2023/2/6, Mon.

  饗宴

 夜が誘惑の高い梁の間のいくつもの瓶から空けれますように、
 敷居に歯で溝がつけられ、朝の前に 怒りの発作の種が播かれますように――
 ぼくたちには おそらくまだ苔が丈高く伸びるだろう、水車小屋からかれらがここに来る前に、
 ひそやかな穀物を ぼくたち かれらのゆっくりとした歯車のもとで見つけようと……

 毒をもった空たちの下では 別の茎たちはおそらくもっと黄灰色だろう、
 夢は こことは ぼくたちが快楽を賭けて賽を振るところとは異なって 造り出されるだろう、
 こことは 暗闇のなかで 忘却と不思議が交換されるところとは、
 すべてが 一時間しか有効でなく そして ぼくたちによって舌鼓みを打って吐き出さ(end44)れ、
 輝いている櫃たちの中の窓たちの貪欲な水のなかに投げつけられるところとは異なって―――
 人間の道路の上では すべては 雲を讃えてはじける!

 そこでお前たちは 外套にくるまり そしてぼくと一緒にテーブルの上にのぼれ――
 杯たちの只中で 立ったままでいる以外 どうやって眠ることができよう?
 ゆっくりとした歯車である誰のために ぼくたちはまだ夢を乾杯するのだろう?

 (中村朝子訳『パウル・ツェラン全詩集 第一巻』(青土社、一九九二年)、44~45; 『罌粟と記憶』(一九五二))



  • 一年前の日記から。ニュース。

(……)新聞に西村賢太の訃報が載っていた。五四歳。このあいだ石原慎太郎の追悼文載せてたばっかじゃん、とおもったが、四日にタクシーに乗っていたときに具合がわるくなり、病院にはこばれたときにはすでに心臓が停まって亡くなっていたという。その原稿をたのんだ記者がコメントを寄せており、無頼派だが、書くことにかんしては真面目で信頼できるひとだったと言っていた。当日三時に一二〇〇字を五時半までにとたのんだところ、五時半に連絡が来て、一五分だけ待ってくれと言われ、一分もおくれずにファックスで原稿がおくられてきたと。動揺もあって汚くなってしまってすみません、と表紙に書かれてあったという。その他国際面で、英仏がロシアとウクライナの仲介に意欲的にはたらいているという記事。ボリス・ジョンソンは他国に先駆けてキエフにはいり、ゼレンスキー大統領と会談し、苦しいときに駆けつけてくれる真の友人と感謝されたと。フランスも一月二八日以降でマクロンは三回プーチンと電話会談している。トルコやハンガリーも仲介に意欲を見せているとあった。ハンガリーといえば、きのうの新聞で北京五輪の開会式に首脳を派遣した国のリストが載っていたが、そのなかになくて、オルバーン・ヴィクトール政権は人権とかあまり気にしない強権体制だとおもっていたのだけれど、外交的ボイコットしたんだなとおもった(同様に東欧でナショナリズムをつよめているポーランドは派遣していた)。派遣していたのはだいたい中央アジアの国や南米(アルゼンチンの名があったはず)や、あと韓国。


「北欧、コロナ規制ほぼ解除へ ワクチン接種で死者増えず」(2022/2/6)(https://www.jiji.com/jc/article?k=2022020500399(https://www.jiji.com/jc/article?k=2022020500399))。「スウェーデンは9日からほぼ全ての規制を段階的に解除する」、「ワクチン接種の勧告は続くほか、感染者に自宅隔離を求めることも維持する。ただ、コロナ禍で導入されたマスク着用義務や集会の人数制限などの大半の規制は撤廃される」、「既にデンマークが2月1日からコロナ規制の大半を解除。ノルウェーも同様だ。規制がなお残るフィンランドも来月にはほぼ全面的な解除を示唆している」、「北欧諸国では「新型コロナを社会にとって危険とは分類しない」(デンマークのホイニケ保健・高齢者相)と見なす声も上がっている」とのこと。

