2022/11/25, Fri.

 いや、もう書き続けるには本当に遅くなりました。ぼくが今晩散歩で見つけた一ヘラー銅貨を同封するだけにしましょう。ぼくはなにかを嘆いていました(ぼくが嘆くことのできないようなことは絶無です)、不満な気持でなにかを強く踏みつけ、爪先で鋪道を探るとこのヘラーを見つけました。こんなヘラー銅貨は幸運をもたらしますが、ぼくはあなたの持たない幸福は必要としません。だからあなたにお送りします。これを見つけたのはぼくですが、あなたが見つけたようではありませんか?
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、216; 一九一三年一一月八日から九日)




 覚醒。鼻から息を吐き出してみるとかなり楽で、筋肉と空気が抵抗なくするするとうごいていく。手もさすったり伸ばしたりしておき、すぐにからだを起こしてカーテンをひらいたのが八時半くらいだった。まったき快晴。臥位になおってChromebookでウェブをみながらゴロゴロ過ごす。起きたのが一〇時前。水を飲み、手首を振ったり用を足したり。そしてきょうもきょうとて洗濯。ニトリのビニール袋のなかにはいっているものはすくなかったし、ダウンジャケットといま着ていた寝間着も洗うことにした。ジャケットはネットに入れる。寝床の座布団と枕はリセッシュをかけてさっそく窓外に出しておく。そのさい保育園のまえの角あたりに赤い帽子の園児たちが列をなしていた。布団にもリセッシュを振りかけて、きのうと反対方向にたたみあげておく。そうして瞑想にはいったのが一〇時半。呼吸がとにかく楽。座った瞬間からすでになめらか。手をほぐすのは効果的らしい。起きたときにも肩や首のまわりが格段に軽くうごきやすくなっていて、いつもとちがった。間近からは洗濯機の稼働が立って部屋内をつつんでおり、窓外には子どもたちのにぎやかな声。ぎゃあああ! ぎゃああああ! と、ガチョウかなにかの鳴き声か、端的な悲鳴というか、「悲」の要素すらなくたんじゅんで純粋な叫びのように叫ぶ子がいたり、えんえん泣いているのを保育士にあやされている子がいたり。保育士というしごともストレスがすごいだろうなとおもう。親がじぶんの子ひとりを世話するのだって相当にストレスフルだろうに、それが一〇人二〇人とあつまっててんでにうごいているのに対応しなければならないわけだから。「子どもが好き」だけではとてもやっていけなさそうというか、その「子どもが好き」に相当の質がともなっていなければつづかなそうな気がする。それかよほどの割り切りがあるか。ところでいつも大声をあげているような威勢のよい子どもも何人かいるけれど、ときどき「おい!」とか、チンピラじみた粗暴な口調のやつがいたりもして、そういうのを聞くと、きっとすでにいじめっ子といじめられっ子の別が生まれているんだろうなあとおもう。齢三つ四つにしてはやくも弱肉強食の格差原理が機能しはじめ、共同体内でのちからの対立と闘争を生き抜いていかなければならないのだ……おぞましく、不埒なことだが。
 瞑想を切りとして手や顔、腕や胸などをちょっとこすってから目を開けるとちょうど一一時。また手首をすこし振っておき、食事へ。いや、ちがう、そのまえに洗濯が終わっていたから洗ったものを干したのだ。布団をたたんであるのでカーテンレールのいちばんひだりにかけてある円型ハンガーに手がとどきづらく、からだを伸ばしてそれを中央あたりに引き寄せてからタオルを洗濯ばさみにはさむ。きょうはタオルがすくないので肌着の上下も円型ハンガーにいっしょにつけ、あと洗濯ネットをさいごにくわえてそとへ。いちばんひだり(南)に吊るす。このとき園庭で赤帽の園児たちが跳ねたりしてあそんでいるすがたが見えた。空をみあげてみると変わらずまったき快晴で、雲がひとひらも一粒もみつけられず、さわやかでさらさらとした水色が偏差なくどこまでも塗りひろげられている。風もきょうはあまりなさそうで、吊るしたものもたいしてうごかない。凪の日だ。
 そうして食事。のまえにティッシュとノンアルコール抗菌化スプレー(「イータック抗菌化スプレーα」というやつ)で洗濯機の上面を拭いておいた。汚れとか干からびた野菜の屑とかが付着しているので。蓋のすきままでふくめてそこそこ念入りにきれいにしておく。それからまな板ほかを水切りケースから取ってキャベツを細切りに。白菜も開封し、ザクッとひと切りだけ取って、刻んだのをそのうえに。そうして豆腐。胡麻ドレッシング。もう一品はきのうスーパーで買った「ランチパック」のハムとマヨネーズのやつ。冷蔵庫から出して、電子レンジで一分加熱。ランチパックのかたちをみると、あれは昨年の秋だったかそれとも一昨年の秋だったか、檜原あたりの山のなかの道路のとちゅうに移動型トレーラーでやっている小キャンプ地みたいなところに「(……)」の連中三人と行ったことがあったが(とおもっていまブログを検索してみると秋ではなく、二〇二一年の三月二六日のことだった)、あそこでホットサンドメーカーだっけ? それをつかっていくらか焼いて食ったのをおもいだす。あのホットサンドメーカーというやつもなかなかおつなしろものだった。そのときランチパックがあったかはおもいだせないが、この品も焼けばきっとこんがりしてけっこう良い感じになるのではないか。ちなみに”(……)”のギターソロを弾くようもとめられて、その場でてきとうにかんがえたわりにそこそこ良いものができたのがそのとき。
 食後は大根おろしを少量胃に入れ、ヤクを飲み、食器類を洗ってかたづけて、電気ケトルで白湯をこしらえ、ウェブをみながら腹やからだがおちつくのを待って休息し、じきに音楽を聞きながら首を左右にゴロゴロやろうとおもってAmazon Musicにログインし、するとここ数日Black Sabbathをながしているからおすすめにかれらのアルバム群が出ており、そのなかに『Past Lives』というのがあったのでそれをえらんでながしだして、イヤフォンをつけて聞きながら首もしくは後頭部を背もたれの上部にあずけてあたまを左右に往復させる。これと手をほぐすのは相補的だなとおもった。手をやればそこから背に影響が行くし、首を左右にやれば背中や背骨がほぐれるから反対に手にも行く。じっさい、まえにやっていたときにも、だんだん手に血がながれこんであたたまり、ゆるんでくるなというのは感じていた(ちなみに足先のほうにもたしょうその効果はおよぶ)。それで三、四曲ほど。収録されているのは一八曲で、序盤は七三年の音源ばかりだが、七〇年代のロックのライブのこのスネアのペタペタした音ね、とおもった。聞いているうちに便意が満ちてきたのでトイレに行ってクソを垂れ、そのさい、ルック泡スプレーがもう出なくなっていたので、詰替え用を開封して補充しておいた。水をながしてクソを始末したあと、いったん室を出てながしで補充。詰替え用の袋は鋏で上部を切断してなかを洗い、ながしの縁に置いて乾かしておく。そのあときょうのことを書き出して、ここまでで一時四一分。そういえば起きたあとに携帯をみると(……)くんからメールが来ていて((……)くんも宛先にふくんでの一斉送信)、あしたは夜に予定がはいったので六時一五分には離脱するとあったので了承を返し、電車がまだきついのであしたもまたオンラインにさせてもらえればとおもうがふたりの都合はどうかと聞いておいた。そろそろけっこう良い感じになってきている感はあるが、まだあえて電車に乗る時間を増やして消耗するべき段階ではない。あさっての二七日には(……)の誕生日回のようなことであつまる予定になっており、バレエだか舞台を見に行くというはなしだったのだけれど、これもこちらは遠出がきついので、ほかの四人だけ(今回は(……)もいる)観劇に行き、その後みんなして(……)まで来てくれるらしいのでおくれて合流というはなしになった。(……)は茨城住まいなのでわざわざ遠くまで来てもらってわるい。会うのは相当ひさしぶりで、いつぶりかおもいだせない。
 

