2023/1/19, Thu.

  この岩の上に

 この岩の上にわれらは建てよう
 あたらしい教会を
 第三のあたらしい聖書の教会を
 悩みはもう済んだ

 われらを長いあいだ惑わしていた
 霊肉二元は亡 [ほろ] んだ
 おろかしい肉体の苛責は
 ついに終ってしまった

 聞えないのか 暗い海の神の声が
 無数の声で神は話しかける(end101)
 見えないのか われらの頭上の
 無数にかがやく神の光が

 聖なる神 神は光の中にもいる
 闇の中にもいる
 存在するすべてが神だ
 神はわれらの接吻の中にもいる

 (井上正蔵 [しょうぞう] 訳『ハイネ詩集』(小沢書店/世界詩人選08、一九九六年)、101~102; 「この岩の上に」(Auf diesem Felsen......); 『新詩集』)



  • 一年前から。ニュース。

(……)新聞からは一面の、一日のコロナウイルスの感染者が日本全国で三万一五〇〇人かそれくらいをかぞえたという記事をみた。各地で過去最高を更新しているようで、東京は過去最高ではなかったが五〇〇〇人を超えた。地域面で区市町村ごとの数字を見てももちろん軒並み増えている。感染拡大のペースは第五波とくらべてもそうとうはやいが、重症者はいまのところその一〇分の一くらいにおさまっていると。きのう読んだ新聞の情報によれば、オミクロン株は変異した箇所がおおく、それだけ人間の細胞にくっつく突起が増えているらしい。そして気管支での増殖ペースはデルタよりもはやいのだが、しかし肺にはいると増殖が弱くなった、という観測があると。動物実験でもおなじ傾向がみられたとはいうが、とはいえ重症化のすくなさがオミクロンのもともとの特性によるものなのか、それともワクチンを接種して免疫がついたことによるのか、それはまだ予断をゆるさないとのことだった。一面にはまた、ジョー・バイデンが気候変動関連法案にかんして、地元の石炭産業を支持基盤としているジョー・マンチン上院議員の反対に苦慮している、という報。いぜんからつたえられていたのがあらためて取り上げられているかたち。ジョー・マンチンはウェストヴァージニア州選出の上院議員で、民主党なのだが、地元の石炭業界の利益を代表しており、脱石炭を加速させて雇用をうしなわせるような法案にはとても賛成できないというわけで、昨年末に反対を明言していた。選挙区の石炭組合みたいな組織の会長室に行くと、偉大な州の発展には偉大な石炭産業が必要だ、みたいなマンチンのことばが掲げられているといい、この会長はドナルド・トランプとツーショットでうつった写真を掲げているようなひとなのだが、マンチンのことは民主党だとはおもっていない、と言っていた。

  • したは(……)さんのブログからおもしろくかつ大切なはなしとして引かれていたが、あらためて読んでみてもおもしろかった。はなしの骨子じたいもおもしろいのだけれど、じぶんが属したことのないヤンキー文化でのふるまいかたがいくつか具体的に挙げられている点が特におもしろい。そういう感じなんだ、と。それでおもうのだけれど、こういう環境で育つヤンキーというひとびとはかなり自意識過剰にならざるをえないのではないか? その文化圏外のひとびとにくらべてもよりいっそうそうでありうるとすらおもえるのだが。

