2023/1/22, Sun.

  ふたつの影

 ふたつの影が荒々しく凄まじく
 四つ足で滑るように
 真夜中の暗い樅の茂みを
 先へ先へと進んでゆく

 それは 父親のアッタ・トロルと
 若いせがれの片耳君だ
 森がほんのり明るいところ
 血の石のそばに ふたりは止まった(end163)

 「この石はな」とアッタ・トロルは唸る
 「むかし 迷信のはびこっていた時代に
 ケルト人の僧侶どもが
 犠牲 [いけにえ] になる人間を虐殺した祭壇だ

 ああ なんという怖ろしい残忍さだ
 おれは それを考えると
 背筋がぞっとしてくる
 神様を敬うために血が流されたとは

 もちろん今じゃ この人間どもも
 だいぶ開けてきて もう
 神様の御利益のために
 躍起となって殺し合いはしない

 いまでは神信心の妄想からでも
 狂信や心の迷いからでもない(end164)
 そうではなくて ただ私利私欲から
 奴らは殺人や殺害をやらかしている

 人間は すべてこの世の
 財宝を取りっこしている
 それも果しない摑み合いだ
 どいつもこいつも泥棒だ

 そうだ 全部のものの遺産が
 めいめいの掠奪物になっている
 そのくせ 所有権とか
 私有財産とか抜かしてやがる

 私有財産 所有権
 おお 盗む権利 嘘つく権利
 こんな怪しからん滅茶苦茶の悪企みは
 人間でなけりゃ考え出せない(end165)

 自然は私有財産なんか拵 [こさ] えなかった
 なぜなら おれたち おれたちはみんな
 ポケットなしでこの世に生れた
 毛皮にポケットなんぞ付けちゃいない

 おれたちは誰ひとりだって 生れながら
 からだの上っ皮に
 あんな袋なんか付けちゃいない
 盗んだものを匿 [かく] すために

 ただ人間だけが 他人の毛で
 着物を作って着ている
 皮膚のつるつるしたあの動物だけが
 ポケットなんか作ることを心得てるんだ

 ポケット こいつが(end166)
 私有財産や所有権と同様に
 不自然なんだ
 人間て奴はポケットをつけた泥棒だ

 おれは人間をはげしく憎む
 せがれよ おれはこの憎悪をおまえに継がせたい
 さあ この祭壇の上で
 人間を永久に憎むと誓うんだ

 あの邪悪な圧制者の
 不倶戴天の敵となれ
 死んでも許してはならぬ
 せがれよ さあ誓え ここで誓え」

 そこで息子は ハンニバルがその昔
 誓ったように誓いをたてた
 月は昔ながらの血の石と人間嫌いの(end167)
 熊の親子をものすごく黄色く照らした

 この若熊がどのように
 おのれの誓いを忠実に守ったかは
 後日お知らせするとしよう わが竪琴は
 あたらしい叙事詩で讃えるだろう

 さてここらで アッタ・トロルとは
 ちょっとお別れするとしよう
 だが 後でかならずお目にかかろう
 鉄砲玉でお見舞するのだから

 人類の尊厳を犯す反逆者め
 おまえの予審調書は
 これで終った
 明日はおまえは縛られる

 (井上正蔵 [しょうぞう] 訳『ハイネ詩集』(小沢書店/世界詩人選08、一九九六年)、163~168; 「ふたつの影」(Zwo Gestalten......); 『アッタ・トロル』)



  • 一年前から。ニュース。

(……)新聞からは国際面の、バイデン政権の現状評を読んだ。中西部アイオワ州のとうもろこし農家などは二〇二一年はいままでになくいい年だったと言っており、というのは農産品が中国にたくさん売れたからである。これはドナルド・トランプが中国との貿易戦争のなかでむすんだ合意にもとづく買い入れなのだが、利益を受けた農家としては、とうぜんバイデンにもその路線をつづけてほしい。バイデンのほうも当初はドナルド・トランプのやりかたを批判して、中国と対立するのではなく秩序ある国際関係をとりもどしたいみたいなことを言っていたわけだが、ほかのさまざまな懸案もあり、現実、対中貿易ではトランプ路線の継続にとどまっていると。アイオワ州は大統領選ではトランプが八ポイント優勢で、さらに利益を得た農家の多いランドルフでは四二ポイントと圧倒的な得票差になっていたらしく、バイデン政権もこういう農家たちの支持をえるには路線変更はできない。いっぽう産業界は、対中関税が物価高の一因になっているとして保護主義的政策をやめるようもとめているのだが、その声にこたえるのはむずかしいと。

