2022/10/27, Thu.

 書くという私の仕事、それに対する私の関係を、貴方はその場合とりわけちがったふうに見られるようになり、私にもはや「節度と目標」を勧告しようとはされないでしょう。「節度と目標」はすでに人間的弱さを十分仮定しています。私は自分が立ちうる唯一の場所において、私の持つすべてをかけて努力するべきではないでしょうか? もしそうしないなら、私はどうしようもない愚か者でしょう! 私の書くものは無価値かもしれませんが、しかしそれなら、私自身が全然無価値なこともまた確実で疑いないのです。だからその点で私が自分をいたわるとすれば、正しくみれば、本来いたわることにならないで、自分を殺すことです。(……)
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、64; 一九一二年一一月五日)




 七時過ぎに覚醒。さしたる間を開けず、いちどからだを起こしてカーテンをあける。快晴。しかし空気は冷たいので、エアコンをつけた。それでChromebookを持ち、布団をかぶったままウェブをみたり、日記を読みかえしたり。エアコンの温風で部屋があたたまってくると、掛け布団をどかして足もとのほうにたたみ、膝でふくらはぎをマッサージしつつ文を読みつづけた。過去日記に引いておくほどのことはなし。二〇一四年三月二一日金曜日のほうは(……)に出て、たくさん書いている。ぜんたいにながれができているような印象。高架歩廊や歩道橋を行っているときの感じもいまとあまり変わらない。
 Guardianもちょっと読んで、寝床を抜けたのは九時前。水を飲み、トイレに行って冷たい便器に腰をおろし、膀胱に溜まったものをながながと排出して顔も洗う。それからちょっと背伸びなどしたり、その場歩きをしたり。起きたときから、天気が良いしシーツを洗おうというあたまになっていた。それで寝床のうえのパソコンとか座布団とかをいったんどけてシーツを剥がし、窓をあけてそのそとで、したの通行人に注意しながらバサバサとやる。それからテープをすこしだけベタベタやっておき、たたんで洗濯機へ。注水をはじめて、待つあいだはまた踵だけ上げるその場歩きでからだをほぐし、洗剤を入れて稼働させると椅子に座って瞑想した。九時一九分から。かなり安定的に止まった感じがあって、これは三〇分くらい行っただろうとおもったところが二〇分。マジか。あれで二〇分か。
 そうして食事。前夜に炒めたナスと豚肉ののこりがあるのでそれを米と食べるけれど、サラダもつくる。サラダといって、キャベツを刻んで細切れにした豆腐を乗せただけのもの。フレンチドレッシングがのこりすくなかったので使い切ってしまうことにして、大皿のうえで逆さにしたボトルの尻を手のひらでトントン叩いて余滴を吐かせる。炒めものと米はそれぞれレンジであたためて食事。ウェブを見つつ食し、サラダの皿に大根をちょっとおろして食い、すぐに洗い物。ながしがせまくてぜんぶいっぺんに入れることがむずかしいので、洗っては水切りケースにおさめ、机上にあったのを持ってきて追加で洗うというかたち。皿にこびりついたドレッシングとかをながすときに排水溝の中蓋がよごれると面倒くさいので、洗い物のときはもうはずしてしまっている。洗濯はもう終わっていたのでシーツを干すことに。きのう干して入れたまま放置していた肌着やタオルは、シーツを寝床から取るまえにたたんでおいた。そういえば昨夜は洗い物も放置してしまい、ながしにフライパンと椀をつけてあったので、それも起床後すぐにかたづけたのだった。洗われたシーツを窓辺に持っていき、窓をあけると、ちょうど園児たちが外出から帰ってきたところで、オレンジ色の帽子をかぶったちいさな子どもたちがワゴンもしくはカートにはいって運ばれていた。なるほどたしかに、そりゃそうだよなと。いままでこどもらが旅立つ瞬間は声で聞くのみでそのすがたを見ることがなかったが、ちいさなほうの子はああして運ばれるわけだ。べつの場所でも過去に見たことはある。危険もない。ただ、だれだれはだれだれのうしろにならんで、みたいな声を聞いたこともあるので、もうすこしおおきい子たちだと歩いていくのではないか。シーツを物干し棒にかけてひろげ、端をピンチで留めているあいだ、左方、園庭をみやればそちらではピンク色の帽子の園児らがあそんでおり、縁にいるひとりがこちらのようすをみつめているようだった。空気はやはり冴えており、干すのがはやかったかもしれないが(西窓で正午を越えてこないと陽も直接あたらないので)、天気もよいし午後のひかりに期待していたところが、正午を一〇分後にひかえた現在、空は全面白くなっている。ミスったか? 起きたときにはまったくの青だったのに、いますこしもすきまのない白に変わっているとはどういうことか。とはいえ雲はそう厚くはなさそうで、空気の色がいかにもよどんでいるわけではない。中性的な、あかるくも暗くもない無色透明という感じ。しかしこれではあまりあたたかくは乾かないだろう。
 干したあとは白湯を飲みつつ「読みかえし」ノートを音読。リルケの「オルフォイスによせるソネット」(神品芳夫訳)とか。熊野純彦の『レヴィナス』とかこのへんのやつはちょうど去年も読みかえしていたり、あるいは日記のいちばんうえに載せたりしているので、さいきんよく見かけている。一一時半くらいまで読み、それからきょうのことをここまで。
 きのうはどうもやる気がなかったが、きょうはわりと意欲を感じる。まあこのあとどうなるかわからないが。ところで本にしろモニターにしろ文を読んでばかりだから、そりゃとうぜん目は疲れてうずくわけで、もうあんまりこまかい文字を読むのもたいへんだということで、パソコンの表示拡大設定を上げた。設定から「簡単操作」という欄に行くと、「ディスプレイ」のカテゴリに「文字を大きくする」という調節部があって、いままでけっこう拡大していたのだけれど、おもいきってそこをもう130%にした。だいぶでかいといえばでかいが、もう目をいたわっていかないとつづかない。