 それでまた陰謀論について思うわけだが、じぶんがこの手の言説にハマらないのは十代と二十代の断絶のおかげなのかもしれない。田舎のローカルルールや価値観がまったく通じない都市部の大学に入学すると同時に本を読むようになり、じぶんのそれまでの人生すべてを否定されるような衝撃を受けたことによる去勢が、思考や価値観と呼ばれているものすべてに対する根深い懐疑になっているのではないか。いまでもおぼえているのだが、ゼミで知り合った(……)という同級生がいて、彼はたしか生まれは台湾で育ちは関東、父親はパイロットというエスタブリッシュな出の男で(そういう経歴の持ち主が国際関係学部にはたくさんいた)、そのプロフィールを知った時点で当時まだ左耳にピアスを五つくらいつけて眉毛をちょんちょんにしていた18歳のこちらは「なんやそれ! 少女漫画の住人かよ!」と若干気遅れするわけだが、たしか大学に登校した初日か二日目だったと思う、その彼がひとでごったがえした校内の廊下を歩いている最中、向こうから歩いてくる男子学生と肩をぶつけた瞬間に、「あ、ごめんなさい」とものすごく自然に謝ったのだ。これは死ぬほど衝撃だった。つまり、こちらの常識でいえば、すれちがいざまに肩をぶつけるということはすなわちケンカの合図であり鞘当てであるのであって、そこからガンつけ→巻き舌→殴り合いの三段式に事態は進行すべきであるし、そう進行しなかった場合はそのプロセスを拒んだほうがその後永遠にビビリのレッテルとともに過ごさなければならないものであったのだが、(……)はそのプロセスを拒んだというよりはまるでそんなプロセスなど存在しないかのようにふるまったのだった。いや、実際彼の世界にはそんなプロセスなど存在しなかったわけなのだが、とにかく、このときの衝撃はいまでも忘れられない。どれくらい衝撃的だったかというと、当時まだ伊勢にいた(……)に帰宅後わざわざ電話をかけて京都と伊勢は全然違う、高校と大学は全然違うぞと報告したくらいだった。じぶんから他人に用事もないのに電話をすることはまずないこちらがわざわざ夜アパートの自室から電話をかけた、そのことの重みを理解してほしい。
 (……)だけではなかった、(……)にしても(……)にしてもそうであるが、ヤンキーオーラを出しているこちらにたいしてごくごく普通に話しかけてくるその構えのなさにも心底おどろいた。田舎の不良社会というのはいわばマウントの取り合いがそのままコミュニケーションであり、いかに相手をびびらせるかという勝負がごくごく普通のやりとりのあいだも底流のようにしてあるのだが、標準語をあやつり屈託なく初対面のこちらのことをほとんど無防備にファーストネームで呼んでみせるそのふるまいに当時のこちらはやはり度肝を抜かれた、こいつらそんなふうには見えないがよっぽど腕に覚えがあるのか? 黒帯か? と疑心暗鬼になったのだった。ひとことでいえば、みんな上品だった。あるいは、18歳のこちらが下品だった。
 (……)に誘われて新京極をはじめて歩いたときも驚いた。派手な格好をしている男たちがうじゃうじゃいるのに、だれひとりとしてケンカを売ってこない(この違和感は後年、京都にやってきた(……)も表明していた)。髪を染めているもの同士ピアスをつけているもの同士が路上ですれちがったら、まずはガンつけするのが普通であるしそれをしないということはじぶんはビビリですと認めるようなものであるはずなのに、みんな平気でこちらから目をそらす、それも勘弁してくださいの逸らし方ではなくほんとうに文字通り「眼中にない」という感じの、目が合ったはずの一瞬もあったのにそこにはなんの意味もないという感じの逸らし方で、不気味に思えて仕方なかった、ぜんぜん落ち着かなかった、だから最初のうちは四条河原町のほうに出るのが嫌だった。
 ただ、じぶんはかぶれやすい人間なのでそういう非地元的なふるまいにもろにかぶれた。主に大学の同級生らをモデルに、彼らのふるまいや物腰を全力でインストールした。その過程はすごく楽しかったと思う。しかし、かぶれすぎたせいで、地元に対する感情がその後長期間にわたって「憎悪」や「軽蔑」で塗り固められていくという弊害も生じた。この感情には当然、問題だらけの家庭から離れてひとり暮らしすることになったあの解放感もかかわってくるわけだが(京都のアパートで寝泊まりすることになった最初の夜、めちゃくちゃ嬉しくなってひとり部屋でガッツポーズをとりまくったのをおぼえている)。
 話が大脱線した。ここで言いたいのはつまり陰謀論にハマらないためには去勢の経験が大切なんではないかということだ。千葉雅也は中学生か高校生のころ、いまほどまだ一般的ではなかったインターネットに毎晩接続して匿名のチャットをしていたらしいのだが、齧った程度の現代思想の知識をそのチャット上でひけらかしていたところ、チャット相手であった専門の大学教授に鼻っ柱をバキバキに折られたとずっと以前Twitterでつぶやいていたことがあったが、そういう去勢の経験、もっとカジュアルにいえば面子を潰されたという経験が、(情報そのものではなく)情報に触れる自分自身の知性を常に疑うという構えを一種の症候として作り出すのではないかと思ったのだ。つまり、陰謀論にハマらないためには(ワクチンとしての)黒歴史が必要だということだ。黒歴史の持ち主はじぶんがまたやらかしてしまうのではないかという不安に常につきまとわれている。それは別の言い方をすれば、自分自身の感じ方、考え方、認知に対する不信感のようなものだ。そういう不信感を適度に持ち合わせている主体は、よくもわるくも慎重になるし、その慎重さが「答え」に飛びつく安易さを牽制してくれる。
 それでいうと清水高志が炎上していた際、本当かどうか知らないけれども彼とかかわったことのある大学関係者だったと思うが、清水高志はじぶんの親族は全員が東大に入学しているので東大に入学することが当然みたいなことを語っていたといっていて、その文脈が知れないので勝手なことはいえないのだが、もしそれが批判者のいうように、一種のマウンティングとしてドヤ顔でなされた発言であったとすれば(さすがにそれはないと思いたいが!)、去勢なしでその年まで生きてしまったひとというふうにも理解できてしまう、知にかんしてじぶんがあやまることはまずないという前提が、こんなにも容易な陰謀論やフェイクに手を出してしまうというおよそ哲学者らしからぬふるまいを可能にしてしまったのかなと推測できる。めちゃくちゃ乱暴なアレだが。
 じぶんが18年間ずっと間違い続けてきたことを知る衝撃というのは、そしてそれを認める抵抗というのは尋常ではない。いまおもえば京都に出てほどないころ、当時はそんな言葉を知らなかったがじぶんは完全にSADっぽい症状を発症していたし(いちばん記憶に残っているのは、マクドナルド金閣寺店でひとりでハンバーガーを食べようとしたところ、周囲の視線が気になって全然食べることができなくなったことだ)、あれは一種の適応障害だったのではないかと思う。そしてその障害をこちらは、地元的なものを全否定することで一時的に誤魔化し(これはたとえていえば、極右から極左に転向するようなものでしかなく、主体に本質的な変化をもたらしてはいない)、その後十年以上かけてじっくり分析と解釈をくりかえしていったといえる。それまでの常識が「間違い」であることを知り、そしてその「間違い」とみなしたものが実際はただの「違い」であることをまた知る、その上でしかし「違い」のままですませてはいけない「間違い」もまたあることを、そしてその一線を見分けるものが知識であり、その一線をみずからの手でひきなおしていくことがプロセスとしての学習であることを理解するという長い旅路。
 常識、固定観念、身体や環境によって作りあげられてきた諸々のパターンを、これは間違いであると一度でも認識したことがあるかどうか、あるいはそれが間違いとなってしまう別の域に越境してみたことがあるかどうか、それがあるかないかだけで人間の深みのようなものにおそらくおおきな差が生まれる。去勢とは越境であるといってみてもいいかもしれない。

  • 往路の記述。

(……)道に陽の色はもうなくて、川向こうもあまり照らされていないし、近間の家並みのあいだでも電線がほんのわずか暖色を帯びているように見えるのみ、しかしすすんで公団前まで来ると左手の下段にならぶその棟々のこちらをむいた正面がうっすらと色づいていた。太陽は右前方の空にあり、家屋で隠れがちだが(……)さんの家のあたりまで来ると坂の入り口のこずえのむこうに引っかかっているのが黒緑の葉叢をとおしてうかがえる。とはいえきょうは雲にもいくらか巻かれているようでひかりは弱く、むかいの樹々がまとっている若緑のあかるみもおだやかだった。坂道も壁に付される木漏れ日はほのかで、頭上、樹冠の間をただようひかりにふれられたこずえも、つやはすくなく化石的なあかるさにとどまっている。(……)

  • (……)

(……)

