたのだけれどだいぶだらだら臥位で過ごしてしまったし、昼頃に飯を食ってのちも、消化がある程度すすんだところで文を書けるかなとおもったら、やはりなんとなくやりづらい感があって、いったん布団に逃げた。布団のうえこそがまさしくじぶんの約束された安息の地だったのだ。寝転がった姿勢でふくらはぎをほぐしたり脛をプラプラさせたりするわけだが、いぜんから気づいていたけれど、そういううごきをするときには枕(というかいまは座布団だが)を取っ払って、あたまを直接布団につけたかたちでやったほうが効果が高い気がする。そのほうが背中のうえのほうにまで振動がつたわりやすく、いまのじぶんにとってクリティカルなポイントとなっている肩甲骨のあたりなんかにもアプローチできる気がするのだ。そういうわけでとちゅうから腰のしたに座布団を敷いただけで、あたまのしたにはなにも置かずにあおむいて、ウェブをみたり柳瀬尚紀『翻訳はいかにすべきか』(岩波新書)を読んだりして、この本ははやくもさいごまで読み終えた。まあ新書だし。いかにすべきかといって、理論的な、一般的なはなしはそんなにしておらず、というか柳瀬尚紀にとって翻訳というのはなによりも実践であり、とりわけ細部の精密さを旨とするものなので、それができていない実例と、じぶんだったらそこをどう訳すかという実例をたくさん挙げていくような本になっている。また、かれのもっとも大枠のたちばとしては、先日もふれたけれど「一国語主義」があり、つまり翻訳というのはあくまでも日本語の問題であり、日本語として質の良いものになっていなければ意味がない、原文の意味を尊重してうんぬんという声をよく聞くがそんなのは言い訳でしかない、というはなしだ。もっともひろい一般論としてはこのふたつくらいだったのではないか。そのほかに吉田健一を引いたり堀口大學を引いたりして、柳瀬が感銘を受けた翻訳者の姿勢、そのことばを紹介して、かくあるべし、もしくはかくありたいものだと述べていたけれど、あとは大半、他人の訳の細部をとりあげてそこがなぜ駄目なのか、ばあいによっては駄目いじょうになぜまちがっているのかにふれ、じぶんの訳を示す、というやり方を取っていた。あとはあれか、二葉亭四迷の翻訳論を引きつつ、かれがツルゲーネフの翻訳において、草稿と発表時でどういう文章にしたかを二段組の上下で合わせて載せて、その違いをちょっと分析したりとか、そういうことはあった。それにまつわって、二葉亭四迷が翻訳を発表したとうじに、斎藤緑雨とか森鴎外とかがそれぞれ匿名、というか「馬鹿正直」とか「むだ口」とか「翻訳通」とかユーモラスな名をよそおって合評したさいの評言を引いて、かれらが言っている評価のことばはいまでもまったく通用するとしつつ、そのなかにあった「小砂眼入 [しょうしゃがんにゅう] 調」という評言をとりあげて、そこから現代の翻訳小説でもこの小砂眼入調におちいった訳者がままみられるようだと言って、本格的に他人の訳文検討にはいっていく。検討とはいうものの端的にいえばディスりであり、しかも引かれている例が(ジョン・アップダイクのものとかなのだが)、たしかにこれはまずいなというようなものばかりで、原文をもちろん示しつつそれを訳しなおす柳瀬の訳も、たしかに日本語としてよりこなれた、精彩を得たものになっているので、なんというかすこしひけらかしの感がないでもない。あるいは重箱の隅をつついているように見る向きもあるかもしれない、ともおもえるが、とはいえ翻訳は実践だと明言しているからには、じっさいにそういうことをやってみせるのは順当な仕儀で、みればなるほどなあ、こうなるのか、こういうふうに訳すのか、と勉強になることもおおいからよいだろう。そういう細部をいちいちとりあげたディスりというのは集英社文庫ヘリテージシリーズにはいっている、丸谷才一・永川玲二・高山雄一訳の『ユリシーズ』にもおよんでおり、この三人の訳を「鼎訳」、みずからの訳を「猫訳」として比較対象をしめしている。そこで挙げられている例を読んでいくとやはり、たしかにこれはまずいな、ひどいなというようなものもままあって、柳瀬がみずからそこをどういうふうに訳したのか、訳語決定の根拠やそこで関連したかんがえはなにかということも説明されているので、翻訳者のしごとの具体的な部分を実地で見るような感があって益になる。「可哀そうに、と、思う。/何が可哀そうなのかといえば、鼎訳によって次々と訳殺されるジョイスの英語である」(163)などとも言っており、こういう部分をふくめてあいまあいまの語り口に、なにかちょっといけすかないようなものを感じることはあるのだけれど、それでも柳瀬尚紀の翻訳にかける熱意と、執念のようなものと、おのれのしごとにたいする誠実さはありありとしめされているように感じられた。『ユリシーズ』にかんしては、柳瀬尚紀はじぶんのほうがあきらかに精細な、細部をかんがえぬいた、ちからを尽くした、ジョイスの英語の調子などを可能なかぎり日本語として組みこもうとした、読むひとにとって意味のある翻訳をつくったと自負していたとおもわれ、すくなくとも挙げられている例を見るかぎりではたしかにそうだとこちらにもおもわれる。「ところが世の中には、私は鼎訳になつきます、私は鼎訳になつきます、鼎訳のほうが猫訳より「小説らしい」のです、と書いている作家か何かもいる」(163)とさきの引用の直後で述べたり、「猫訳の理解者も幸い少なくないが、鼎訳はおかしいということを人ははっきり言わない。