     *


 うえまで書くと寝床に逃げて書見。井上正蔵 [しょうぞう] 訳『ハイネ詩集』(小沢書店/世界詩人選08、一九九六年)。102からはじめていま193まで。けっこうおもしろい。威勢のよい口調で訳されていたりして。ハイネは叙情的な恋歌とかを書いたいっぽうで革命の闘士だったらしく、あきらかに共産主義的な文句も詩中にみられるし(かれじしんが影響を受けたのはサン・シモンあたりのいわゆる空想的社会主義なんかだったようだが)、年譜をみてみると、一八四三年一二月にハイネがパリにもどったさい(生まれはドイツのユダヤ人布地商の家だが、一八三〇年のフランス七月革命を受けてパリに移住し、一八四三年の一〇月には一二年ぶりに一時ハンブルクに帰っていた)、「この秋からマルクス夫妻がパリに住み、四五年一月パリを去るまで、ハイネと深く交わる」(304)と書いてある。108~109には「女」という詩があり、ページ下部に付されている訳者の解説を引けば、「悪人同士でも女のほうが男より、悪に徹底している」というような内容のもので(泥棒の男がしごとをしているあいだ女のほうは他人とベッドのなかで笑っているし、男がつかまって絞首刑になり、墓におくられたときも、「だが八時にはもう女は/赤い酒をあおって笑っていた」というもの)、フェミニストに糞味噌に罵倒されそうな詩だが、同解説によれば、「一八五六年二月にハイネはパリで死んだのだが、後にこの知らせをロンドンで受けたマルクスは、エンゲルスにあてて手紙(一八五六年九月二十二日)をしたため、この詩篇の最後の二行を引きながら、「これが文字どおり、彼(ハイネ)の身の上だったのだ」と述べ、その手紙の最後に、マティルドに対して「哀れなハイネをいじめ殺した下司女」と罵っている」とのこと。最後の二行というのはうえに引いた箇所で、マティルドというのはハイネの愛人、のちに妻である。靴屋の売り子で、かなり年下だったらしい。
 一時ごろ立つと、またスープをつくっておくことに。きのうのスーパーで鶏白湯の鍋スープを買ってきたのでそれ。袋をわしゃわしゃとよく振ってから鍋にあけ、火をつけて、野菜類を切ってどんどん入れていく。ニンジン、シイタケ、エノキダケ、ネギ、タマネギ、白菜、大根。それで火を最弱にしてずっとかけておく。いまもかけてある。灰汁はさきほど取った。洗い物もすませてしまい、白湯をつくって席につくと、きのうのことを軽く書いてさっさとしまえようとおもったが、そのまえにまた瞑想をしてみることにした。ふたたび二〇分。やはりよく止まるは止まる。おだやかである。窓外も園児たちが昼寝の時間なのでしずかだった。しかしじきに、けたたましい叫び声があがっていたが。きのうのことをてきとうに済ませると二時過ぎで、一時薄陽がまた出る時間もあったけれど、空は最高でもおしろいかぶりの希釈された水色にとどまって、それいじょう晴れがもどらなかったし、これで出しておいても駄目だなとおもいシーツを入れることにした。窓をひらいてみるとまた白くなっている天上に、いちおう太陽の、雲より断然白い影が刻印されてはいるけれど、シーツもまあふつうに乾いてはいたので取りこんだ。取りこむまえに寝床をテープでいくらかペタペタやって埃類を取っておき、掛け布団や座布団などをどかしたうえにシーツをひろげてセッティング。端を折っておき、それで鍋の灰汁を取ると椅子にもどってここまで加筆。いまちょうど午後三時だ。


