2023/1/30, Mon.

  荒野の歌

 花輪がひとつ アクラの地で 黒ずんだ木の葉で編まれた――
 そこで ぼくは黒馬の首を廻らし そして死をめがけて剣を突き出した。
 そして又ぼくは 木でできた皿からアクラの泉の灰を飲み
 そして 兜庇をおろして天の残骸に向かって進んだ。

 なぜならば 死んでいるのだ 天使たちは そして盲目になったのだ 主は アクラの地で、
 そして ぼくのために 眠りのなかで ここで瞑した者たちを世話する者は 誰もいない。
 叩きつぶされたのだ 月は、アクラの地のあの小さな花は――
 こうして咲いているのは 茨と競う 錆びた指輪を嵌めた手たち。

 だから その手たちがアクラで祈るとき、ぼくはその手に接吻するために 最後に身をかがめなければならない。
 おお 粗悪だったのだ 夜の鎖かたびらは、血がその留め金から滴る!
 だから ぼくは かれらの微笑んでいる兄弟に 鉄でできたアクラのケルビムになった。
 だから いまも その名を口にし、そしていまもそのほてりを頬に感じている。

 (中村朝子訳『パウル・ツェラン全詩集 第一巻』(青土社、一九九二年)、16~17; 『罌粟と記憶』(一九五二))



  • 一年前の日記から。部屋のかたづけをした機会に大学時代の教授のことをいろいろおもいだしている。「大学時代のじぶんはただのアホだった。ひるがえって卒業以降はずっとかんぜんに正解の道をあゆんできている」というこの自信と確信(いくらか虚勢が混ざっている気もするが)。

ほんとうは散歩に出たいなとおもっていたのだけれど、そのあとじぶんの部屋の掃除をすこししてしまった。母親があいかわらず生前整理というかんがえに憑かれており、ものを捨てたいけどやってる暇がない、どこからやればいいのかわからない、できるうちにやっとかないとどうしようもないことになっちゃう、畑の道具とか、どうしようっておもう、あんなにいろいろあって、あとのことをかんがえただけでもう、などとこの日ももらしていて、それに触発されたというわけではないのだが、自室の机上の一部にいらないものの集まったばしょがあるから、そこをかたづけて本を移せるスペースをつくろうと数日前からおもっていたのだ。机のうえには棚が載せられてあり、その左側三分の二は上下二段に仕切られており、こまごまとしたものが雑多に置かれてあって、ここもかたづけなければならないのだが、今回始末したのは右側三分の一で、ここは仕切りがなく縦長の空間となっている。そこにむかし買ったバンドスコアとか、なにかのファイルのたぐいとか、(……)にベースを借りたときにいっしょに借りた教則本などがながく手つかずで放置されていたのだ。それを片端からひっぱりだしていき、ベッドのうえに種別にならべる。教則本のたぐいはもういらないので縛ることにして、持ってきておいたビニールテープでまとめた。ファイルのたぐいもだいたい音楽関連のもので、(……)がくれたスコア(かれはいまはもうなくなったPAN SCHOOL OF MUSIC(代々木駅のちかくにあった学校で、たしかその跡地にまたべつの音楽学校ができていたような気がするのだが)にかよっており、そこでジャズのセッションとかしていて、スタンダード曲の楽譜がはいったファイルをくれたのだが、みてみるとスタンダードといってもド定番という曲はあまりなく、Jackie McLeanとかJimmy Heathの曲なんて混ざっていた)とか、こちらがじぶんでつくったスコアとかだが、楽譜形式のルーズリーフを綴じたファイルがおおかった。さいしょの数枚だけ音符が書いてあってあとは五線譜を縦線でくぎっただけの空スコアがつづくというものもけっこうあって、ひとつにまとめればいいのにそうしていないというのは、いろいろ耳コピをしてスコアをつくろうというのをなんどかやりはじめてはすぐに頓挫することをくりかえしたのが見て取れる。あと、クリアファイルに大学時代の講義の資料がはいっているのも多かった。