     *


 いま四時四七分。休みながらソローキンをさいごまで読んだあと、鶏白湯のスープで汁物をしこみ、煮込んでいるあいまに寝床ではサボった一年前の読みかえし。この日は(……)でおこなわれた佐々木敦・古谷利裕・山本浩貴の鼎談イベントにおもむいた日だ。作家のこういうイベントに行ったのはこれがはじめてだったはずだし、それいらい行ったことはない。「GLOBAL WORKのカラフルなシャツにブルーグレーのズボン、モスグリーンのモッズコートというかわりばえのしないかっこうで、そろそろあたらしい服がほしい。冬に着るものとしてふさわしいようなシャツがないし、腹まわりも痩せたため、ベルトなしで履けるズボンが青灰色のそれしかないのだ」というのはいまとまったくおなじ。しかも腹まわりはこのときよりもさらに痩せたとおもうので(おととい実家で体重をはかってみると五一. 七キロだった)、このブルーグレーのズボンすらもはや履きづらい。しかしいちおう実家ではベルトに穴をあけてきたので、それをつかえばまあ問題ないといえばない。
 (……)に行くのでついでにと(……)にも寄っている。もうずいぶん行っていないつもりでいたが、まだ一年か。まあたしかに、散発的に散財欲にかられてでむいていたかつてとくらべればながく行っていないが。本をみているだけの記述もなかなかおもしろい。