舌切雀じゃあるまいし。せいぜい聞きかじり雀とでもいうのが、こちょこちょ噂をするというのでは翻訳の進歩がない」(172)、あるいは、「こうしてまぎれもない差違を目にしても、「どっちの読みも成立つ」というふうに、当り障りのない寛容を口にする人種が文学畑には少なくない。西暦二〇〇〇年、いかに情実があろうと、そろそろその寛容の慣用句は廃するのが人間というものだ」(154~155)と言い、集英社版の訳はおかしいということを口をきわめて繰り返しつつ、それがじゅうぶんに認知されない現状にかなり不満をいだいていたようにみえる。ある箇所では、「鼎訳を英文和訳といい、猫訳を翻訳という」(166)とまで書いている。読者にとっておよそ意義があるとはおもわれない註についてもディスっているし、だから丸谷才一ほか三人の訳は柳瀬にとってはほぼ全面的に、とはいかないまでも、そのおおくの部分がはっきりとディスるべき質のものだったようで、いきおいうえのように語調も厳しくなるし、『ユリシーズ』にかかわらないところ(アップダイクなど)でもそういう調子はみられるから、けっこう多方面に喧嘩を売っているような気はする。ただその点不思議なのが、集英社版『ユリシーズ』いがいについては、ディスりの対象として挙げた翻訳文の訳者を明示していないということだ。たとえばいちばんさいしょに、この時点では「誤解のないよう心からお願いする。決してケチをつけるとか、あら探しをするとか、そういう卑しい魂胆は微塵もない。これは読者がふつうに不満を感じないで読むことのできる翻訳だ」(6~7)と言っているからあからさまな「ディスり」、というか「ディスり」という語もよくないものか、ふつうに「批判」と言えばよかったが、あからさまな批判のニュアンスにはなっていないけれど、『戦争と平和』(新潮文庫)の一節が引かれているところ、その訳者がだれなのか、なまえは書きつけられておらず、ただ(新潮文庫)の文字が見られるのみなのだ。典拠となる版がしめされているのだから、いまとなればさっと容易に調べることはできるのだけれど(この本が出たのは二〇〇〇年だから、そのとうじはいまよりはたしょう面倒くさかっただろう)、そのほか、「フランスの哲学者、メルロー=ポンティの翻訳『シーニュ』(みすず書房)である」(20)とか、「たとえば、アップダイクの長編小説の翻訳『さようならウサギ』(新潮社)をぱらっとめくると、次のような日本語が印刷されているのが目に飛込む」(21)とか、はたまた二葉亭四迷が訳した「あいゞき」の現代語訳を確認するさいにも、「手もとにあるのは、昭和三十三年(一九五八年)の岩波文庫と昭和三十七年(一九六二年)の筑摩世界文学体系」(38)とのみあるし(ちなみにここで上下二段で引かれている現代語訳のうちでは、岩波文庫版のほうがぜんぜんいいなとじぶんはおもった)、章を変えても、「別の訳者による『アップダイク自選短編集』(新潮文庫)というのを開くと」(92)と、おなじ調子である。「第一章でちらりと見たアップダイクの長編小説の翻訳から。以下、この訳者による訳文を*で示し、筆者の改訳を▽で示す」(70)、「この訳者はまず、rufflesになんら関心を抱かない」(87)というふうに、「訳者」という語をもちいて、翻訳者の固有名を挙げることは徹底して避けられている。それがなぜなのかはよくわからない。どうせ細部をあげつらうようなことをして喧嘩を売るのだから、だれの訳だというなまえも出してしまったほうがむしろ誠実なのではないかとおもったのだけれど、ただ、冒頭にこう述べられているのがその理由なのかもしれない。「どうかほんとうに誤解のないように願いたい、と、もう一度記す。/勝手にしゃしゃり出て、たったこれっぽっちの行数を訳し直したからといって、厚手の文庫本四冊になる『戦争と平和』翻訳をいささかもけなしているのではない」(8)としたあとさらに、「自分も翻訳者の端くれであるだけに、実は内心、自分にこうつぶやくのだ。「それならおまえが全編を訳してみろ」と。もちろん、それはできない」(8)。だから、じぶんがそのすべてを訳していない作品にかんしては、既訳の訳者のなまえは出さないというかたちで、「決してケチをつけるとか、あら探しをするとか、そういう卑しい魂胆は微塵もな」く、喧嘩を売っているわけではないという意志を示そうとしたのだろう。それにたいして『ユリシーズ』にかんしては、じぶんも(かんぜんに全篇ではないけれど)しごととして翻訳をおこなっていたので、いわば真っ向から、大手を振って批判し、喧嘩を売ることができる、と。そしてたしかに、柳瀬が指摘する細部のまずさと、かれの実践した翻訳文、ならびにさいごに付録的にこころみられているジェフリー・アーチャー『十二枚のだまし絵』の翻訳(199~200: (同書の訳者から)「なんとかしてくれと頼まれた翻訳がある。原題はTwelve Red Herringsで、十二編の短篇に一つずつ red herring が隠されているという。その隠れた red herring を十二匹、訳出してほしいというわけだ」)なんかをみると、そのように真っ向から喧嘩を売るだけのことはあるな、とおもった。