講義をききながら内容をメモしたルーズリーフもふくまれていたが(未使用のルーズリーフも、ふつうのノート様のものもスコア式のものもかなりおおくのこっていた)、むかしのじぶんの字がこんなだったのだな、というのはちょっとおもしろかった。かなり丸い筆跡で、なぜあんなに丸かったのかわからないが、大学時代から数年間は丸文字だった記憶がある。いまはもう丸くはなく、カクカクとまではいかないが、どちらかといえばシュッとしているタイプの文字だとおもう。たぶん、几帳面そう、といわれるような感じなのではないか。おととし(だったとおもうのだが。二〇二〇年のことである)の夏に(……)さんと面談したさいには、パチパチしてる、と言われ、「線香花火みたい」というなかなか独特の比喩で評された。そのころからくらべてもいまの筆跡はたしょう変化しているとおもうが。レジュメがおおくのこっていたのは史学概論で、これはたぶん佐藤真みたいななまえのひとがやっていた講義ではないかとおもう。いま検索すると佐藤真一という学者がいて、ランケについてなどやたら論文を書いているので、このひとだ。『ヨーロッパ史学史』という真っ青な表紙の本を買わされた記憶がある。講義としてはぜんぜん印象にのこっておらず、とうじのじぶんの知的教養も関心のレベルもクソみたいなものだったのでしかたがないのだが、レジュメを瞥見したところ、ランケをあつかった回はとうぜんあった。しかし西洋史コースに属していながら、ランケなどいままで一文字も読んだことがない。ちょっとおどろいたのは第一三回にとりあげられていたのがアビ・ヴァールブルクだったことで、美術史家としてあつかわれたのだとおもうが、史学概論でヴァールブルクなんてやってたのか、とおもった。しかし、たしかにこちらは大学生とうじに岩波文庫の『蛇儀礼』を買って読んだことがあり、たしかまだ手もとに置いてあったとおもうのだけれど、それはこの講義でヴァールブルクというなまえをきいたからだったのかもしれない。講義でもうひとつ印象にのこっているのは古代ギリシャを専門にしていた教授のもので、松平千秋ではもちろんないのだけれどなにか松がついたなまえだった気がする。松園さんではない、かれはイングランドをやっていたひとだ。いま検索すると古代ローマが専門の松原俊文というひとが出てきたが、このひとだったか不明。講義はこれも西洋史概論みたいなかんじの必修科目だったとおもうが、このひとは目がほそくて声が比較的高めで、ややかすれていたような気もされ、ことばに詰まると「ん~~~」とか「え~~~!」みたいな感じのうなり声を出しつつようやくひねり出す、みたいな話し方で、そのうなりぶりがなかなかおおきかったので印象にのこっている。あとは、トゥキュディデスのことをかならず「ツキジデス」と言っていたのもよくおぼえている。むかしはそういう表記だったのだろう。

そういったもろもろのいらないプリントなどを始末。ファイルにはいっていたスコア類もいちいちとりだして始末。ファイルのうちいちばんおおきなやつには、職場から予習用にコピーしてきた教材のプリントを整理して入れておいた。捨てずに取っておけばまたいずれ必要になったときにつかえる。あと、『史観』も五冊くらいあった。これは早稲田大学史学会が出しているうすい論誌で、西洋史コースに属していた人間にはただで配布されていたのだ。目次をみてみても興味を惹かれる論文はそんなにないのだが、まあそういうのを読むのも一興とおもっていちおう取っておくことにした。ちなみに大学時代にそこそこ接した教授はみんなそれなりに印象にのこっているのだが、なかにひとり前田さんという古代メソポタミア研究のひとがいて、もう大御所みたいな感じの扱いだったが、このひとはいつもグラサンをかけていて、(……)くんがその後もときおり思い返していたところによると、授業中によくねむっている生徒とかはなしをきいていないような生徒についてぼやいていたという。とうじは馬鹿で学問というものを知らないものだから、古代メソポタミアなんて興味ねえし、という感じだったし、まわりもだいたいそうだったはず。