  • 「読みかえし2」より。

中島隆博×宇野重規×梶谷懐「中国から資本主義と民主主義を考える」(2022/7/17)(https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/interview/nakajima_uno_kajitani/18531(https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/interview/nakajima_uno_kajitani/18531))

1056

梶谷 2021年12月に、中国は「中国的民主」に関する白書を発表しました(中華人民共和国国務院新聞弁公室『「中国的民主」白皮書』)。この白書にはとにかく「人民」という言葉が頻出します。たとえばこんな具合です(一、中国共産党は人民を導き、完全な人民民主主義を実現する)。

「中国のような大きな国では、14億を超える人々の意思を真に表現し実現させることは容易ではなく、強力で統一されたリーダーシップが必要だ。中国共産党は、常に人民を中心に置き、人民の主体としての地位を堅持し、真に人民のための、人民による政治を行ってきた。また、党が人民を導いて国家を効果的に統治し、人民民主主義の理念、指針、政策が国の政治・社会生活のあらゆる面で実行されるように、全体を統括し、各党を調整する指導的中核としての役割を十分に発揮してきた。」

 こんなふうに、「人民」、そしてそれを導く党という存在をとにかく前面に持ってくる。それに対して西側の民主主義は、「人民」に対置されるものとして「市民」という概念が非常に重要な位置を占めています。古代ギリシャのポリスで、市民がアゴラに集まって議論するというのが典型的な「市民」のイメージですね。人民主権を強調するルソーの社会契約論にしても、もとは個々の「市民」が独立した考えを持っていることが前提になっているわけです。
 一方で、中国の文脈で用いられる「人民」は必ずしもそうではありません。「人民」は初めから一つの群れ、かたまりとしてあるもので、このことはコロナ禍以降、特に強調されてきたように思います。かつての毛沢東時代もやはり「人民」という言葉が強調されました。しかも「人民」の中身は、常に政治的な要因で揺れ動いていきます。
 たとえば抗日戦争のころは、対日協力者が「人民の敵」であると言い、その後国共内戦期になると、国民党に協力した者は「人民の敵」であると言った。そして1950年代の社会主義建設時代に入ってくると、社会主義路線に反対する者は全て「人民の敵」になります。要するに、知共産党指導部にとって都合の悪い者は全て「人民の敵」になるわけです。
 中国的な民主を語る場合、「人民主権」ということが強調されます。しかし主権は「人民」にあるけれども、「人民」の範囲を確定する権利は、共産党の指導部が独占的に握っている。そういう形で専制政治と「人民主権」が共存しているわけです。これは現在の中国的な民主の精神の中にも受け継がれているのではないかと思っています。

     *

1058

梶谷 私自身も中間団体の存在は非常に重要だと思っています。一方で、GAFAや中国のアリババ、テンセントは、中間団体が存在しなくてもプラットフォームでつなげば何とかなるという資本主義のモデルを示しているように感じます。
 これまで制度派経済学などでは、長期的な取引関係をベースにした信頼関係が近代的な経済発展に非常に重要であったという議論がされてきました。それに対して中国社会では、企業間の長期的な関係性がなかなか形成されないわけですね。そもそも持続的に生産しているような企業が非常に少ない。財界のような業界団体も希薄です。だから中国では近代的な資本主義が発展しないのだ、という議論を、戦前の日本における中国専門家は盛んにしていたわけです。
 中国で中間団体の代わりに機能していたのが「包工制」と呼ばれるインフォーマルな労働慣行です。これは企業が「包工頭」と呼ばれる仲介業者に労働者の募集や管理を丸投げするものです。また、企業同士の取引でも、「この相手だったら取引しても大丈夫ですよ」という情報を仲介してくれる存在が重要になります。その場合、仲介してもらう取引先はしょっちゅう変わるので、必ずしも長期的な関係になるわけではありません。
 これは零細な業者が何とか商売をやっていくためには便利なシステムですが、産業資本主義を担う規模の大きな企業や、日本の系列取引のような安定した企業間関係はなかなか形成されないと議論されてきました。恐らく、それを多分ひっくり返したところに発展したのが、現在のプラットフォームを中心とした経済のあり方だろうと思います。
 アリババなどのIT企業によって提供される取引仲介のプラットフォームは、仲介業者が非常に肥大化したような側面を持っています。従来であれば口コミの情報を利用することで成立した取引が、ビッグデータを利用して、より安心できる商売の相手を知らせてくれるわけですね。一方で、現代の資本主義では最先端の技術を取り込んで、その場に合った商品やサービスを素早く出していくということのほうが重要視されるようになっています。そうすると、企業が長期的な関係を築くより、プラットフォームにつながることによって短期的に最適な取引相手を見つけるやり方のほうが現代の資本主義にはマッチしているわけです。この面で中国は日本よりずっと先を行っています。

中島 與那覇さんの言葉を借りれば、資本主義自体が中国化していく現実に、いま我々は直面しているわけですよね。プラットフォーマー型の資本主義になっていくと、中間団体が形成されないことは逆に強みになる。アリババやテンセントが広がっていく背景には、中国社会の中にある他人に対する不信の問題があります。不信が非常に根深いので、逆にプラットフォーマーのような請負をする企業に不信の代償を払わせる。それによってプラットフォーマーが成長していく。こういう構造があるわけです。
 しかも、プラットフォーマー型資本主義は中国だけのものじゃないわけですよね。GAFAに代表される、アメリカを中心とした資本主義もまさにプラットフォーマー型のものになってきている。そういうなかでデモクラシーをどうするかが問われているのだと思います。
 GAFAのようなプラットフォーマー型の資本主義がデモクラシーに対してもたらす破壊力、そして、それに抵抗する民主主義の力を、宇野先生はどのようにお考えになっていますか。