     *


 いま午後八時六分。「読みかえし」ノート。

337

 ぼくは戦争のあいだずっと日本人を憎んでいた。
 ぼくは日本人を、文明がすべてのものに自由と正義をもたらして栄えてゆく(end20)ためには滅ぼさなくてはならない、人間以下の悪魔的な生きものだと考えていた。新聞の漫画ではかれらは出っ歯のサルとして描かれていた。プロパガンダは子どもの想像をかきたてるものだ。
 ぼくは戦争ごっこで何千人もの日本兵を殺した。ぼくは「タコマの亡霊の子供ら」(『芝生の復讐』所収)という短篇を書いたが、それはぼくの六歳、七歳、八歳、九歳、十歳のときの、日本人を殺すことへの熱中ぶりを示している。ぼくは日本人を殺すのがとても上手だった。かれらを殺すのはおもしろかった。

 第二次世界大戦のあいだ、ぼくは自分ひとりで三十五万二千八百九十二人の敵兵を殺し、ひとりも負傷者を出さなかった。子どもの戦争が必要とする病院は大人よりもずっと少ない。子どもたちはどうしても戦争をただ死があるだけという側面から考えるのだ。

 戦争がついに終わったときのことをぼくはおぼえている。ぼくは映画館でデニス・モーガンの映画を見ていた。歌の入った砂漠の外人部隊ものだったと思(end21)うが、いまは確かめようがない。とつぜんスクリーンに言葉をタイプした黄色い紙が出て、それは日本がアメリカ合衆国に降伏して第二次世界大戦は終わったというものだった。
 映画館にいたすべての人が心底から声をあげて笑いだし、無我夢中になった。通りにとびだしてみると車のクラクションが鳴っていた。暑い夏の午後だった。あらゆるものが大混乱におちいっていた。まったくの見知らぬ人どうしが抱きあい、キスしあっていた。すべての車のクラクションが鳴っていた。通りには人があふれていた。交通はすべて停止した。人々はむらがってキスしあい、笑い、クラクションを鳴らしつづける車に蟻のようにのぼり、車は有頂天になった人々でいっぱいになった。
 そうする以外に何ができただろう。
 戦争の長い歳月が終わった。
 すんだのだ。終わりになったのだ。
 ぼくたちは人間以下のサルである日本人を負かし、滅ぼした。正義と人類の権利が、都市ではなくジャングルにいるべき生きものに対して勝利をおさめた(end22)のだ。
 ぼくは十歳だった。
 そんなふうにぼくは感じていた。
 エドワード叔父さんのかたき討ちはすんだのだ。
 かれの死は日本の破滅によって清らかなものとなった。
 広島と長崎はかれの犠牲というバースデーケーキの上で誇らしげに燃えるろうそくだった。