同期にひとり、前田さんのもとでメソポタミアをやるといって卒論指導を受けた女性がいたとおもったが(なんか重谷みたいなかんじで、「おも」という音がはいっていたような気がするが、重谷みたいななまえはたしか高校の同級生にもいたはずで、かれはエリック・クラプトンとかが好きな渋い趣味の男子だったが、そちらと混ざっている可能性がある)、ずいぶん物好きだなというあつかわれかただったとおもう。じぶんの人生におけるおおきなあやまちのひとつは、大学時代に文学にふれはじめなかったことと、もっと本を読んでおかなかったことだ。大学中央図書館なんてあんなに巨大でとてつもない規模の知の集積だったのに、たぶん五回くらいしか行かなかったんではないかとおもう(戸山キャンパスの図書館はけっこう頻繁に行ったが)。大学時代のじぶんはただのアホだった。ひるがえって卒業以降はずっとかんぜんに正解の道をあゆんできている。

  • あと、二年前の日記から以下の部分を引いていた。やや暗黒的な思想のニュアンスがあり、そんなにするどい見地ではないが、ちょっとだけおもしろくなくもない。

(……)風呂洗いをしながら思ったのだけれど、親 - 子というのはおそらくこの世でもっとも非対称的な関係なのではないか。比喩的に言えば、生産者 - 生産物の関係であり、それが作者 - 作品と重ね合わせて考えられるのは古来お馴染みのところだ。で、子にとって、生産されたということ、自分の存在の起源として親があるということは、それだけでひとつの負い目のようなものとなりうる。親孝行とか育ててもらったことに対する親への感謝とか、そういう世間的道徳観はもろもろあって、こちらもそれに反対するではないのだけれど、ただ、人間が子を成し、そしてその子を育てるという行為は、それだけでもうひとつの借金をあたえることになるのだなと思った。これはべつに目新しい考え方ではないが、というのも、ひとはもちろん、生まれたばかりの時期は独力では何もできず、自力で生命を維持することが不可能だからである。むろん多くの親は、大変なこと、大きな苦労はありつつも多かれ少なかれ我が子を可愛がって育てるし、存在を生み出した責任を真面目にとらえて、子のためにさまざまなことをやってあげ、その健康を保ち、人間主体として形成されるための手助けをするだろう。大まかに言って、愛と呼ばれるものが注がれることが多いだろう。それ自体は価値のあることだと思う。そして、この愛がそれ自体で、もう呪いであり、枷である、ということがあるのだなと思った。親が完璧に真正な善意と純粋に無償の愛で子を育てたとしても、そのこと自体が負い目となり借金となる可能性があるというか、すくなくともそういう風に解釈することは可能だろうと。言ってみれば、親は彼らの欲望でもって子を生み出し、親としての責任感と愛情からその子を多かれ少なかれ手厚く育てるのだけれど、子のほうから見れば、これは、自分が生み出されてまだ何もできない時点で、当然自分の意志とはまるでかかわりのないところで、勝手に負債を負わされた、ととらえることも容易にできる。こちら自身がそのように強く感じているわけではないが、そういう解釈は可能だろうし、実際にそういう風に感じている人間も、いくらもいるだろう。もう一度注意しておきたいが、こういう解釈において、親のほうの善意や愛情の真正さは本質的な問題ではない。その点がまちがいなく完璧で、何不自由なく手厚く育てられたとしても、そのこと自体が構造的に不可避的に負債になるということだ。したがって、ひとは、親への感謝を口にし、親孝行を推奨し、ときにその通念にしたがったり反発したりする。感謝と孝行とは、負債の埋め合わせである。反発とは、負債を蹴り倒すことである。こういう意味において、子を成して育てるというひとの営みは、一面では、それ自体が呪いであり枷であり、一種の悪徳商法的詐術みたいなものだなと思ったのだった。親 - 子関係がこの世で最大の非対称関係だというのはそういう話だ。人間は、生まれた瞬間に、存在論的に借金を課され、今度は自分が他者に対して借金を課すことをくり返して、種を存続してきた(ときに、他者に借金を課すことこそが、そのまま自分の借金を返済するということにもなりうる)。こちらがこの生で子をつくりたいという欲望がまったく起こらないのは、ひとつには、このような非対称関係を否応なく他者に課すということをしたくないからなのだろう。