  • 天候と風景。

食後、すこしだけ南窓のそとをみやった。川向こうの集落で煙がうすくゆるやかに立ってひかりの満ちた宙のかなたにひろがっており、てまえでは各所の電線が線のとちゅうにきらめきを一粒ためてちらちらとふるえさせ、白さを塗られた屋根もあり、窓の下方には陽炎じみた蒸発体の浮かぶうごきもみられて、まるで夜のあいだに雨がとおったかのようだった。しかし蒸発はおそらく、窓外ではなく室内の空気のながれが映っているのだろう。風の気配は感知されない。

  • 出勤路。たいした文ではないが。

(……)その後身支度をして、一時五〇分ごろに家を発った。きょうは天気も良いし、ひさしぶりに昼過ぎからの外出なのであるいていくことにした。道に出て東方面にむかいかるく歩を踏んでいると、柚子かなにか柑橘類の樹がいっぽんあるが、その葉の緑が妙に濃く目に染みた。しかし緑が濃くてつよいのは一部のみで、ほかの葉はもっと老いに寄った色合い、幹のかんじもくすんで硬そうな土気色だが、実は黄色くまるまると陽に映えていた。坂道にはいっても日なたがさきのほうまでながく伸びて浸潤するごとくひろがり、背はあたたまって、正面の段上に乗った(……)さんの宅もすっぽり陽射しにつつまれている。とちゅうの左手の木立のなかに発泡スチロールの箱が不法投棄されてあり、側面には「紅鮭」と書かれていた。坂を抜けてあかるみを浴びながら行っていると、前方で道をうろついている婦人が会釈をしてきたので、それで(……)さんではないかと気づき、あ、こんにちは、とあいさつを送った。顔を合わせるのはひさしぶりである。宅の前まで来て互いにちかくなったところであらためて会釈を交わし、寒いねえ、寒いからトイレがたいへんでしょう、とあちらが言ってきたのに(たぶん、長くあるいているうちにトイレに行きたくなるのでは、しかし近間には用を足せる場所がないから難儀だろうとおもったのではないか。そうだとすると、じぶんの実情にわりと当たっている)、きょうはひさしぶりに、昼からなんで、あるこうとおもいまして、とこたえて別れ、さきをすすんだ。

ストレッチをよくやってきたので足取りはしぜんとスムーズになる。いつもはあるくとしてももう一時間半ほど遅くであり、そのころには裏通りはほぼ全面日陰に覆われているけれど、午後二時のきょうはまだ家並みのすきまからはいりこむひかりがおおくて陰はおりおり斜めに切り取られており、左方に駐車場など敷地がひらけば隈もなく、線路のむこうの林縁の家に薄木陰もみえない。(……)のあたり、自動車整備工の前に表に出る細道があるが、その脇の家にショベルカーが出張って取り壊されており、淡い土煙が太陽光と混ざって空気が希薄化していた。白猫は奥の戸口のそばにたたずんでいて、たぶん止まればこちらに寄ってくるとおもうのだが、きょうは止まらず。すすむとハクモクレンの見上げる高木で枝先に鈍い薄緑のつぼみがふくらみだしていた。

  • 勤務中の一幕。こんなことあったわとおもってかなり笑った。「地震みたいになってる」と(……)が言ったときにはマジで爆笑してめちゃくちゃおもしろかった。(……)もおもしろい生徒だった。またかよってほしい。

(……)数学の大問3の問3を解説しているさいちゅうに、右目のまぶたがピクピクすると(……)は言って動揺しはじめたので、ストレスじゃない? とか言って笑いつつつづけていたところ、自習を終えて帰る段になった(……)がやってきたのに、まぶたがめっちゃピクピクする、地震みたいになってる、と言ったのにクソ笑った((……)もさすがに笑っていた)。からだを折って爆笑しながら、局地的すぎんだろ、おまえのまぶただけで地震が起きてる、と突っこんで、目を洗ってきたら? とすすめた。そのあいだに(……)を見送り。きょうは自習をしにきて、たぶん二時間半くらいはがんばっていたはず。よいことである。その後、もろもろ済ませてから(……)のもとにもどると、痙攣はたしょうおさまったが、場所が変わって眉間に近いほうになったというので、震源変わっちゃったじゃん、と比喩を受け継いで笑う。(……)