(……)毎年のことで駅前はロータリーのなかにイルミネーションがほどこされており、試験管のなかをつたい落ちる液体めいて緩慢に下降するひかりが気に入りだと去年かおととしの日記に書きつけた記憶がある。一年前か二年前は青いひかりでそれがおこなわれていた記憶があるのだけれど、この日見たのは白いもので、それも数はすくなくほとんどひとつふたつしかなかった気がする。ロータリーまわりに何本も立っているイチョウの木にもやや無造作な調子で白い光の線がかけられて、こずえをいくつかにわけるようになっている。駅前には高いビルがいくつかそびえており(とりわけ上部にあらわした大文字を赤くひからせた白木屋のビルがめだつ)、それをくっきりくぎりながらつつみこんでいる空は黒々と濃密で、意外なほどに高い。通りをわたって(……)へ。店外の棚をまず見たが、ほしいほどのものはなし。フォークナーにかんする英語の研究書がいくつもあった。入店し、レジのほうに寄ると(……)さんがいたので、こんにちはと声をかけてあいさつ。お元気でしたか、お変わりないですかとかたがいに交わして、無事をことほぐ(などというとおおげさすぎるが)。それから店内を見分。だいたいいつもそうだとおもうが哲学の区画から見はじめて棚をたどっていく。入り口から見ていちばん右の通路を奥にすすみ、左をむくと、棚の端はドゥルーズとかレヴィナスとかそのあたりのいわゆる現代思想があつまっている。そこから左に、つまり入り口のほうに推移していくと、哲学のほかに海外の文学研究、歴史(たとえばフィリップ・アリエスとか(この日はなかったとおもうが)ジャック・ル・ゴフとかそういったものや、アナール学派方面の著作)、日本の文芸批評のたぐい、むかしの日本人の作家の文学的エッセイのたぐい(渡辺一夫とか粟津則雄とか杉本秀太郎とか)、幻想怪奇方面(中井英夫全集かなにかがあったはず)などがある。この一連のならびの時点でまず、前回来たときにも目にして気になっていたものだが、石川学『ジョルジュ・バタイユ 行動の論理と文学』に目をつけており、これは買うかとおもっていた。そのとなりにはバタイユ著作集のうちの『聖なる神』というやつもあって(なかをのぞくと「マダム・エドワルダ」がはいっていた)、安かったのでこれも買っておこうと決めていた。もうひとつ、中山元が書いたハンナ・アーレントの評伝らしきけっこうおおきな本があり、世界にたいする愛、みたいな副題がついていてわりと気になったのだけれど、これは今回見送った。また、アドルノの著作で『不協和音』というのがあって、「管理社会における音楽」という副題を見るかぎり、これはたぶんジャズを批判しているやつだなとおもって、一〇〇〇円くらいでやすかったのでこれも買っておくかとこころにとめておいた。そして、棚のいちばん左側(入り口にちかい側)、幻想怪奇系の本のいちばんしたには日本の古典文学関連がすこしそろえられていて、そこに古典文学全集の『方丈記』の巻と『土佐日記』および『貫之集』の巻があったので、これらも買っておくかとおもっていた(じつのところ『土佐日記』の巻はいぜん買ったような気がしないでもなかったのだが(あるいはこのおなじ場所で見てそのときは見送ったのだったか、記憶に判定がつかなかった)、五〇〇円くらいで安いしべつにかぶったならそれでいいやとこだわらなかった)。それからふりむくと、壁際のそこはレジにちかいほうから美術・写真、演劇・映画、音楽、建築という芸術分野のならびになっており、美術のところで、こまかいことはわすれたが水声社のおもしろそうな本があったり、ジャコメッティの『エクリ』があったり、あとみすず書房のなにかもあったような気がするが、それらはすべて見送った。それから通路をひとつ内側にうつるとそこは入り口から見て右側が海外文学や詩、左側が短歌俳句や日本文学という構成で、いろいろ興味をひかれるものはあるけれど、この日はこれからイベントにでむくわけで、そうするとあまり大荷物になってもたいへんだからとあらかじめ冊数を制限するこころがはたらいていたので、あまりとりあげず。また、そろそろ時間がせまってきているという事情もあった。詩歌のたぐいももっと読みたいところではあるが。詩の棚でおぼえているものとしては田中冬二全集みたいなものが三巻くらいあったはずで、田中冬二という詩人についてはこまかいことをまったく知らないのだけれど、このあいだ偶然職場で読んだ文章のなかに出てきたひとで、そこに載っていた詩はセンチメンタルだがみずみずしくてよさそうなものだったので(街に時計(わりとおおきめの振り子時計のはず)を修理しにいってもらった少年が、修理の終わったその時計を背に負いながら星空のもと雪の道をあるいて帰ってくるみたいな内容で、「ぼむ ぼむ ぼうむ」とかいう独特のおもしろい擬音がつかわれていたのだが、それはたぶん少年のこころもしくは記憶のなかで鳴っている時計の音ということだったのだろうか? あまりきちんと読まなかったのでわからないが、あと、夜空に浮かぶ星のかがやきを「あられ酒」にたとえていた)、あのひとじゃんと目にとめた。海外文学の区画だとアポリネール全集なんかも気になるのだがおおきくて重そうなのできょうは捨て置き、そのそばにあったランボーのほうに注目した。粟津則雄訳の『ランボオ全詩』というやつで、じつのところランボー河出文庫の鈴木創士訳も持っているし、金子光晴とあとだれかふたりが共同で手掛けたランボー全集みたいなものも持っているのだけれど、ランボーはすごいらしいからいろんな訳を持っておいてもわるいことはないだろうとこれを買うことにした。ところで『ランボオ全詩』のとなりにはおなじく粟津則雄訳の、『ランボオ全作品』だったかわすれたけれど、なにかちょっとだけ文言がちがうおなじような本があって、これどういう区分なの? とおもったのだが、目次を見るかぎりでは内容も同一のようだったので、たぶん版のちがいだろう、古いやつを出しなおしたのだろうと判断し、それで出版年がよりあたらしかった『ランボオ全詩』のほうをえらんだのだった。その他、文庫の棚や、店内左側奥の東洋文庫があるあたりや(この区画にキリスト教神学がひとつのカテゴリとしてあつまっていてカール・バルトとかボンヘッファーとかの関連があったが、これはいぜんはなかったあたらしい区分だとおもう)、政治方面の本や時評的なものなどもちょっとだけ見たが、いますぐ買うほどのものはないし、そろそろ時間もないというわけで会計へ。