  • さくばんは椅子についているあいだいつの間にか意識をてばなしてしまい、気づくと時刻は一時過ぎ、あしたの朝通話だからいま寝ればちょうどいいやとおもってそのまま寝床にうつって正式に就寝した。そしてまだ明けない五時くらいにいちど覚めたおぼえがある。寒かった。寝間着のうえにダウンジャケットを着込んだままで掛け布団いちまいだけで寝ているのだが、からだを伸ばした状態だと端のほうがそこそこ寒く、しかし横を向いて丸めればさほどでもない。とはいえ毛布を出したほうがよいかもしれない(しかしいまさら?)。寝ついたのち再度覚めたのが七時半ごろ、口から息を吐きつつ腕を揉んだり胸をさすったり、枕をどかしてあたまを左右にゴロゴロやったりして、八時をまわって起き上がった。カーテンをあけるときょうも人工色のように青々とした無雲の快晴の朝。首と肩をまわし、立ち上がると水を一杯飲んで、布団のうえでちょっとだけ腕を振るとまた横に。Chromebookをひらいてウェブをみたり日記を読んだり。LINEにアクセスすると(……)くんが、(……)のほうであまりにいそがしく参加している余裕がないので、(……)さんといっしょに三月くらいまで休みにさせてもらってもよいだろうかと言っていた。返信はひとまず措いておいて(寝ながら打つのがやりにくいので)読みものを読み、比較的はやく九時くらいで離床した。いちど寝床を抜けたときにもう洗濯もやっておいたのだった。袋に溜まっているものはすくなかったので、洗面所のタオルや手を拭く用に冷蔵庫のうえに置いてあるタオルや、さいきん着ていたジャージをくわえて洗うことにした。それでジャージはもうひとつの、紺色のアディダスのやつを着て、LINEに返答しつつ(……)さんにきょうはどうするかと聞いてみると、じぶんもすこし体調がわるいので来週でもよいかというので了承。これで通話はなくなったので、はやく起きた分労働までの猶予ができ、それはそれでよろしい。洗濯物を干した。風はさほど感じられない、あかるい宙のおだやかな日和とみえる。それからまた腕を振ったりちょっと体操したりしたのち、食事の支度へ。きのう炊飯器にまつわってものの配置換えをしたので、ながしの右側、扉横の靴箱のうえに電子レンジがでんと鎮座して視界におおきかったのが、炊飯器とその他小間物だけになったのですっきりと隙間が生まれており、なんとなく目によい。かわりに冷蔵庫のうえにでんとあるわけだが。しかし周辺空間のひろさからするとそちらに置いたほうがよいのかもしれない。水切りケースのなかにあるプラスチックゴミをスリッパを履いた足で踏み潰して始末し、れいのごとくスチームケースにキャベツと白菜と豆腐をしこむとレンジでまわす。待っているあいだはまた腕振り体操をやっていた。リラックスできる。ところでキャベツはこれでなくなり、まもなくつかいきるのを見込んで、二日前の帰路にスーパーに行ったさいちょうど安くなっている半玉があったので買っておいたが、昨夜あした燃えるゴミだから出しておかなければとおもいつつも怠けてしまってけっきょく出せなかったのはしまったの感だ。温野菜のほかには即席の味噌汁を用意して卓、というかデスクへ。食す。さらにたまごのランチパックを食べるのだが、そのまえにながしに立ってスチームケースや椀を洗ってしまう、きれぎれの食事である。バナナとヨーグルトも食後に。バナナは二七日にスーパーに行ったときに九〇円弱に安くなっているのがいくつもあり、二袋買っておいたのでまだある。洗い物をすべてかたづけると味噌汁につかった湯のあまりをマグカップにそそいでおいたのをちびちびやり、まもなく歯磨きも済ませて、足首をまわしたりしながらウェブをみているうちに一一時半を越え、湯を浴びるかという気になった。