2023/2/4, Sat.

  羊歯の秘密

 剣たちのつくる穹窿のなかで 影が 木の葉のような緑の心に見入る。
 抜き身の刃がいくつも光る――誰が 死につつまれて 鏡の前でためらわなかっただろう?
 そしてまた ここで 生き生きとした憂鬱が いくつもの壺で供される――
 憂鬱は 暗く咲き誇る、かれらが飲む前に、あたかもそれは水ではないかのように、
 あたかもそれは もっと暗い愛について、
 臥所のためのもっと黒いしとねについて、もっと重い髪について尋ねられる ここの一輪のひなぎくであるかのように……

 ここではしかし 鉄の鈍い輝きが案じられるだけだ、
 そしてもしここでもう一つ何かが輝くなら、それは剣であれ。(end37)
 ぼくたちは テーブルの壺を空にする、ただぼくたちを鏡たちがもてなしてくれるから――
 その一つが真っ二つに割れよ、ぼくたちが木の葉のような緑であるときに!

 (中村朝子訳『パウル・ツェラン全詩集 第一巻』(青土社、一九九二年)、37~38; 『罌粟と記憶』(一九五二))



  • 一年前より。ロシアのウクライナ侵攻まであと二〇日。ニュースでものものしさの高まりを追っている。

ハムエッグを焼いて新聞を読みつつ食事。国際面をいろいろ。きょうから北京五輪らしいが、ウイグルや香港のひとびとは冷ややかにみていると。そりゃそうだろう。アメリカはアントニオ・グテーレス国連事務総長に、北京五輪の開会式に出席しないようにとはたらきかけていたらしいが、総長は中国の機嫌を損ねるわけにはいかない、と断ったという。ロシアは東地中海に艦隊を派遣していて、かれらじしんはシリアにむかうと言っているが、NATOはとうぜん黒海にはいるのではないかと警戒して追跡監視をおこなっている。ウクライナキエフではロシア軍が侵攻してくる可能性にそなえて住民らが銃撃の訓練をしたり、当局が避難所のマップを配布したりしているという。中露の結託と米欧との対立と、建設的な対話が成立せず平行線をくりかえしているようすに、どうしたって第二次世界大戦前夜をおもいおこさずにはいない。なんの因果か、ガス室はないとしても、中国はウイグルのひとびとを収容所におくりこんでもいる。

  • 出勤路。

(……)道に出た。このときにはまた曇って空には白い絨緞のような雲があさく波打ちながらひろがっており、陽の色はなくて大気はさむざむしく、雨が落ちてきてもおかしくなさそうな色合い雰囲気だった。坂道の入り口から右手のしたにみえる細道沿いではきょうも家の新築がすすめられており、それを見下ろしつつ、また川のながれがかしらを白く盛り上げているのもながめながら通り過ぎるうち、なにかはげしくものを焼いているような、あるいは巨大な風か水を放出させているようなSのひびきがはじまって、新築の敷地に遠目にはカーリングのストーンに似たようななんらかの機械が置かれてあったので、それが駆動したものかとおもわれる。地面のうえに置いて下面から風か水を放出させ、あたりを洗ったり掃除したりするものかとおもったが、知れない。

街道の南側ではきょうも歩道工事が進行しており、おとといはながい穴だったところにモルタルというのかねずみ色のあれがもうながしこまれていて、人足がひとり縁のブロックをはさんで鏝でその表面を均していた。風が正面から来るのだが、眼鏡をかけているとその空気のぶつかりが余計に目にひりつくようで、まぶたのあいだを細めつつひっきりなしにまばたきしなければならなくて、それで目がつかれているなとおもい、裏路地をあるきながら眼鏡を一時はずして手に持ち、もう片手で眼窩をいくらか押した。あるいているあいだ、小学生を何人か見かける。ふたりで連れ立って雑談しながら帰路をあるく女児がいた。もうふたり、民家のあいだで塀にかこまれた駐車場の端にしゃがみこんでいる女児もおり、ひとりがランドセルをごそごそやって、なにか本らしきもの(絵本とか、イラストブック的なものだったような気がする)をとりだしていた。あたらしく買ったものを友だちに見せるような雰囲気。すすんで行って白猫の家のまえにかかると戸口のところに行儀よくたたずんでいたので立ち止まってみれば、こちらを見てすぐさまうごきだし、ミャアミャアちいさく声をもらしながらちかづいてきた。可愛らしい。ひとが止まるとだれでもそういうふうに寄っていく性分なのだろう。かれかかのじょか確認したことはないのだが、この猫はいつもかならずさいしょの邂逅時のみ鳴き声を発して、そのあとに鳴くことはない。出勤前でそんなに余裕はなかったので、しゃがんでちょっと撫でてやったのみできょうは別れた。