 あと出かけるまえ、昼頃には美容室にも行って髪を切っており(一二月に(……)の結婚式があったのでそれに向けての身づくろい)、美容室内での会話とか、ほかにひとりいた婦人客のようすとか(いま「ふじんきゃく」を一挙に変換しようとしたら「斧刃脚」なる文字列となり、しかも目的の「婦人客」は候補のなかに出てこないのでおどろいた)、美容師の(……)さんがそのひとをすこしめんどうくさがっているらしいようすとかが記されてあってこれもそこそこおもしろい。けっきょくなんでも詳しく書いとけばそれなりにおもしろくなるんだよな。冗長さが記録の旨だ。目的にあわせて手際よく簡潔に要約した記録など役に立つだけでおもしろくはない。目的と経済性を捨てろ! なんでも書け! そこにあるものはおしなべて記すにあたいする。
 煮込みうどんを食いながらながながしい記事をさいごまで読んでみると、この日の日記はまさしくその冗長主義に準じたような詳細さになっており、うえのようには言ったものの、しかしおまえはほんとうによくこんなにこまかく書くね、とわれながら唖然とするようなこころになる。呆れ半分、もう半分は身につまされるまではいかないが、身をただされるくらいの感じがないでもないけれど、しかしそれが罠なのだ! こまかい記述がおもしろいのはたしかだが、無理してがんばってももうからだとあたまがついていかない。心身と合った範囲でできる記述をやっていかないと。鼎談イベントの時間も、佐々木敦の『半睡』についてはなされたことなどかなり詳細にひろっており、このイベントの内容やその場所のようすをここまでくわしくレポートした文章をつくったのは日本中でこちらただひとりだとまちがいなく断言できる(そもそもが参加者のすくない(たぶん二〇人くらい?)イベントだったが)。とはいえ、はなしの内容をつらつらと記録しているのはまだわかるというか、不思議とはおもわない。ところが会場だった(……)の室内のようすとか、あととうじはひとの外観をなんだかんだこまかく書いて公開するのはあまりよくないかなとおもって検閲したしこんかいもそれは解かないけれど、鼎談者三人の服装とか、はなすときの調子や身振り、仕草などまでいちいち書き記しているのには、いったいなにがおまえをそうさせるのか? というおどろきを禁じえない。はなされた内容というのは言語的意味だから、ひとまず感覚のことがらではなく、それはただたんにはなしをきちんと聞いていれば良いだけのことである。ひるがえって空間的配置とかは視覚のことがらで、各所を意識的に観察して積極的に記憶にとどめないとなかなかこうは書けないだろう。よくこんなに見ていたな? というのが端的な感想である。このときだけプルーストがじぶんに乗りうつっていたのだろうか。やはりその描写、言語的意味というよりは具体的なものやうごきをとにかくこまかく描出するというその偏執ぶりに、ゆえのわからないものを見たときのおどろきをおぼえる。室内のようすは以下のようなもの。

七時の開演まではまだ一〇分ほどあったが、とくになにをするでもなく椅子に座ったままあたりをながめながら待った。室内はさしてひろくなく、殺風景で仄暗いようなスペースで、壁は全面真っ白に塗られており(といっても純白というほどきれいな白ではなさそうだった)、床は薄灰色めいたくすんだ色調のうえになにかものをこすったあととか靴が行き交ったあとと見える淡くて乱雑な線や痕跡が無数にえがかれている。天井は黒っぽい鼠色というかそんなような色合いで、あれはなんなのかわからないのだが頭上ではあちこちに、突起が整然とならんだ板状のものがとりつけられており、見たところではゴムっぽいような素材におもわれたのだが真実は知らない(防音用の、音を吸収するようなものなのか?)。突起がたとえば六個×六個でならんで正方形をつくっているようなもので、もっとおおきなサイズもあったが、すべて縦横の突起がおなじ数の正方形だったとおもう。ライトは講演者のテーブルを越えた最奥に四つ(正面の壁の最上部の中央には一見すると意図的にあけたのではなくあやまって破壊したようなちいさな穴があった)、頭上付近ではひとつの列には六個だったか八つくらい、それよりうしろにはまた四つの一列があった。テーブルは特徴もない、白くて横にややながいもので、三人それぞれのためにスタンドをつかって外側からマイクが配され、顔がくるだろう付近にむけて伸ばしてあった。テーブル上には今回のトークに関連する書籍がいくらか。右手の壁のとちゅうにはごくちいさなスペースが奥にひらいており、それは申し訳程度の水場らしく、水道らしきものとその下に雑多に詰めこまれた器具類や、湯沸かしのパネルらしきものが暗がりにのぞいていた。そのとなり、客席から見ると奥にはトイレ。さらにその奥、正面壁のいちばん右にはとびらがもうひとつあって、その奥はたぶん楽屋的なスペースになっているのだろうが、いまはあかりがついておらず暗いためにどちらかというと非常階段につづくような雰囲気がかもしだされており、わずかにのぞいている範囲に柵のようなものが見えていたのもその印象をつよめたのだろう(一段たかくなったような場があるようで、そこに柵らしきものがもうけられているように見えた)。(……)