まちがえた、さきに煮込みうどんをつくっておくことにしたのだ。それでまな板と包丁をまた取り出し、鍋に水をそそいでコンロに置いて、エノキダケから切り出して投入していく。ついでタマネギ、シイタケ、白菜、ニンジン、大根。ニンジンは三本で一袋のやつだがこれも安くなっていたやつで、つかった一本はさきのほうにすこしだけ痣のように薄黒ずんだところがあったし、ほかの二本はラップにつつんでおいたほうがいいかなとおもってそうした。そんなにまいにちスープもつくらないし。白菜はほぼ終了。野菜を煮ているあいだにまた腕を振っているとクソがしたくなったのでトイレにはいってクソを垂れ、またちょっと煮て鍋の灰汁を取ったあと、湯を浴びることにした。バスタオルを用意して浴室の扉のすぐ脇に置いておき、椅子のうえにはダウンジャケットや脱いだジャージや肌着。フェイスタオルをいちまい持っていざ浴室へ行き、れいによって湯のノブだけをまずひねってシャワーが熱湯になって室があたたまってくるのを待つ。吐き出されているシャワーの水をみているとだんだんその斜めの線条群のまわりに多重スカートの襞のように湯気がまつわりだして、直後、薄く液体の溜まった浴槽底のほうからも跳ねかえりのように応答のようにもわもわ湧いてくるものがあり、湯気の発生源はさらに斜めに走る湯のより上方へと波及していって多重もなにもなくかたちをもたない気体の膜がだんだん宙を満たしていくのだが、そのかすみぐあいがなぜだか知らないがいつもよりはるかに濃く、からだにまつわって肌をすこし見づらくするくらいで、いつもはこんなに白くならない、視界もこんなにうばわれないぞとおもった。最弱ではあるがコンロで火をつかっているのと関係しているのだろうか、あるいはそちらの換気扇もつかっているから浴室内の換気扇が弱いのだろうかとかんがえつつ温度を調節してからなかにはいり、視界があまり白すぎてもあれなので扉をほんのわずかひらいて蒸気の逃げていくすきまをつくって湯を浴びた。からだとあたまを洗ってあがる。はいるときは血がめぐっていればさほど寒くもないのだが、出てくるときはやはり空気が冷たい。からだを拭いて服をまとい、髪をかわかして、鍋に豆腐と麺をくわえるときょうの日記をここまで。一時半。ゆびはかるく、緊張もないしいやな感じやきもちわるさもないが、背や腰やあたまなどぜんたいてきなこごりと肌のざらつきは否めない。きょうは四時には出る。三時ごろ飯を食うつもり。
  • 離床後に瞑想もしている。九時三九分からほぼ二〇分。あたまのなかに生じる言語化された思念や、漠然とした観念や、視覚的イメージとしての表象やはたまた記憶などの遊泳が瞑目中の意識野において認知されるわけだが、そのような精神的要素の去来を焦点化したときに、これらがよってきたるばしょ、また去っていくばしょとして、見えず感知できず認識もされない領野にある普遍的アーカイヴのようなものが想定されるというのはわからないでもないなとおもった。ぜんぜん知らないのだが集合的無意識ってそういうはなしなのだろうか。フロイトにおいてもたしか無意識領域にはその個人のすべての体験や記憶が保存されているという説だった気がするのだが。それを個人の範囲から拡張すれば、間主観的(といういいかたはちがうか?)かつ超越 - 伏在的普遍的アーカイヴみたいな発想に容易になるだろう。
  • いま帰宅後、三一日の午前三時直前。さきほど二七日の記事にスーパーに行ったときのことだけ書き足してしあげ、投稿したところだ。きょうは労働があり、かつ予想されたとおり退勤は遅くなって、帰り着いたのはもう日付替わりも目前のころだったのだけれど、にもかかわらずこうして夜更かししながら文を書くことができているとはなかなか活力があり、それはあきらかに腕振り体操をよくやったおかげである。腕から手先まであたたまって打鍵はしやすいし、頭蓋のほうもそこそこほぐれるのであたまのかたさが取れてリラックスできる。あと意識がおちつくとともにやや覚醒的になって、あまりねむくならない。