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 (……)さんのブログより。

 ゼノンの逆説(アキレスと亀)についてラカンは言う、「数には限界というものがあり、そのかぎりにおいてそれは無限である。アキレスが亀を追い越すことしかできないこと、これは明らかだ。彼は亀い追いつくことができない。彼は無限の地点いおいて、初めて亀に追いつくのである」。ここに我々は、「アキレスの二つの顔」を区別することができる。ひとつは「サド的」な顔、もうひとつは「ドン・ジュアン的」な顔である。これら二つの顔は、カントの言う倫理的行為のもつ二つの側面に対応している。まず、神聖な意志に向かう無限の前進、これは肉体の不死というサド的な幻想を要求するものである。もうひとつは、常に「行きすぎ」な「自殺的」行為だ。これは〈他者〉に穴をあけるものであり、それゆえ「悪魔的な悪」の典型である。言い換えるなら、(倫理的)行為の達成には常に「もうひと頑張り」必要とされるか、あるいは、そのような行為はすでに過ぎ去ったものとなっているか、どちらかである。我々は、(欲望の)対象にまだ到達していないか、あるいはすでにこれを通り過ぎてしまっているか、どちらかなのである。
 サド流に欲望を満たそうとするのであれば、我々は、無限にその対象の全体に近づいていくことになる。一歩一歩、我々はそれに近づいていくのだが、けっして目標までの道のりを進みきり、それに到達することができない。サドが言うように、我々は、(常に)もうひと頑張りしなくてはならない。サドの長ったらしく退屈な物語を見ればいいだろう。「技術的な」蘊蓄を垂れつつ、長々と脱線しつつ、それはひどくゆっくり、(まるで亀に追いつこうとしているアキレスのように)「少しずつ」、進んでいく。まるで主人公たちには永遠の時間があるかのようであり、そして快楽の享受を遅らせることが最大の快楽であるかのようである。まさに性愛なるものの典型である。
 他方、ドン・ジュアン流に欲望を満たそうとするのであれば、我々は大慌てでその対象に向かい、勢いあまって通り過ぎ、結局これをつかみ損ねることになる。そして、何度も何度も一からやり直しというわけである。(確かにサスペンスはあるのだが)ジリジリ、ジリジリと進むサドの物語と、(確かに冒険でいっぱいだが)同じことをくり返すドン・ジュアンの物語、これら二つの運動の違いは、享楽の対象を「一部分ずつ」楽しむか、あるいは「ひとつずつ」楽しむかの違いである。サド流の接近法をとれば、我々は相手の肉体を一部分ずつ楽しむことになり、その各部分から得られる快楽を一度に味わうこと——その全体、〈一[ワン]〉を手にすること——ができない。また、ドン・ジュアン流の方法をとるなら、我々は〈一〉から出発し、複数の対象を「ひとりひとり」楽しむことになるが、けっしてすべての女性を楽しんだとは言えない。本質的に「彼女」、快楽を提供するひとりひとりの女性は、「〈一〉未満[ユナン・モワン]」である。「この理由で、男性は、女性——問題になっている彼女のことだ——と結ぶあらゆる関係において、〈一〉未満の観点から彼女を寄せ集めなければならない。このことはドン・ジュアンとの関連ですでに話したことだが……」。このような二つの試み、〈他者〉を一部分ずつ集める試みとひとりひとり集める試みは、どちらも究極的に「悪魔的な悪」の領域へと向かう。
(『リアルの倫理——カントとラカン』アレンカ・ジュパンチッチ・著/冨樫剛・訳 p.127-128)