 『半睡』のこまかなはなしは引かないが、それを受けてのおもいつきだけうつしておく。

テクストに直接書きつけられているのは電灯がいつのまにか消えていることに気づかない、という意味のことがらであり、読むものはそこから、この「私」にはねむっているあいだに電灯を消してくれる人間がいるのだな、と、直接書かれてはいないが論理的にみちびきだせることについて推測をはたらかせることになる。そういうぶぶんはほかにもたくさんあるようで、山本浩貴がなんどか言及していたことには、そういう類推による「参照のネットワーク」が複雑に張り巡らされているという(おそらくは現実の歴史的なできごとをもとにした記述がその参照関係にからんできて、さらに網目を複雑化するしくみになっているのではないか。つまり、この作品にあっての参照方向はテクスト内における完結的=閉鎖的相互性にとどまらず、言語作品という枠組みのそとがわを志向したりそこから媒介項をとりこんだりするうごきがおりこまれている)。そのネットワークが成立しうるのは、とうぜん、「私」が諸所で肝心なことをかたらずにあいまいな状態にとどめているからのはずで、その中核にあるのが「私」にも語ることができないおおきな欠如ということだろうが、この欠如が中心となってネットワークを生じさせ構築しているというよりは、無数の参照関係がめぐらされることにおいて(事後的に)穴としての中心が浮き彫りになって発生してくる、というほうが、おそらくこの作品のありかたにちかいのではないか。じっさいに読むものが体験するのはそのようなテクストのうごめきだとおもわれる。ところでこのひじょうに複雑な参照のネットワークという点にかんしては、(……)さんが『双生』でやったことと、種類はちがうけれど似かよったものなのかもしれない、とおもった。『双生』は象徴的な意味の面で、自動的に駆動しくみかわりつづける多層的機械構造みたいなものをつくりあげたとおもうのだけれど、『半睡』はそれを類推という、(リアリズム的?)論理の原理にもとづいてやった、というような。意味のかさなりあいというのはもちろんメタファーといいかえることができ、ひるがえって類推というのはAからBがみちびきだされるという統辞的関係のはずで、それは隣接性の一種であるはずだから、メタファーにたいしてメトニミー(換喩)の秩序をなしている、ということができるのか? この二分法は汎用性がたかすぎてなににでもあてはめられるがゆえにあまりたよりたくないというか、それじたいではたいして有効なものにならない気がするのだが。

 帰りの電車内の位置取りを、「一号車のもっとも二号車側の口からはいり、北側にあたる七人がけの左端の席のまえあたり(両側の座席のあいだをとおる通路が扉の位置まで来ると四角い空白スペースが生まれるが、その右上の角あたりということ)に立って吊り革をつかみ、到着を待った」と書いているのにももはや笑うというか、たしかにこう書けばだれであれあの位置だなとわかるだろうけれど、おまえはこれを読み手につたえてどうしたいのか? とおもう。最寄り駅からの帰路の描写もなかなかちからがはいっていた。

(……)駅正面の坂道をおりると道のうえには微風がながれてからだを冷やしてくるのに、空気のながれが林を避けているかのように周囲からは葉擦れがまったく立たず、枯葉が落ちる音すら聞こえず、左の木立からあたまのすぐうえにはりだしている枝葉のさきもすこしも揺らがず、じぶんの身にだけながれがとおってくるという不思議なしずまりを見たのがこの夜ではなかったか。坂のとちゅうで木蓋がいちぶはずれて暗闇の空がのぞく箇所があるけれど、ちょうどそこに蜘蛛の巣がかかって色つきの葉を数枚とらえているさまが夜空の前景に浮かびあがって、どうでもよい連想なのだが、藤原カムイ作『ロトの紋章』の一五巻くらいで、ゴルゴダみたいななまえの冥王(古代にほろんだムー帝国(だったか?)の王だったタオ導師(アルスのなかま)の兄かおとうとで、宇宙のかなたから異魔神を召喚してつくりあげた張本人)と主人公アルス一行がたたかうさいに、巨大な蜘蛛型の化け物である冥王が幻術をつかって、宙にとらえたなかまたちを石化させて砕きころしていく幻覚をアルスに見せるという場面があったことをおもいだした。したの道に出ると夜空はきわめて青くなり、くもりくすみがどこにも見られず星々のあいだをくまなく埋めてそのひかりをかたどりあかるくきわだたせている天蓋の、純然たる青のひらきであり、みだれなく大気の一片までのがさずたたえられた凪の液体であり、磨き抜かれた金属の質を帯びた表面だった。


     *


 二時ごろからいったん寝床に逃走。たたみあげてあったものをひらいて敷き、座布団や枕をさきに入れる。そうしてゴロゴロしながらウェブを見たり、ウラジーミル・ソローキン/松下隆志訳『親衛隊士の日』(河出文庫、二〇二二年)を読んだり。とちゅう、二時半ごろに洗濯物を取りこんだ。窓をあけるとベランダともいえないような小スペースにはすでにひかりの恩恵はなく、保育園の建物のきわで空が暖色混じりの白さにあかるんではいるのだけれど、それが吊るされている洗濯物までとどいてくることもない。二時半でもうこれか、とおもった。ゴロゴロしているさいちゅうにタオルに肌着、ジャージにダウンジャケットとたたんでしまい、ソローキンはさいごまで50ページくらいのこっていたのを読了。いまいちピンとこないというか、じぶんにおおきくひっかかるところがなくというのはさいごまで同様だったが、ぜんたいにわたって滑稽味のつよい小説ではあった。ギャグ的なものはいたるところに散りばめられている。いちばん笑ったのは終盤、「親衛隊士」のなかまたちが「蒸し風呂」でたがいの「菊門」に「玉茎」をつっこんで数珠つながりの「毛虫 [﹅2] 」となるかたちで乱交というか集団的セックスをする卑俗で下品なばめんで、その直前に「玉茎」の勃起を強化する「錠剤」を飲んだあと、各々の「陰嚢」に色付きの火がともるのだけれど、この一幕のイメージは阿呆らしくておもしろかったので、ここだけ書き抜くことにした。以下の段。