ブログに記事を投稿するさいに(……)さんがブログを更新しているのに気づいたのでアクセスし、近況を読んだのだが、料理のことはなにひとつわからんが客単価四万円の天麩羅屋の大将を来年頭くらいからできそうとかいっているし、「自分しか作れない料理、踏めない線、たどり着けない場所は絶対にある」とか、「たまにお客さんに天才とか芸術家だと言われることがある」(「けど、自分では1ミリもそう思わない」)とかいうことばがみられるので、なんだかわからんがどうもやばい領域に行っているらしいぞというえたいのしれない感だけがひしひしとつたわってくる。(……)さんの揚げた天麩羅を食ったとしてもじぶんはその価値やうまさの真髄をなにひとつ感じ取ることができないだろう(おれは一〇〇円の麺で煮込みうどんをつくってうまいうまいと悦に入っているにんげんだ)。(……)さんくらいいろいろ食べて飲んできて多数の店を知っているひとならこれはやばいということがわかるのかもしれない。
  • きょうは授業の終わったあとに保護者と生徒と室長との三者面談に四者目として同席して授業のようすをはなしたり、やりとりを見聞きしたりしたのだが、授業のあいだは問題なかったのだけれどいざ面談の席につくと緊張がけっこう高まってきて、喉や背骨の奥が詰まり体内からなにかがあがってきそうな感覚もあったし、何食わぬ顔をよそおいながらそれに耐えつつ鼻で呼吸を深くして肩周りをやわらげようとこころみたのだが、じきに両腕が弱いしびれでおおわれるようになってきて、これはたしょうやばいのではないかとおもいつつもどうすることもできないから呼吸をつづけ、そわそわと手のゆびを伸ばしたり、あまりおおっぴらに首をまわしたりしては失礼になってしまうからひかえめにちょっと曲げたり肩もうごかしたり、姿勢も背もたれにあずけてみたりそこからはなして胸を張って背を伸ばしてみたりと、おちつかない状態だったのだけれど、けっきょく致命的なことにはいたらずどうにかなった。終わったあともしばらく両腕はしびれていたが。そんな調子でも終わったあとに室長からは「いい面談でした」と満足のことばをいただいた。さいしょに授業のようすをはなしたあとはからだがいやな感じだったのであまりしゃべらず、ときおり笑いをもらしながら基本黙って、たまにちょっとふったり室長がはなれたときにみじかく雑談したりというくらいのはたらきだったのだが、調子がよくなかったためにかえってでしゃばりすぎることにならなくてよかったのかもしれない。まだやはり緊張するシチュエーションにあたると緊張してそこそこ苦戦する。面談同席はあと二件あるのだけれど、ばあいによっては事前にヤクをブーストしてのぞんだほうがよいかもしれない。
  • 帰り着いたのは零時前で、リュックサックをおろすと服をきがえずストールもはずさないまますぐにながしのしたの戸棚からプラスチックゴミの袋をとりだし、大小五個ほどかかえて扉を抜けて階段をおり、建物脇のゴミ捨て場に出しておいた。ネットをかぶせておいてもどる。服を着替えると昼間にとりこんでおいたジャージをハンガーからはずしてたたみ(円形ハンガーのタオルのほうはまだたたんでいない)、寝床に横になってふくらはぎをもみつつ休んだが、食事があまり遅くなってもあれなので零時半過ぎには復活し、腕を振ったり後頭部をマッサージしたりしたあと、温野菜をつくるとともに鍋をあたためて深夜の夕食へ。食後は一時間くらいウェブをみてだらけたが、そこから日記にとりかかった一月さいごの丑三つである。なかなかよろしい。きのうのことは出るまえに書いて終えているので、あとは二八日ときょうのことだ。二八日が外出したのでながいのだが。しかしだんだんとまた文を違和感なく書けるようになってきていてよい感じだ。