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 この日はまた電車に乗って図書館に行き(カフカ全集一冊を返すだけの用だが)、電車内での心身の調子をためしてみようとおもっていたのだけれど、時間が遅くなってくると億劫になってしまい、けっきょく家を出ず。散歩もしなかったのでよろしくはない。そのぶん臥位で背面をよくやわらげたとはいえるが。とにかく背骨を中心に背中をほぐして楽にすることが勝負になってくる。といってまあ、ただ寝転がって本を読むなりパソコンを持つなりしながら、膝でふくらはぎをやわらかく刺激したり、座布団のうえで腰を左右にもぞつかせてい、るだけでよいのでかんたんだが。そしてじっさい効果はあがっており、体調がまとまってきているのを感じる。とはいえ食事を取ったあとはいまだにやはり体内に乱れが生じて、喉奥に詰まりまでは行かないとしても引っかかりめいた抵抗を、よほど軽くなったけれど感じる。たぶん行こうとおもえばもう職場にも行ける気はするのだが、もうすこし万全にちかづけたいのが実情で、いまこの翌一四日の午後九時だけれど、今夜かあしたに(……)さんにメールを送っておこうかとおもっている。二四日の月曜日にいたればたぶんもうほぼ問題なくなっていると見込んでいるのだけれど、ぶっちゃけたはなしもうすこし休んでだらだらしたいので、もう今月いっぱい休みにしてもらって、そのあいだに医者にも行くし状況を報告して相談し、電車もだんだんためしていって来月から復帰というふうにしたい。サボりごころもたぶんにふくまれているが、精神疾患はつねにこちらの予想を超えて不意打ちしてくるものなので、そのくらい大事を取っておいてもまちがいではないだろう。この日おもったのは、臥位で片足をもう片方にひっかけて脛をプラプラやっているとそのうごきが背中にまで波及してちょうど肩甲骨のあいだあたりがこまかく刺激されてよいのだけれど、座っているあいだもこれやればいいじゃんということだ。それで音読をするあいだなど、じっさい脚を組んで深く腰掛け、しかしかんぜんに背もたれに近いところに尻を置くと脚を揺らしづらいのですこしだけ空きをつくった位置に腰掛けて、背中は背もたれにつけたかたちでプラプラやっていたところ、これがまさしく背骨の至近左側、肩甲骨の脇というか根もとのあたりにひじょうに効いて、腕を左右のレストに置いてやっていると、そこに痛いともなにともつかない、名状しがたい抵抗感みたいなものがてきめんに生まれるのだ。だからここにやはりなにかしらのゆがみがあるのではないか。骨なのかすじなのか、両方なのかわからないが。これこんなに刺激しちゃっていいのかな、むしろ悪化しないかなというくらいの抵抗感だったが、たぶんよかったんだとおもう。
 そのほか、柳瀬尚紀の新書を読み終えたので、つぎに先日本屋で買った、ニーチェ/川原栄峰訳『この人を見よ 自伝集』(ちくま学芸文庫、一九九四年)を読みはじめた。初版は一九六七年の理想社ニーチェ全集。たぶんこの全集かとおもうが、ニーチェの書簡集も二冊もっている。しかし実家の兄の部屋に置いたままだったか持ってきたかはおぼえていない。「この人を見よ」はおもしろい。ニーチェがじぶんの来し方をふりかえってどういう性分だったとか語っている著作なのだけれど、まず章のタイトルが「なぜ私はこんなに賢明なのか」「なぜ私はこんなに利口なのか」「なぜ私はこんなに良い本を書くのか」となっている時点でその傲岸さに笑ってしまうし、語られている内容もいろいろおもしろくて笑ってしまうポイントもままあるうえ、訳がうまくながれていることもあってじつに文章家だなと、とにかく文章がうまいなと、書抜きたい箇所がほとんどつねに出てくるような調子の本だ。ニーチェもまあさっさと、どんどんと、ぜんぶ読みたいな。
 夜にはなぜか詩をやる気になって、まいにちの日記記事をつくるとき、欄外下部にいちいちうつしてある、進行中というかてきとうにおもいついた詩行のたぐいをいくらか書き足した。口に出してくりかえし読んでいるうちになんとなく出てくるものがあるので、それをひろったりひろわなかったりして、つぎの行をくわえていく。意味などこちらの知ったこっちゃなくて、ばくぜんとしたイメージと観念のひろがりでもってあいまいにやっている素人のわざだが、おのずからある程度の集束は生まれてしまうものだろう。詩にかんしても、質はともかくとして、数をつくって重ねていき、こういうものかなという感覚をやしないたい。
 この日の写真は、昼間にごま豆乳鍋のもとで野菜スープをつくっているときに、もうこれでいいやとおもってそれを撮った。まだ灰汁を取るまえの段階。20221013, Thu., 150550。