  • オリンピックにたいする父親の反応。

北京オリンピックがはじまり、父親はスポーツやオリンピックをみて感動するのが好きなので、おそらく毎晩視聴している。この夜も、たしか風呂を出たときだったとおもうが、母親が、炬燵テーブルのうえにあるマヨネーズや醤油やわさびをしまっておいてと言うのでちかづくと、炬燵テーブルにタブレットを置いて放送をみている父親が(そのいっぽう、テレビはテレビで点いていて、このときはこちらもなんらかのオリンピックの映像がながれていたか、それかなにかのドラマだったはずだ)、選手のプレイに感動したらしくぐちゃぐちゃに泣きながら、ううん、ううんというような感じ入ったうなりをやや高めの音調でもらし、偉い! とおおきな声で叫んでいた。マヨネーズなどを取ってもとの場所に置いたり冷蔵庫に入れたりするあいだ、もうひとつ、高校生だよ、と感心の声をあげていた。そんな若いのにがんばっていてほんとうにすごい、えらい、という感動だろう。

  • To The Lighthouseの翻訳。そこそこよくやってはいる印象だが、独白部分はもうちょいどうにかなるような、うまくながれる文があるような気もした。but it was their relation, and his coming to her like that, openly, so that anyone could see, that discomposed her; のさいしょを、「けれど、夫との関係なのよね、困ってしまうのは」として、it was their relation …… that discomposed herの大枠を先取ったのは英断かなとはおもう。というか、こうするいがいにうまく処理するのはむずかしいのではないか。岩波文庫がどうしていたかはおぼえていないが。ブロックの順番どおりにやるのも可能ではあるだろうけれど、ここはいわゆる強調構文だしこれでいいだろうと判断したのだとおもう。
  • To The Lighthouse翻訳。夕食後から入浴をはさんでしあげ、いま一一時一八分。先週つくった分とあわせて示しておく。原文もいちおう、二段落目のさいしょから引いておく。今回やったのはshe did not like以降。


 するとたちまちラムジー夫人は、自身をたたみこみはじめるように見えた。ひとつの花びらがべつの一枚に閉じ合わされるように彼女はたたまれていき、そしてついには、全身がのしかかる疲労感にくずおれかかり、かろうじて残ったのは指を動かすほどの力でしかなかったが、それでもたおやかなすがたで消耗感に身をゆだねながら、グリム童話のページに指を走らせ撫でてみせた。それと同時に、彼女のなかを隅まで響き渡っていたのだ、これ以上ないいきおいまで押しひろがったあと、おだやかにしずまる泉の拍動にも似て、あるべきものを生み出せたのだというよろこびの脈動が。
 夫が立ち去っていくあいだ、この律動のひと打ちひと打ちが彼女と彼をつつみこむようにおもわれ、また、二つの異なった音色が、一方は高いほう、他方は低いほうから行きあたってむすばれたときに分かち合うあの安息をも、二人に恵んでいるようだった。だが、その共振がおとろえ、ふたたび童話に意識を向けたとき、ラムジー夫人はからだがくたくたになっているだけでなく(彼女はいつも、出来事の渦中ではなくて、それが終わったあとになって疲労をおぼえるのだった)、別のところから来るなにか不快な感覚が、かすかながら肉体の消耗感にかさなっているのを感じ取った。とはいえ、「漁師のおかみ」の物語を読み聞かせているあいだ、彼女はその出どころを確かに理解していたわけではない。その不満感を言葉にしてかんがえようとも思わなかったが、ただ、ページをめくるために声を止めるときなど、波の砕ける響きがぼんやりと、不穏にただよって耳に入り、ああ、こういうことかもしれない、と思い当たるのだった。自分が夫よりも優れているなんて、一瞬だってそんなふうに思い上がったりはしないし、それに、夫にことばをかけるときも、本当かどうかあやふやなことを言うのは自分でゆるせない。いろんな大学やたくさんの人々があのひとのことを必要としているし、講義も、書いた本も、ものすごく重要な価値をもっている――それを疑ったことはすこしもないわ。けれど、夫との関係なのよね、困ってしまうのは。あんなふうにおおっぴらに来られると、誰かに見られるかもしれないのに。そうしたら、皆さんきっと言うでしょう、あいつ、奥さんに頼りきりだなあ、なんて。でも、あきらかに、わたしよりも夫のほうが、はかり知れないほど重要なひとなのだし、わたしだって世の中になにか貢献しているとしても、あのひとのやっていることに比べれば、塵みたいなものなのに。だけどそれだけじゃなくて、もうひとつ気がかりなのは――本当のことを言えないのよね、気後れしちゃって。たとえば温室の屋根も壊れているし、修理するってなれば、たぶん五〇ポンドはかかるでしょう。あと、本についても、ちょっと思うところがあって、あの人がうすうす感づいていそうで怖いのだけれど、最新の本はこれまでのなかで最高とはいえないんじゃないかしら(ウィリアム・バンクスさんの口ぶりでは、そんな気がするのだけれど)。ささいな日常の隠し事もいろいろあるし、子どもたちはそれを知っているけれど、隠すのがちょっと重荷になっているみたい――こうしたことごとが欠けるところのないよろこびを、相和する二つの音色が奏で出す純粋なよろこびを減退させ、そしてついには鬱々とした平板さをのこしながら、彼女の耳から音を絶やしてしまった。