宇野 ヨーロッパではグローバルなプラットフォーム企業を国際的に規制しようという方向に行っていますが、世界的に見ればグローバルなプラットフォーム企業のほうが強くなり、伝統的な中間集団はどんどんどんどん弱体化し、解体している状況はますます進んでいくでしょう。
 ここで、あくまで中間集団を立て直さないと民主主義はちゃんと機能しないと考えるのであれば、個人とプラットフォーム企業だけがITを通じて直結するだけではなく、政党のように人と人とを結びつけていく民主主義の回路を立て直していかなきゃいけないという議論になります。
 しかし個人と中央、個人とプラットフォーム企業だけが直結して、中間集団などなくてもやっていけるんだという議論でいくと、ますます中間集団を解体し、中抜きにしていくことによって進化していこうという方向が強まるでしょう。
 ですから、民主主義を立て直すというときに、中間集団はあったほうがいいというモデルにこだわるか、それとも、それを抜きにした個人・中心直結モデルで加速化して改革していくべきか、そのどちらに行くのかということが、クリティカルな問題として問われているわけです。

     *

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梶谷 まず、国家とプラットフォーム企業が結びつくというモデルに関して言うと、中国ではこれが非常にうまくいっているように見えていたものの、最近は両社の矛盾や対立が露呈してきています。
 特に2020年の11月頃から、アリババなどのIT企業全般に逆風が吹くようになります。アリペイやセサミクレジットを開発したアント・フィナンシャルが新規IPOを行おうとして拒否されたところから始まり、その後、アリババ集団は独占禁止法の適用により多額の罰金を課されました。
 また、2021年の夏ぐらいから中国政府は、格差の拡大を抑えようと「共同富裕」ということを盛んに言うようになりました。その方法として、第一次分配、第二次分配、第三次分配ということを提唱しています。第一次分配は土地や資本などの生産手段の分配、第二次分配は財政を通じた分配、第三次分配が民間からの寄付による分配です。中国政府は共同富裕のためには第三次分配をしなければいけないと突然言い出し、貧困対策に用いるための多額の寄付を、半ば強制的にアリババやテンセントに約束させました。
 今年に入り緩和する動きも出てきてはいますが、なぜ急に中国政府による締め付けが厳しくなったのか。おそらくプラットフォーム企業を野放しにしておくと、その富と権力が巨大なものになりすぎて危険だ、また、拡大する格差に対する人民の不満を抑えることができない、ということに指導層が気が付き始めたのだと思います。
 ですから、実は中国でもヨーロッパとは違う形で、プラットフォーム企業に対する風当たりは強くなっている。ただ、ヨーロッパのGDPRやアメリカの反トラスト法のように法をつくって縛りをかけるのではなくて、指導者の匙加減で富を吐き出させる、というのが中国らしいやり方です。先ほど話したことにつながると思いますが、共産党はいわば「われわれに従わなければ人民の敵に認定しますよ」と脅しをかけているわけです。だから、非常に法外な額の寄付であっても、企業は受け入れざるを得ないのが現状だと思います。
 それをふまえると、現状はプラットフィーム企業に対する規制に関しても、西洋モデルと中国モデルの二つが出てきているというのが私の認識です。

宇野 中国の党国家権力とプラットフォーム企業がそう常にハッピーな組合わせであるとは限らないというのは、大変面白いですね。
 先ほどの第三次分配は、ヨーロッパやアメリカでも自発的な形ではあるわけですね。大企業や高所得者がチャリティーのためにお金を寄付する。アメリカの場合は、社会保障は多くなくても、ビル・ゲイツみたいな人が財団をつくり、社会的な目的でお金を使うことによって、社会的な支出を実質的に増やすという文化があります。それが中国版になると、鶴の一声で強制的に寄付させる形になると。
 一方で日本はむしろ逆に、ITやプラットフォーム企業を通じて個人が中間集団抜きにしていろいろつながったりを、新しいことを始めたりできる仕組みをつくっていくことが求められている気がします。つまり、日本的な中間集団が社会の変革の抵抗勢力になってしまっている部分があるわけです。
 ただ、どちらか一方に突き進むのではなくて、旧来型の中間集団モデルとIT系の中抜きモデルを適切にハイブリッドさせることが重要なのではないでしょうか。その中で、変革へのダイナミズムと、法の支配や権力の分立といった権力チェックのメカニズムを両立させていかねばいけない。そういうハイブリッドの仕方がそれぞれの地域で違ってくるんじゃないでしょうか。

      *

1060

宇野 ミラノヴィッチの本 [ブランコ・ミラノヴィッチ『資本主義だけ残った』] は私も面白いと思いました。リベラル能力資本主義では、能力の名の下に実は家庭的なバックグラウンドによる格差がどんどん大きくなって、もはや個人の努力ではどうにもならない形で固定化していく。政治的資本主義では、国家がグローバルプラットフォーム企業を従え、圧倒的な権力を持って資本主義を引っ張っていく。
 しかし、いくら資本主義だけが残ったといっても、この二つしかモデルがないとすると、どちらも正直言ってあまり魅力がありません。しかも、どちらもあまり民主主義にとっては好都合ではない。格差を固定化し拡大していくと、民主主義を支える平等性が損なわれてしまうからです。国家がグローバルプラットフォーム企業と癒着して圧倒的な力を持ってしまえば、権力に対する抑制や権力分立が利かなくなってくる。
 ですから、もし資本主義のモデルがこの二つしかないとすると、どちらも民主主義にとって未来はあまり明るくはないという結論になろうかと思います。
 そうなると、我々にとっての課題ははっきりしていて、一つはプラットフォーム企業をどうにかしなきゃいけないというのは間違いない。富を稼ぎ過ぎて格差をつくっていることもさることながら、あの組織の最大の問題は、組織の内部が非常に寡頭制的なんですよね。

中島 フラットな企業イメージと実質は真逆ですよね。

宇野 ええ。プラットフォーム企業は、いろんな技術や情報を人々に分け与えるという意味では確かに平等化に貢献している。しかし、それを支えているプラットフォーム組織自身は、極めて少数の人が決定している。しかも、その決定プロセスが外からよく見えないという極めて寡頭制的な構造を持っています。そういう組織が世界で大きな力を動かすのは本来望ましくないでしょう。
 ですから、プラットフォーム企業をたたき潰せとは言いませんが、少なくともあのオリガーキー的な、寡頭制的なメカニズムは是正していかなければいけません。