 明かりが弱まり、大理石の壁から錠剤をたっぷり載せた光る手が出てくる。そして、、まるで懺悔をすませた者たちが聖体拝領に向かうように、我々は燦然と輝く [﹅5] 掌 [たなごころ] に向かって従順な列を作る。各人が近づいて自分の錠剤を取り、口内の舌下に入れ、立ち去る。私も近づく。見てくれはみすぼらしい錠剤を手に取る。口に入れると、早くも指が震え、膝の力が抜け、心臓が落ち着きのないハンマーのように打ち、こめかみの血管が破れそうになる。まるでオプリーチニクたちが地方自治会 [ゼムストヴォ] の屋敷に討ち入るときのように。
 丘に建つ聖堂に雲が覆いかぶさるが如く、私の震える舌が錠剤を覆う。錠剤が溶ける。舌下で、どっと湧き上がるよだれに呑まれ、甘くとろける。その様は氾濫する春のヨル(end233)ダン川に似ている。動悸がし、一瞬息が止まり、指先が冷たくなり、薄闇に目が慣れてくる。そしてついに、待ちに待ったものがやってくる。玉茎がびくんと脈打つ。目を伏せる。己の血走った玉茎を見る。一新された玉茎がおっ勃ち、二つの軟骨のはめ込み、超繊維の先端、突起状の浮き彫り模様、波打つ肉、動く刺青が浮き上がる。その様たるや、シベリアマンモスの鼻が立ち上がるかの如くだ。勇ましい玉茎の下では、ずっしりとした陰嚢に茜色の火がともる。私だけではない。あたかもイワン・クパーラの夜 [訳注: 旧暦六月二十四日に行われる夏至の祭り] に朽ち木に群がる蛍どものように、光る掌の聖体拝領を受けたすべての者の陰嚢に火がともる。親衛隊 [オプリーチニナ] の陰嚢が燃えはじめる。各々が己の光を放っている。右の翼ではこの光は朱色から茜色へと、左の翼では水色から菫色へと移り変わり、若い衆のもとではありとあらゆる陰影の緑色の火がともっている。そして、我らがバーチャの陰嚢にのみ特別な火が、我々の誰とも異なる火が燃えている――愛しのバーチャは黄金色の陰嚢を持っている。そこに親衛隊 [オプリーチニナ] 兄弟団の偉大な力が込められている。親衛隊 [オプリーチニナ] の陰嚢はすべて中国の練達の医師たちによって一新されたのだ。男らしい愛を待望していた陰嚢から光が流れだす。勃ち上がる玉茎から力をたくわえる。この光輝が失われぬ限り、我らオプリーチニクは健在だ。
 (ウラジーミル・ソローキン/松下隆志訳『親衛隊士の日』(河出文庫、二〇二二年)、233~234)