  • 出発は四時五分ごろだったとおもう。公園と建設中の福祉施設前をすぎて南の車道沿いを西にすすむルートを取った。施設の端ではちいさめのタンクローリー(という名称で合っているのか気になっていま検索してみたところ、「ミキサー車」とか「生コン車」とかいうほうがただしいようだ)が出張って、れいの巨大な手榴弾みたいなかたちのななめにかたむいたタンク(表面に「生コン」という文字が記されており、そのまえにも文字があって、要は「~~生コン」という会社名が書かれていたようなのだが、前半の文字のほうはわすれてしまった)をゆっくり回していたが、そのさきから出てきてバケツ様の容れ物に落ちていくものの量はずいぶんとすくなく、ちびちびした調子だった。天気はよくて、車道沿いを行くあいだ南方の空に太陽がおおきくふくらんでいたおぼえがある。踏切りで待っているあいだも照らされていたはずで、そこを越えるときょうも中華料理屋の裏側、集合住宅とのあいだのスペースを通って空き地前に出たが、この集合住宅は塀に生け垣に内側には緑樹も何本もあり、とひろくはないが裏庭めいた場所もあるし、戸数も階数もそこそこあるようだったので、このくらいの規模だとアパートというよりもマンションというべきなのかもしれない。ふたつの正確な定義とそのちがいがわからない。空き地前からわずかに北上して、もうひとつの踏切りの前を左折すると西にまっすぐ(……)通りまでつうじる裏道になる。れいによって小便がしたくなってきていた。しかもきょうはなぜかいつもよりはやい。それで文化施設ではなくて病院のトイレを借りるかとおもい、左に道がひらいた箇所まで来ると渡って折れ、病院正面へとはいっていく。とくに用事がないのではいるのはこれがはじめてである。手を消毒するとともにおおきなモニターで自動的に体温測定がなされるしくみになっており、そこからそばには奥に支払いなどのカウンターと、そのまえで待つための長椅子がいくつも置かれている。そのへんを過ぎていっててきとうにトイレを探してすすむと掲示があったのでそれにしたがい、廊下をとおって目的地へ。用を足す。病院内はきれいだった。どこの病院でもまあある程度いじょうはきれいだろうが、そのきれいさは、こちらがよくコンビニとかスーパーなんかのあかるさについてつかう、無害ぶっている白さという言い方を援用するなら、衛生的ぶっているというか、いわば衛生的であるように装うことを義務づけられている雰囲気がただよっている、そういうたぐいのきれいさだ。用は済ませたのでそのまま入り口にもどって退出し、表のほうの歩道に出て西へ。(……)通りに着いた時点で電車まであと一五分くらいしかなくなっていて、またかよ、とおもった。じぶんのあるくスピードの遅さを甘くみている。このままの調子であるいていたら遅れるか、ギリギリ間に合うか否かというくらいになってしまう。もうすこし余裕がほしい。たぶん常人ならば我がアパートから(……)駅まで三五分くらい、はやいひとなら三〇分で行けるかもしれないが、こちらの足だと四〇分くらいはかかっている。だから余裕をもってぶらぶらあるいていくなら、四五分から五〇分くらいはみて出たほうがよい。
  • その後は先日と同様、交差点をわたってから一本内側の通りに移行し、遅れないようにこころもち大股でやや急いで行った。問題なく間に合う。さきほど小便をしたというのに駅に着くころにはまたちょっとしたくなってきていて、尿意はやすぎだろとおもうのだけれど、トイレに寄る猶予もあった。電車内のことは忘却。勤務時にうつる。(……)
  • (……)
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  • 退勤はまた一〇時半とかそのくらいの遅さになってしまった。一〇時くらいまで面談していたのでまあしかたはない。電車内のことはとくにおぼえていない。(……)で乗り換えて(……)に着き、ホームから改札にうつって抜ける段で、改札口のいちばん端のところで駅員室になにか訴えているひとがいる。よくみなかったが、キャリーバッグかスーツケース的な荷物をともなっていた。特に気にも留めずに改札を出て、SUICAの残高がもう乏しかったのでチャージしておこうとすぐ脇の券売機区画に寄り、カードに金を入れているあいだそのひとが駅員になんとか言っている声が聞こえてくる。