中島 よくわかります。

宇野 二つ目に、所有権の問題があります。所有権を絶対化していくと、それはそれで人類がもうもたないということも明らかになりつつある。ですから、ある種のコモンズという発想はとても重要です。財政による再分配のように、所有権を分割するだけでなく、誰もが利用できる、誰もが無料で使えるコモンズを充実させることも、社会の平等化を促すわけですから、所有権絶対からコモンズの時代へという流れも、今後の未来の必然的な方向性だと思います。
 こうした二点を踏まえると、熟さない言葉ですけれども、「ソーシャル・リベラリズム」ということが重要になってくるんじゃないでしょうか。自由主義ではあるけれど、新自由主義的なリベラルに対抗するようなソーシャルな次元を取り戻す。巨大プラットフォーム企業のオリガーキーを打破することと、所有権からコモンズへという動きを併せてソーシャル・リベラリズム的な方向を強めていかないと、民主主義は持たないかもしれません。

  • 目を覚まして時を見たのは八時過ぎだった。時間が比較的はやいためか、カーテンの裏からもれだす色では曇りか晴れか判断がつかない。布団のしたで深呼吸をしつつ胸とか腕とか各所を揉む。横を向いて肩や背面、肩甲骨のあたりも。しばらくそうして過ごし、起き上がったのは八時三八分。カーテンをあけると天気は良かった。肩をまわしたり首をまわしたりしてからいちど布団を抜け、水だけ飲んでからまたもどり、Chromebookで一年前の日記や「読みかえし」ノートを読む。離床は九時五〇分。座布団を窓のそとに出して布団をたたんでおき、寝間着からジャージにきがえたり、小便をして顔を洗ったり、あと水切りケースのなかのプラスチックゴミを始末したり、さくばんながしに鍋と弁当の容器を漬けたままにしてしまったのでそれを洗ってかたづけたりしてから、音楽を聞くことに。ヘッドフォンを収納スペース上から取ってアンプに挿し、Amazon MusicにログインしてBrad Mehldau『Live In Tokyo』。さいごの二曲、”How Long Has This Been Going On”と”River Man”。前者は先日いちど聞いたがもういちど聞いてもきもちがよい。後者もすばらしかった。”River Man”は五拍子の曲で、リズムのとりかたはこのあと聞いた原曲とおなじだったが、テーマを過ぎるとソロというかながい間奏にはいり、そこでMehldauは右手をずっと一貫して一拍三連のリズムで打って拍をくまなく埋めつづけている。左手は基本シンコペーションで五拍子を分割する基盤的ペースを提示しつつも、とちゅうから単音断片でみじかいメロディじみたものを落としたり、リハーモナイズとともにかたちを崩してペースを一時変えたりしている。右手で水平的な旋律を展開するのではなく、リズムを反復させてちょっとずつ変容させながら盛り上がっていくというのは”Paranoid Android”と大枠でおなじやり口だと言ってよいのだけれど、こちらのほうがなぜかよく、すばらしくかんじられた。高音部をたたきつづける右手は基本くりかえされる連打でありながらも和音の色を微妙に変えていくし、後半では左と合わせて三音一単位というより、四+四+のこりみたいなリズム感覚になったりもする。左手が低音とともに単音片を散らすあいだは最左のシンコペーションと最右のひたすらな三連符と中間部で三線構造に聞こえたりもする。このトラックはほぼ九分の演奏で、そのうちたぶん六分強くらいは右手はずーっといちどの休符もなく三連符を打ちつづけているとおもうのだけれど、ゆびや手首や腕の筋肉がよくつづくなとおもった。
  • Mehldauのソロ演奏が三二曲はいっているやつも聞きたいのだけれど(いぜん(……)図書館にあったのを借りたがいくらもながしていない)、”Things Behind The Sun”とか”River Man”がはいっていたのに触発されてNick Drakeをつづけて聞くことに。CDで三枚持っており、たまにながしていた。キャリア順に聞くかなとおもったのだが、どれがさいしょなのかわからなかったのでWikipediaをみると、『Five Leaves Left』がデビュー作ということだったのでそれに。”River Man”はこれの二曲目だった。このデビュー作は一九六九年のアルバムらしく、七四年には二六歳ではやくも亡くなってしまうのでそれはそのくらいなのだけれど、そういう数字をみてみるとそのへんの時期のひとなのかというのがはじめてさだかに認識されるようだった。そうして一曲目の”Time Has Told Me”をながしだしてみても、ああこれはたしかに六九年、とおもったりするわけだ。その印象が正当なものなのかはわからないのだけれど、Led Zeppelinの三枚目をおもいだす音(音楽性もそうだし音質(音像?)も)、雰囲気だなあということで、三枚目じたいは七一年か二年かそのくらいだとおもうが。”Time Has Told Me”を聞きながら、こういうのやりたいんだけどなあとおもった。食事のまえに聞いたのは”River Man”、そして三曲目の”Three Hours”までだったが、のちほど一時くらいからそのあとも聞き出して、アルバムぜんぶ一気にさいごまで行った。すなわち、”Way To Blue”, “Day Is Done”, “Cello Song”, “The Thoughts of Mary Jane”, “Man In A Shed”, “Fruit Tree”, “Saturday Sun”。ぜんたいをとおした印象としてはつかわれている楽器やアンサンブル形態が多様だということで、さいしょの”Time Has Told Me”にはエレキギターが右にはいっており(エレキを入れているのはたぶんこの曲だけだったとおもうのだが)、”River Man”をふくめてストリングスは何曲かで大々的に取り入れられている。#6の”Cello Song”ではタイトルになっているからにはチェロなんだろうが弦楽器が一本で登場してハミングと一致しきらないリズムで間奏部のメロディを弾くし、右にはコンガだかなんだかわからんがパーカッション、中央左にもシャカシャカいうシェイカー的リズム楽器が振られている。そのつぎの”The Thoughts of Mary Jane”は冒頭からオカリナみたいな笛の音があかるい旋律を奏でていて牧歌的だし、ピアノも一曲目や#8 ”Man In A Shed”、#10 “Saturday Sun”などおりおり聞かれて、#8ではすこしジャズっぽいソロをやり、#10ではイントロでゴスペルライクな色を提示している。また#10ではヴィブラフォンも左にはいっており、ドラムが刻んでいたのもたぶんこの曲だけだったとおもう。あとベースはアルバムぜんたいをとおして全部ウッド。それぞれの曲のいろあいも、雰囲気じたいは一貫しているとしてもこまかくみればいろいろあって多彩なのだが、なかでも印象にのこるのはストリングスが何曲かで中心的な役割を果たしていることで(#2, #4, #9あたりで、とくに#4はストリングスと歌だけだったとおもう)、フォークの分野でストリングスをこんなにあからさまに活用してアコギに室内楽的な雰囲気を真っ向からガッチャンコさせたのってこれいぜんにあったのかなとおもった。ひろくみればThe Beatlesはもうやっているだろうし、ジャズだって紐付きで歌うことはよくやられているので、ポップスとしてはめずらしくないのだろうが。フォークなんてイギリスのもアメリカのも日本のもぜんぜん聞いたことがないからわからん。Bob Dylanですらあまり聞いていないし。Nick Drakeじしんがじぶんの音楽を「フォーク」としてやっていたのかもよくわからん。
  • Wikipediaをいまあらためてみてみると、「ケンブリッジ大学フィッツウィリアム・カレッジに在学中、フェアポート・コンヴェンションのアシュレー・ハッチングスに見出され、アイランド・レコードと契約。1969年9月にアルバム『ファイヴ・リーヴス・レフト』でデビュー」とあり、Fairport ConventionのRichard Thompsonがアルバムにも参加しているというから、そのへんから来たひとなのかとおもった。Fairport Conventionはかろうじてなまえを知っており、やはり図書館で借りてほんのすこしだけながしたことがあったはず。クレジットをみてみると、七曲目の笛はフルートで、あと#9 “Fruit Tree”にオーボエ、バスオーボエイングリッシュホルンがはいっているというがこれは記憶にのこっていない。
  • Nick Drakeのアルバムが終わったあと、なにか出てくるかなとランダム再生を待ってみたのだけれど、するとベス・オートン “So Much More”というやつがはじまって、これも装飾が多彩でけっこうすばらしかった。ぜんぜん知らんひとだったが七〇年生まれのイギリスのシンガーソングライターで、同曲は九九年発表の『Central Reservation』というアルバムにはいっている。これも聞きたい。
  • 音楽をちゃんと聞けるとやはり生の満足感がちがうから、起床後に聞く習慣にしたほうがよいかもしれない。音楽で満足してしまったので瞑想はサボった。聞き出すまえに洗濯もはじめていたので、切りにするとまずそれを干す。このときはふつうに快晴で、その後二時くらいには曇っていたが、三時一一分現在はレースのカーテンの最上方にまた遠のきつつあるひかりのきらめきが散っており、しかし窓辺に寄ってみてみると空にこびりつく雲は多く、太陽もすぐにとらわれ遮られてしまい、おもったよりも晴れなかったなという印象だ。
  • 食事はさくばんの帰りにキャベツと白菜を買ってきたのでれいによってそれらをつかったサラダと(きざみ玉ねぎドレッシング)、一袋だけのこっていたシジミの味噌汁、そうして肉まんにバナナ。食後は食器類をかたづけたり歯磨きをしたりしながらも、椅子についたままウェブをみてだらだら過ごしてしまい、上述のように一時くらいから音楽。その後湯を浴びた。あいまで左腕や肩のあたりや背中や肋骨などをたしょう揉んでいる。だいぶ改善してきたとはいえ、左半身はやはりながれがとどこおっている。腋の下なんかを指圧するとそこが詰まっているのがわかる。なんかその周辺とか、肘とかの結節点や、肋骨の下端からすこし背中のほうにはいったあたりとか。シャワーを浴びたのちにきょうのことを書き出してここまで。さきほど携帯をみると母親からSMSがはいっており、土曜日に(……)で(……)の公演を見に行くのでついでに寄って布団のカビをみてもいいかとあったが(年末に帰ったときに、夏場にたたむのをサボっていたから布団の裏にカビが生えてというはなしをしたのだが)、土曜日は職場で会議があるから時間が合わない。なら公演のまえに菓子と食い物だけわたしたいというので了承。二時かららしい。ついでに布団をみてもらってもよいが、たぶん車をそのへんに路上駐車するから降りてこず、こちらを呼んで車まで来てもらうつもりなのだろう。
  • きょうあしたと休みなので、その間に日記をかたづけてしまいたいところだ。一四日、一六日、そしてきのう。どの日も書くことは多いだろう。あと手足の爪を切りたい。私服のシャツとかもアイロン掛けをせずに放置しているので処理したいし、兄夫婦が送ってくれた炊飯器をつかいはじめるためにはまずものをかたづけてそれを置くスペースを確保しなければならない。