 その後、「えんやさ!」「えんやさえんやさ!」とみなで叫びながら(「親衛隊士」たちはたとえば敵を攻撃するときだったり、さまざまな場面でのいきおいづけだったり、なにかといえば掛け声としてこのことばを威勢よく叫ぶ)、それぞれじぶんの「玉茎」をあいての「菊門」にいれ、いれたほうもうしろからべつのなかまにいれられて、というかたちで「親衛隊 [オプリーチニナ] の毛虫 [﹅2] 」(236)が完成する。隊員たちみなから兄貴分としてしたわれているリーダーであるバーチャが先頭で、まさしく毛虫然としてつながったままの集団歩行で「洗礼盤」(237)にはいったあと、「互いに愛撫し合」ったすえ、「毛虫 [﹅2] 全体にびくっと震えが走」って、「えんやさぁぁぁぁぁぁぁ!!!」「えんやさぁぁぁぁ!!!」「えんやさぁぁぁ!!!」と三回、全員で絶叫しながら果てるのだけれど、このくだらなさはさすがに笑う。一場のさいごの一行は、「主よ、我々を死なせたもうな……。」(237)である。これとべつで、「そして神に栄えあれ……。」という祈りのことばも話者 - 主人公のコミャーガはたびたび語りのなかで漏らしており、それが文脈上相応していないように見えるときでも汎用的決まり文句のように出てくるので(このことばが書きつけられるのはかならず段落の結び、改行の直前である)、それもおもしろいところがいくつかあった。直近だと「毛虫 [﹅2] 」形成が完了したあとにも、「背後で呻き唸る声がする。兄弟団の掟に則り、左翼 [﹅2] と右翼 [﹅2] が交互につながり、その後に若い衆が加わる。それがバーチャの家のしきたりなのだ。そして神に栄えあれ……。」(236)と出てきていて笑う。
 四時くらいになるとかなり腹が減ってきたので野菜スープをつくることに。鶏白湯のつゆ。鋏で切って開封したそれを鍋にあけて火をつける。換気扇もスイッチを引いてまわしているが、いかんせんちいさなものだしそんなに威力はない。スープのはいっていたパッケージはすぐにゆすぎ、さらに水道水をその口のうえで出しっぱなしにして溜まった水がちょっとのあいだあふれる時間をつくってからいったん水切りケースに。のちほど丸めてたたんで始末。きょうはキノコから切ってくわえていった。まずのこっていたシイタケ二つ。つぎにきのう買ったエノキダケを半分。もう半分はラップにくるみこんでいまだ冷蔵庫のなかのつめたい安息にねむらせておく。その他ニンジン、白菜、タマネギ、大根。エノキダケの下部とタマネギの皮をあわせてラップにつつみこみ、冷凍庫のなかに放っておいた。それでいったん煮て、冷凍のシーフードミックスを先日買っておいたことをおもいだしていたのでてきとうなタイミングでくわえ、さらにしばししてから豆腐とうどんもくわえて完成。五時くらいに空腹がきわまったのではやいけれど食した。二杯。うまい。その他ヨーグルト。しかし食後は腹がすこし痛くなる。胃のほうに血があつまりすぎて痛んでいるような感じ。からだのうごきや呼吸のあんばいによっては左胸のあたりも痛む。これはまえからあることで、かなり空腹のところに塩気のつよい汁物を二杯も食ったから血糖値とか血圧とかが一気にあがって血管がやばいみたいなことではないかとおもうのだが。ほんとうは野菜をさきに食べて調節したほうがよかったのだろう。キャベツを切ったときはそういうあたまでかならず生野菜から食っている。それでちょっと苦しいから食後すぐに活動にはかかれず、ウェブをみたり、瞑目して腹や背の感覚をみながらからだをしずめたりと過ごしたのち、ソローキンを読み終えたのでモーリス・ブランショ/粟津則雄・出口裕弘訳『文学空間』(現代思潮社、一九八六年、新装版)をひらいた。あしたある(……)くん・(……)くんとの会合の課題書がソローキンだったわけだが、ブランショは(……)くんらとやっているほうの課題書で、前回半分まで読み、今回は227の「霊感」という章からの後半。しかしひさしぶりにみてみればやはりなにを言っているのかよくもつかみづらいし、会は来週なのだけれどそれまでにさいごまで行けるかはなはだこころもとない感じ。パソコンの左に単行本をひらいておき、椅子について手首をぶらぶらやりながら紙面を見下ろす姿勢ですこし読んだ。デスクライトは三段階のあかるさに調節でき、位置関係としては本が机の左手前のほうに置かれて、ライトはちょうど対角線のさき、右奥に据えられたアンプのうえのさらに右奥の角付近となっているので遠く、いちばん弱い明かりだとちいさな文字が見づらいので最高か中間かに設定する。数ページで切りとして、きょうのことをここまで足せば八時二五分。日記はおととい、実家に行った日のことがのこっているなかではメインだ。きのうのことはスーパーに出たときの外出路のことだけ書いておければあとはよいかなという感じ。きょうもちょっとスーパーに行きたいというか、パック米と冷凍の唐揚げとか、あとなにか甘いものがほしいような気もしているし、それを措いてもちょっとそとをあるきたいというきもちがあるのだがどうしようか。あと、トイレの便器内の黒カビらしき汚れがやばくなってきているので、カビキラーかなにかをちかいうちに買って掃除しなければ。