  • いちどめの食事時あたりで読んだ(……)さんのブログから。「そして微分とは、特定のベクトルとしてではなく、無数のベクトルとして定義されるものである」。

y=x2乗のグラフ(放物線)に対して、Xの変化にかかる時間あたりのyの移動距離を計算するとき、掛かった時間をかぎりなく0に近づけたときの値(瞬間の変化率)が微分である。そのとき、座標や曲線は実在し、目に見えるが、変化(ベクトル)はそうではない。微分とはすなわち目に見えないものであり、理念であり、潜在性である。

座標平面上の線が、見えるものであり、現実的なものである。接線にしても、座標平面上に見えるものとして図示できるから(…)、すなわち、座標平面上に顕在化可能なものであるから、現実化可能なものである。ところが、ベクトルを座標平面上に図示することはできないのである。ベクトルは、接点がどの方向へ向かうかという動向を表現するから、座標平面上では見えないものである。矢印表示は、見えないものを見えるようにするための苦肉の策でしかない(…)。したがって、ベクトルは、座標平面上の線として、見えるものではないという意味で、現実的ではなく理念的である。また、座標平面上に顕在化可能なものではないという意味で、顕在的ではなく潜在的である。ベクトルは、理念的で潜在的なのである。

 そして微分とは、特定のベクトルとしてではなく、無数のベクトルとして定義されるものである。とすれば微分は、理念的で潜在的なベクトル場として定義されるということになる(…)。かくて、微分的なものは、理念的で潜在的である。見えないものである。思考するしかないものである。

ドゥルーズの哲学」小泉義之 (講談社学術文庫 42頁)

     *

次のいささか奇怪な等式を例にとろう。

0.999…=1

留保抜きで断じておく。この等式は無意味である。0.999に続けて記号「…」を書き加えても、1に等しくなるはずがない。そもそも0.999と1は等しくないし、記号「…」には何の意味も与えられてないから、そんな無意味な記号を挿入したところで、等式が成立するはずがない。念を押すが、こんな等式は絶対に成立しない。

それでも私たちは、この等式が成り立つと考えることがある。高校では問題なく成り立つかのように教えられて、私たちもそれを鵜呑みにする。ここで問われるべきは、そのとき何を鵜呑みにしているかということである。こう思っているはずだ。0.999に続けて9を書き加えると、それだけ1に近づく。0.999と1の間には差異(1-0.999=0.001)があり、0.9999と1の間には、別の差異(1-0.9999=0.0001)がある。0.9999に続けて9を限りなく書き加えると、限りなく1に近づく。限りなく1との差異を小さくとれるから、等式は成り立つ。つまり記号「…」は、限りがないということ(可能的無限、無際限)を表すから、等式は成り立つ。

この思い込みは間違えている。第一に、限りがないということは、終わりがないということだから、いかに多くの9を書き連ねても、さらに続けて9を書き加えられるということである。したがって、いかに小さくとも差異は消えないし、いかにしても等式は成り立たない。第二に、「近づく」という運動論的な概念が曖昧である。それを明確に定義するためには、距離(位相)を明確に定めなければならない。そのためには極限や微分や連続体を明確に定めなければならない。振り出しに戻るのだ。だから、この段階で運動論的な概念で納得しても、何も分かったことにはならない。結局のところ、9を限りなく書き連ねれば1に近付くと思うときには、密かに数直線を想像して、等号「=」を矢印「→」に置き換えて分かったつもりになっているだけである。9をいくら書いても1にはならないという直観を手放してはならない。

ドゥルーズの哲学」小泉義之 (講談社学術文庫 44頁)