  • さくばんは三時二〇分くらいまで文を書いたあと寝床にうつり、いちど意識をうしなったのだが覚めると四時だった記憶があるからそんなにダウンしていたわけではない。そこで明かりやエアコンを消して就寝。そうして今朝はわりとはやくに一回覚めたのだが、なかなか起き上がることはできずに九時をむかえた。身を起こし、布団のうえであぐらをかいて首をまわすあいだ、正面の角、ケースにおさめられたギターが置かれているそのばしょにカーテンの端からもれだしたそとの色が白々とかわたれていて、どうも晴れではなさそうだとみながら幕をあけるとやはり曇天だった。しかしその後、正午をまわってから雲がいくらか引いたようで陽射しが来たから、さきほどシャワーを浴びたあとにまた洗濯をしている。下着のストックがなくなってしまったので。ぜんぶは洗わず、それと着ていたジャージくらい。これからかんぜんに晴れにとどまるかわからないし、陽にあてられる時間もそうながくないから、そんなに乾かなくてもよいもののみということで。
  • いちど立ち上がって水を飲んだり用を足したりしてから腕振り体操もちょっとおこなって、それでまた臥位に。一年前の日記や読みかえしノートを読んで、一〇時一一分に再度離床した。いつもと比べると滞在がみじかい。それでまた腕振り体操をやって肩まわりをほぐすとともに血や酸素をめぐらせて、瞑想はきょうはサボることにした。音楽も聞かず。なんとなくはやく飯を食いたい気がしたのだ。水切りケースのなかをかたづける。二段になっているうち水を受けるしたのケースのほうはきのうこすって洗ったが、格子状になっており食器などを乗せるうえのケースはめんどうくさくてまだ洗っていない。底が汚れてきているのだが。食事はキャベツと白菜と豆腐をまたスチームケースで加熱。これまで塩とか醤油で食っていたがよくよくかんがえれば温野菜だからといってそうしなければならない法はない。それできょうはドレッシングをかけた。それもよい。くわえて母親がきのう持ってきてくれたほうれん草のバター炒めを食べてしまうことに。あと肉まん。ウェブを見つつエネルギーを身に取り入れ、食後はやはり母親が持ってきてくれた菓子類を食い、しばらくのらくらと時間を過ごしたあと、一二時半ごろになって湯を浴びることに。どうもじぶんのからだから脂っぽいにおいが立っているようでわずらわしかったので。これは過去実家にいたころにもおりおり感じたもので、とくに手のひらがそうなのだけれど、たぶん汗とか油脂とか分泌物のにおいだとおもわれ、逆にいえばそういうにおいが立つくらいにはからだがほぐれあたたまって、めぐりがよくなっているということでもある。
  • 湯を浴びたのちに洗濯の用意をしていままわしており、そろそろ終わるとおもうのだが、また腕振りをしばらくやってからここまで書いて一時二六分。よい感じだ。
  • いま午後一〇時四五分。きょうはここまでで一六日、一八日、二〇日を書いてかたづけ、投稿。あいだの一七日と一九日は当日中にだいたい書いてあったのでそれでよかろうと。だいぶよくやったと言ってよい。一八日まで書いた時点で九時過ぎだったが、やはりあたまがかたいような、あたまのなかもそうだが頭蓋や額や目のあたりなんかもふつうに肉体的にかたくなっている感じがしたので、ひとまわりあるいてこようと夜歩きにも出た。そうしてもどってきて煮込みうどんのために野菜とキノコを切って鍋にしこんでから、さきほど二〇日をすこしだけ書き足してしあげたかたち。あるきに出るさいについでに燃えるゴミも出した。腕振り体操をおりおりやっているけれど、そうするとからだがあたたまってゆびもなめらかになるし、精神のほうもわりとリラックスしておちつくから、しゃかりきにならずに、意識をうばわれすぎずに書くことができるし、ストレスを感じても察知がはやい。よさそうだ。とはいえそれで不安がないかといえばそうとは言えず、からだのほうがよくなってきたのにつれてもっと潜在的な不安、抽象的な、形而上学的な、要するにじぶんの存在や実存にまつわるものらしき不安が、かすかでうっすらとしたものではありながらもときどき浮かび上がってくる。からだが安定していても、漠然とした、ゆえのない潜在的なおびやかしの感触をおりおりにおぼえる。芥川龍之介がそれを理由に自殺した不安、わけのない、なにを対象としたものかもわからない茫漠とした不安(ほんにんがどういうことばでそれを指していたかわすれたが)の、これはおそらく小規模なものである。不安というのは根本的にはすべて、そのような存在論的なみなもとから来ているものなのではないか。要はじぶんが存在していることそのものにたいする不安、したがって死にたいする不安である。じぶんの存在性と死とは、ほとんどおなじものとして、つまり不安の源泉としては区別のないものとして対象化されている。そこでおもわれている死はひじょうに観念的なものであり、死のまえにおとずれるであろうもろもろの苦痛がいやだ、怖いということとはまたべつの次元にあるものである(もちろんそういう肉体的・精神的・現世的な苦痛もいやだが)。