あまり要領を得ない感じで、わたしなんとかかんとか、わたしなんとか、と「わたし」という一人称をしばしばはさみつつ、おなじ言い分をくりかえすような調子だった。わたしいま(……)で一四〇円払って、いまここに来て、そしたらなくなって、というような感じで、要は切符をなくしたというはなしのようだった。声は高くもなく低くもないがどちらかといえば高いほうにわずか寄っているかというほど、重さはない印象で、四〇代五〇代くらいのおっさんでこういう声のひといるわなと、そのくらいの年齢層かと聞いていたのだが、どうも要領を得ないひとで、駅員が切符をなくされた場合はうんぬんかんぬんとかいっているのに苛立ったらしく、声をいくぶんおおきくしてわたしなになに、とおなじことをまた訴えかかる。そこまで聞いたあたりで場をはなれて帰途に踏み出したが、細道を行きながら、こんな日付替わりも間近の夜更けにいったいなにをやっているのかと、こんな夜まではたらいているあいてに(といって駅員は夜番なのかもしれないが)わざわざ面倒をかけなくたっていいじゃないか、切符をなくしたなら一四〇円くらいもういちど払えばいいじゃないか、駅員も駅員のほうでマニュアル的なことばをくりかえすばかりの対応に安住していないで、切符をなくしたというならそのへんもっとよく聞いたり、出てきていっしょに探したりしてやれよとアホらしくおもい、けっきょくどうなったかなと気になってしまって、迷いつつももどるかというこころになった。たかだか一四〇円ぽっちをけちってんじゃねえ、アホらしい、なんだったらおれがかわりに払ってやると、時ならぬお節介が湧いて、また同時に野次馬根性も手伝って、(……)通りまで来たところで横断歩道をわたらず、左折して寺のまわりをぐるっとまわるかたちでもどるルートを取った。駅がちかづいてきても声が聞こえなかったのでもう終わったか、去ったか、といちどはみえたが、入り口まで来るとまだつづいていて、さきほどとおなじく券売機のところに立って(そこは改札を出て横に曲がった位置なので、あちらのようすは見えなくなる)盗み聞きしたり、また自動販売機に寄って飲み物をみている風に装いながら(自販があるのは、改札口のうち駅員室があるほうとは反対の端を出たその目の前である)、背後のやりとりを盗み聞きしたのだが、そこで男が言うに、わたし外国人で、ということで、そうだったのかとおもった。たしかに、ちらっと視線を送ったところでは、浅黒い肌の風貌のようだった(しかし視力があまりよくないので、そんなにこまかくは見えない)。それでおなじことをなんどもくりかえしたり、はなしの要領がつかみづらかったりしたのだ。ほんにんが言うにはじぶんは外国人だが、もう三〇年ここにいて、妻と子どももいる、みたいなことをさきほどよりもだいぶしずかなトーンで、つぶやくようにはなしており、同時に小銭をいじる音も聞こえてくるから解決しそうだなと判断したのだが、わたし、たぶん、嘘ついてる、とおもう、ともかれは言っており、つまり外国人だから嘘つきだといまあなたにおもわれているかもしれないが、それは偏見だという意識があったのだろう。過去にそういう経験もしてきたのかもしれない。とはいえそこで「嘘」というのはどういうことなのかよくわからんのだが。状況からして「嘘」の内容は切符をなくしたということしかかんがえられないが、切符をなくしたのがほんとうだったとして、かれの要求・要望がなんだったのかがいまいちわからない。というか、金を払わずに改札を通ろうとしていたようにおもえたのだけれど、ほんのすこしまえに買った切符だとしてもその現物がないなら、そりゃ通れるわけがないだろう。駅員の同情に訴えようとしていたのだろうか? なくしてしまったがじぶんはたしかに買ったのだから、と訴えて規則を曲げてもらおうとしていたのだろうか。よくわからないが、いずれにせよそのへんで諜報活動をやめて駅をはなれ、ふたたび帰途についた。


―――――

  • 日記読み: 2022/1/30, Sun.