Every throb of this pulse seemed, as he walked away, to enclose her and her husband, and to give to each that solace which two different notes, one high, one low, struck together, seem to give each other as they combine. Yet as the resonance died, and she turned to the Fairy Tale again, Mrs. Ramsey felt not only exhausted in body (afterwards, not at the time, she always felt this) but also there tinged her physical fatigue some faintly disagreeable sensation with another origin. Not that, as she read aloud the story of the Fisherman's Wife, she knew precisely what it came from; nor did she let herself put into words her dissatisfaction when she realized, at the turn of the page when she stopped and heard dully, ominously, a wave fall, how it came from this: she did not like, even for a second, to feel finer than her husband; and further, could not bear not being entirely sure, when she spoke to him, of the truth of what she said. Universities and people wanting him, lectures and books and their being of the highest importance—all that she did not doubt for a moment; but it was their relation, and his coming to her like that, openly, so that anyone could see, that discomposed her; for then people said he depended on her, when they must know that of the two he was infinitely the more important, and what she gave the world, in comparison with what he gave, negligible. But then again, it was the other thing too—not being able to tell him the truth, being afraid, for instance, about the greenhouse roof and the expense it would be, fifty pounds perhaps, to mend it; and then about his books, to be afraid that he might guess, what she a little suspected, that his last book was not quite his best book (she gathered that from William Bankes); and then to hide small daily things, and the children seeing it, and the burden it laid on them—all this diminished the entire joy, the pure joy, of the two notes sounding together, and let the sound die on her ear now with a dismal flatness.