 (リチャード・ブローティガン福間健二訳『ブローティガン 東京日記』(平凡社ライブラリー、二〇一七年)、20~23; 「はじめに さようなら、エドワード叔父さん、そしてすべてのエドワード叔父さんたち」)



338

 そこから歳月が流れた。
 ぼくは大きくなった。
 もう十歳ではなかった。
 急にぼくは十五歳になり、戦争は記憶の奥に去り、日本人への憎しみもそれと一緒に去っていった。感情が蒸発しはじめたのだ。
 日本人は教訓を学び、寛大なキリスト教徒であるぼくたちはかれらにやりなおしの機会をあたえ、かれらはりっぱにそれに応えていた。
 ぼくたちはかれらの父親で、かれらはぼくたちの小さな子どもであり、かれ(end23)らが悪いことをしたからぼくたちはきびしく罰したのだが、かれらはいまよい子になり、ぼくたちもよいキリスト教徒としてかれらを許してやっている。
 つまり、かれらははじめは人間以下だったが、ぼくたちが人間になるように教えてやり、かれらはとてもすみやかに学んでいる、ということだった。
 さらに歳月が流れた。
 ぼくは十七歳になり、十八歳になり、十七世紀からの日本の俳句を読みはじめた。芭蕉と一茶を読んだ。感情と細部とイメージを一点にあつめるように言葉を使って、露のしずくのような堅固な形式にたどりつくかれらの方法が、ぼくは気に入った。
 日本人は人間以下の生きものなんかではなく、十二月七日のわれわれとの遭遇の何世紀も前から、文明をもった、感情のある、あわれみぶかい人々であったことをぼくは知ったのである。
 戦争がはっきりと見えてきた。
 何が起こっていたのかをぼくは理解しはじめた。
 戦争がはじまると論理と理性がはたらかなくなり、戦争があるかぎり非論理(end24)と狂気がのさばることになる仕組みがわかってきたのだ。
 ぼくは日本の絵画と絵巻物を見た。
 とても感銘をうけた。
 ぼくは鳥が好きだから、かれらの鳥の描き方が好きになった。そしてもう、日本人を憎んで叔父のかたきを討ってほしいと願った第二次世界大戦の子どもではなかった。
 サンフランシスコに移ったぼくは、禅を学んで深い影響をうけている人たちとつきあいだした。友人たちの生活ぶりを見ていたことからの浸透作用でぼくはすこしずつ仏教をつかんでいった。
 ぼくは論理を追った宗教的な思索ができる人間ではない。哲学はほんのちょっとしか勉強したことがない。
 ぼくは友人たちがその生活や家の中をととのえたり、自分を訓練したりするやり方を見ていた。ぼくは仏教を、白人がアメリカに来る前のインディアンの子どもがものごとを学んだようにしてつかんでいった。かれらは見ることによって学んだのだ。(end25)
 ぼくは見ることによって仏教を学んだ。
 ぼくは日本の食べ物と日本の音楽を好きになった。ぼくは五百本以上の日本映画を見た。字幕を読むのがはやくなり、映画の中で俳優たちが英語をしゃべっていると感じるほどになった。
 日本人の友だちもできた。
 ぼくはもう戦時中の子ども時代のあの憎しみにみちた少年ではなかった。
 エドワード叔父さんは死んだ。家族の誇りであり未来であったのに、人生の盛りのときに殺された。かれをなくしてぼくたちはどうしたらよかったのか?
 百万人以上の日本の若い男たち、それぞれの家族の誇りであり未来であったかれらも死んだのであり、そのうえ、日本への爆撃で、そして広島と長崎の原子爆弾で、何十万人もの罪のない女性や子どもが死んだのだ。
 かれらをなくして日本はどうしたらよかったのか?
 そういうこといっさいが起こらなければよかったとぼくは思った。