  • きょうは労働だった。いまは帰宅後、食事も取ってしばらく経った零時一五分。すなわち日付上はすでに二月五日日曜日に移行している。帰路、(……)駅に降り立つと、いつも左方のマンションの灯が視界の上部にはいるのでそれにさそわれて首を曲げてみあげるのがならいになっており、右隣にしばし停まったままでいる電車の向こう、対岸のホームも越えて反対側の駅前マンションのあかりにもやはり目を振ることがおおいが、きょうは左側のマンションに沿って頭上の空に視線がとどくと、だいぶまるくなった月がちいさく浮いており、そのいろがずいぶん白々とあかるかった。降りるもののほぼない最後尾からゆっくりホームをあるいていく。足取りは鷹揚である。ホームの端から端まであるくことになる。向かいの番線に渡る階段通路の手前まで来ると左に折れて、四段ほどのみじかい階段をくだると正面が改札となる。改札のこちらがわでだれかを待っているのか立ち尽くしている男がひとりおり、出たさきにはそこにも暗がりのなかで、だれかが駅から出てくるのを待っているらしい若い男がひとりいた。右方には明かりがついたままの自転車が停まっていて、その男のものかとおもったのだがよく見れば尻のところに子どもを乗せるようなちいさな座席があったので、ちがうな、券売機のところにいた女性のものかなと推した。細道にはいって東へ。スーパーの裏手では道からは見えづらい戸口のところに三人くらい従業員がいて、といってすがたがはっきりみえたのはひとりだけでほかふたりはほそながい薄片だったが、休憩中なのか知れないが全員立ったままでなにかはなしているようだった。あまり和気藹々とした雰囲気ではなく、さいしょ聞こえてきた声がすこし怒っているようにも響き、ひとりがほかふたりを叱りつけているところなのかなとおもったが、通りがかりに聞いた会話の気配ではそういう感じでもなく、どちらかというと問題について愚痴を言ったり、どうしようかねとなげいているような印象だった。店舗の位置まで来るとなかから女性ボーカルのソウル・ミュージックがきょうもながれており、それが軽快ないいやつで、おいおい機嫌のいい音楽だなと、ソウルフルスーパーとしての矜持をたもっているなと、側壁のまえをあるいてすすみながら漏れ聞こえてくるのをたのしんだのだが、サビらしきところでDon’t let me do the magicとうたっているように聞こえて、ご機嫌なやつだからこの文字列をおぼえておいて帰ったあとで検索しようとおもった。それでじっさい食事中にそのことをおもいだして検索してみたのだが、出てこない。ちゃんと聞き取れている自信はなかったし、うえの歌詞だと意味的にもよくわからないのでたぶんちがうなとはおもっていた。探しあぐねているうちに、そういえばサビのちかくでbaby, babyと二回くりかえしてたわとおもいだしたのでそれも条件にくわえ、するとたとえばSmokey Robinson & The Miraclesの”Baby Baby Don’t Cry”というやつが出てきたり(これはこれでよい。Smokey Robinsonのあの声!)、Fleetwood Macの”Don’t Let Me Down Again”というのが出てきたりして、Robinsonではないだろうとこちらは良いとして(いちおうちょっと聞いたが)、Fleetwood Macはもしかしたらこれかなとおもってながしてみたところ、軽快な曲であることはまちがいないがギターのリフをこんなにくりかえしていたか疑問だし、どうもちがう。その後いろいろこねくって、どういう文字列だったかわすれたが、検索結果のなかにDusty Springfield “Don’t Let Me Lose This Dream”が出てきたときがあって、これかもとおもい曲名で検索しなおすと、Aretha Franklinのバージョンがトップに出てくる。Arethaだといわれればそんな声だった気がされて、これじゃね? とYouTubeの音源(https://www.youtube.com/watch?v=EZ-VZ8gpbr0&ab_channel=ArethaFranklin-Topic(https://www.youtube.com/watch?v=EZ-VZ8gpbr0&ab_channel=ArethaFranklin-Topic))をながしてみると、さいしょのうちは聞き覚えがなかったのだが、後半、サビにうつって、あ、これだわ、と確定された。ご機嫌な音楽だ。こうやられてきもちよくならないわけがないだろうという。これだからアメリカっていう国は。六七年。Don’t let me, lo――se this dream / baby baby hold on / don’t let me, lo――se my dream、という感じでloseをながく伸ばしてうたうサビなのだが、二回目のdon’t let me lose my dreamをdon’t let me do the magicと聞き違えたのだ。ぜんぜん聞き取れてないやん。
