2023/2/7, Tue.

  九月の暗い目

 石の頭巾 時。そしてもっと豊かに
 苦痛の巻毛は 大地の顔のまわりに湧き出る、
 一つの罪を負う文句の息に 褐色に焼かれた
 酔いしれた林檎のまわりに――美しく そして
 かれらが かれらの未来の邪悪な
 反射のなかでするゲームを嫌って。

 二度目の花盛りを 栗の木は迎える――
 オリオンが
 まもなく帰ることへの
 わずかに燃えた希望のしるし――天の(end46)
 盲目の友人たちの 星のさえざえと明るい熱情が
 かれを 呼び上げる。

 おおわれぬまま 夢のいくつもの門口で
 一つの孤独な目が争う。
 何が日々起こるのかを
 知ることで それには充分だ――
 東の窓辺で
 夜になると それに
 感情のか細いさすらいの姿が現れる。

 その姿の目のたたえる水の中へ お前は剣を沈める。

 (中村朝子訳『パウル・ツェラン全詩集 第一巻』(青土社、一九九二年)、46~47; 『罌粟と記憶』(一九五二))



  • 一年前。居間からの風景。

上階へ。ジャージにきがえる。きょうは快晴で、窓のそとはあかるく、まだ陽がたかまりきっていないからいっぽうで陰影も濃く、その青さとひかりのコントラストが透き通って洗われたような、清浄な風合いを空間にあたえている。近所の屋根はところどころ液体質の熱い白さを溜めて汀のようになっており、すぐそばの一軒は瓦屋根の襞が突出面をてらてら浮かべて、へんな比喩だが、長方形のおおきなネタでシャリがすっぽり覆われた握り寿司が整然とならんだようにも見えるし、ななめにそろっていっぽうを目がけて一散に飛びこんでいくとちゅうで停まったような白いかたまりのその群れは、涙の玉や勾玉に似た巨大な火花が無数に放射されたようでもある。

  • 「読みかえし2」から。

1208

 あなたはぼくの嘆きについて書いています、「わたしはそれを信じませんし、あなたも信じてはいないのです。」 この考えは不幸であり、ぼくにその責任がないわけではありません。ぼくが嘆くことにおいてある熟練に到達したことは否定できません(残念ながら最も十分な理由があって)、そのため心ではそれほど思っていないとしても、嘆きの調子はぼくにとって、街の乞食とおなじく、いつも自由自在といっていいのです。しかしぼくは、あなたを納得させるという、四六時中のぼくの義務を認識しており、そのため機械的に空っぽな頭で愁嘆し、もちろんそれで逆効果を得るのです。「あなたはそれを信じない」で、その不信をまた真実の嘆きにまで及ぼすのです。
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、301; 一九一三年三月九日)


1209

 「あなたがわたしから奪われるかもしれないという感情」――どうしてぼくがそれを持たないわけがありましょう、最愛のひと、ぼくが自分にその権利を否認しているのだから(しかし「権利」は弱すぎ、「否認して」は弱すぎます!)、ぼくは自分に、あなたを保持する権利を否認しているのだから。思い違いをしないで、最愛のひと、災いの元は距離ではなく、反対に、その距離にこそ少くとも、あなたに対する権利の見せかけがぼくに与えられており、ふたしかなものがふたしかな手で摑まえられるかぎり、それをぼくはしっかり摑んでいます。
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、301; 一九一三年三月九日から一〇日)


1210

 (……)ぼくはあな(end316)たを至るところで探し、路上の極めてさまざまな人間の小さな動きが、相似と対照によってあなたを思い出させますが、ぼくは自分をそれほど満たしているものを言い表わせません。それはぼくを一杯に満たし、それを言う力を残さないのです。
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、316~317; 一九一三年三月二八日)