 (リチャード・ブローティガン福間健二訳『ブローティガン 東京日記』(平凡社ライブラリー、二〇一七年)、23~26; 「はじめに さようなら、エドワード叔父さん、そしてすべてのエドワード叔父さんたち」)


     *


 (……)への返信。

(……)


     *


 いま九時四八分。さきほど二六日までの記事をぜんぶ投稿してかたづけた。実質二二日の外出のことを書いたのと、二三日はJoyceの訳文の説明をしたのと、二四日は通話時のことをすこしだけ書き足して、二五日ときのう分はやっつけ。ともあれおおかたかたづいてよかった。きょうはきのうとちがってわりと勤勉にやれている。ほんとうは歩きに出たほうがよかったのだけれど。籠もってばかりいてもあれだし。いまから行く手もないではないが、この時期だからもう夜気が寒そうでひるんでいる。
 二三日分を投稿したさいにこの日弾いたギター演奏をBGMに聞きながらやり、その後の諸記事の投稿のさいなども聞いて、いまはnoteの「音源」マガジンのさいしょに遡り、四月二四日に撮った「音源_001」をながしているのだけれど、弾いているあいだはいつもミスばかりだしよれよれだわとおもっていて、事実そうではあるものの、録られたものを聞いてみるとおもっていたよりも悪くないというか、むしろきもちよく聞けてしまうんだよな。まことに自己満足・自己完結的ではあるが。じぶんこれよく弾けたなと、どうやったのかわからないし、もっかいやれといわれてもできないぞ、とおもうような瞬間もままあって、ということはいちおう即興できているということだろう。じっさい弾いているあいだ、なんか勢いで、あれ? そう? そうか、そっち? みたいなことはある。しかしいいかげん、てきとうなブルースやって飽きたらてきとうなインプロにながれて、飽きたらてきとうなブルースにもどって、という、これから卒業したいのだけれど。
 三時いこうにたいした物事はない。ずっと部屋にいるわけだし。寝床でハイネを読んだり、ストレッチをしたり、日記を書いたり。母親からSMSが来ていたのでそれに返信もしておいた。(……)にもみじかい返信を送ったし、あとは(……)さんに、一一月から徐々に復帰させてくださいと送るだけだな。(……)夕食はチーズとベーコンのはいった包みピザ(三個一セット)と、鶏白湯スープでつくった鍋。このあいだよりも味が薄い気がしたのだけれどなぜなのか? さいしょからもう豆腐とうどんを入れたからか? いずれにしてもうまいが。
 ハイネはいま234まで行っていて、『歌の本』の段にはいっているので、なんということもないような、いかにもな抒情歌みたいなものも多く出てくる。217~218には「ローレライ」という篇があり、ローレライってことばだけは聞いたことがあったけれど、ハイネの詩なのかとおもった。とはいえ訳者の説明によれば、「ローレは妖魔を意味し、ライは岩を意味する。ローレライの魔女を歌った詩人はひとりハイネだけではない」(217下部)とある。「しかし、他のすべてのローレライの歌は、ハイネの作の前では蒼ざめてしまう」と絶賛である。ということはローレライというのはあの、なんといったっけ? 原本を読んだことはないのだが『オデュッセイア』のなかに出てきて、その歌声で海を行く男たちを惑わして殺してしまうという、その声の魔力に抵抗するためにオデュッセウスはじぶんのからだをマストにくくりつけさせたとかいう、なまえをわすれてしまったのだけれどあの魔女的人魚(だったっけ?)とおなじようなものなのだろう。ただあれは舞台が海だとおもうのだが、ハイネのこれはライン川を舞台としている。川の妖魔なのだ。人魚でもないようだし。
 あと227~229に「告白」という篇があって、これはすごいなというか、すごいというのはつうじょうの称讃の意味ではなく、いまだったら羞恥やてらいなしにはぜったい書けないような、これぞロマン派という感じのことばのつらなりだということで、せっかくなので全篇引いておく。