  • こまかい註釈は面倒なのでやらないが、独白調にしたこともあって、今回はけっこう意訳気味になった(いつもわりとそうなのかもしれないが)。この女性の独白調というのも、これでいいのかなあというか、海外文学のお約束的なかんじがあって、はまっているのか疑念もある。「夫との関係なのよね」の「なのよね」とか、いかにもな感。そのまえの、「それを疑ったことはすこしもないわ」の「わ」も。ここは「すこしもない」で切ってもかまわないのだけれど、なぜか「わ」のついた口調が浮かんでしまった。なんというか、それが成功しているのかどうかわからないが、さいしょから「わたし」という一人称をつかってかんぜんに夫人の独白にするのではなく(「自分が夫よりも優れているなんて」の「自分」を「わたし」にすることもじゅうぶん可能である)、だんだんとそちらに移行していくようなやりかたを取っていて(それをもとから意図していたわけではなく、なんかそうなった)、「わ」はそのうちの一段を担ってはいる。つまり、「自分」ではじまったのが「あのひと」でやや人格性を帯び、「すこしもないわ」の「わ」でほぼ決定しつつ、「夫との関係なのよね」でかんぜんに独白の台詞調になると。
  • こういう台詞調がこれでいいのかわからないが、と言って一人称と三人称のあいだくらいでやっても、それはそれでうーん、というところ。岩波文庫はそうしていて、訳文だけで読むとながれているとおもうけれど、原文と見比べたときに、やっぱりもうすこしこなしたいなあ、と。ところでいまうえに引いた英文を読みなおしていて気づいたが、not being able to tell him the truth, being afraid, for instance, about the greenhouse roof and the expense it would be, fifty pounds perhaps, to mend itのぶぶんは、being afraid about the greenhouse roofの接続なのかもしれない。本当のことを言えないことと温室の屋根について気を揉んでいることが同格もしくは並列になっているのかもしれない。うえの訳では、not being able to tell him the truth about the greenhouse roofでかんがえてしまった。このばあい、being afraidのひとことは、to tell him the truthにうしろから付け足された副詞句という理解になる。いずれにしても直すのが面倒なのでもういじらない。それに、afraidは基本afraid ofのはずだ。また、温室の屋根のあとにはand then about his booksが出てくる。ここのaboutはあきらかにabout the greenhouse roofとの並列だが、ここもbeing afraidからつながっているとすると、being afraid about his books, to be afraid that he might guessということになって、afraidがかさなるから変になる。まあ自由間接話法らしき箇所なので、文法的にかっちりとしたスタンダードな文にはなっていないし、前置詞とか句だけでどんどん足していく向きもあるが、たぶんこちらの理解でいいのではないか。
  • 目を覚ましていちど時刻をみると七時三五分。からだの感じがなんだかよく、軽かった。たぶんきのうゴロゴロしながらながく書見しているあいだに腰をよくほぐしたためであろうと推察。からだがいつもよりあらかじめほぐれているような質感で、腕の表面がたしょう冷たくなってはいるけれど、ぜんぜん寒くない。とはいえすぐには起き上がらずに鼻から息を吐いたり胸や腕や腰をさすったりして、八時ちょうどくらいになってからだを起こした。カーテンをひらけばすばらしき無雲の晴天。下半身を布団のしたに突っこんだままのあぐらで首をまわしたり肩をまわしたり、腕を前方に伸ばしたりして、それから床を抜けて水を飲む。すぐにもどるとChromebookをひらき、ウェブをちょっとのぞいたのちNotionできょうの記事をこしらえて一年前の読みかえし。その後「読みかえし」ノートも。読みながらまた腰を左右にもぞもぞやってよくマッサージしておき、するとたしかにからだはあたたまり、かるくなる。呼吸もしやすくなる。きのうは椅子について打鍵しているあいだ、背中がこごってなかなかやりづらかったのだが、それはたぶん腰に起因するもので、土台となる背面の下部がそもそもほぐれていないとその影響がうえのほうにも来るということなんだろう。椅子に座るその姿勢に余計な力が必要になって、そのせいで背に負担がかかる。ゴロゴロしながら九時半くらいまで寝床にとどまってしまった。起き上がって座布団と枕を窓のそとに出し、布団をたたんでおいて、腕を振ったり背伸びやらなにやらしたあと、椅子について瞑想。九時四二分から一〇時二分までだった。きょうもさいしょとさいごにちょっと深呼吸。呼吸をするにあたっても、仙骨というのか、腰のあたりは意外と伸び縮みするので、そこがこごっていると息の通りもなめらかにならないのだとおもう。きょうはかなり楽だった。ほんのすこしだけねむいような感じ。目を開けたあとは片方の足をもう片方の腿のうえに乗せるかたちで足首をつかんでよくまわしておき、食事の支度へ。