Bulgaria helped Ukraine survive Russia’s early onslaught by secretly supplying it with large amounts of desperately needed diesel and ammunition, the politicians responsible have said. The former Bulgarian prime minister Kiril Petkov and finance minister Assen Vassilev said their country – one of the poorest EU members and long perceived as pro-Moscow – provided 30% of the Soviet-calibre ammunition Ukraine’s army needed during a crucial three-month period last spring, and at times 40% of the diesel.

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Volodymyr Zelenskiy has written a letter inviting the Chinese leader, Xi Jinping, for talks, which was handed to the Chinese delegation in Davos, said the Ukrainian leader’s wife, Olena Zelenska. “It was a gesture and invitation to dialogue and I hope very much that there will be a response to this invitation,” she told reporters on Wednesday. China has sought to position itself as neutral in the war, while at the same time deepening ties with Moscow.

Adidas is currently the second largest sportswear company in the world, behind only Nike. Once a more modest operation, it started as a factory founded by brothers Adolf and Rudolf Dassler in 1924.

Over its 97 years in business, the company originally known as the Dassler Brothers Shoe Factory – which started with Adolf making shoes in his mother’s laundry room after he returned from World War I – has reinvented itself several times. But along the way to success, it became part of a terrible chapter in German history, and sparked a feud between the brothers that divided the company, their family, and even the small Bavarian town they came from.

The Dassler brothers hailed from Herzogenaurach, Germany, a town with a population of just over 20,000 and a long tradition of shoemaking. In the early years of their company, electricity in the town was unreliable, so the brothers, known as Adi and Rudi, rigged up a stationary bike to create enough power to run the equipment they used to make their athletic shoes.