  • かなりはやい時間から覚醒はあったのだが、なかなか起き上がる気力が身に寄ってこなかった。勤務の疲労のためもあろうし、さくばん帰宅後の遅くにもかかわらずカップ麺で食事を取ってしまったから、胃にわるかっただろうそのせいもあるのかなとおもった。覚めたりまどろんだりしつつあいまいに呼吸をしたりちょっとうごめいたりし、保育園で扉のロックを解除する音がしきりに聞こえたり、子どもらの声もよく聞こえるようになってきてからもしばらくとどまり、ようやくからだを起こして時間をみると九時半ごろだった。まあいつもどおりといえばそうだ。まどろみのあいだに夢をふたつみて、覚めたさいのいわば幕間の時間におもいかえしもしたのだけれど、さいごの覚醒時にはすでに記憶がうしなわれていた。天気はいちおう晴れではあるが青さがうすい。きのう天気予報をみたときに曇ってくるような予測だったおぼえもある。その後一一時の離床時にはまだいちおう晴れていたので洗濯物を洗ったが、正午くらいには雲を全面にうっすらとかぶせられて青みがほんのわずか透けるほどの希薄な空となり、しかし一時ごろにはカーテンに薄陽の色も宿って持ちなおしたあと、午後四時をむかえたいまは曇天となっている。しかしそこまで暗くはない。さきほど洗濯物を入れたときに保育園の屋上際に、建物のむこうにかくれていこうとする太陽の、目を射るほどのいきおいはないが白海のなかに溶けているすがたもみえた。九時半でいったん布団を抜けると水だけ飲んですぐにまたもどり、Chromebookでウェブをみたり文を読んだり。一一時までごろごろすごして離床すると、洗濯の準備をして、腕振り体操をちょっとやり、遅くなってしまったしまたサボろうかとまよいつつも、やはりちょっとだけでも座ろうとおもって瞑想をした。はじめたのは一一時一七分だったが、終わりはわすれた。あるいはみなかったか。左側では洗濯機が水音を持続させていて、滝まではいかなくともちょっとしたながれのそばにいるような耳になり、窓外では子どもたちがにぎやかにする時間もあったはずだがさして意識がむかなかったようだ。主にじぶんのからだを感じるとともに、しばらくのあいだはまえからおりにあたまをめぐるヴァルザーをパクったような小説案のことをおもったり、瞑想についてかんがえたりしていた。小説案のほうはいままでふつうに三人称でやろうとおもっていて、主人公になまえをつけるか否か、ヴァルザーの小説の人物のなまえ(『タンナー兄弟姉妹』の主人公であるジーモン)をちょっと変えたようなものにするか、それとも「かれ」で通すか、けどそれもなあ、とかおもっていたところに、二人称という案が浮かんで、もしかして二人称なのか? とちょっとおどろいた。二人称を採用するに足る必然性や根拠はとくにないとおもうのだけれど、もしかするとそれでも行けるのかもしれないと。そのうち瞑想のほうに思念はながれて、目的というものはその対象の性質いかんによって目的とさだまるわけではなく、にんげんが対象を志向するというそのはたらきこそが目的を目的たらしめるのだと、書いてみればあたりまえのこととしかおもえないがそういうことについてかんがえたり、そこからハイデガーアリストテレスのほうに漠然と連想が行ったりしたが、そのうちに思念もいったんおちついて、存在していることに安住するような感じになった。瞑想をしようというときに、心身の感覚をゆるやかにしてすっきりしたいみたいなこころは前提としてこちらにもあるのだけれど、ただじっさいに椅子のうえに腰を据えてじっとしているあいだにそれが目的となっているかというと、そういう感じはしない。瞑想という時間のなかにはいるまえ、その外から瞑想というものをかんがえたさいには心身のチューニングとかここちよさとかが目的化されているといえなくもないのだが、いざ瞑想をはじめて静止しているあいだは、「目的」だったもの、つまりこちらから追い求め志向していたはずのものが、あちらからおのずとやってくるもの、もしくは心身の変容においていま刻々とあらわれつつあるものへと変わる。そこに発生することがらのすべてが「来たるもの」へと変化するのが瞑想という状態だろうと。
  • 食事へ。キャベツとタマネギと豆腐で温野菜をつくり、即席の味噌汁に納豆ご飯、そしてバナナ。ウェブをみつつ食す。洗い物をかたづけると食後もてきとうにネットをうろつきながらだらだらしてしまい、一時四〇分をむかえると寝床にながれて、ここでもだらだらしてしまい、きょうはだいぶだらだらしている。そのぶんからだもメンテナンスされてはいるが。三時四〇分ごろ起き上がって洗濯物を取り込み、水を飲んだりトイレでクソを垂れたりして、きょうのことを書き出した。とちゅうでちょっとだけ腕を振り、ここまでつづると四時二六分。きょうはあとで買い出しに行きたい。日記もどうにかしたい。きのうはおぼえているうちにきょうのことを書いてしまいたいとおもっていたのだが、いまはまあ過去から順番にてきとうにやればいいかなという気分になっている。すなわち二月三日から。