白菜がもうなくなってしまったし、キャベツものこりすくないのだが、温野菜のためにはそのキャベツとタマネギをつかうくらいしか策がない。エノキダケとか入れてもよいのだけれど、いちど開けるとちょっと面倒というか、汁物をつくるのにつかいたいのだが、きょう出勤前につくれるかさだかでなかったので。キャベツとタマネギと豆腐でどうにかしてレンジに入れ、まわしているあいだにまな板と包丁を洗って水切りケースにかたづけると、腕をちょっと振る。レンジが終わらないうちにこんどは椀に即席の味噌汁を出しておき、小袋はすぐに洗ってビニール袋に始末、電気ケトルももう水を汲んで稼働させておいて、そうして野菜の加熱が終わるのを待って取り出すときょうはドレッシングをかけた。デスクへ。椀にも湯をそそぎ、あまりはマグカップに入れて椀とともにデスクへ。食べだす。机上にいつも置いてあるパソコンがいぜんは閉じると自動的にスリープ状態になっていたのに、数日前からなっておらず、ひらくとすぐにもとの画面が表示されて復帰するのだが、なにも設定を変えたおぼえがないのだが? ウェブをみたり英文記事を読んだりしながらものを食う。野菜をおおかた食い終えたあたりでもぐもぐしながら立ち上がって、もうひとつの椀に冷凍の竜田揚げを三つ入れて加熱。あたたまるとそこに釜にのこった米をすべてくわえてしまい、鶏肉をおかずに米も食った。その他バナナ。わすれていたが洗濯機のうえで野菜を切っているあいだに、つまり一〇時一五分とかそのくらいのことだが、窓外からは保育園の子どもたちがそとに出てきてにぎやかにしているのが聞こえており、なかにひとり、さあいまから冒険に行くぞ! おれがリーダーだ! ついてこい! みたいな調子の(そういう意味のことを言っていたわけではなかった、というか、なんと言っていたのかは聞き取れなかったのだが)威勢の良さで叫んでいる男児がいた。保育士の女性が、~~先生お休みどうのこうのと言っており、声もちがっていたので(いつものひとより歳が若い気がする)、ふだん担当しているひとが休みなのだろう。いつものひとはわりとほがらかな声で、(……)ぐっみさ~ん、という感じで「(……)組」のあいだにちいさな「っ」を入れてちょっとリズムをつけるような呼びかけ方をするのだが、きょうのひとはそれより平板だった。あと、レンジがまわってしばらくすると加熱されたタマネギのにおいが漏れ出てきて感知されたのだけれど、そこで、「腋の下がタマネギ臭いといって彼を叱りつけることのできるこの世でただ一人の人間である母親のベンディシオン・アルバラド」みたいなフレーズが『族長の秋』にあったなと連想的におもいだした。
  • その後英文記事を読んだり、一二時くらいからころがって書見したり。『戦艦大和ノ最期』はきのう古山高麗雄の著者紹介いがい読み終えていたので、さいごのそれを読んで読了し、それから二月一八日の読書会のもうひとつの課題書である『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』へ。中公文庫だが、うしろのほうをみるとこの本はもともと一九八四年にダイヤモンド社から出たと書かれてあって、ダイヤモンド社ってさいきんは電車の広告によくみられるようななまえで、しょうじきしょうもないような自己啓発本ばかり出している印象なのだが、「はしがき」を読むにそれにしちゃずいぶんちゃんとした研究本だなとおもった。第一章は「失敗の事例的研究」で、さいしょにケーススタディされているノモンハン事件の経緯を読んでももうそこからおもしろい。ノモンハン事件なんてなまえしか知らないわけで、じっさいの具体的な経過がこうだったんだとか、そのあいだの関東軍参謀本部のやりとりや不和など、へえ、そういう感じだったんだという興味深さ。一時過ぎまで読み、起き上がるとトイレに行って小便をして、二食目のために漬けておいた炊飯器の釜を洗ってあらたに米を炊きだし、水を飲むときょうのことをここまで記した。もう二時が目前でやばい。三時過ぎには出る予定なので。いつもわすれるがきょうも洗濯をして、まだ窓外に干してあり、天気は快晴、姿勢をちょっと低めてレースのカーテンのむこうにのぞく空を透かし見れば、どうもぜんたいに粉っぽい雲が混ざっているのか青さはやわらかくなっているが、それがほんとうに雲のためなのか白幕をとおして見ているためなのかがわからず、カーテン上にはあかるい日なたもひろくひらいてその下端で洗濯物の影が中途半端な絵をなしている。
  • それから湯を浴びた。シャワーをからだにかけながら手でさすっても、あるいはボディソープを取って泡立てた素手で身を洗ってみても、肌の質感がかなりやわらかい印象。左腕にノイズもない。肘の付近がピリピリすることもない。出てくるともう二時半前。納豆ご飯とバナナだけ食っていくことに。それで食し、歯を磨けばもう三時だから出なければならない。洗濯物は入れるだけ入れて、バスタオルいちまいだけたたんでおいてのこりはのちほど(帰宅後にかたづけた)。ワイシャツを身につけて、ベストやスラックスは、南の壁についている物掛け用の細長い木板に、ジャケットもあわせてひとまとめにしているのをいったん取り、ジャケットをはずして椅子の背のうえに置いてからでないと身につけられない。あいまにネクタイも締める。締めながら、ネクタイの締め方というのも高校生になったときにおぼえたこの一種類しか知らないなとおもった。いろいろあるようなのだが。そうしてジャケットはあいかわらず着ないので(この冬はけっきょくいちども着ずに済むのではないか)、それはハンガーにかけてもとのところにもどしておき、モッズコートを羽織ってリュックサックに荷物を用意すると、流し台のしたの戸棚からプラスチックゴミを入れた袋を三つとりだして、かかえもって扉をあけると出たところで振り返ってしずかに閉めて、いったん建物外に行ってゴミを出した。昼間のひかりのもとでみると余計にしなびてごわごわにみえるネットをかぶせておく。階段をのぼってもどるとストールを巻き、マスクをつけて正式に出発。