From these scrappy roots, they had their first big success at the 1936 Olympics in Berlin. U.S. sprinter Jesse Owens agreed to run in their spiked athletic shoe and famously went on to win four gold medals, putting the Dassler brothers’ shoes, then known as Geda, on the map. Altogether, the athletes who competed in Geda shoes at the controversial games captured seven gold medals, five silver medals, and five bronze medals. Suddenly coaches and their athletes were aware of the company, and Adi and Rudi were selling 200,000 pairs of shoes every year in the years leading up to World War II.

Both Adi and Rudi were members of the Nazi party. During World War II, production of the Dassler brothers’ athletic shoes was discontinued so that their factory could be used instead to build an anti-tank weapon called the Panzerchreck (Tank Terror) – a rocket launcher capable of blowing Allied tanks into smithereens. At least nine forced laborers are known to have been working for the company at the time.

The Geda factory was almost destroyed by U.S. troops in 1945, but Adi’s wife managed to convince the soldiers that the only thing the company was manufacturing were athletic shoes. When American troops found out that this was the shoe factory that made the shoes Jesse Owens ran in, they started buying the Dassler brothers’ shoes in droves. This led to their shoes becoming popular amongst American soldiers occupying the area as the factory resumed its original purpose.

But after World War II, the decades-long working partnership between Adi and Rudi disintegrated. Rumors abound about what caused the brothers to go from partners to rivals. One theory holds that Adi and Rudi’s wives did not get along. Another potential cause for the feud was Rudi’s suspicion that his brother gave the Allies occupying Germany information on his whereabouts.

It is known that Rudi abandoned his duties on the front lines of the war and was then arrested and imprisoned by the Allies on his way home and accused of being a member of the SS. A third rumor posits that Adi was jealous of Rudi, a known womanizer, and suspected something had happened between his brother and his wife.

Whatever the real reason is, no one in either Adi or Rudi’s family has ever revealed it. The brothers shut down the Geda factory in 1948. Adi then founded Adidas, while Rudi set up another well-known shoe company, Puma.

The feud between the brothers divided their hometown, where at least one person in nearly every family worked for one of the two rival shoe companies. The Aurach river divided the town. Adidas occupied the area north of the river, while Puma established its business to the south of the river.

Employees of the two companies did not speak to each other. They also went to separate stores, barber shops, bars, and bakeries. Every business in the town was known to be loyal to either Adidas or Puma, but never both. The town of Herzogenaurach even earned the nickname “the town of bent necks,” because of its residents’ habit of looking at each other’s shoes to figure out whether or not they wanted to talk to a person.

The relationship between the brothers never recovered. When Adi and Rudi died in the 1970s, they were buried at opposite ends of the town’s cemetery.

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There is no question though that Adidas, perhaps spurred at times by the brothers’ bitter rivalry, continued to break new ground as time went on. In the 1960s, Adidas hit on an innovation that would become a wardrobe staple for people around the world when the company expanded its product line and introduced the tracksuit. Tracksuits were, of course, available to athletes prior to this. However, in 1967, Adidas brought its tracksuit, with its signature three-stripes down the arms and legs, to the masses. In the 1970s, when jogging became a fitness craze in the United States, Adidas’ tracksuit became a staple in every casual fitness enthusiast’s wardrobe, and it has remained one ever since.

And during the 1970s, Adidas established a relationship with the World Cup that has led to the company providing the soccer balls for every World Cup since then.

In the 1980s, Adidas made a move into the U.S., setting up Adidas USA in 1986. The Adidas shoe and tracksuit transcended joggers to become a part of pop culture when the rap group Run DMC started wearing Adidas as their signature look and wrote the song “My Adidas.” The group’s devotion to the brand was organic – the company didn’t even realize what was happening until an employee attended a Run DMC concert and witnessed it firsthand.