 夕闇が迫るにつれて
 波はいよいよ荒れ狂う
 ぼくは渚にすわって
 白い波が踊るのを見ていた
 ぼくの胸も海のようにわき立ち
 せつない郷愁に駆られる
 おお あなたよ いとしいひとよ
 あなたの姿はどこにでも浮び
 どこででも ぼくを呼ぶ
 どこにでも どこででも
 風のざわめきに 海のひびきに
 そして ぼくの胸の吐息に


 細い蘆でぼくは砂にしるした
 「アグネス あなたを愛す」
 だが いじわるな波が流れてきて
 この甘い告白の文字をひたし
 あとかたもなく消し去った


 蘆よ 砂よ 波よ もろくも砕け
 散るものよ なんというはかなさ
 空はますます暗く 心はいよいよはやる
 いま ぼくは手に力をこめ
 ノルウェーの森のいちばん高い樅を引きぬき
 エトナの山の煮えたぎる
 火口にそれをひたし
 火をふくむ巨大な筆にして
 暗い空のおもてに書こう
 「アグネス あなたを愛す」


 そうすれば不滅の火の文字は
 夜ごと大空にかがやくのだ
 未来の世のひとびとが歓呼して
 空のこの文字を読むだろう
 「アグネス あなたを愛す」


 (井上正蔵 [しょうぞう] 訳『ハイネ詩集』(小沢書店/世界詩人選08、一九九六年)、227~229; 「告白」(Erklärung); 『歌の本』)

 というわけで、舞台設定からしていかにも中のいかにもみたいな感じだ。まあ偏在じたいのテーマは個人的にわりと嫌いではないのだけれど、第一連のそれを読んでおもいだしたのは山崎まさよしの、あれもなんつったっけ? 「いつでも探しているよ どっかに君のすがたを 都会のホーム 路地裏の窓 こんなとこにいるはずもないのに」と歌う歌があったけれど、あれだ。しかしすごいなとおもったのはそのつぎの第二連で、この意匠! あまりにも典型的なというか、ほとんど伝説的ともおもえるような恋慕の意匠! 若山牧水の、「白鳥はかなしからずや空の青海の青にもそまずただよう」と似たものをおぼえる。こんな一景は、いま書こうとおもってもあまりにも恥ずかしくて書けないし、こういうのがのこっているのはせいぜいある種の漫画の一部くらいで、それもやはりそういう「意匠」として、お約束として、いくらかはその典型ぶりと恥ずかしさを意識しつつつくる側はやるものだろうし、こういうものがほんとうに、純真に純心にうたわれていたロマン主義というのはおそろしい時代でもある。つまりわれわれは(というかこちらは)これを、もはや「意匠(衣装)」としてしかとらえることができない。若山牧水とか、与謝野晶子なんかももしかしたらそうなのかもしれないが、あのへんの明治・大正・昭和初期くらいまでは、たぶんこういうのが本気のものとして、真正な感情の真正な表現として日本にもあったのだろう(あったのだろうというか、それは明治期になって生まれてきたあたらしい感情のありかた、精神性だったのだろうか)。いまやそれはかんぜんに大衆化・俗流化し、物語の一場面をほどよく彩る紋切り型としてつかいつぶされまくっている。その源流というのはこういうところにあるんだなと。第三連もとつぜんの想像力の誇大な爆発という調子で、おもしろいにはおもしろいけれど、この壮大さ。西行が、あなたのことをおもって泣き濡れて、涙をながしすぎてわたしの寝床がその水のうえに船となって浮かぶくらいです、みたいな歌を一首つくっているのだけれど(あるいは西行ではなくて古今和歌集とかだったか?)、それをおもいだす(なぜかぜんぶ日本の文学を連想してしまったが)。あれもずいぶんおおげさに言うなあ、言いすぎでしょ、すごいイメージだなとおもったものだが、西行にせよハイネにせよ、そういうのが本気でうたわれていたそのときのリアリティというのが、やはりこちらからするとわからないわけだ。古井由吉が『詩への小路』のなかで、現代の小説のなかで感情をまともに書こうとしてもむずかしくて書けない、もとよりいまを生きる人間の感情がよほど衰退してしまっているのだから、みたいなことを言っていたのだけれど、それはこういうはなしも含んでいるのだろうか? 
 古井由吉が書いていたというのは以下の部分だ。