  • 三時一〇分だった。道に出ると左へすすむ。空は雲混じりで太陽も白さを乗せられたなかにとらわれているが、粉っぽい白さをふくんだ水色もひろくみえる。公園前まで来ると、入り口の浅い段差数段のうえに立った男児が、水筒をくりかえしころがし落としてあそんでいた。右に折れて細道を抜け、わたるとコンビニのほうへと左折。白い格子状フェンスが歩道との境を画す駐車場のまえを行くにきょうも複数の横棒のうえを白光がななめにならんだ隊列のその間隔を崩さず推移していき、太陽は西南の空におおきくひろがっているものの、薄雲のなかにとらわれた身でもあり、視界はいつもほどながれ降るかがやきに領されず、目もそこまで細まるでなく、すれちがうひとのすがたも覆い尽くされない。コンビニの角を右折すれば道は一路西、街路樹の歩道をまっすぐ行って(……)通りの横断歩道まで来ると、そこでも太陽が、踏切りの向こうの建物のうえにまたあらわれて、目の前の横断歩道を待つ位置からみて左方、踏切りへとつうじていく車道をわたったさきには(……)の会館や申し訳のていでしかない公園があるのだが、施設の入り口あたりにはいつもヘルメットすがたのガードマンが立っており、葉にひかりをはじかせる周囲の木々とひとしくいま白いヘルメットも光点の宿り場となっているので、ガードマンはにんげんとしての性質をなかばうしなって一個の景物であることをまわりと共有しているかにみえた。道をわたり踏切りへすすんでいき、そこも越えたさきできょうも中華料理屋の裏手を抜ける。右に塀や垣根、そして庭木が配されたその奥に立つマンションは、みあげてかぞえてみるといちばん高いところで六階のようだった。左は中華料理屋店舗の裏だが、あらためてみてみるとここも一階は飯屋だけれど二、三階は貸し部屋になっているようで、「この建物は全室インターネット無料」みたいな広告が壁のどこかに貼られてあった。抜けると空き地前、北にちょっとすすんでからまた西向きに。この日は病院前で左折してふたたび表側に出た。空き地ではいま工事がすすめられているため、南側の歩道はとおれないようになっており(そこから車道をはさんだ対岸、もうひとつ南の歩道はとおれるようだが)、したがってこのように迂回しなければならない。水道工事とかあったような気がするが、なにができるのかよくわからず、ちかくから見ることもできないが、たださいきん現場には巨大なクレーンが出張っており、二日前にここをとおったときにも赤と白の、直線を組み合わせてつくられいかにもあやとりめいたそのななめの天への突き出しを空のいろを背後の褥としてながめたのだし、この日も目を向けつつ過ぎる。病院の敷地の前、棟がある範囲ではなくて、救急車が出ていく口があったり、電気や空調の設備なのかよくわからないものが設置されていたりするそのへんでは歩道のそちらがわが落ち葉や雑草の帯となっていて、ちいさな犬を連れた高年の男がなかにはいってガサガサ犬をあるかせていた。また文化施設に寄ってトイレ。出てすすめば(……)通りの交差点で、青ののこりがすくなくてもいそがなかったので信号につかまる。目のまえを過ぎていく車の窓に一瞬、立ち尽くしているじぶんのすがたがはいりこむのがくりかえしみえる。待っていると左のほうから救急車がサイレンを鳴らしながらやってきて、ほんとうによく遭遇するなとおもうが、車道の信号は青で前方車もいまちょうどなかったので、周囲を停止させることもなくふつうにとおりすぎていく白の車両を、対岸でこちら同様待っている数人はやはりなんとなく目で追っていた。わたるときょうもそのまま(……)通りにはいるのではなくて、右折して一本北側へ。西向きになってしばらくすると車の来ない隙で向かいにわたってしまうのは、建設中のマンションまえがとおれなくなっていて渡らなければならないのを先取りしたかたちだが、ところがきょうそこにはガードマンが立ってはいるものの、マンションはもうおおかたできあがったようで、シートもなくなりみあげる高さの切り立ったすがたがあらわになっていた。はやいものだ。そのちょうど向かいあたり、こちらがあるいている歩道の脇にもけっこうまえから囲われた広い区画があって、ここも巨大なマンションができるようなのだが、とおるとだいたいいつも高々としたクレーンが屹立しているのがみられ、きょうもそうでしかも二本、緑色の太い土台のうえに首をながく伸ばしていて、空を背景にするほかないその直立をみあげると、いつもなんだか目にたのしい。
  • 電車内の記憶はのこっていない。勤務。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)退勤は一〇時半くらいになった。帰路や帰宅後のことは忘却。


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  • 日記読み: 2022/2/6, Sun.
  • 「読みかえし2」: 1192 - 1198