じぶんにおいてはそれがおそらく発狂への不安というかたちでもうすこし具体的な形態、というかイメージに転化しており、そこでいわれる発狂はじぶんがじぶんでなくなるようなこと、自我をうしなうようなことが漠然と想定されているから、したがってそれはおのれの死とだいたい同一とかんがえてよい。二〇一七年の末から一八年の序盤にかけてはそうした狂いへの恐怖がこちらにおいて支配的だったが、それとおそらく同種の、ちかしいらしき不安を、かすかでうっすらとしたものではありながらも身の内に感じる。それが致命的なほどに高まってくるということはたぶんなさそうだが、確言はできない。そういう根源的不安はじぶんのなかに潜在的にずっとあり、ただいままではヤクの効果によってそれが飼いならされていたというだけのことなのかもしれない。じっさい、一七年末におかしくなったときももう治ったとおもってしばらくヤクを飲んでいなかったし、今回越してきてパニック障害が再発したさいもおなじである(今回は過去の経験を踏まえて再発はありうることだと予測していたが)。不安という問題はじぶんにあってはだいたいのところ七割方くらいはからだに依存しているものだとおもっているが、からだによってはどうにもならない精神的な領分の問題がやはりとうぜんながらそこにはのこる(あるいは、その七割方を「緊張」と呼び、三割の両分を「不安」や「恐怖」としてカテゴリ分けするのでもよいかもしれない)。その三割のうちの一割くらいはひじょうに根源的な、存在にかかわる抽象的なもので、おそらくひとの生においてこれを最終的に解決もしくは解消することはできないのではないか。なくなったとおもっても伏在していて、あるときなにかをきっかけに、あるいはなんの理由もなくもどってくるわけである。そこの最終的な解決をめざしたのがいちおう仏教ということになるのだとおもうが、だからといって仏教のおしえをいろいろまなんだり、修行をしたり、仏門にはいってみたりしたところで、じぶんにおいて不安の病が根治されるかというとそうもおもえない。それに、それをめざそうともおもわない。ほどほどのところにおさまっていてくれればそれでよいのだ。いまくらいの、ヤクを飲んでふつうに生きていけるくらいの感じであればそれでじゅうぶん。いままで苦しいときも楽なときも不安はだいたいいつもそこにあったし、これからも苦楽をともにしていくのだろう。キャプテン翼少年にとってのサッカーボールとおなじである。
  • そういったことをあるいているあいだにはかんがえていたが、部屋にもどってきて野菜を切り出すと心身がすっきりして、あたまがひらき、こころもちもちょっとあかるいような感触になったので、ひとまわりしてくるだけでもやはりよい。脚をうごかすのが大事なのかな。あるいているあいだにはもうひとつ、これは先日すでにおもいついていたことなのだが、いま行っている(……)にくわえて、アパート近辺の塾ではたらくのも手かもなとおもった。(……)まで行くと移動に時間がかかってだいぶたいへんだし、そのせいで日記もなかなか書けないが、よくかんがえればこの部屋からそれこそ一〇分もかからないような範囲に塾はいくつかあるのだ。そのうちひとつが個別指導で、しかもかんぜんマンツーマンとか書いてあったとおもうから、マンツーマンというのもおもしろそうではないかとおもったのだった。(……)を辞める気はいまのところない。なんだかんだながくいるからかなりやりやすいし、薄給とはいえはいった当初より給料はあがっているわけだし、なんか義理とか情みたいなものもないではない。あそこはあそこでひとつこちらがいままでずーっとやってきて、いろいろ試し、立場と関係をつくってきた場だから、これからもその場のなかで探究はつづけていきたい。ただ移動はつかれるしたいへんだから、(……)ではたらくのは週二日までにして、あといちにちか二日は近間のマンツーマンの塾でやると。そうすればあるいて一〇分くらいだから移動の負担もぜんぜんなく、家にいてオンラインでなにか金をかせぐのとそう変わらないことになるのではないかと。世間知らずなものでいままではたらいた職場というのが高校生のときにバイトしていた(……)と、それといまはたらいている塾のふたつしかないわけで、もっとほかの職場をみてみたいというきもちもある。まあそうおもいそう言いながら、いますぐそれに乗り出す気はないのだが。ただじっさい、オンラインでなにかやるというのもあんまり性分にあわなそうな気もするし、現実的にはそれがいいんじゃないかと。
  • これで一一時二〇分。きょうはけっこうたくさん書いたし、書いたぜ、という感じはそこそこあるので、きのうのことやこの日のことをこれいじょう書くつもりはない。このくらいにしておくのが吉だろう。あした労働だし。


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  • 日記読み: 2022/1/22, Sat.
  • 「読みかえし2」: 1109 - 1116