20221013, Thu., 150550


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  • 「ことば」: 16 - 20
  • 「読みかえし2」: 170 - 174, 175 - 184
  • 日記読み: 2021/10/13, Wed. / 2014/3/7, Fri.


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Samantha Lock, “Russia-Ukraine war latest: what we know on day 232 of the invasion”(2022/10/13, Thu.)(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/13/russia-ukraine-war-latest-what-we-know-on-day-232-of-the-invasion(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/13/russia-ukraine-war-latest-what-we-know-on-day-232-of-the-invasion))

The United Nations general assembly on Wednesday overwhelmingly voted to condemn Russia’s annexation of parts of Ukraine as 35 nations abstained including China, India, South Africa and Pakistan. The resolution “condemns the organisation by the Russian Federation of so-called referendums within the internationally recognised borders of Ukraine“ and “the attempted illegal annexation” announced last month of four regions by Russia president Vladimir Putin.

A Russian nuclear strike would “almost certainly” trigger a “physical response” from Ukraine’s allies and potentially from Nato, a senior Nato official has said. Any use of nuclear weapons by Moscow would have “unprecedented consequences” for Russia, the official was quoted by Reuters as saying.

The US will need to deter two major nuclear weapons powers for the first time, the Biden administration has warned. Washington’s new national security strategy (NSS) depicts China as the most capable long-term competitor, but Russia as the more immediate, disruptive threat, pointing to its nuclear posturing over Ukraine. “Russia’s conventional military will have been weakened, which will likely increase Moscow’s reliance on nuclear weapons in its military planning,” the strategy blueprint reads.


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Taylor Weik, “‘Proof I was there’: every Japanese American incarcerated in second world war finally named”(2022/10/11, Tue.)(https://www.theguardian.com/us-news/2022/oct/11/japanese-americans-incarceration-second-world-war(https://www.theguardian.com/us-news/2022/oct/11/japanese-americans-incarceration-second-world-war))

Sahara is now 88, and last month, he was among hundreds of people who visited the Japanese American National Museum in Los Angeles’s Little Tokyo for the installation ceremony of a new exhibit dedicated to those who suffered a similar fate.