  • スーパーを過ぎて横断歩道を、この時刻(九時半過ぎ)にもなれば車もたいしてとおらないので、ボタンも押さずふつうに渡り、裏道にはいる。みあげれば月が駅とおなじく直上付近にあり、青みのうかがえる空のなかに星も散ってすがすがしい夜天だ。月のいろは駅でみあげたときとくらべて、白さのみならず黄味をわずかにはらみはじめているようにみえた。婦人に抜かされる。目のまえの路上にはじぶんの影がくっきりもせず、色濃さももさっとしたあたまの輪郭も冴えない風情で浮かんでいる。モッズコートのポケットに両手を突っこんでいき、路地をいちど抜けて横方向の車道がはさまると、左から来る車両があったので目をひからせたそれを待ち、過ぎた直後に踏み出して渡ったが、そのさきでまた路地にはいってふたたび夜空をみあげると、月はさらに微妙に黄色を増したようにみえ、ここで解放感がむすばれて、過去はともかく未来のないような、いまこの瞬間が焦点化されて余計な外部のなくなったような、そういう心身、時間となった。行きの電車内、(……)で二、三分停まったときも、目を開けて扉のそとをみながらすこしそういう感覚になった。過去も未来もないのっぺらぼうの現在などありえはしない。過去と記憶はつねに目のまえの視界、事物、世界、意識にはいりこんでおり、言語と意味はこちらがみているものをあらかじめかたどり方向づけており、じぶんをじぶんたらしめる統覚は狂いをきたさず絶え間なくはたらいている。目のまえの視界はまた絶えず未来へとおくられつづけ、なにがしか先取りの意識を呼び寄せてくることもあるだろう。そうだとしてもたしかに、いまここが焦点化されて切り取られ浮かび上がってくるような、時空のエアポケットにふっとはいりこんでしまったような、そういう時間はときにおとずれてくる。過去や記憶や未来によってあらかじめ浸食され、それらが潜在的に集束しているのかもしれない、殺到しているのかもしれないということを理解しながらも、やはりそのどれともちがった現在としての唯一性が立ちあらわれ、あるいはおもわれるような時間が(むしろ過去や未来の殺到(のしかた)によってこそ、その現在の唯一性が確保されているのかもしれないが)。しかしそんな大仰な概念をもちいるほどのはなしでもない。多かれ少なかれ、だれだって日常生活のなかでそうした時間は経験しているはずだし、すくなくとも一生にいちどはそれに出くわしてなんらかの印象をえることくらいあるだろう。煙草を吸うひとはそのあいだに体験するかもしれないし、駅などで本を読んだりスマホをみたりしながら待っているあいだ、ふと目をあげたときのそこの風景がそうなることもあるだろう。瞬間的な微細さで明確に対象化されないとしても、そうした時間はだれの生のながれにもいっとき生じてくる。もっとも、それを自由と解放として受け取らず、不安を呼びこむ空漠として感じ、すぐさまそれを埋めてしまうひとも多いのかもしれないが。一〇〇年前だろうと一〇〇〇年前だろうと、澄んだ夜にふさわしいこうした瞬間はひとの身にあったし、これからさきもありつづける。たまさか現在の唯一性の浮上に出会って、短時そこにとらわれてしまったものは、いままでも無数にいたし、これからもいる。そのような想像的な道行きを取って、ひとまず外部から切り離されたかのようにおもわれた時間のなかに、仮想としての、あるいは妄想としての外部がふたたび復活し、忍びこんでくる。
  • 帰り着くと服を脱いだり寝間着を着たり、もらってきた菓子などをリュックサックから出したり。横になってしばらく休む。ともは吉田満戦艦大和ノ最期』。脚をマッサージしながらあまりながくはとどまらず、一〇時をまわったあたりで起き上がり、LINEをみると(……)が(……)のあたらしい音源をあげていたのでヘッドフォンで聞いてコメントし、ついでにBrad Mehldau『Live In Mariciac』のさいごの二曲も聞いた。すなわち”My Favorite Things”と”Dat Dere”。前者はずいぶんオーソドックスにやっているなというか、こねくりまわさず、Mehldauの独演のなかでは比較的地味なものと聞こえた。即興のイントロがしばらく演じられるが、その部分だけだとたぶん”My Favorite Things”とはわからず、ここでのコード進行は原曲ともちがって、よりポップス寄りになっているというか(”My Favorite Things”だってポップスにちがいはないだろうが)、切なげないろや染みるようなといわれそうな即興旋律が、なんというかわかりやすい雰囲気だ。”Dat Dere”はBobby Timmonsの曲で、MehldauがBobby Timmonsなんてやるの? というのがまず意外だけれど、聞けばずいぶん品のある、行儀の良い”Dat Dere”で、テーマの提示などやわらかだし、全体的にかっちりしており(たしょうのずらしはあるがそのずらしまでもがかっちりしている)、やっぱりファンキーにはならないのねとおもった。ところどころに出てくる語法、瞬間対位的にフレーズのながれを交錯させてみたり、低音部で単音メロディを打って散らすのや、蝶の翅がすばやくはばたくようにやや高めの場所で往復的に和音を打ちつづける場面など、アルバムでここまで聞いてきたMehldauのやり口、その得意技そのもので、”Dat Dere”をやっても”Dat Dere”というよりはやはりBrad Mehldauになってしまうのか、というのはある意味おもしろかった。この二曲はたぶんアンコールとしてやられたもののようだったので、ふだんから弾きまくって練度をたかめてあるわけではないのかもしれない。
  • この日も勤務だったが、出るまえのこととか往路のこととかはわすれた。職場に飛ぶ。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)


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  • 日記読み: 2022/2/4, Fri.