 清潔に寂れた教会は日曜日の郵便局に似ている、と詩の内にある。その郵便局もこの詩の百年足らず前までは都市の要所のひとつであり、鉄道以前の駅であり、あるいは日曜の暮れ方にも馬車が発着して、悲歎と苦悩、忍従と憤怒、憂愁と歓喜の、光景が繰りひろげられたのかもしれない。
 それにもまして今の世に在りながらじつは廃れたものは、悲歎やら苦悩やら、憤怒やら憂愁やら歓喜やら、根源の情動を表わす言葉ではないか。すくなくとも小説の中では、これらの言葉は、まともには使えない。かわりに、それらの言葉で表わされるものの周辺の、微妙な生成や変化を仔細にたどる。あるいは諧謔により反転して打ち出す。しかしその「高度技術」の底には、そもそも言葉ではなくて人の情動の真正が失われつつあるので(end226)はないか、という疑いがつねにひそむ。
 (古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)、226~227; 「25 ドゥイノ・エレギー訳文 10」)

 西行は、久保田淳・吉野朋美校注『西行全歌集』(岩波文庫、二〇一三年)の書抜きをいま見返してみたのだけれど、「もの思ふと涙ややがて三瀬川人を沈むる淵となるらん」しか見つからなかった。書き抜きまではしなかったのか。あるいはこの歌の類歌として、べつのものが引かれていたのかもしれない。ここまで記して一〇時四三分。


     *


 その後はたいしたこともなく、なにをしたのかもあまりよみがえってこないが、とりあえず寝床にうつって身を休めたんだったか。それでごろごろして、書き抜きをやりたいなとおもっていたのだけれど、零時前くらいに起き上がったときになんかちょっと腹が減ったような感じがあって、ひどくひさしぶりのことで夜食を食べたくなった。それでベーコンとチーズの包みピザと、即席のアサリの味噌汁を食べたのだけれど、これはあきらかにやめておいたほうがよかった。べつに体調がわるくなったわけではないが、ちょっともたれる感じがあったし、やはり深夜に食うのはよしたほうがよい。さっさと寝るべき。しかし食ってしまったからにはすぐに横になれない。しかもものを入れたためにからだが重くてねむい。それで打鍵をする気力もわかないから、詩をなんどもぶつぶつ読みかえしてすすめていた。いちおうさいごまで行ったが、これでいいのかあしたまた読んでみることに。二時過ぎに寝床にうつり、休んでいるうちにデスクライトをつけたままねむってしまった。あと、きょうは歯磨きもしたし、シャワーもうえまで書いたあとに浴びた。浴びるまえに髭も剃った。浴室が寒いので、髭を剃るのに夏みたいに裸になって、剃ったあとそのまま浴槽にうつって湯浴みということができない。服を着たままでないと。顔のぜんたいをあたると蛇口から温水を出しておおざっぱに洗っておき、その後出水をシャワーのほうにうつして、水のノブはひねらず湯のノブだけあけっぱなしでながしておき、いったん出て服を脱いでもどるとそのころには高温の湯が出ているから浴室がくもっていてそこそこぬるい、という感じ。それであらためて顔を洗ってから湯浴み。