The highlight of the exhibit is the Ireichō, a sacred book of names, a 25-pound, 1,000-page hand-bound book containing the names of the 125,284 people of Japanese descent – many of them American citizens – who were incarcerated in the United States during the second world war. Eighty years after the camps first opened, it’s the first comprehensive list of its kind.

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The Ireichō project was led by Duncan Ryuken Williams, director of the University of Southern California’s Shinso Ito Center for Japanese Religions and Culture, and creative director Sunyoung Lee. Williams said he spent the past three years working with teams of volunteers across the country to undergo the painstaking process of researching, transcribing and verifying the names of those who were held at the 75 identified incarceration sites, including US army, Department of Justice, and War Relocation Authority camps. These sites opened in 1942 under President Franklin D Roosevelt, following Japan’s bombing of Pearl Harbor.

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The Ireichō is one of three monuments comprising a larger project called Irei: National Monument for the WWII Japanese American Incarceration, which addresses the erasure of the identities of those incarcerated. The other two are a searchable, digital list of the 125,284 names (Ireizō), and light sculpture monuments (Ireihi), which will be displayed at eight WRA camps starting in 2024. In addition to acknowledging all of the individuals who were incarcerated, Williams also hopes to test the limits of how people view monuments.


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Tina Hosseini, “I hope my Iranian sisters go down in history igniting a revolution – but condemning the atrocities is not enough”(2022/10/12, Wed.)(https://www.theguardian.com/commentisfree/2022/oct/12/i-hope-my-iranian-sisters-go-down-in-history-igniting-a-revolution-but-condemning-the-atrocities-is-not-enough(https://www.theguardian.com/commentisfree/2022/oct/12/i-hope-my-iranian-sisters-go-down-in-history-igniting-a-revolution-but-condemning-the-atrocities-is-not-enough))

What started as a mass uprising condemning the killing under police custody of 22-year-old Kurdish-Iranian Mahsa Amini for a dress code violation has now amalgamated into widespread calls for a complete regime change in Tehran. With 60% of Iran’s population aged below 30, the current uprisings demonstrates the significance of Iran’s generation Z, defying all rules and restrictions under an oppressive regime. They can no longer be suppressed by religious clerics and are bravely rebelling against the regime.

The murder of two vibrant schoolgirls, 16-year-old Sarina Esmailzadeh and 17-year-old Nika Shahkarami, continue to haunt many of us. Both girls had their lives cut short for protesting against the regime; Iranian authorities subsequently coerced their families to report their deaths as suicides and extracted false confessions from them.

Any suggestion that this mass movement is only about the headscarf is limiting and flawed. The women of Iran want access to the fundamental freedoms that we enjoy, namely the right to self-determination and autonomy. These protests are historically unique for Iran: this is the first time political defiance is fixated on women’s freedoms, with Iranian men standing shoulder to shoulder with valiant Iranian women.

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The barbaric treatment of protesters is not unprecedented: this regime has a blood-stained history of human rights abuses, as demonstrated by the 1988 massacre of political prisoners, the killing spree of 1998, the brutal response to the 1999 student uprisings and the 2009 green movement, as well as the deliberate downing of Ukraine’s flight PS752. It has a gruesome record of human rights violations but has not been held accountable or reprimanded.

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The Australian government has joined others, including Germany, the UK, US, Canada, Austria and Spain in condemning the Iranian regime for its treatment of protesters. Canada has imposed sanctions against Iran’s Islamic Revolutionary Guard Corp (IRGC), permanently banning over 10,000 officers from entering Canada. The US is expected to issue new sanctions against Iranian law enforcement officials and those directly involved in the crackdown. Several members of the European Union are urging the EU to impose asset freezes and travel bans on several Iranian officials.

There is more our government in Australia can do.

We call on the Australian government to freeze the assets of regime officials and their dependents. Our government could consider listing the IRGC as a terrorist entity under Australian law, enact Magnitsky sanctions against perpetrators, members and agents of the IRGC and those responsible for these crackdowns and deaths. It could call for the regime to be removed from the UN Commission on the Status of Women and deny regime officials and their dependents from entering Australia.

The Australian government can also take the simple step of providing permanent protections to those seeking asylum from countries such as Iran. The world is witness to the regime’s engagement in human rights violations against women, religious and ethnic minorities, political activists, unionists and the LGBTQIA+ community. Refugees who have waited in Australian for 10 years are seeking safety from this brutality.