  • いま午後一一時をまわったところ。一四日の記事をしあげ、もう書いてあった一五日といっしょに投稿した。あとは一六日、そしてきのうである一八日だが、この二日はどちらも労働があった日であり、勤務日はなるべくからだをこごらせたくないため、さいきんは外出前に文を書く気にはならず、かといって帰宅後も疲労のために書けないから、ものごとの道理にしたがってこの二日の記事にはなんら文言を記せていない。過去の日記などから引いた文章が貼られてあるのみだ。いま週二ではたらいているが、いちにちはたらいてその翌日休み、翌々日にはまた労働となると、日記がやはり追いつかず、追いつけたとしてもあいだの休日はこもって前日の記述におおかたついやされることになるだろう。なにかの用事で出かけてしまえばとても追いつくことはできず、日記を優先するならこもらざるをえないし、こもっても満足に書けない可能性もふつうにある。しかもこれからいちおう週三ペースの労働にもどしていこうというところなわけで、だがそうすると日記の遅滞は余計にはなはだしくなるにちがいない。なにしろ、往路帰路にしても職場でのことにしても、出かければそれだけで書くことは爆発的に増殖する。遅滞しながら不十分に書けるだけを書くのでもよいし、そうせざるをえないし、じっさいいまそうなっているわけだけれど、しかし週三だとマジでカツカツだなとあらためて認識した。できれば塾ではたらくのは週二で、しかもあいだに二日は休みをはさみたい。そうして週内のべつの日に家にいながら金を稼ぐ方策をなにか開拓するというのが、かろうじて日記をコンスタントに書いていける条件かなとおもうが、なかなかそううまいことにもならないだろう。そもそもが週三はたらいたところで稼げる金は生活をたもっていくのにすこし足らないくらいだし。現実的にはがんばって週三はたらきつつ、プラスアルファでちょっとだけ金を手にできる方策をみつけてなんとかやっていくくらいかな。
  • きょうは三時半くらいまできょうの文を書いたのち、寝床に逃げて中島隆博『悪の哲学』を読んでさいごまで。選書だし読みやすく、ある側面から中国の思想家たちの基礎的なかんがえにふれるにはよかった。後半、それまで朱子学陽明学や漢代唐代の動向を追ってきたのちに孟子にさかのぼるが、その孟子の分析あたりがいちばんおもしろかった気がする。さらに荘子荀子とつづいて、その対比的説明もけっこうおもしろかった。しかしたとえば荀子は言語論でソシュールみたいなことも言っているようだし、西洋哲学のほうにみられる問題系もこの中国古代ですでに多数俎上にあげられている印象で、それは現代日本のわれわれがどうしてもそういう読み方をしてしまうということなのかもしれないが、にんげんがかんがえることとか思想のかたちって、大枠はもうギリシャ・インド・中国でそろっているのかもしれないなとおもってしまったりもする。おおかたの問題系はすでに紀元前に出そろっているのではないかと。
  • 洗濯物は寝床にうつってちょっとしたあたりで入れて、のちほどまたごろごろしたあと立ち上がるさいにたたんでおいた。二食目を食ったのが六時くらいか? そのまえにふたたび音楽を聞いた時間があった。Nick Drakeの二作目である『Bryter Layter』を、”Introduction”, “Hazey Jane Ⅱ”, “At The Chime of A City Clock”, “One of These Things First”, “Hazey Jane Ⅰ”と五曲目まで。冒頭のインストにしても、つづく曲群にしても、ストリングスの風味と合致した品の良さが香り立つ瞬間がふくまれている。ただ七一年の作品であるらしいこのアルバムは、六九年のファーストに比べると、すこしほがらかな調子を帯びた部分が増えた印象で、ありていに言えばいくらかキャッチーな色がときおり顔をみせてくる印象で、たとえばベースは『Five Leaves Left』が一貫してウッドだったのにたいして『Bryter Layter』はいまのところ全部エレベだったとおもうし(”Hazey Jane Ⅰ”ではけっこううごいて活躍しており、これはフレットレスか? ともおもった)、ストリングスがひきつづき活用されて香り高さを付与しているにのにくわえて、管楽器がより目立って導入されており、”Hazey Jane Ⅱ”では左右で二本、添えられているし、”At The Chime of A City Clock”でもとちゅうから右にサックスがあらわれて副旋律めいたものを演じていた。また、一枚目ではドラムがさいごの”Saturday Sun”にしかはいっていなかった気がするのだが、二枚目では二曲目からふつうに刻んでいるし、三、四曲目でもビートを担当していたはず。楽曲が部分的にあかるさを増したようにおもえるのにくわえてそれらの編成もまたややキャッチーさに寄与しているように、ロック/ポップスにすこし接近したように聞こえたのだが、これは時代が七〇年代にはいったということなんですか?
  • ファースト、セカンドをとおしてこの曲がすごくいい、という感じの受け取り方にはなっておらず、アルバムぜんたいで安定的によさがつづき、突出したトラックがひとついじょうあってなんどもくりかえし聞きたいというよりは、なにか統一的な色合いや雰囲気をまとっているそれをアルバム単位で味わう音楽のような印象で、なにしろやはり品が良い、ケンブリッジにいてブレイクとかイェイツとか読んでいたらしいし、インテリの音楽だなとはどうしたっておもう。ギターのプレイも卓越している。オープンチューニングをつかっているらしいのだけれど、もしじぶんがこういう方面の音楽をマジでやるならば、コードやフレーズのつくりかたには学ぶところがおおいにあるだろうなという弾きぶりで、一枚目の三曲目である”Three Hours”だったか、あのへんとかなんかどういうあれなの? みたいな、ちょっと変だよね? とおもったし、Zeppelinがファーストの六曲目だったかわすれたが、たしか”Communication Breakdown”のまえでやってるなんか変なインストがあったとおもうけれど、あれを思い起こさせるようなというか(”Black Mountain Side”だ)。スタジオ盤で歌いながら弾いて録ったのかは知らないが、ライブでやるとしたらこれを弾きながら歌うんだよね? という場面がけっこうある。
  • 二食目はその後に食べたのだけれど、前回実家に行ったときに、そろそろ気候も寒くて冷蔵庫にはいっていた野菜を生のままサラダで食うのも腹に冷たいからとスチームケースをもらってきたところがじっさいぜんぜんつかっていなかったのを、きょうようやく温野菜を食うかという気になり、キャベツと白菜、それにベーコンがまだのこっていたので詰めてレンジでまわした。味つけは塩と味の素と醤油。それだけでこれが美味く、今後米を炊いたとしてもこの温野菜だけでおかずとして食える。せっかくだから納豆なんかも食いたいが。ただ量はもうすこしほしいかなという印象ではあった。とはいえこのスチームケースは電子レンジに入れてなんとかまわせるくらいのいっぱいのおおきさなので、量を食べたければ追加で切って再加熱するほかあるまい。温野菜のほかにはさくばん買ったカップヌードルの欧風チーズカレー風味のやつを食した。
  • 食後は樫村晴香の記事を検索してキャッシュ表示し、Notionにうつしていったり、手の爪を切ったり。そのときはひさしぶりに上田正樹とありやまじゅんじの『ぼちぼちいこか』をYouTubeでながしてBGMに。一時間くらい経ったらだいたいこなれてくるから書きものをしたかったのだけれど、なんか腰がかたくてまた布団に逃げてしまった。それでウェブをみたり英文記事を読んだり。手首を振ることの益を体感しているきょうこのごろだが、手首まわりや手じたいをほぐすのが全身的な血流にわりと寄与するならば、同様に足首や足じたいをほぐすのも効果的なのではないかという思考はとうぜん過去にも通過した。なかなか足先まであたためるのはむずかしく、足首からさきはこごりがちだという事情もある。それでこのときはふくらはぎを揉むよりも脚をぷらぷら振るのをよくやってみたのだけれど、これはこれでやはり効果的で、背中のほうもうごくし、やっているうちにふくらはぎの皮膚感触もすべすべになる。
  • その後起きて一四日を書き、きょうのこともここまで書き、もう零時。また味噌で煮込みうどんをつくろうかなとおもっていたのだけれど、いちおう食うもんはあるし、それはあした以降でよいかと。記述を優先した。しかしこれから一六日までやる気にはなかなかならんな。


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  • 日記読み: 2022/1/19, Wed.
  • 「読みかえし2」: 1051 - 1061