  • この日はあとたいしたこともなし。日記は五日分まで投稿したのだったかな。二食目のあとに音楽を聞いた。Brad Mehldau『Live In Marciac』をもう一周さいしょから。それで"Storm", "It's All Right With Me", "Secret Love", "Unrequited"。この四曲目までどれもすばらしい。#1と#4はMehldauのオリジナルだが、冒頭の"Storm"はうごきははやいけれど#4に比べればとっつきやすいほうといえばそうで、スピーディーで格好の良い演奏で、一周目に聞いたときにもおもったがこういうつらつらとしたながれが方向やかたちや色合いを変えながらどんどん展開されて、そのながれを耳がひたすらに、受け取りつづけるようでもあるし、あるいはこちらから追いかけつづけているようでもあるなかに、あちらとこちらの同期と、絶えずそこから追い出されてしまいかねないというスリリングさが同居しているのが、これはジャズを聞くとき特有のものかなと。一曲目からさっそくお得意の両手の交錯をやっており、Mehldauのプレイはおりおりで対位的だったり複線的だったりするのだけれど、手はふたつなのだからふつうにかんがえれば二線のはずが、それいじょうに聞こえる場面もあって、蜘蛛の巣の放射のように四方八方から一点に向かってながれこんでいるイメージが湧いた瞬間もあった。#1と#2を聞くに、たたくピアニストとしてのMehldauのあらわれを見ないでもない。ロック/ポップス曲のカバーにおけるバッキングのじつに忍耐強い持続的連打とはちがった意味で、ソロのフレージングとしてもけっこうおなじ音を連続的に強打することがあるのだ。そういう理解の範疇にははいらないとおもうが、まったきバラードである"Secret Love"でも序盤、長和音のあいだで低音をツツツッ、とアクセント的に刻むことが二、三回ある。冒頭四曲でいちばん一筋縄ではいかないというかつかみづらいのは"Unrequited"で、クラシカルな雰囲気がありつつもまずもってテーマがどこまでなのかも旋律もよくわからんし、ソロ構成もこれはテーマの進行に沿ってんの? というのがよくわからず、こうなってくると、そちらはぜんぜん聞いたことがないが、現代音楽の方面とあまり変わらないんじゃないかという気がする。しかし退屈とか、行き過ぎているということはなく、そこにある音じたいはおもしろいし、演奏としての質もむろん高いし、これはどういう曲でどういう演奏なのか、どうなってんのかというのをもうすこし把握したいと惹かれるこころはある。一周目の記憶だとたしかこのつぎの#5と#6もかなりアブストラクトな調子の曲で、興味深かったおぼえがある。
  • 夜にスーパーへ買い出しに行った。もう一一時ごろだったか。ぜんぜん寒くなかったのでストールを巻かなかった。部屋を抜け、階段を下りてアパートを出ると右手へ。無人で車もとおらない幅広の道路を向かいへ渡り、さすがにもう閉まっている学習塾のまえをとおって突き当たれば、道路上にはいまおおきなトラックが信号を待って停まっており、目のまえにあらわれた側面のうち、荷台部分下の角にともった黄色のランプふたつがすぎざまなんとなく目についた。トラックが去ったあとを向かいへ渡り、(……)通りに折れればそこにあるちいさな公民館は、こんな時間になってもまだひとがいるのか入り口のガラスの向こうに明かりがひろがっていた。建物は公園の端にある。道の反対側からみやりつつ行けばとおくの夜空に電波塔のすがたが暗く沈んでそのかわりてっぺんの赤灯がふたつ点じられており、しかしすぐに公園縁の木々の間にまぎれるのでその木をみれば、主幹から宙へと横向きにひろがった枝々の、中間部は黒く塗られてかくれるかだが、末端の細枝はそのまえに象牙色っぽく網をなし、街灯のひかりで表面をわずかざらつかせながら、なまめかしくすらあるようなもつれた浮かび方をしている。そとに出てきても寒さはなく、気温がずいぶんあがったようだとおもわれた。