―――――

  • 「ことば」: 23 - 27
  • 「読みかえし」: 317 - 332, 333 - 347
  • 2021/10/27, Wed. / 2014/3/21, Fri.


―――――


Tom Ambrose, “Russia-Ukraine war at a glance: what we know on day 245 of the invasion”(2022/10/26, Wed.)(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/26/russia-ukraine-war-at-a-glance-what-we-know-on-day-245-of-the-invasion(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/26/russia-ukraine-war-at-a-glance-what-we-know-on-day-245-of-the-invasion))

About 1,000 bodies – including civilians and children – have been exhumed in the recently liberated territories of the Kharkiv oblast, media reports say. This includes the 447 bodies found at the mass burial site in Izium.

     *

About 70,000 civilians have been relocated from the right bank of the Dnipro river to the left bank in the Kherson oblast, the Russian-appointed governor of the region told Russian media.

     *

The Kremlin also said assets in the four Ukrainian regions that Russia claimed it had annexed last month may in future be transferred to Russian companies. Kremlin spokesperson Dmitry Peskov said it was obvious that “abandoned assets” could not be left inactive, and the government would deal with the issue.

     *

Vladimir Putin entered the invasion of Ukraine with the term “denazification” – now his security council is pivoting to the term “desatanisation”. Aleksey Pavlov, assistant secretary of the security council of the Russian Federation, is now claiming there were “hundreds of sects” in Ukraine where citizens have abandoned Orthodox values. Those who live in Ukraine can attest to that statement as being patently false.

The armed forces of Ukraine are estimating that about 480 Russian soldiers were killed yesterday alone, bringing the total to 68,900 personnel lost so far in the invasion of Ukraine.

The Nobel Foundation has made the decision to not invite the Russian and Belarusian ambassadors to its storied prize ceremony this year, even though the foundation typically extends an invitation to all ambassadors stationed in Sweden. “In view of Russia’s invasion of Ukraine the Foundation has chosen not to invite the ambassadors of Russia and Belarus to the Nobel Prize award ceremony in Stockholm,” the foundation said in statement. The foundation jointly awarded this year’s peace prize to the Centre for Civil Liberties, a Ukrainian human rights organisation, in conjunction with Memorial, a Russian human rights group outlawed by the Kremlin, and the veteran Belarussian activist Ales Bialiatski, who is being held in prison without trial in his native country.

Russia is purportedly recruiting members of Afghanistan’s highly respected national army commando corps to fight in Ukraine, Foreign Policy is reporting. These are the commandos that were trained by US navy seals and British armed forces. About 20,000 to 30,000 of the volunteer commandos were left behind when the US left Afghanistan in Taliban control in August 2021.


――――


Lorenzo Tondo in Palermo, “Italy’s far-right coalition in turmoil over Berlusconi Ukraine comments”(2022/10/20, Thu.)(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/20/italys-far-right-coalition-in-turmoil-over-berlusconi-ukraine-comments(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/20/italys-far-right-coalition-in-turmoil-over-berlusconi-ukraine-comments))

Hannah Devlin Science correspondent, “Why being rude to the waiter (or other staff) is the worst strategy”(2022/10/21, Fri.)(https://www.theguardian.com/science/2022/oct/21/why-being-rude-to-the-waiter-is-the-worst-strategy-james-corden(https://www.theguardian.com/science/2022/oct/21/why-being-rude-to-the-waiter-is-the-worst-strategy-james-corden))