     *


 夜歩きついでにスーパーに行ってきて帰宅後のいまは午後一〇時六分。出るまえにも歯を磨きつつ(……)さんのブログを一記事読んだが、帰ってきてからも品物を冷蔵庫ほかにおさめ、モッズコートを脱いでハンガーで南の壁にかけておき、ブルーグレーのズボンをジャージに履き替えてダウンベストをまとったのち、またブログを二記事読んだ。一一月一七日と一八日。前者に「あと、(……)さんからも微信が届いた。文理学院もとうとう封鎖になったんだねという話に続けて、サッカー日本代表の前田大然を見るたびに(……)くんを思い出すというので、ググってみたところ、マジで激似だったのでクソ笑った」という記述が出てきて、もうここを読んだ段階ではやくも笑ってしまっているのだけれど、画像検索してみると、顔立ちじたいはそれほど似ていないような気がしたが(そもそも(……)さんの眼鏡をはずした顔をあまりみたことがない)、禿頭でヒゲという共通スタイルなので笑った。翌一八日にあった「(……)さんから微信。アニメ『鬼灯の冷徹』のワンシーン、ハゲでめがねの鬼が登場している場面のスクショをとともに、これ先生じゃない? というので、アホと返信」というのももうこの記述だけで笑ってしまう。じっさい町をあるいていてもときどき、あれ、あのひと(……)さんに似てるな、という人物はけっこうみかける。
 そこそこ腹が減ってきているのだけれど、外出のことをこのまま書いてしまおうかな。八時半ごろまで日記を書いたのち、短時寝床にころがりながら、やはりなんか脚をうごかしたいしあるきに行くか、という気分にかたまったのでそうすることに。起き上がって歯を磨いたり身支度したり。服装はかんたんに、うえはジャージのままでモッズコートを羽織り、まえを閉ざせばよかろうということにした。しただけブルーグレーのズボンに履き替える。リュックサックを背負い、マスクをつけて、ズボンのポケットには鍵だけ入れて(あと尻のほうにはハンカチもはいっていたとおもうが)、明かりのスイッチを切って扉の鍵をひねると戸口をひらいて抜ける。鍵閉め。左に踏み出し、階段を下りて簡易ポストをみるとチラシがたくさん詰めこまれている。帰りに回収することにして道に出ると、きのうと同様右に向かってはやばやと路地を抜けたのは、巡回連絡カードなるものを交番にとどけようとおもったからだ。きのうもそのつもりで行きにみてみたらしかしガラス窓のむこう、小屋の角にあたる場所にパトロール中という札がしめされてあったので、きょうもそうではないかとはおもっていた。路地を抜けると左折。(……)の事務所みたいな建物(ここから配達に行くようでバイクがたくさん停まっている)のまえにある自動販売機が夜道に機械的な稼働音を吐いていた。道のむかいには「(……)」という学習塾があり、もう九時ごろだが二階の教室にはまだ蛍光灯のあかるさが満ちており、女性スタッフらしきひとが机の脇をとおって横切っていくその足もとが見える。交番はやはりきょうもパトロール中だった。いつならいるのか? 交番があるのは横道と接する角のところで、そこを左、すなわち南方向に曲がっていつものルートに向かっていく。つまりストアやコンビニを過ぎて西へまっすぐすすみ、踏切りを越えて草の茂った空き地や病院のほうに行く道だ。夜気はつめたく、モッズコートのファスナーをいちばんうえまで閉ざしていても冷気が胸のあたりに忍んできて、ぶるぶるとまでは行かないけれど、あるきはじめてまもないからだはぷるぷるとした振動を上体に生むので、コンビニを過ぎたあたりで首もとを閉じることのできるいちばんうえのボタンも留めた。ドラッグストアは一〇時までだからまだその周辺を行く客のすがたがちらほら見られる。コンビニの駐車場を半端に横切って西方向へ針路を転じると、そこにある横断歩道をわたってくるひとがなにやらひとりでしゃべっており、通話しながらあるいているのかなとおもいつつ、こちらの右を抜かしていくすがたをみれば耳に無線型のイヤフォンを入れているのでそうらしい。話題はなんだかよくわからなかったが、動画編集とかなのか、なにかを段階的につくることについてはなしていた。あれももしかしたら通話をしているのではなく、ひとりしゃべりを録って音声配信するとかなのかもしれない、とおもった。noteでもそういうことをやっているひとをみたことがある。そういうのもまあおもしろいのかもしれないとおもってじぶんがやっているところを想像してみたが、しかしわざわざパロールではなして配信したいことと言ってとりたててありはしない。もしきょうやるとしたら、ソローキンってのを読んでどうの、ということになるのだろうか。想像はすぐに終わった。あるきながらひとりしゃべりをするよりは、夜道をあるきつつだれかと通話することのほうがまだしもおもしろそうだなとおもう。コンビニあたりから頭上がわりとひらいてひろくなるけれど、見上げれば夜空はややコバルトの深みを持って晴れきっており、色としては硬質ながらもしかし金属板にたとえるかたさの質はなく、板のような固定された平面というよりも、空漠としたひろがりとしてのなにもはらまぬ気体性をまざまざとあたえてくる澄みわたりで、星も鈍いもの目立つものと点じられてどれも目にうつる。歩道の左は道路である。いま道のさきでパトカーかなにかサイレンが聞こえるとともに赤いランプがちらちらしており、くわえて踏切りもしまったようでそのへんに車があつまっており、こちらの脇の道路には通りがなかったのだけれど、じきに一台抜けてきて、あともつづき、そうするとすきまをあけながら配されている街路樹が電灯によるものとはべつの影を生み出して、車がちかくなるほどにひかりの入射点が木の真横に接近するから、その影は伸びるのではなくこちらの背後から前方へと引っ張られてむしろみじかくなっていき、ほかの木の影といっしょになりながら、いずれも淡い明暗の曲線格子をつくってするすると、歩道のうえをすばやい引き潮のように去って散っていく。(……)通りにかかったところの横断歩道をわたり、ちょっとすすむと踏切り、いまちょうど鳴り出して止められた。ここの警報音は周波数がほんのすこしだけずれた二音を同時に鳴らしているのか、それとも一音だけれど響きのあんばいでそう聞こえるのか、いずれにせよなんというかちょっとおもちゃじみた詰まり方のカンカンサウンドになる。電車がはげしく過ぎていくそのてまえ、歩道と車道を区切る、とはいってもそこはもうすでに踏切り内なのでその境があまりないのだけれど、区切り段差の延長としてのこっている長方形のブロック脇にネコジャラシが一株生えており、電車が行くあいだにその風圧でいっぽうに向かってつよく押しやられ、過ぎたあともしばらく緊張に固定したようになびいていた。わたる。このころになるとからだはじゅうぶんあたたまって胸のふるえはなくなっていた。あたりはただの道路である。青緑やら赤やら丸い信号の、もしくは眼鏡がない視線には形崩れ気味だけれどひとをかたどったかたちの明かりが宙に浮き、また過ぎゆく車の白いライトも駆けているが、それらのいろが夜の路上に明晰にきわだつ午後九時で、化学的ないろの人工光であってもひかりはおしなべて叙情を生みつつ風景になる。昼日中のひかりであれ、夜のなかのひかりであれ、ひかりとはにんげんにたいして叙情味をもたらす性質をもちあわせているものなのだろうか。


     *


 ほんとうはこのあと、ライトアップされていた病院の前庭をとおって裏にいたり、そこから駅のほうにもどってスーパーへ、そして買い物を済ませたあとアパートへという道行きがあって、そのあいだにもいろいろと書きたかったことはあったはずなのだが、三〇日現在もうわすれてしまったし、無理におもいだしてがんばるのもめんどうくさいしよくないので、ここまでとする。