通りの左右につらねられた街灯は真っ白なかたまりで、その固体光が紙風船のような、あるいは鳥をおさめて持ち運ぶ籠のように縦の曲線をならべてつくられた隙間のある器のなかにあかるいが、道の奥まで間をおかずいくつも浮かんで、両岸で間隔をせばめながらつづく白灯の、三つさきくらいまではかろうじて器がわかるがそれいじょう向こうは単一の白さでしかない。小学校のまえまで来ると校庭縁の木々の果てにまた電波塔の赤いランプをみながら抜けて、(……)通りに当たったあたりで空をまじまじみあげれば、全面が雲で覆われかえってすっきりみえるような曇天であり、しかし色は薄く、つやのない煙たいような灰色があらわで、駅前マンションのほうに目を振って建物との対照でみても、地は見えないくせにむしろあかるいとすらおもえる夜空で、ということはその裏で月がだいぶおおきいのだろうとおもった。歩道を行くとまえから火の用心を知らせてカンカン音を出す見回りがふたりやってくる。地元のひとが持ち回りでやっているのだろう、まえに見たときとは違う人員で、ふたりペアが決まりのようだが、今回はかたほうが女性だったようだ。警棒めいた赤い蛍光の棒をひとりが持ち、もうひとりがカンカンやるわけだが、その道具は伝統にしたがって木片なのかなんなのか、暗いのでよくみえず、ただいつもおもうのはそんなに冴えた音色でもなく、小気味が良いような、距離によってはピコピコハンマーを連想させるような、ちゃちなおもちゃの感も響くのだ。
  • 店内の詳細は省くが、ひとつおぼえているのはこの日もはいったときからソウルフルなBGMがながれていたことで、野菜のコーナーをまわってキャベツなど選びながら耳にするに、Tower of Powerをちょっとおもいださせる調子であり、じっさい聞き覚えがある気もしたのだがたぶんそのものではないなと判断したのち、got a work to do, got a work to doと歌っているのが認識されて、聞いたことありの感がつよまって、ほんとうにTower of Powerか? とうたがういっぽう、Buzzy FeitenかHamish Stuart(だっけ?)が、Dreamsvilleとかいった気がするがそんななまえのレーベルから出しているライブ盤があって、その一曲目で"Work To Do"という曲をやっていたような、とおもった。その原曲かなとおもったのだが、いまwork to doで検索してみると動画としてまっさきに出てくるのはIsley Brothersのもの(https://www.youtube.com/watch?v=08tYrBCgXlU&ab_channel=Kandyman1028)で、いやもうふつうにこれでしょとおもってながしたらやはりそうだった。この曲のサビ、とくにおなじコードでくりかえされるその後半は、Tower of Powerの曲にも似たものがあった気がする。ついでにHamish Stuartも検索してみたが、こちらが持っていたのは『Real Live』というやつで、その一曲目でやはり"Work To Do"をやっている。というかぜんぜん知らなかったというか、たぶん過去にも知りながらわすれていたのだろうが、Hamish StuartってAverage White Bandのひとだったのだ。とはいえAverage White Bandもなまえだけである。"Work To Do"のオリジナルはIsley Brothersのようだが、Average White Bandもそれをカバーしているようだ。Hamish Stuartは過去にはPaul McCartneyのバンドにもいたし、近年にはRingo Starrのバンドにもいるらしく、すごくない? とおもう。このふたりのバンドのどちらにも参加したにんげんなんてそんなにいないのでは? Ringo Starrも一九四〇年生まれだからもう八〇越えのジジイというほかないにんげんなのだが、やたら若い見た目をしているし、去年もツアーをたしょうやったようだし、八〇歳でドラムたたくだけでなくライブもやるというのはちょっとすさまじいな。『Real Live』版の"Work To Do"はなかったが、同音源収録の"Got The Love"というのがYouTubeに落ちており、こんな感じ(https://www.youtube.com/watch?v=BAouXSJN-5E&ab_channel=IgorMarchenko)。


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  • 日記読み: 2022/2/7, Mon.
  • 「読みかえし2」: 1199 - 1223